新星の武器庫(52)
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「余興はこのへんで、もうご馳走にしてよ。腹が減ったから!」
ギリスが求めると、皆が笑った。たぶん誰しもそれが本音だったのだろう。
求めに応じて、女官たちが宴席に酒食を運びはじめた。
盛大に焼かれてゆく肉の匂いを、柱にもたれたまま美味そうに嗅いで、ギリスはうっとりとしてた。
彼を残して宴席に戻る気がせず、スィグルは付き合って回廊に居残った。
なにか言いたいことがあるようだと、感じたせいもあった。
「ケシュクに魔法を見せるために、魔法使用の許しが欲しかったのか」
訊ねると、ギリスは頷いた。
「そう言えばいいだろう。なにも大魔法じゃなくても、ちょっと氷を見せてやるだけで良かっただろう」
「怒んないでよ。許す約束だったろ。お前が怒ったら、みんな醒めちゃうよ」
そうだろうなとスィグルは思った。しかめっつらの領主がいなければ、みんなもっと、氷の蛇の魔法を楽しんだのかもしれない。
「大魔法じゃなきゃだめだよ。ケシュクは英雄を見たいんだから」
そう言って微笑むギリスに、スィグルはなにも答えなかった。口を開けば反論しそうな自分を感じたせいだ。許すと約束したのだから、それを果たすしかない。
「ファサルがさ、イェズラムは炎の蛇だって言っただろ」
何の話かと、スィグルは思い返した。そういえば宴の前、ふざけあっていた時に、ファサルはそんな話を懐かしげにしていた。エル・イェズラムは彼の世代の英雄だったと。
「見たことないんだ、俺は。イェズラムの大魔法は」
そう話すギリスの笑みは、篝火のせいか、どこか切なげに見えた。
「昔、まだ餓鬼だったころに、見せろと頼んだことはあるけど、無理だと言われた」
かつて宮廷にいた、長老会の長(デン)だったイェズラムのことを、スィグルは回想した。スィグルの知る限り、エル・イェズラムはもう参戦していなかった。彼は過去の魔法戦士で、スィグルが物心つくころにはもう、宮廷の男だった。
「大魔法を使ったら、死ぬからと言われて……たぶん、俺は怖かったんだと思う。なんだか、つらくてさ。だから、それから一回も、強請ったことはないんだよ」
スィグルは頷いて、それを聞いた。
ギリスはたぶん、こう言いたいのだろう。魔法戦士がその力を振るうのが、恐ろしいというお前の気持ちは、俺にもわかるのだと。
「でも、いっぺんでいいから、見てみたかったなあ。俺もこの目で、炎の蛇を。結局それが、本音なんだよ。俺の養父(デン)は英雄なんだって、それが俺には、自慢だったのさ」
うな垂れて白状し、ギリスは爪先で、自分が作り出した氷の粒をつついた。
「俺のことを英雄だと思うやつの前では、俺は英雄でいたいんだよ、スィグル。特に、ケシュクみたいな餓鬼の前では」
深いため息をもらして、ギリスは柱を離れ、こちらに向き直った。
「イェズラムも俺に、火炎術の大魔法を見せたかったかなあ。そうだといいんだけど」
笑いながらそう言って、ギリスはどこか気まずげに、スィグルと視線を合わせた。
「お前には、つまんない見栄と思えるだろうけど、俺から魔法を、とりあげないでよ。ほかのやつらからも。お前がそれをやったら、竜の涙はどこへ行けばいいの。生まれるそばから、冥界行きか」
ギリスの言葉は、身構えた以上に、スィグルの腹に響いた。
「イェズラムは時々、子供を殺してた。王宮にも予算があるだろ。それを渋られると、新しく来た中から、使えそうにないやつを、殺さないといけない。俺も氷結術が下手だったら、今頃死んでただろう。俺は子供を殺すのはいやだよ。盗賊にも仕事がいるだろうけど、英雄たちにも仕事がいるよ、スィグル。お前はそれについて、まだ無策なんだろ」
