もえもえ図鑑

2008/07/28

パスハの南・帰郷編(3)前編

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 朝儀は終わりそうで終わらなかった。
 大人の話はきりがない。特に石のない連中は、いつまでもだらだらと長話ばかりだ。時間の惜しさが分からないからだろう。
 食い下がる田舎貴族をやっつけた族長が、玉座を立って退出していくのを、ギリスはほっとして見送った。昔はもっと朝儀は長引いたという話だから、きっと皆、退屈で辛かっただろう。
 族長リューズはせっかちなのがいいところで、叩頭礼も略式にしたし、無駄な口上は省かせ、余計な話はさせず、朝儀の最中でも人が広間を出入りすることを許していた。自分の話の邪魔にならなければ、廷臣どうしの私語ですら許した。
 先代のころまでは、果てしない朝儀が終わるまで、皆が皆、黙りこくって広間(ダロワージ)に平伏していなければならなかったのだというから、想像するだに足の痺れる話だ。
 帰ってきたのに気付かないはずはないのだから、さっさと退出してきてくれればいいのにと、ギリスは王族の席にいるスィグルを柱の陰から恨めしく眺めた。スィグルが途中で席を立ったところで、族長はまったく気にしなかっただろう。
 焦れたギリスとしては、席まで迎えに行きたいところだったが、スィグルはそれを許してくれないだろう。広間(ダロワージ)で隣にいてもいいのは晩餐の時だけだ。近づこうとすると逃げられ、話しかけようとしても無視された。
 三々五々散っていく王族たちの煌びやかな姿を遠目に見ながら、ギリスはおとなしく待った。
 礼服の懐には、とりあえず持ってきた真珠の首飾りが隠してあった。旅先で、エル・サフナールの買い物につきあって宝石商に行った時、その店でいちばんの品だというそれを、ギリスはとても気に入って、サフナに譲ってもらったのだ。
 どことなく暗さを帯びた純白の粒を、何連も連ねたもので、本来は海辺の部族の女が、大きく胸のあいた夜会服の首もとを飾るためのもののようだが、あの白い首にも似合うと思った。
 しかし肝心のスィグルは、こちらを見もせずに、つんと澄まして広間(ダロワージ)を横切っていき、さっさと大扉を出ていこうとしていた。
 やや遅れて、ギリスは仕方なく後をついていった。
 なんとも惨めだったが、どうせいつものことだった。向こうは気付いていないわけではなく、ちゃんと知っている。追ってきているのを。
 複雑に入り組んだ道を、スィグルは延々と行った。部屋に帰るわけではないようだった。それは向こうがギリスの追跡に気付いている証拠でもあった。スィグルは自分の部屋にも決してギリスを近づけさせない。試しに何度か訪ねてみたことがあるが、その度に、戸口に現れた女官が、帰れと冷たく言った。
 なんだか切なくなって、ギリスは立ち止まり、追うのをやめた。
 それから数歩行ったところで、スィグルも立ち止まった。ふりかえって、こちらを斜に見るスィグルの顔を、ギリスは遠くから見つめた。
「せっかく帰ってきたのに、お前は俺のことは全然待ってなかったみたいだな。俺がいない間、なにしてたんだよ」
 問いかけると、スィグルはしばらく、物言いたげに黙っていた。
 やっぱり行かなきゃよかったよと、ギリスは内心に独語した。せっかく捕まえたと思った新星は、もう手をすり抜けていったんじゃないか。
 やっぱりあの、海辺の街で見た黒猫にそっくりだと、ギリスは思った。冷たくて、どこか馬鹿にしたように俺を見て、追いかけても逃げていく。
「お前がタンジールを出てから、広間(ダロワージ)の時計は二千六百十二回の時報を打った。その間、僕がなにをしていたか、教えてやろうか」
 金色の眼でこちらを見つめて、スィグルは淡々とそう言った。
「毎日、鷹通信(タヒル)を待っていた。お前が送ってくるはずの」
 スィグルが口にした、想像もしていなかったその答えに、ギリスは唇を開いた。しかし言葉は出てこなかった。
「お前こそ客地で何をしていたんだい。たったの一行も、なにか知らせようとは思わなかったの?」
 あんぐりとして、ギリスはなにか答えなければと、ほとんど呻くような声をあげた。
「でも……鷹通信(タヒル)を私用に使っちゃいけないんだぞ」
「それは建前だ」
