もえもえ図鑑

2008/07/28

パスハの南・帰郷編(3)後編

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・ ・ ・ ・ ・ 

「お前、ほんとに痛覚がないんだな、ギリス」
「血が美味いのか」
 鉄臭いその味を知っていたので、ギリスは平気で舐めているスィグルが不思議だった。
「僕には味覚がないんだ。お前が痛くないのといっしょで」
 知らなかったのかという顔で、スィグルは意外そうに言った。ギリスは驚いた。晩餐の時に王族に供される、あの贅を尽くした食事を、スィグルはいつも不味そうに食っていたが、ただ舌が奢っているだけかと思った。
「そんな妙なことがあるのか?」
「お前に言われたくないよ」
 心底びっくりしたという声で、スィグルが毒づいた。
「だって俺、土産に食い物買って来ちゃったよ」
「他のやつにやればいいよ」
 それが妥当だという口調で、スィグルは言った。
 タンジールに居残った派閥の連中や、幼い者たちにくれてやるような土産は、ジェレフが抜かりなく用意しているはずだった。
「他には俺の帰りを待ってるやつなんていないよ。イェズは死んだし……」
 旅先で聞かされた遺言の話を思い出して、ギリスは軽い目眩を感じた。
 そうかと呟いて、スィグルは何となく上の空のような動作で、うなだれているギリスの頭を抱いた。そこから与えられる温もりは、ギリスを深く安堵させた。帰ってきたと、唐突に思えた。
「じゃあ、僕が食うよ」
「味もわかんないのに?」
「どうせいつもそうだよ」
「わかんないんじゃなくて、そう思いこんでるだけじゃないのか?」
 痛みを感じないことには都合の良さがあるが、味が分からないことには不都合ばかりの気がする。同じ膳から分け合っている時に、同じ美味を味わっていると信じていたのに、そうではなかったことが、許し難い。
「それはお前も似たようなもんなんじゃないのか、ギリス」
「いや、俺は本当に痛くないよ。痛かったら薬無しじゃ我慢できないって。お前この石が育つとき、どんだけ痛いもんか知らないんだろ。みんな悶絶してんだから」
 自分にとっては普通のことを、なにげなく言って、ギリスは後悔した。スィグルが顔をしかめたからだった。
 竜の涙が感じる苦痛のことは、英雄達の恥部として隠されている。陰では苦しむが、王宮の回廊をそぞろ歩く時には、誰も皆、涼しい顔を作るものだった。それが無理な時には部屋にこもって出てこない。
 だから、従軍したことのないスィグルのような王族が知っているのは、広間(ダロワージ)にたむろする着飾った英雄達の姿と、英雄譚(ダージ)が伝える物語じみた勇姿だけだ。
「ごめん。でも、俺はほんとに痛くないから」
「それは幸運だったね。でもお前が僕の半分でも、つらいと思ってりゃいいのに」
「つらいって何が」
「時計が時報を打つことさ」
 困ったように、スィグルが答えた。
「今回は不覚にも、思い知ったよ。自分がいかに弱いか。お前にはすっかり、たらし込まれたよ。どうやってやったんだ……」
 自分が噛んだ、ギリスの首の傷を掴んで、スィグルは治癒の魔法を使った。熱いような魔力の流れを感じて、ギリスはスィグルのその手に自分の掌を重ねた。
「どうって……愛しただけだよ」
 答えると、なぜかスィグルが吹き出して、爆笑しはじめた。よっぽど可笑しいのか、スィグルはギリスに縋ったまま、身を揉んで笑い続けた。
 イェズラムみたいだと、ギリスは思った。
 人がなぜ笑うのか、ギリスには分からないことが多かった。声をあげて笑った事なんて、自分には記憶がない。
 スィグルがなぜ笑っているのか、ギリスには分からなかったが、それでも、彼が笑う声を聞いていると、自分の中でしばらく放置されていた空洞が、温かく満たされるような気がした。
「もっと笑って」
 笑いに震えている背中を抱いて、ギリスは頼んでみた。しかしスィグルはそれを聞いて、ゆっくりと笑い止んだ。まだどこかに笑い声の残滓のある静寂の中で、ギリスは少し早いようなスィグルの呼気を聞いていた。
「俺のこと好きかって、もういっぺん聞いてみて。答えてやるから」
 睦言のように囁きかけられた言葉を、ギリスは胸の内で反芻した。訊ねなくても、答えを知っているような気がする。新星は実際こうして自分の腕に抱かれているだろう。どこへも逃げなかっただろう。
 なのになぜ、訊ねないと不安になるのだろう。
「スィグル、俺のこと好きか」
「好きだよ」
 耳でなく、心臓に聞かせる声で、スィグルは抱かれたままギリスの胸に唇を押し当てて答えた。望み通りのその返事は、なぜかギリスの心臓を締め上げた。胸苦しさで、息がつまる。
「俺、我慢した。お前の勘定によれば二千六百十二時間も。誉めて」
「誉めるようなことなのか……」
 どこか苦笑する声で、スィグルが答えた。
「一日に一回で計算しても、百九回もたまってる」
「百八回だろ、今日はまだ終わっていないから」
 スィグルの返事を聞いて、なんの話か、分かっているんだとギリスは思った。廊下の先には、あの棕櫚の庭園に続く、赤い扉が見えていた。
「一日に十回ずつとしても、十日以上かかるから、相当頑張らないと」
「そんなの無理だろ馬鹿。現実的に考えろ」
 腕の中から、鋭く冷たい声で非難されて、ギリスは呻いた。
「緒戦ではかなり奮闘できると思う、なにしろ、二千六百十二時間は気の遠くなるような長さだったし、いろんな誘惑が旅にはつきものだったし。まず出足の戦績を見てから、計画を練り直すということで、頑張ってみるのでどうかな、この際、一致協力して」
「まあそんなところだろうね……」
 説得を受け入れて、スィグルは目を伏せ、懐いた猫のようにギリスの胸に頬を擦りつけてきた。渦巻く真珠が胸元を飾っていた。
 この首飾りはきっと、部族の衣装には似合わないわよと、買い求めた店で、エル・サフナールが忠告してくれた。でも大丈夫よ、ギリス。首飾りのほかに、なんにも着なければいいんだから。
 その話をする彼女の清純そうな微笑を見て、ギリスは絶対にサフナールには逆らわないようにしようと思った。そんなすごいことを思いつくなんて、きっとサフナは天才だから。
 どんな猫につける首輪なのと、サフナは笑って訊いていた。
 性悪なんだよと答えたが、これでしばらく捕まえておけるかな。時がくれば天空に駆け上るという新星を、生涯捕らえておけるだろうか。
「あと何回だっけ」
 顔を上げさせて、ギリスはスィグルに口付けをした。
「今ので、あと二千六百八回だよ」
「そうだっけ。俺忘れちゃうから、お前が数えて」
「いいよ。いいけど、だったら僕が寝ている時にはしないで」
 ああそうかと、ギリスは応えた。スィグルは弱くて、ときどき朦朧とする時がある。
「それは無理だから、数はだいたいでいいや。少なめに、見積もっといて」
 ギリスが提案すると、スィグルは頷いた。
 いつもの庭園まで、あと少しだったが、どうやって歩こうかとギリスは困った。
 スィグルはきつく抱きついていて、歩くためには抱擁を解かないといけなかった。だけど今の自分たちにとって、それはとても難しく思えた。なにせ二千六百十二時間は気の遠くなるような長さだったし、その旅の間じゅう恋焦がれていた麗しの故郷に、ギリスは今やっと戻ってきたばかりだったからだ。

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