もえもえ図鑑

2008/11/04

銀貨三枚の矜持(3)

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「あなたが調合した、夢薬なる悪質な麻薬(アスラ)に、族長が深く傾倒なさって、えらいことだったらしいと、エル・ギリスが言っていました。あなたには、王族に悪い薬をすすめる、危険な趣味があると」
 そう言われて、ファサルは小声で笑った。
「趣味ではないよ。それが私の、仕事だったんだ。当事は真っ当な稼業だったんだよ、禁令よりも前のことなんだからね。家業を継ぐ跡取りとして、私も誠心誠意頑張っていたんだよ」
 煙管をくわえ、白い煙を吐いて、ファサルは過去を見つめる遠い目をしていた。
「皆が頼みにしていた、当代の族長を中毒させて、それで気は咎めなかったんですか。あなたは害のない、気晴らしの薬を納めるようにというご命令を受けて、それを上納していたのですよね」
 思わず弾劾する口調になる自分を抑えようと、ラダックは苦労した。ファサルはそれを、苦笑して聞いていた。
「害はなかったよ。私は自分で吸って、試したんだから、間違いない。ただ人によって、効き具合に差があったんだ。族長は薬のよく効く体質のお方だったんじゃないか。体質というより、気質かもしれないな。殿下を見てると、そう思う。陶酔しやすく、耽溺しやすいお血筋なんだ」
 自分のせいではないと、この人は言いたいのだろうか。ラダックはそう感じ、不愉快になって顔をしかめた。
「あなたはそれに、当事も気づいていましたよね。なのになぜ薬の配合を、徐々に強めたんですか」
 エル・ギリスはそう話していた。族長の命に別状はなかったが、次第に深く耽溺し、妙な幻覚を見たりして、精神的に錯乱し、その身を案じた側近には死ぬ思いをさせたと。
「耐性がつくから、それも考慮しないと、効かなくなるんだよ」
 もっともらしく答えてから、ファサルは睨むこちらの目に、面白そうなふうに、また苦笑を見せた。
「それに時折ね、お褒めの言葉が届いたんだ。大変良かった、また参れと。もっと強くしたのを、もっともっとと、お強請りになるんだよ。私もその頃はまだ、二十歳にもならない若造だったんだ。高貴のお方にそんなことを言われて、こっちも脳天に来て、調子に乗ったんだろうね。たまらん感じがしたんだ、なぜかな、玉座を拝んだこともないのに、そこに座っているお方に、手が届くような気がしてね。それが忠義と、張り切ったんだよ」
「張り切っちゃまずかったですね」
 ラダックが渋面で指摘すると、ファサルは笑って頷いた。
「そうだねえ。若気の至りだよ」
 素直にそう認めたファサルの話に。ラダックは深い安堵を覚えた。そうだ。誰にでもそれはある。若気の至りだ。
 ファサルの手にある煙管から、ゆっくりと燻(くゆ)っている煙は、そのたなびく様子さえ、典雅なようだった。それが、かつては、玉座に座る者が燻らせた薫香かと思えば、なおさらのことだ。
 族長だって、その当時は若かった。十八で即位され、ファサルの夢薬に酔った時も、まだほんの、二十歳にもならない若造だったのだ。それが全部族領からの、あんな陶酔の凝視を一身に浴びて立ち、偶像として微笑み、正気でいられたことのほうが、自分の身に置き換えて考えると、むしろ異常だと、ラダックには思えた。
「あの夢薬はね、いい思い出を呼び起こす効用のある麻薬(アスラ)だったんだ。過去に味わった幸福や喜びを、思い起こさせるようなね。それで少々心地よくなって、気が晴れるという、そういう案配だった。なにが幸せな思い出か、それは人それぞれで、だから効果のほどには、個人差があった」
 ファサルはその当時を懐かしく回想する目で、しばし沈黙した。
「だけどね、一つ言えることは、あれは幸せな者には耽溺しようのないものなんだよ。過去の美しい思い出に縋るのは、今が不幸な者だけだろう。私は当時、裕福な商家の跡取りで、苦労というほどの苦労はなかった。だから自分で試しても、見る夢は他愛もないもので、私はなんともなかったが、同じ薬で族長が深く酔われたという話を聞いて、不幸なお方なのだとお気の毒に思った。それで求められるまま、薬を強くしたんだよ。せめてもっといい夢を、ご覧になれるようにと」