 静かな声で、スィグルはギリスの答えを叩き返してきた。なんだか横面を殴られたような気が、ギリスはした。
 確かにスィグルは正しかった。
 戦場で用いられる鷹通信(タヒル)は貴重な連絡網で、族長の許可がなければ個人的な目的で使用することは許されなかった。いざという時に使う鷹が、くだらない用件で飛び立った後では、戦に差し支えるからだ。
 しかしサウザスにある領事館から送ろうと思えば、それは簡単にできた。ジェレフは時々、定期連絡を送っていたし、サフナだって、くだらない用事で送った。鷹たちは日々、行ったり戻ったりしていた。
 しかし、タンジールの外に知り合いのいないギリスは、普段、私用で鷹通信(タヒル)を送ったことなど一度もなかった。だから思いつきもしなかったのだ。自分も送れるということを。
「お前は、本当に、冷たい馬鹿だよ、ギリス」
 一言一言を投げつけるように、スィグルはそう言った。
 ギリスは胸が苦しくなって、今すぐ内蔵をぜんぶ吐くのではないかと思った。
「いない間に、お前の英雄譚(ダージ)を調べたよ」
 やっとこちらに向き直って、スィグルは言った。なにかを突きつけられているような気がした。
「ヤンファールでの褒美に、お前は父上に鷹通信(タヒル)をねだったらしいじゃないか。そういうものがあるってことは、いくらお前でも、知っていたってことだろう」
 スィグルが問いかける口調だったので、ギリスは頷いてみせた。王都に居残ったイェズラムに戦功を知らせるために、鷹を飛ばしたことがある。
 するとスィグルは、張りつめた苛立ちを含んだため息を、ゆっくりと吐いた。
「それじゃあ、旅があんまり楽しくて、タンジールでお前を待っている者がいることは、いっぺんも思い出さなかったってことだね」
 いじめないでよと、ギリスは思った。
 あんなに素っ気なく送り出しておいて、そんなの狡くはないか。鷹通信(タヒル)を送れなんて、一回でも頼んできたか。いい機会だから、旅して修行を積んでこいって、それしか言わなかったじゃないか。
 鷹ならタンジールにもいっぱいいただろ。お前だって、なんにも送ってこなかったろ。こっちがどこにいて、何をしてるかは、ジェレフの報告で知ってたくせに。
 どうして、何もせずにただ待ってたんだよ。
「思い出すって。俺はいつもお前のことを考えてたよ。毎日会いたかったんだよ」
 文句を言ってやろうと思ったのに、口を突いたのは別の話だった。ギリスはうなだれた。
 帰ってきたら、スィグルはにこにこして、すぐ会ってくれると思っていた。まさか喧嘩を売られるなんて、想像もしてなかった。まだ、お帰りとも言ってくれてない。
 懐にやった手に、真珠が触れて、ギリスはそのことを思い出した。うなだれたまま、懐からそれを引っ張り出し、ギリスは目の高さで首飾りを垂らしてみせた。
「これお土産。お前に似合いそうと思って。機嫌がなおったら、着けて見せて」
 そう言ったものの、どうやって渡そうかとギリスは困った。
 店の者は、真珠は傷つきやすいから、手荒に扱うなと何度も言っていた。投げ渡すわけにもいかない。かといって、こちらから渡しに行こうにも、なんとなく近寄りがたかった。
 沈黙がさすがにつらくなる頃、不意にスィグルが一歩踏み出した。それにギリスが目をあげると、スィグルは不機嫌そうな無表情のまま、通路を戻って近寄ってきた。
 すぐ目の前にある、純白の真珠の光沢を、スィグルの目がじっと眺めるのを、ギリスは盗み見た。
 お前もサフナといっしょで、物につられたの。
 そう思って眺める前で、スィグルは物珍しそうに、いくつも連なっている真珠の玉に、指を触れさせた。そうした姿を透かし見ると、やはり似合いそうな気がするのだった。
「走って帰ってきたにしては、ずいぶん遅かったね」
 受け取る気配のないまま、スィグルはなんとなく消沈した声になった。
「行きも帰りも嵐にあっちゃって、途中の港で何日も停泊だったんだよ」
「そんなの言い訳だろ」
 そうだろうかとギリスは思った。でもそうやって、スィグルに間近で見つめられて静かに断言されると、そうかもしれないという気がするから不思議だった。
「二千六百十二回もあるよ、ギリス。一時間に十回ずつとしても、不眠不休で十日以上かかるよ」
 そう教えるスィグルの声は、言い終える頃にはほとんど消え入るような小声だった。
