もえもえ図鑑

2009/02/19

湾岸の鍼治療師(ジェドゥワ)(3)

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・ ・ ・ ・ ・

 枯れ谷アシュギルか、と、ヘンリックはその顔をじっと眺めた。やはり、どことなくリューズに似ている。ほんの、ちらりと目の迷い程度だが。それが懐かしいような気さえする。
 いくつか系統があると言っていたが、一体、砂漠の連中の美貌には、どれくらいの数の系統があるのだろうか。ずらっと並ぶと壮観なのだろう。こんなのばかりが絢爛に着飾って、うようよいるような宮廷は、さぞかし壮麗だろうが、少々不気味でもある。この世のものとも思えないし、まるで悪い夢のようだ。
 リューズと連合して、戦場で相まみえたことはあるが、奴が玉座の間ダロワージと呼ぶ、絢爛らしい王宮の広間での様子は見たことがない。イルスは訪れたことがあり、それは美しいものだと話していたが、ヘンリックにはどことなく気味が悪く、魔術的なものとしか想像がつかなかった。
 迷信深い性分で、砂漠の魔法というのに偏見があるからだろうか。とにかく魔導師たちは油断がならない。その親玉も油断がならない。
 今さら突然、昔くれてやった鍼治療師ジェドゥワを返せとは、一体どういう目論見だ。
 ああ、もう、参ったとヘンリックは思った。
 疲れ果てるごとに、これに依存して十年だ。もはやこの鍼治療師ジェドゥワ無しでは腕も上がらず首も回らないだろう。時々深く眠らされる、あの熱く滴る針の効果も捨てがたい。
 身を起こしてみた体の中で、連日の激務で募りに募っていた疲労が、とりあえず明日も生きようかと思う程度には引き潮になっていた。
「どうあっても返せという話だったのか?」
 寝ぼけて曇るような目を指先でこすり、長椅子の上に胡座をかいて、ヘンリックは渋々訊ねた。
「いいえ。閣下がご不要と判断された場合は戻れということです」
「不要ではない」
「そのようで」
 薄笑いで同意して、アズミールは、煙管を宙に持ったまま、ゆっくり深い息をついた。腰掛けに座る姿勢はすらりと背筋が伸びて、堂々として見えた。出自卑しい者には見えない。あたかも玉座に座す、族長リューズもかくやと言ったところだ。
 どうせ、この若造は、増長しているのだろう。俺のお陰でお前は生きていられるんだぐらいの事を思っているのかもしれない。それもまあ、そう思いたければ、思えばいい。あながち嘘でもない時はある。
「引き続き、サウザスでお仕えしてもよろしいでしょうか」
「好きにしろ。どうせ戻れば斬首だろう、お前は」
 面憎いと思って、ヘンリックは嫌みを言ってやった。
 すると鍼治療師ジェドゥワは笑い、痛いところを突かれたという顔をした。
「いえいえ。閣下の都サウザスへの愛着断ちがたく、かくなるうえは、このまま生涯お仕えして、渚の砂に骨を埋めようかと」
 鍼治療師ジェドゥワはぺらぺら滑らかに喋っていた。
「口が上手いのも、枯れ谷アシュギルとやらの特徴か?」
 言葉巧みで調子がいいのもリューズ・スィノニム的だと、ヘンリックは辟易した。
「さあ。それは聞いたことがありません。畏れ多くも玉座の君と、遠く及ばず、この私だけではないでしょうか」
 薄笑いして言う鍼治療師ジェドゥワに答えるように、深夜の空に盛大な稲光が閃き、間断ない素早さで雷鳴が轟いた。雨はさらなる豪雨になっていた。
 これではサウザス市街の石畳は、流れる川のごとくになっているだろう。とっくに夜会もはねる時刻で、車輪が滑るのを恐れる御者は、馬車を出すのを嫌うだろう。
 アズミールには市井に家を与えてあったが、そこまで徒歩で帰れとも言いがたい。雷鳴轟く水浸しの街道で、馬車が横転でもして、鍼治療師ジェドゥワの腕が鈍るような怪我でもされたら大事だ。
 もう一人送れとリューズに泣きつくのは格好がつかない。
「王宮で、朝まで寝ていけ。雨が止むまで。従僕に声をかけて、部屋を用意させろ」
 上掛けの綿布をうるさく長椅子に放って言い渡し、軽く申し訳程度の一礼をする鍼治療師ジェドゥワを残して、ヘンリックは裸足のまま、窓辺に雨を見に行った。海上から来た嵐のようだった。港の船も沖に逃げた頃だろう。
 野分のわきの風が吹き荒れて、王宮の庭には見る影もなかった。風に嬲られたテラスの行燈ランタンが、すでに火も絶え、雨に打たれて踊り狂っている。
 これでは鷹も飛ぶまいと、ヘンリックは思った。
 嵐が過ぎていってからでいいだろう。リューズに鷹通信タヒルを送るのは。
 鍼治療師ジェドゥワは大変気に入っているので、召還しないでもらいたい。お前の気遣いには感謝している。お陰で痛みも紛れるし、時にはぐっすり眠れると、なけなしの言葉を尽くして口下手が、喜んでみせねばならないだろう。
 それで砂漠の黒い悪魔も、いい気味だと満足をして、鍼治療師ジェドゥワを留め置くことにするだろう。針が好きかと、ちくりと皮肉は言うだろうが。
 のんびり道具を片付けて、アズミールは部屋を出るらしかった。吹き消された蝋燭と、消え残る甘い煙の匂いがする。また盛大に雷鳴が轟いた。
 セレスタは、眠れたろうかとヘンリックは思った。あの、近頃とみに神経質な正妃は。
 眠れぬようなら、あいつも一刺し、ちくりとやってもらえばいい。鍼治療師ジェドゥワアズミールに。
 その針で、あの癇癪がおさまるようなら、俺もいくらか気が楽なのだが。アズミールの針は、そういうものには効かないものか。セレスタは、異国の鍼治療師ジェドゥワを気味悪がって傍へ寄せないので、確かめようがない。
 それでもまあ、結果的には同じことだ。時折、族長ヘンリックの気が晴れれば。
 嵐はその夜、翌日の昼近くまで続いた。鍼治療師ジェドゥワは飽きもせず、王宮の部屋で煙を燻らせていたらしい。
 野分明けの空にヘンリックは鷹通信タヒルを放った。それは逞しい翼で砂漠の都へ向けて飛び、やがて、読んですぐに書かれたらしい、リューズ直筆の返信を持った鷹が飛来した。
 そこには一文、流麗な書によって、こう記されていた。
 友よ、汝が鍼治療師ジェドゥワの快美を好むと聞き及び、我、極めて愉快なり。