 族長が一個人として、どういう人で、どんな感情を持っていたか、ラダックは考えたことがなかった。当時は特に、族長リューズ・スィノニムは、燦然と輝く偶像だった。そこに、ありきたりの人としての弱さであるとか、不幸であるとか、そんな暗く陰るような部分があることを想像してみようとさえ、思いつきもしていなかった。
 自分にとって族長は、服従するものであって、労るべきものではなかった。
 一臣民の身で、それを思うのは不敬だ。族長は完全無欠と、信じるのでなければ。
 だから結局ファサルは、禁令が発されるより前から、罪人だったのだ。偶像を破壊しようとした。そして、もしかしたら、今もそうしようとしている。同情と労りによって、人を弱くし堕落させる、そういう悪い煙みたいなものだ。
 それが王族には、受けがよかったのかもしれない。グラナダ宮殿でそうであるように、タンジール王宮においても、ファサルのような甘い耽溺を与える者は、高貴のお方にとって貴重で、寵を垂れたい相手なのかもしれない。
「その煙管、族長からの下賜品ですよね」
 ファサルは手の中の赤黒い煙管を見下ろし、頷いた。その色は乾いた血のようだった。
「そうだ。これが結局、最後だったろうか。嘆息堪えがたき快美ゆえ、また参れと、礼状が添えられていた。でも、その後すぐに、禁令を発されたんだ。気まぐれなお方だよ。お陰で私は悪党にされ、家業は廃業になり、家族とも別れ、果ては本物の悪党に。それがまた王族に拾われて、忠節を尽くせというのだからね。殿下も今は罪のないにこにこ顔だが、先々どうかわからんよ。なんせあの名君の子だ。悪い薬で酔っていただいて、裏切れんように中毒させるのが良いかな」
「エル・ギリスが心配しているのは、そこです」
 ラダックは鋭くそれを教えた。ファサルは人の悪い笑みをして、そうだろうという顔だった。どうもこちらの意図を察して、話を向けてきたように見えた。
 しかし冗談ではすまない話で、ラダックは真剣に訴えた。
「そんなことを、しないでください。殿下は堪え性のない方なので、いったん耽溺しはじめたら、行き着くところまで行くと思います。あの殿下が、お父上から斬首刑を賜るのでは、あまりにお気の毒だと思いませんか」
「あまりにお気の毒だねえ」
 頷いて同意し、ファサルは苦笑しながら酒杯を上げた。こちらの話を真面目に聞いているのかどうか、怪しいような態度だった。
「お気の毒ですよ。やめてくださいね。そんなことをしなくても、殿下は誰も見捨てはしません。そういうお方だと思います。殿下の広間では、誰も皆、正義の英雄になれます。あなただってそうです。それを信じて、忠誠を尽くしてくれませんか。その結果として、捨て石にされても、それはそれで、忠義ではないですか」
 早口に話す勢いで言っていて、恥ずかしくなってきて、ラダックは項垂れた。ファサルが、はははと軽い笑い声をあげた。
「それは献身的だな。捨て石にされも恨まないなんて、そんな都合のいいことが、あると思うのかい」
 そう言うファサルの指には、赤い煙管が、酔うような甘い香りの煙を燻らせていた。なぜファサルはそれを、捨てなかったのか。王都を命からがら追われるような時に、たまたま持って逃げたというのか。
 それは一種の象徴だ。彼の王宮時代の、あるいは名君と煙屋の間をつなぐ、細くたなびく夢薬の白い煙の。それによってファサルが忠節を尽くした頃の。
 だからまだ、望みはあると、ラダックは思った。
「私なら恨みません。政治には、大義というものがあります。それを理解して、犠牲になるのも、忠節かと思います」
 ため息を堪えて、ラダックは膳を睨んで答えた。ファサルはそれを聞いているようだったが、同意するでなく、異論も唱えなかった。その、かすかに笑っているような、悪党の片目を、ラダックは見つめた。