 しばらく呆然としてから、ギリスにはやっと、スィグルが何をしてほしいのか分かった。
 華やかな礼服で飾られたスィグルの胸元に、真珠の首飾りを巻くため、ギリスは彼の首に腕を回した。それを許すために顎をあげたスィグルに、ギリスは口付けをした。その温もりに気をとられ、首飾りの留め金はなかなか掛からなかった。
「あと何回……」
「二千六百十一回だよ」
 わかっていたがスィグルに数えさせたかった。
 首飾りをさせていると、新星を捕まえたのだという気がした。
 素知らぬ顔でいるものと思っていたのに、スィグルが広間(ダロワージ)を過ぎゆく時を数えていたことに、ギリスは胸を揺さぶられた。
 旅立つ前には、こんなことはなかった。誘うギリスに手を引かれて、スィグルは大人しくどこへでも付いてきたが、愛するのはギリスの仕事で、スィグルはただそれを受けるだけだった。いくらでも水を飲む、底無しの穴みたいに。醒めた風でいて、スィグルはいくらでも欲しがった。果てしなく貪られるだけで、報いはないのだと思っていた。
 抱きしめて、口付けをし、目をのぞき込むと、スィグルがこちらを見返していた。その瞳が、自分を愛しているような気がした。それともそれは錯覚で、ただ一方的に与える苦しさのために、ありもしない幻を見ているのだろうか。
 求めたところで、きりがないのに。
「スィグル」
 結い上げた髪が崩れるのも構わず、ギリスは抱きしめたスィグルの項(うなじ)から指を梳き入れた。そこには熱がこもっていた。
「俺のこと好きか」
 そんなことを、誰かに訊いてみようと思ったのは、生まれて初めてだった。他人が自分を愛するかどうか、ギリスは考えたこともなかった。そんな者はいまいと、どこかで諦めて生きてきたような気がする。
「なぜそんなことを訊くんだよ」
 スィグルが答えた。怖いような気がした。
 ギリスは震えそうな指で、今は目の前にある華奢な体を、さらに強く掻き抱いた。
「好きだって言ってよ」
「どうして」
 聞き返してくるスィグルに、ギリスはまた口付けをした。
 王朝を支えるのは愛という名の忠節で、それには見返りを求めてはいけない。星を愛して眺めることは、誰にでも許されているが、星がいちいちそれに応えはしない。
 イェズラムはそう教えた。
 星ってなに、と訊ねたら、イェズラムはぎょっとして、ギリスを星空を望める地上層まで連れて行った。タンジール育ちのギリスは外を見たことがなかったのだ。
 そこからは確かに小さく瞬く沢山の光が見えた。美しかったが、あまりにも遠かった。そのために喜んで死ねるというほどのものとは、ギリスには思えなかった。皆がそうしていると言われても。
 イェズラムが言っている、皆が振り仰ぐ星とは、族長のことだと分かっていたが、族長はいつでも玉座に座っていた。口をききたいなら、朝儀で謁見すればいい。
 族長リューズは空の星と違って、いつでも宮廷をうろうろ歩き回っているし、飯も食えば、冗談も言う。イェズラムに至っては、部屋までやってきて怒鳴り散らしたりされていた。
 星ではない、ただの人で、振り仰ぐようなものではない気がした。
 スィグルだってそうだ。他と違うとは思えない。手に入らないと思えない。実際こうして抱くこともできる。スィグルが口付けを拒んだことが一回でもあったか。冷たい毒舌で刺しはするが、抱擁に応えるときは、糖蜜のように甘い味がする。
 どうしてそれを知った上で、一生やせ我慢しないといけないのか。
「……どうして?」
 口付けた唇が、また同じ問いを囁いていた。答えたらお終いだとギリスは恐れた。
 痛みと恐怖を、学ぶことになる。もしも拒まれたら。
「お前が俺を好きじゃないと、つらいから」
「いい気味だよ」
 喉をふるわせて笑い、スィグルは言った。そしてにわかに、礼服の襟をはだけたギリスの首に噛みついた。痛くはなかったが、そうとう強く噛まれている気がした。
 食われてる。びっくりして、ギリスはスィグルを抱き寄せている指を震わせた。
 しばらくしてから、スィグルは短いため息とともに体を離した。笑って舌なめずりする唇に血がついていた。人食いスィグルに食われてる。またびっくりして、ギリスはそれを見た。

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