スィグルは黙ったまま、頷いて答えた。悩んでみてはいるが、答えはなかった。彼らのために、戦をするわけにはいかないからだ。
「難しい名君だよな。俺もイェズみたいに、族長と廊下で怒鳴りあうかな」
苦笑して、ギリスはそう言った。
「逃げないで、考えてよ、何か。お前の賢い頭で。俺はお前に反逆する魔法戦士の親玉になるのは困るから」
スィグルは何度か、頷き返した。
今すぐこの場で、解決策を与えてやりたかったが、ギリスに言われたとおり、無策だった。
「やることだらけだ」
スィグルは焦って、思案に重くなった額を覆い、思わずそうぼやいた。するとギリスはにやりとした。
「そうだろ。お前の一生も、俺が死ぬかどうかでのんきに悩んでられるほど長くはないぜ」
情けなくなって、スィグルは笑った。そうかもしれない。
「良い怪物が名君に変身する理由は、もうちょっと先になってから話そうよ。一応、何となくは分かるんだけど、まだお前の口から聞きたくないから」
苦笑しながら、ギリスはそう求めた。スィグルは彼の顔を見ないまま、ただ頷いた。
ラダックはギリスのことを、彼は殿下が思っているような馬鹿ではありませんよと言っていた。まさしくその通りだった。いつも身近にいて、よく知っている相手のはずが、自分はきっとこの男ことを、半分も理解できていない。
彼とほんの僅かしか一緒にいなかった、ラダックやシャムシールのほうが、よく分かっているらしい。そんなことで、主君が勤まるものだろうか。一体どうやって、ギリスに英雄譚(ダージ)を与えればいいのか。悩んでも気ばかり焦るだけだ。
「間に合うだろうか、ギリス。一生懸命やってはいるんだけど、僕の射程は狭いらしくて、考えないといけないことを、全部いっぺんに考えるのは無理なんだ」
「大丈夫だろ。別に焦ることないよ」
けろりとしてギリスは請け合った。
スィグルは一瞬、むかっとした。いつものことで、こいつは、考えるのは自分の仕事ではないと思っているのだろうか。
「グラナダでも、何とかなってるだろ。世の中案外、天才だらけだ。お前はそれを見つけて、働かせればいいんだよ。竜の涙のことも、誰かがいいネタ持ってるかもよ。お前が思いつかなくても、誰かが思いつくさ」
そう言うギリスは、ひどく楽天的だった。
治世を預かろうという重圧が、ギリスには分からないのかもしれない。
果たしてこの男が、どこまでそれを理解しているのか、スィグルにはさっぱり読めなかった。
「とりあえず訊けば? 今やってるやつに」
「誰のことだ」
スィグルは見当がつかず、顔をしかめた。ギリスがまた誰か宮殿に連れ込んだのかと思った。もしそうならラダックが怒るだろう。
「お前の親父だよ」
そんなことも分かんないの、と言わんばかりの顔で、ギリスが驚いた声で教えた。
スィグルは自分の喉が喘ぐのを感じた。
「訊けないよ、そんなの。何の権利があって父上にそんな突っ込んだこと訊けるんだ」
つかえながら訊いたスィグルを、ギリスは呆気にとられた顔で見つめ返している。
「だって、お前が同盟の立役者だろ。それで族長も竜の涙の処遇には困ってるはずだよ。お前、そのことで族長と何も話してないのか」
話していなかった。父とはまともに話していない。向こうが話すのを畏れ入って聞くのが普段は精々で、たまに意見を求められたら、脂汗を隠して必死で答えるだけだが、何を答えたかよく憶えていないことさえあった。
だからこちらから話を切り出すのは至難の業だ。
考えただけで胃が痛んだ。
スィグルがよっぽど情けない顔をしていたのか、ギリスはさらに呆れた目をした。
「王都まで、鷹通信(タヒル)で半日だ。族長は返信の早い人だから、最短だったら当日中に返事が来るよ」