《おしまい》
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湾岸の鍼治療師(ジェドゥワ)(2)

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・ ・ ・ ・ ・

 針で刺すと、眠りを誘う場所があるらしい。しかし、それだけで、ことりと眠りはしない。アズミールは薬も使う。薬師くすしとしての知識も持っているらしい。しかし薬師や医師として働くには、能力は足りても、身分に不足があるらしい。
 愚かしいと、リューズはそれについて批判めいた愚痴を述べていたが、名君の誉れ高きあいつも、自分の玉座がある場所では、独裁者ではない。部族の伝統を破壊して、何事も我が儘に推し進めるというのは無理なものらしい。
 俺はお前のような、我が儘勝手な暴君ではないからなと、リューズは恨めしげな流し目で睨み、異国の都サウザスで、愚痴愚痴と話していった。我が宮廷には太祖の昔より、厳然とした序列がある。それに従った、分相応というものがある。最下層の任にある者も、玉座に座す族長も、自分の序列に準じた箱から出てはならないというのが、厄介ではあるが、やむをえぬ秩序というものだ。
 秩序。忌々しいが、極めて重要なこれを、決して乱さぬように、それでいて、諸悪の根源となる病巣を、患者を生かしたまま切り取る手練れの医師のように、改革は行われねばならない。野蛮な長剣でなぎ払い、ぶった切るような、お前のやり方は野蛮なのだ。
 ヘンリック・ウェルンは野蛮な男だ。蛮勇ばかりが異郷に聞こえ、人は皆お前のことを、交渉よりも剣と血で、物事を推し進める野卑な男と思いこんでいる。左利きのヘンリック。お前も秩序に添って事を進める手際を学ばねば。きっとまた、泣き所を突いてこられる。孕み女を殺されて、その次は誰か。可愛い遺児の手足の指を、一本ずつもがれるような事にならねば良いが。
 お前が自分で信じていたように、そうなっても顔色一つ変わらない、非情な男であればいいがなあ、我が友マルドゥーク。俺もかつては自分のことを、血も涙もない王宮の毒蛇と、勘違いをしていたが、妻子を虜囚にとられ、もしも敵の獄吏が間違えず、切って落として送りつけてきたのが、可愛い息子の指のほうだったら、きっと正気ではいなかっただろう。発狂していた。なにしろ高貴で繊細な神経の血筋なのでな。
 お前は野蛮な奴隷の出だから平気だろうか。それが本当だかどうだか、試してみることにならねばよいが。なんせ死んだらそれっきり、たった二人しかいない息子なのだろう。俺には息子が十七人もいて、それでも二人も死んだらつらい。それで全部のお前には、きっともっとつらいのだろうなあ。
 しかし安心しろヘンリック。お前の息子はまだ死んでない。母が死んでも平気で生きている。寄る辺はなくても命があれば、子供は勝手に育つ。それでも誰か守る者はいてくれたほうが、何倍も気楽だ。お前もまだ、発狂している場合ではないのじゃないか。
 にやにや心配げに苦笑して、目の前にしゃがみ込み、頬杖をついて話すリューズの長広舌が、夢に出てきた。
 悪夢の類だろうかとヘンリックは思った。
 離宮でヘレンが毒死して、その後、どれくらい経った後か、呆然と過ごしていると、リューズが現れて、ぺらぺらそう喋った。そして、堪えがたいというように、さらに苦笑し、持っていた絹の布で、口元と、白い鼻先を覆って言った。女を墓に埋めてやれと。
 あれはもう、死んでいる。寝ているのではない。死体だ、ヘンリック。見て分からないのかと。