「あなたは族長を恨んでいるのですか。それで仕返しに、ご子息である殿下を、同じ煙で酔わせて、廃人にしようと?」
「いいや。それは思い過ごしだよ。麻薬(アスラ)と言っても、様々あるんだ。全部が全部、廃人になるわけじゃない。実際、私はなってないだろう。族長も、あのまま夢薬を使い続けておられても、実は何ともなかったに違いないよ。私はちゃんと、配慮をしたんだ。玉体を害そうなんて、滅相もない。慣れない治世でお苦しみの族長に、ほんの一時でもお心安らかになっていただければと、煙屋の小倅なりの、精一杯のご奉公だったんだよ」
 断言するファサルの手からあがる薄煙を、ラダックは見やった。
 それは本当に、いい匂いだった。ほかの煙はラダックにとって、いやな匂いだったが、この香りならば、常に香っていても、不愉快でない。
 それはファサルの匂いで、身だしなみの薫香だと信じていたが、実はそれと装った、人を耽溺させる麻薬(アスラ)だったのだ。
 この悪党はそれを常用していながら、この薫香のために、誰にもその罪を気取られずにいた。ファサルのような、都びた風雅な趣味人なら、金満に愉しみ、衣服に香ぐらい焚きしめるだろうと思ったからだ。
 しかしそれが、禁制の煙を焚きしめた薫香だと分かったからには、やはり野放しにはできない。この人が何者か、確かめないわけにはいかない。殿下の忠実なる盗賊か、それとも今でも、王都の煙屋のままなのか。
「族長を、恨まないでください。禁令は必要でした。命令書も、ただ、どうしても喫煙をやめない者を処刑しろというだけの内容でした。あなたや、あなたの家族を虐げたのは、族長ではないです。その禁令を拡大解釈した、別の者たちです。恨むなら、その者たちを恨んでください。あなたが復讐しなくても、すでにもう、その者たちは、罰を受けています。王都であなたの生家に焼き討ちをした者たちは、その後に殺人者として処刑されました。他ならぬ族長ご自身の、ご命令によってです。あなたの不幸も、復讐も、全てもう、とっくに終わった過去のことです」
 うったえるこちらを、ファサルは片方だけの目で、じっと見つめて押し黙っていた。
 そんな恨みを、新しい希望の星にぶつけられては困る。
 もう十分に、罰は下された。殺人者として処刑されなかった者も、悪夢で眠れない夜を、幾夜も震え上がって過ごした。自分も何度、首のない粛正の犠牲者に取り囲まれ、断頭される夢を見たか。
 それから飛び起きる時の身の震えに、嫌が応にも酔いから醒め、後悔だけが募った。せめてもの罪の償いに、謙虚に民に献身して、職分を逸脱せず、無欲に正しく生きていこうと、それで何かの許しが与えられるならと、日夜願わずにおれないほどだ。
 怠けず溺れずを心がけて、いくら冷徹に勤めても、少しも償った気がしなかったが、今回の件では目が覚めた。自分はもともと溺れる質だ。必死で頑張るのが一番性に合っている。ただ今まで、それをやっても害のないものが、見つからなかっただけだ。
「見るからにヤワなあんたが、あの粛正の、首切り役人だったとはねえ……とんだことだよ。鬼のラダックが、頭のいかれた族長派とは」
 いかにも面白そうに、ファサルは皮肉めかして独白した。
「過去形ではないです。私は今でも、禁令の監査役から解任されていません。代々の上役が、任を解くのを忘れたまま、栄転しちゃったんです。だからもしもあなたが禁を犯しているのを見つけたら、首を斬らないといけません。しかし私はそれが、嫌なんです。ですから、どうか、禁煙してもらえませんか」
 ラダックが頼むと、ファサルはしばし、あっけにとられた顔になり、それから手の中の赤い煙管を見つめて、やがて声を上げて笑った。何がそんなに可笑しかったのか、ファサルはくつくつと腹を振るわせて、長いこと笑っていた。
「その話、殿下にはもう、お話ししたのかい」
 ファサルは笑いを引っ込めつつ、おそらく真面目に訊ねてきていた。ラダックは、首を横に振った。
「いいえ。していません。話さないでください。そんなことを知ったら、好奇心の強い殿下のことで、夢薬を吸わせろと言いだすかもしれないんで」