見当もつかないが、そうかもしれなかった。
タンジールとグラナダの間を、鷹は日常的に飛び交っていた。時には当日中に返信があることもあった。
父から稀に、鷹通信(タヒル)が来ることもあった。グラナダ統治に関する、賞賛であることもあれば、苦言であることもあった。
その手紙はいつも、異なる筆跡で書かれていた。どれも父のものではなかった。族長は忙しく、自分で書いている暇がないので、適当な者に口述筆記させるか、グラナダに一筆送るべきと考えた者が書いて用意をし、族長に名前を貸すよう求め、父がそれを許すかの、どちらかだ。
面と向かって話している時以上に、鷹の運んでくる手紙の中の父は、正体のわからない人だった。だから、それに非礼のないよう事務的な返信をするだけで、スィグルは自分から鷹を飛ばしたことはなかった。
書いても父が読んでいるか怪しい気がしたし、多忙な族長に時間をとらせるのが恐ろしかったのだ。
「書けよ、スィグル。権利とか、そういう問題じゃないよ。むしろお前にはこの問題に責務があるだろ。てめえの仕業で親父を困らせといて、知らん顔か。もう餓鬼じゃないんだし、それじゃ通らないよ」
「そうだな……お前に言われるまで、考えもしなかったよ。なんでかな」
「逃げてるだけだよ」
きっぱり言われると、あまりにもその通りで、スィグルはまた、頷くしかできなくなった。
「明日、までに、書いて、送る、ように」
ちくちくと指でこちらの胸を突っついてきて、ギリスは珍しく偉そうに言った。もうスィグルはそれに、頷くこともできなかった。
「ファサル様も言ってただろ、お前が役に立つ息子だって、族長に教えてやれ。対抗馬は多いんだぞ。なのに自分だけこんな田舎に引っ込んで、ぼけっと晩熟(おくて)に待ってて、それで族長を口説き落とせると思ってるお前は阿呆か、とんだ自惚れ屋だよ」
うっ、とスィグルは呻いた。
阿呆なのだと思いたかった。自分の中にうっすら感じる思い上がりを、ギリスに言われて認めたくはなかったからだ。
「わかった。書くから……」
「手加減するなよ。自分こそ継承者っていう、強気のノリで書け」
そんなことできるかと思ったが、スィグルはギリスに気圧されて、やむなく頷いていた。
それでこちらの話が終わったと察したのか、大広間で給仕をしていた女官たちが、ギリスに、お肉が焼けましたよと呼びかけてきた。
ギリスはきゅうに上機嫌になり、にこにこして、うっとりした風だった。
「それじゃ、決まったところで、ご馳走いっとくか。さっさと食え、スィグル。お前が食わないと、みんな食えないんだから」
ギリスはスィグルを半ば無理矢理に引っ張っていって、王族の席に座らせた。
確かに広間には、飢えた顔の官僚たちがじりじりと座して待っていた。ご馳走待ちだった三つ子たちも、すでに平服に着替え、後は貪るばかりの肉を前にして切なそうに待っていた。
「乾杯とか、祝辞とかは……」
スィグルがギリスの意向を聞こうとすると、ギリスは素早く酒杯をとって、それを上げた。
「誕生日おめでとう俺。ついでにファサル様も、グラナダ宮殿にいらっしゃいませ。それじゃ乾杯」
酒杯を掲げて、それから一気にあおったギリスにつられて、皆それに倣った。
がつんと乱暴に酒杯を膳に戻し、手の甲で口元を拭いながら、ギリスはスィグルの膳をびしっと指さした。
「そしてお前はとにかく速やかに食う!」
強く言われて、スィグルはあわてて膳から何か食べた。それが何だったか、よく見ておらず、味もわからなかったので、正体の分からないものを噛んで飲み込んだ。
「いただきます」
ギリスは感激したふうに言って、食べ始めた。