 分からないなら、それもやむを得ない。お前はもう正気じゃないのだろう。しかし見せるな、子供には。子供は俺が貰っていってやる。それが嫌なら、早々に正気に返れ。さもないと、譲位することになるぞ、ヘンリック。族長冠と首を奪われる。そうなったら、お前の子らはどうなるんだ。
 俺はもう帰るが、よく考えろ。俺も新しいマルドゥークが好きとは限らん。
 さらばだ友よ。また会おう。そう遠くない、いつかの日に。
 信じているぞと励ますような、苦々しい笑みを残して、立ち去る様子のリューズの姿は、一時いちどきに見たものではなかった。時が交錯している。過去に見たことがあるリューズ・スィノニムの記憶のごった煮のようなものだった。
 離宮でヘレンが死んだのは、やつの息子が虜囚にとられたのよりも、ずいぶん前のことなのだから、それを同時に話しているわけがない。
 だからこれは夢なのだろうが、まるでその場にいるようだった。真っ暗な闇だけの中に、その闇から生まれ出たような黒髪と、黒衣のリューズが立っていて、もう立ち去りそうだった。
 いつだったか、何でもない用件にかこつけて湾岸にふらりと物見遊山に現れて、ではまた会おうと、いつも通りに帰っていったが、それが本人を見た最後で、あれから何年も、一度も海辺に現れていない。使者や手紙は頻々と送ってくるが、それだけだ。
 かつては玉座を留守にしても、代わって宮廷を切り回していた乳兄弟の兄がいたが、それが死んでしまって、もういないので、代わりの留守居を決めかねて、旅に出るにも腰が重いのだという話だ。
 たぶん、さしものリューズも歳を食ったのだろう。四十路も間近ともなると、玉座を蹴って物見遊山に出るという気も薄れたのだろう。
 たまには来いとタンジールに呼ばれてはいても、ヘンリックはいくさ以外の理由で、サウザスを留守にしたことはない。それが普通だ。族長冠をかぶった頭が、ふらふら三月みつき四月よつきも、気まぐれで旅をするということは、普通ではない。
 あいつもやっと大人になったのだ。口うるさい兄貴が死んで。守ってくれる者がいなくなったので、実は自分が家長だということに、突如として気がついたのだろう。
 だが、しかし、また会おうと別れて、それきり今生の別れというのでは、あまりに愛想のない話だ。またどこかで、会う機会もあればいいが。離宮に激励に来た件の礼も、そういえば言ったことがない。実は何かと、返していない借りがあるのだ。
 いつか言うからと、立ち去る黒衣の姿を眺めると、リューズはこちらを振り返り、にやりと人の悪そうな笑みを、白い顔に浮かべた。
 それきりだった。
 どれくらいの間か分からない。そのまま深く眠った。ぐっすりと深い、泥のような眠りで、もう夢も見なかった。
 ごう、と風の鳴る音がして、それに煽られた何かが、けたたましく窓辺で転がり落ちた。びくりとして目を醒ますと、長椅子の脇に腰掛けを持ち出してきて座っていた鍼治療師ジェドゥワが、少し驚いた顔をして、物音のした窓辺のほうを眺めやる横顔をしていた。
 小卓に置かれていた蝋燭が、まだ火のついたままで、砂漠の趣味で作られた浅い真鍮の燭台の中で、もうじき燃え果てようとしていた。ゆらゆら揺れる灯火が風にくすぶるきな臭い臭いに混ざり、ろうに練り込んであるらしい、涼やかだが濃厚な、麝香じゃこうのような芳香が漂っている。
 深い眠りから醒めた気怠さと、深く眠った爽快感の両方が、体に残っていた。
 ヘンリックが長椅子に身を起こすと、アズミールはこちらを見たが、起きあがるなとはもう言わなかった。とっくに針は抜いてあったらしい。着衣も直され、肌かけらしい綿布が、いつの間にやらヘンリックの体にかけられていた。
 たぶんアズミールが側仕えの従僕を呼んで、持ってこさせたのだろう。眠りこけた族長ヘンリックが、風邪でもひいたらまずいということで。