 ラダックは本気でそれを心配していたが、ファサルは意外だという顔をした。
「まさか。お父上が禁じておられるものに、殿下が手を出すわけがないよ」
「そうでしょうか……」
 そう言われれば、そうだった。
「そうさ。名君リューズ様のご意向に反するなんてのはね、けしからん。禁令はご英断だったのだよ。確かにあの当事、部族領に蔓延していた麻薬(アスラ)の中には、人を死ぬより悲惨な目にあわせるものも多々あった。節制のない煙屋が、金儲けのために、どんなに危ないのでも平気で売ったからね。どこかで歯止めを効かせる必要があったよ」
 話すファサルの眉間には、淡く皺が刻まれていた。見るのもおぞましいものを、かつて見たことがあるというような表情だった。それに怖気でも立ったのか、ファサルは小さく首を横に振ってから、話を続けた。
「リューズ様は、ご自身でも相当に耽溺しておられたのに、そのお体で煙を断とうとおっしゃるのだから、大したものだったのだよ。きっとお苦しみだったろうけど、殿下のお話じゃ、お父上は殿下の知る限り、全く喫煙なさらないというのだからね。さすがは強い意志のお方なのだよ」
 静かな熱弁をふるうファサルの話に、ラダックは思わず共感して聞き入ったが、やがて盗賊がやれやれと酔っぱらったふうに押し黙ったので、ふっと我に返った。
 ファサルはまだ、煙管を吹かしていた。その目は冷静そうだったが、酔っているのではないかと、ラダックは思った。冷静そうに見えて、この人も、実は熱血なのではないのか。昔の自分や、もしかすると今の自分も、そうであるように。
「まさか族長が、好きなんですか」
 思わず批判する口調で訊くと、ファサルは顔をしかめた。
「悪いか」
「いえ。悪くはないんですけど、間抜けだなと思いまして。だって……」
 言っていいのかと、ラダックは一応遠慮した。他の相手なら気にせず言っただろうが、ファサルはなんといっても市民の英雄で、憧れの義賊だった。さすがのラダックも、少々気後れして、舌鋒が鈍った。
「だって、なんなんだ。言いかけたことは全部言いなさい。気になるじゃないか」
「じゃあ言いますけど……だって、族長はあなたを捨て石にして、悪党にしたんですよ。今だって、夢薬を断ってないんでしょう。それがばれたら、斬首なんですよ。そういう立場にありながらですよ、名君を讃えて大演説というのは……阿呆なんですか、あなたは」
 言っちゃった、と思いながら、ラダックは言った。
 でも、あまりにも本音すぎて、すっきりはしたが、後悔は湧かなかった。
 ファサルは悪酔いして頭でも痛いみたいに、胡座した膝に肘をついた手で、頬杖をつくようにして、こめかみを押さえていた。
「阿呆とはなんだ、恨むなと頼んでるのは、あんただろう。阿呆ではないよ。あのね。私は族長閣下の忠実な臣民だったんだ。命を賭してご奉公と、本気でそう思っていたんだよ。そういう時代だったんだ。正直言って、恨んだこともあったがね、結果を見れば禁令の正しさは一目瞭然だった。お陰で今もいい時代だろう。そこから振り返ってみると、リューズ様は結局、優しいお方だったよ。顔も見たことのない商人の小倅にまで、いちいち礼状をお書きになって、褒美までくださった。なんというか、身に余る栄誉だったと……」
 ファサルは早口にとうとうと長い言い訳をしたが、やがて言いよどんで、今度は酔いを振り払うように、また小さく首を振った。それからこちらを見て、ラダックに頷いてみせた。
「どうせ阿呆だよ。そういう阿呆の気持ちは、あんたに分かるまい」
 拗ねたように、ファサルは目を伏せ、顔をしかめて言っていた。ほとほと自分がいやだというような表情だった。
「いえ。分かります。分かるんで、あなたがもし族長を恨んでたら、説得しようかと思って意気込んで、お呼び立てしたんです」
「なぜ分かるんだ。あんたみたいな若造が」
 ファサルは驚いたような、怒ったような口調だった。

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