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「余興はこのへんで、もうご馳走にしてよ。腹が減ったから!」
ギリスが求めると、皆が笑った。たぶん誰しもそれが本音だったのだろう。
求めに応じて、女官たちが宴席に酒食を運びはじめた。
盛大に焼かれてゆく肉の匂いを、柱にもたれたまま美味そうに嗅いで、ギリスはうっとりとしてた。
彼を残して宴席に戻る気がせず、スィグルは付き合って回廊に居残った。
なにか言いたいことがあるようだと、感じたせいもあった。
「ケシュクに魔法を見せるために、魔法使用の許しが欲しかったのか」
訊ねると、ギリスは頷いた。
「そう言えばいいだろう。なにも大魔法じゃなくても、ちょっと氷を見せてやるだけで良かっただろう」
「怒んないでよ。許す約束だったろ。お前が怒ったら、みんな醒めちゃうよ」
そうだろうなとスィグルは思った。しかめっつらの領主がいなければ、みんなもっと、氷の蛇の魔法を楽しんだのかもしれない。
「大魔法じゃなきゃだめだよ。ケシュクは英雄を見たいんだから」
そう言って微笑むギリスに、スィグルはなにも答えなかった。口を開けば反論しそうな自分を感じたせいだ。許すと約束したのだから、それを果たすしかない。
「ファサルがさ、イェズラムは炎の蛇だって言っただろ」
何の話かと、スィグルは思い返した。そういえば宴の前、ふざけあっていた時に、ファサルはそんな話を懐かしげにしていた。エル・イェズラムは彼の世代の英雄だったと。
「見たことないんだ、俺は。イェズラムの大魔法は」
そう話すギリスの笑みは、篝火のせいか、どこか切なげに見えた。
「昔、まだ餓鬼だったころに、見せろと頼んだことはあるけど、無理だと言われた」
かつて宮廷にいた、長老会の長(デン)だったイェズラムのことを、スィグルは回想した。スィグルの知る限り、エル・イェズラムはもう参戦していなかった。彼は過去の魔法戦士で、スィグルが物心つくころにはもう、宮廷の男だった。
「大魔法を使ったら、死ぬからと言われて……たぶん、俺は怖かったんだと思う。なんだか、つらくてさ。だから、それから一回も、強請ったことはないんだよ」
スィグルは頷いて、それを聞いた。
ギリスはたぶん、こう言いたいのだろう。魔法戦士がその力を振るうのが、恐ろしいというお前の気持ちは、俺にもわかるのだと。
「でも、いっぺんでいいから、見てみたかったなあ。俺もこの目で、炎の蛇を。結局それが、本音なんだよ。俺の養父(デン)は英雄なんだって、それが俺には、自慢だったのさ」
うな垂れて白状し、ギリスは爪先で、自分が作り出した氷の粒をつついた。
「俺のことを英雄だと思うやつの前では、俺は英雄でいたいんだよ、スィグル。特に、ケシュクみたいな餓鬼の前では」
深いため息をもらして、ギリスは柱を離れ、こちらに向き直った。
「イェズラムも俺に、火炎術の大魔法を見せたかったかなあ。そうだといいんだけど」
笑いながらそう言って、ギリスはどこか気まずげに、スィグルと視線を合わせた。
「お前には、つまんない見栄と思えるだろうけど、俺から魔法を、とりあげないでよ。ほかのやつらからも。お前がそれをやったら、竜の涙はどこへ行けばいいの。生まれるそばから、冥界行きか」
ギリスの言葉は、身構えた以上に、スィグルの腹に響いた。
「イェズラムは時々、子供を殺してた。王宮にも予算があるだろ。それを渋られると、新しく来た中から、使えそうにないやつを、殺さないといけない。俺も氷結術が下手だったら、今頃死んでただろう。俺は子供を殺すのはいやだよ。盗賊にも仕事がいるだろうけど、英雄たちにも仕事がいるよ、スィグル。お前はそれについて、まだ無策なんだろ」
