銀貨三枚の矜持(5)
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店から出た夜の街中を徒歩で行くと、そぞろ歩く大人の群れに紛れて、露天で売られている読み本を、物欲しげに見ている子供がいた。
ファサルはそれに声をかけ、どの本が欲しいのかと訊いた。
少年は本を指さして、盗賊ファサルの話だと答えた。
ファサルはそれに顔をしかめたが、面白がっているようにも見えた。
そして当の盗賊ファサルは、懐から先程受け取ったばかりの銀貨を一枚取り出して、その子に与えた。
予想もしていなかった大金を受け取って、子供はぽかんとしていた。それはそうだろう。銀貨は大人が労働して稼いで受け取る高額貨幣だ。子供が手にするようなものではない。
その子にも、この金を無駄に使うなと、ファサルは教えた。銀貨一枚は、一時の遊興に使えば一瞬で潰えるが、この男のように、未来に投資すれば、街を背負って立つような、立派な官僚にもなれるかもしれない。しかし、夜遊びしていて親元に帰らないと、私のような悪党になってしまうぞと、脅しとも激励ともつかない事をファサルは子供に言った。
子供がそれをどの程度真に受けているかは、謎だった。とにかく子供は、どうしても欲しかったらしい読み本を遠慮無く買って、どっさりとお釣りを受け取ると、盛んにファサルに礼を言い、どこかへ走って帰っていった。
そして、かつて自分を救った銀貨はまた、グラナダ市の流通へと呑み込まれた。ラダックは微笑んでそれを見た。
やれやれと、ファサルは言って、のんびり歩き出した。
「あと五枚もあるな。再投資先を探すのが面倒だよ。まさか頭目になってまで、銀貨を撒いて歩く羽目になるとはね。その上、禁煙までさせられて、あんたは皆の言うように、本当に鬼だ」
歩きながら、ファサルはぼやいた。
「がんばってください」
それと並んで歩き、ラダックは真面目に励ました。ファサルはその返事に、小さく声をあげて笑っていた。
しばらくの間、話すともなく話して一緒に歩き、やがて途中で道が別れた。それではまたと言い置いて去るファサルの後ろ姿を、少し行ってからラダックは、ふと気になって振り返ったが、人混みの中に見え隠れする背中は、すぐに紛れて見えなくなった。あたかも、夜のグラナダにかき消えたかのように。
その去り方は、たぶん、別段なんということのない普通の別れ際だったが、英雄が颯爽と去ったようにしか、ラダックには見えなかった。昔も今も、つくづく格好良かった。
大した幻想だと気恥ずかしく思えたが、どうせ英雄などそんなもんだった。あんな阿呆でも英雄譚(ダージ)があれば、格好良く見えるのだからと、宮殿でぎゃあぎゃあ言っていた若造の顔を思い出し、ラダックは納得した。
あれが英雄だというなら、牛の目のファサルが英雄でないはずがない。エル・ギリスからは自分は、日々迷惑しか被っていないが、ファサルには一生涯を救われた。あの三枚の銀貨のお陰で、自分はいま仕える主もいて、命をかける夢もある。
その負債を負っている相手が、格好良く見えないはずはない。
今考えると阿呆としか思えないが、あの時は義賊ファサルに才を見込まれて、銀貨を貸して貰ったのだと思いこんでいた。だから英雄の期待に応えるべく、その金で真面目に学んで、立派な官吏になって、いい世の中にしなければと、素直に決意していた。そしていつか牛の目のファサルに、銀貨を返す。昼間は官吏でもいいけど、それだけだと味気ないから、時にはそれを仮の姿として、ファサルの手下になってもいいなと、うっとり考えていた。
もちろん昔の話だ。昔の話。もうずっと昔の、ほこりを被ったような、陳腐で美しい夢だ。
それについては極秘事項で、他の誰にも言うつもりはないが、胸に秘めているからこそ、少年の日の夢には酔いがある。
だから今夜は酔っぱらって帰ろうと、ラダックはひとりで飲める店を探した。どこへ行くのかはまだ決めていなかったが、空には大きな月のある、気持ちのよい晩だった。
懐かしい少年の日の、美しい思い出を抱いて、ラダックは住み慣れた愛しい街を歩いた。これが例の、夢薬の酔いかと思いながら、うっとりと微笑んで、月明かりの下を。
そして、そういえば明日は土曜かと、ラダックは思った。
では、エル・ギリスを誘って、競馬でも見に行こう。そして程々のところで、ファサル様が禁煙したらしいと教えてやろう。
英雄をぶん殴るわけにはいかないが、その話はたぶん、無痛の異名をとるあの人にとって、殴られるよりもずっと痛いはずだ。
いい気味だと、ラダックは思った。盗賊の首をとりそこねて、氷の蛇はさぞ悔しかろう。まったくあの若造は、たかが私怨のために、族長まで持ち出してきて、不敬なのだ。目論見が外れて、ざまあみろだった。
そして笑いを堪えて歩きながら、月を仰いだ。
それは少年の頃に井戸端で見たのと同じ、煌々と明るい、見事な満月だった。
今夜もグラナダの薄暗い辻々には、盗賊たちが潜んでいるだろう。ばらまかれた銀貨が、月明かりに白く輝いているだろう。それは甘い煙が見せた幻影かもしれぬが、盗賊ファサルのいるグラナダの、妖しい魅力をたたえた原風景だ。この美しい夢の残り香が、この街にいつまでも絶えず残るようにと、ラダックは愛しい故郷のために、そう願った。