 生来、殴っても死なない質だ。居眠りしたぐらいで風邪などひくまいが、それも人の心遣いだろう。破れた屋根からの雨垂れに打たれるまま、びしょ濡れで眠っていた子供時代とは違う。今ではもう、うたた寝すれば布団をかける者がいるような、人並みのいいご身分だ。
「良くお休みで」
 それで良かったという口調で言って、アズミールはそれでも、待ちくたびれたような顔をしていた。
 椅子に腰掛け、手には薄煙を上げる煙管を握っている。
 煙管を使って喫煙するのは、砂漠の民には普通のことだが、よくも異国の王宮の、族長の眠る部屋で、暇つぶしに煙をふかしたりするものだ。謙譲し、身分を弁えているようでいて、アズミールは案外ふてぶてしかった。それをやっても許されると考えている。
 そして実際許されている。ヘンリックには、咎めようかという気は起きなかった。何とはなしに、この鍼治療師ジェドゥワには、頭の上がらないようなところがある。
「ぐっすり眠った。久々に」
「薬が効きすぎたかと焦り始めたところでした。お疲れのようで。どうしてお疲れなのに眠れないのか不思議です」
 遠慮する気配もなく、煙管をふかして、アズミールはゆっくりと、淡く灰色がかった煙を吐き出した。それには、甘いような芳香があった。
 その匂いには、覚えがある。鍼治療師ジェドゥワ麻薬アスラを吸っていた。湾岸に来てから覚えた妙味らしい。
 サウザスは内海に臨む貿易港でもあり、隣大陸から良質の麻薬アスラが流入していた。繁殖期アルマの頃に、血の力だけでは酔えないような、狂乱の血の薄い貴族層が好んで用いるし、価格によっては市井でも、普通に流通していた。
 麻薬アスラと言っても様々だ。深く脳の随まで狂わすような、悪質なものもあれば、酒か茶でも嗜むのに似た、ほんのちょっとの気晴らし用のものまで、様々ある。
 それも貴重な貿易品で、アズミールの故郷の黒エルフ領にも、隊商に積ませて運び込まれていく。かつては砂漠が煙りに霞むほど、大量の麻薬アスラが消費されていたらしいが、それで湾岸の商人たちが、がっぽり稼げていたのも、族長リューズが即位して、しばらくの間までだった。
 リューズが市井での麻薬アスラの使用を禁じたのだ。薬害による頽廃が極まるところまで極まって、市井も軍も、宮廷の玉座の間にまで、今にも崩れ落ちそうな腐敗が迫り来ていたらしい。リューズはそれを腹に据えかねて、叛けば斬首とまで命じ、民に禁令を徹底させた。
 今では奴の英雄たちが鎮痛のために使う麻薬アスラが、粛々と護衛された隊商に運ばれ、タンジールに向かうだけだ。ぼろい商売を失って、湾岸の商人は内心、族長リューズを恨んでいるだろう。
 しかし湾岸では今も変わらない。酔いたい者は煙に酔っている。それがたとえ、禁令厳しきタンジールから送り込まれた、白い顔に蛇眼を光らす、族長リューズに仕える建前の鍼治療師ジェドゥワでもだ。
「実は閣下。先頃、本国より命令書が参りまして、我が玉座の君が、閣下が鍼治療師ジェドゥワにご興味なきご様子なので、お前の仕事ぶりに不足があるのだろうと、ご不満とのことです。ついては無駄飯食らいを異国の宮廷に預け置くわけにいかぬので、早々に戻ってまいれと命じられました」
 アズミールは淡々と話した。
 送りつけてから十年を越え、リューズも焦れたのだろう。こちらがあまりにも無反応なので。それで、最後に駄目押しと、揺さぶりをかけてきたのだろう。
「おいとまを頂戴できるかどうか、族長閣下にお尋ねするよう、申しつかっております」
 ふはあと煙を吐いて、鍼治療師ジェドゥワは酔ったような目だった。おとなしそうで地味ではあるが、それでも砂漠の麗質をした顔が、うっとり寛いだようだった。