スィグルは黙ったまま、頷いて答えた。悩んでみてはいるが、答えはなかった。彼らのために、戦をするわけにはいかないからだ。
「難しい名君だよな。俺もイェズみたいに、族長と廊下で怒鳴りあうかな」
苦笑して、ギリスはそう言った。
「逃げないで、考えてよ、何か。お前の賢い頭で。俺はお前に反逆する魔法戦士の親玉になるのは困るから」
スィグルは何度か、頷き返した。
今すぐこの場で、解決策を与えてやりたかったが、ギリスに言われたとおり、無策だった。
「やることだらけだ」
スィグルは焦って、思案に重くなった額を覆い、思わずそうぼやいた。するとギリスはにやりとした。
「そうだろ。お前の一生も、俺が死ぬかどうかでのんきに悩んでられるほど長くはないぜ」
情けなくなって、スィグルは笑った。そうかもしれない。
「良い怪物が名君に変身する理由は、もうちょっと先になってから話そうよ。一応、何となくは分かるんだけど、まだお前の口から聞きたくないから」
苦笑しながら、ギリスはそう求めた。スィグルは彼の顔を見ないまま、ただ頷いた。
ラダックはギリスのことを、彼は殿下が思っているような馬鹿ではありませんよと言っていた。まさしくその通りだった。いつも身近にいて、よく知っている相手のはずが、自分はきっとこの男ことを、半分も理解できていない。
彼とほんの僅かしか一緒にいなかった、ラダックやシャムシールのほうが、よく分かっているらしい。そんなことで、主君が勤まるものだろうか。一体どうやって、ギリスに英雄譚(ダージ)を与えればいいのか。悩んでも気ばかり焦るだけだ。
「間に合うだろうか、ギリス。一生懸命やってはいるんだけど、僕の射程は狭いらしくて、考えないといけないことを、全部いっぺんに考えるのは無理なんだ」
「大丈夫だろ。別に焦ることないよ」
けろりとしてギリスは請け合った。
スィグルは一瞬、むかっとした。いつものことで、こいつは、考えるのは自分の仕事ではないと思っているのだろうか。
「グラナダでも、何とかなってるだろ。世の中案外、天才だらけだ。お前はそれを見つけて、働かせればいいんだよ。竜の涙のことも、誰かがいいネタ持ってるかもよ。お前が思いつかなくても、誰かが思いつくさ」
そう言うギリスは、ひどく楽天的だった。
治世を預かろうという重圧が、ギリスには分からないのかもしれない。
果たしてこの男が、どこまでそれを理解しているのか、スィグルにはさっぱり読めなかった。
「とりあえず訊けば? 今やってるやつに」
「誰のことだ」
スィグルは見当がつかず、顔をしかめた。ギリスがまた誰か宮殿に連れ込んだのかと思った。もしそうならラダックが怒るだろう。
「お前の親父だよ」
そんなことも分かんないの、と言わんばかりの顔で、ギリスが驚いた声で教えた。
スィグルは自分の喉が喘ぐのを感じた。
「訊けないよ、そんなの。何の権利があって父上にそんな突っ込んだこと訊けるんだ」
つかえながら訊いたスィグルを、ギリスは呆気にとられた顔で見つめ返している。
「だって、お前が同盟の立役者だろ。それで族長も竜の涙の処遇には困ってるはずだよ。お前、そのことで族長と何も話してないのか」
話していなかった。父とはまともに話していない。向こうが話すのを畏れ入って聞くのが普段は精々で、たまに意見を求められたら、脂汗を隠して必死で答えるだけだが、何を答えたかよく憶えていないことさえあった。
だからこちらから話を切り出すのは至難の業だ。
考えただけで胃が痛んだ。
スィグルがよっぽど情けない顔をしていたのか、ギリスはさらに呆れた目をした。
「王都まで、鷹通信(タヒル)で半日だ。族長は返信の早い人だから、最短だったら当日中に返事が来るよ」
見当もつかないが、そうかもしれなかった。