《おわり》
店から出た夜の街中を徒歩で行くと、そぞろ歩く大人の群れに紛れて、露天で売られている読み本を、物欲しげに見ている子供がいた。
ファサルはそれに声をかけ、どの本が欲しいのかと訊いた。
少年は本を指さして、盗賊ファサルの話だと答えた。
ファサルはそれに顔をしかめたが、面白がっているようにも見えた。
そして当の盗賊ファサルは、懐から先程受け取ったばかりの銀貨を一枚取り出して、その子に与えた。
予想もしていなかった大金を受け取って、子供はぽかんとしていた。それはそうだろう。銀貨は大人が労働して稼いで受け取る高額貨幣だ。子供が手にするようなものではない。
その子にも、この金を無駄に使うなと、ファサルは教えた。銀貨一枚は、一時の遊興に使えば一瞬で潰えるが、この男のように、未来に投資すれば、街を背負って立つような、立派な官僚にもなれるかもしれない。しかし、夜遊びしていて親元に帰らないと、私のような悪党になってしまうぞと、脅しとも激励ともつかない事をファサルは子供に言った。
子供がそれをどの程度真に受けているかは、謎だった。とにかく子供は、どうしても欲しかったらしい読み本を遠慮無く買って、どっさりとお釣りを受け取ると、盛んにファサルに礼を言い、どこかへ走って帰っていった。
そして、かつて自分を救った銀貨はまた、グラナダ市の流通へと呑み込まれた。ラダックは微笑んでそれを見た。
やれやれと、ファサルは言って、のんびり歩き出した。
「あと五枚もあるな。再投資先を探すのが面倒だよ。まさか頭目になってまで、銀貨を撒いて歩く羽目になるとはね。その上、禁煙までさせられて、あんたは皆の言うように、本当に鬼だ」
歩きながら、ファサルはぼやいた。
「がんばってください」
それと並んで歩き、ラダックは真面目に励ました。ファサルはその返事に、小さく声をあげて笑っていた。
しばらくの間、話すともなく話して一緒に歩き、やがて途中で道が別れた。それではまたと言い置いて去るファサルの後ろ姿を、少し行ってからラダックは、ふと気になって振り返ったが、人混みの中に見え隠れする背中は、すぐに紛れて見えなくなった。あたかも、夜のグラナダにかき消えたかのように。
その去り方は、たぶん、別段なんということのない普通の別れ際だったが、英雄が颯爽と去ったようにしか、ラダックには見えなかった。昔も今も、つくづく格好良かった。
大した幻想だと気恥ずかしく思えたが、どうせ英雄などそんなもんだった。あんな阿呆でも英雄譚(ダージ)があれば、格好良く見えるのだからと、宮殿でぎゃあぎゃあ言っていた若造の顔を思い出し、ラダックは納得した。
あれが英雄だというなら、牛の目のファサルが英雄でないはずがない。エル・ギリスからは自分は、日々迷惑しか被っていないが、ファサルには一生涯を救われた。あの三枚の銀貨のお陰で、自分はいま仕える主もいて、命をかける夢もある。
その負債を負っている相手が、格好良く見えないはずはない。
今考えると阿呆としか思えないが、あの時は義賊ファサルに才を見込まれて、銀貨を貸して貰ったのだと思いこんでいた。だから英雄の期待に応えるべく、その金で真面目に学んで、立派な官吏になって、いい世の中にしなければと、素直に決意していた。そしていつか牛の目のファサルに、銀貨を返す。昼間は官吏でもいいけど、それだけだと味気ないから、時にはそれを仮の姿として、ファサルの手下になってもいいなと、うっとり考えていた。
もちろん昔の話だ。昔の話。もうずっと昔の、ほこりを被ったような、陳腐で美しい夢だ。
それについては極秘事項で、他の誰にも言うつもりはないが、胸に秘めているからこそ、少年の日の夢には酔いがある。
だから今夜は酔っぱらって帰ろうと、ラダックはひとりで飲める店を探した。どこへ行くのかはまだ決めていなかったが、空には大きな月のある、気持ちのよい晩だった。
懐かしい少年の日の、美しい思い出を抱いて、ラダックは住み慣れた愛しい街を歩いた。これが例の、夢薬の酔いかと思いながら、うっとりと微笑んで、月明かりの下を。
そして、そういえば明日は土曜かと、ラダックは思った。
では、エル・ギリスを誘って、競馬でも見に行こう。そして程々のところで、ファサル様が禁煙したらしいと教えてやろう。
英雄をぶん殴るわけにはいかないが、その話はたぶん、無痛の異名をとるあの人にとって、殴られるよりもずっと痛いはずだ。
いい気味だと、ラダックは思った。盗賊の首をとりそこねて、氷の蛇はさぞ悔しかろう。まったくあの若造は、たかが私怨のために、族長まで持ち出してきて、不敬なのだ。目論見が外れて、ざまあみろだった。
そして笑いを堪えて歩きながら、月を仰いだ。
それは少年の頃に井戸端で見たのと同じ、煌々と明るい、見事な満月だった。
今夜もグラナダの薄暗い辻々には、盗賊たちが潜んでいるだろう。ばらまかれた銀貨が、月明かりに白く輝いているだろう。それは甘い煙が見せた幻影かもしれぬが、盗賊ファサルのいるグラナダの、妖しい魅力をたたえた原風景だ。この美しい夢の残り香が、この街にいつまでも絶えず残るようにと、ラダックは愛しい故郷のために、そう願った。
《おわり》
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