タンジールとグラナダの間を、鷹は日常的に飛び交っていた。時には当日中に返信があることもあった。
父から稀に、鷹通信(タヒル)が来ることもあった。グラナダ統治に関する、賞賛であることもあれば、苦言であることもあった。
その手紙はいつも、異なる筆跡で書かれていた。どれも父のものではなかった。族長は忙しく、自分で書いている暇がないので、適当な者に口述筆記させるか、グラナダに一筆送るべきと考えた者が書いて用意をし、族長に名前を貸すよう求め、父がそれを許すかの、どちらかだ。
面と向かって話している時以上に、鷹の運んでくる手紙の中の父は、正体のわからない人だった。だから、それに非礼のないよう事務的な返信をするだけで、スィグルは自分から鷹を飛ばしたことはなかった。
書いても父が読んでいるか怪しい気がしたし、多忙な族長に時間をとらせるのが恐ろしかったのだ。
「書けよ、スィグル。権利とか、そういう問題じゃないよ。むしろお前にはこの問題に責務があるだろ。てめえの仕業で親父を困らせといて、知らん顔か。もう餓鬼じゃないんだし、それじゃ通らないよ」
「そうだな……お前に言われるまで、考えもしなかったよ。なんでかな」
「逃げてるだけだよ」
きっぱり言われると、あまりにもその通りで、スィグルはまた、頷くしかできなくなった。
「明日、までに、書いて、送る、ように」
ちくちくと指でこちらの胸を突っついてきて、ギリスは珍しく偉そうに言った。もうスィグルはそれに、頷くこともできなかった。
「ファサル様も言ってただろ、お前が役に立つ息子だって、族長に教えてやれ。対抗馬は多いんだぞ。なのに自分だけこんな田舎に引っ込んで、ぼけっと晩熟(おくて)に待ってて、それで族長を口説き落とせると思ってるお前は阿呆か、とんだ自惚れ屋だよ」
うっ、とスィグルは呻いた。
阿呆なのだと思いたかった。自分の中にうっすら感じる思い上がりを、ギリスに言われて認めたくはなかったからだ。
「わかった。書くから……」
「手加減するなよ。自分こそ継承者っていう、強気のノリで書け」
そんなことできるかと思ったが、スィグルはギリスに気圧されて、やむなく頷いていた。
それでこちらの話が終わったと察したのか、大広間で給仕をしていた女官たちが、ギリスに、お肉が焼けましたよと呼びかけてきた。
ギリスはきゅうに上機嫌になり、にこにこして、うっとりした風だった。
「それじゃ、決まったところで、ご馳走いっとくか。さっさと食え、スィグル。お前が食わないと、みんな食えないんだから」
ギリスはスィグルを半ば無理矢理に引っ張っていって、王族の席に座らせた。
確かに広間には、飢えた顔の官僚たちがじりじりと座して待っていた。ご馳走待ちだった三つ子たちも、すでに平服に着替え、後は貪るばかりの肉を前にして切なそうに待っていた。
「乾杯とか、祝辞とかは……」
スィグルがギリスの意向を聞こうとすると、ギリスは素早く酒杯をとって、それを上げた。
「誕生日おめでとう俺。ついでにファサル様も、グラナダ宮殿にいらっしゃいませ。それじゃ乾杯」
酒杯を掲げて、それから一気にあおったギリスにつられて、皆それに倣った。
がつんと乱暴に酒杯を膳に戻し、手の甲で口元を拭いながら、ギリスはスィグルの膳をびしっと指さした。
「そしてお前はとにかく速やかに食う!」
強く言われて、スィグルはあわてて膳から何か食べた。それが何だったか、よく見ておらず、味もわからなかったので、正体の分からないものを噛んで飲み込んだ。
「いただきます」
ギリスは感激したふうに言って、食べ始めた。
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