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湾岸の鍼治療師(ジェドゥワ)(1)

「アズミールが来ました」
 戸を叩く従僕の子供の声で、ふと目が醒めた。
 耳をそばだてながら眠っていた。
 薄く目を開け、ヘンリックは俯せのまま横たわっている自分の顔の下の、絹の枕に描かれた複雑な染め柄を、間近に目で辿った。
 深くぐっすり眠ったことが、ついぞない。泥のようにぐったり眠ったことなど、一生のうちに数えるほどしかないのではないか。
 子供の頃は子供の頃で、昼より夜のほうがけたたましいような、貧民窟スラムの娼婦街に育ち、自分の寝床と言えるようなものもなく、物陰で大人を避けて眠ったし、その後は剣奴隷として、檻の中だった。とにかく常に寝るときは、物音に耳を澄まして、何かあれば飛び起きられるような支度をしたまま眠っていたような気がする。
 それに生来、寝付きが悪い。頭の芯が高揚していて、気が昂ぶって眠れないのだ。
 戦士としては、それで好都合だったかもしれないが、時折疲れ果てる。これでも昔はまだ、離宮にヘレンのいた頃であれば、あの女の寝床で一時深く眠ったような気がするが、それももはや昔のことだった。
 離宮の女が腹に子を抱いたまま死んで、それによって呪われたような気がする。それまで斬り捨ててきた負け犬どもの、募る恨みが一気に押し寄せでもしたのか、その時以来のアルマの不眠が、一向に醒めない。
 休まる時なく働き続けて、疲れ果てると、しばしば思った。死んだ方がましだと。
 そういう気がした時には、アズミールを呼ぶことにしている。
 砂漠から来た男だった。黒エルフで、年の頃は、良く分からない。若いような気もするが、実はそうでもないのか。大体において、砂漠の連中は年齢不詳に見えた。歳を訊かねばわからないが、訊く必要もない。
 アズミールは鍼治療師ジェドゥワで、族長リューズ・スィノニムからの贈り物だった。黒エルフには奴隷はいない。だから贈り物というのでは、気位のあるリューズは怒るだろうが、アズミールは最下層の身分の出らしい。家族らしい家族もおらず、実質、貴人の好き勝手で右に左に遣わされ、果てはこの湾岸まで来たわけだ。
 そういう立場の者のことを、湾岸では奴隷と呼んでいる。給金を与えているから違うとリューズは言うが、奴隷身分でも貴人に仕えれば絹を着て、小遣いめいた金銭や、時には家屋敷まで与えられることもある。
 どちらでもいい。話していると果てしない。奴隷身分か自由民かは、どうでもいいことだ。肝心なのはアズミールが腕のいい鍼治療師ジェドゥワで、湾岸にはない鎮痛の技術を持っているということだった。
 昔、戦で負った右肩の古傷が痛むので、それを癒やすためということで、リューズが寄越した一種の賄賂だった。
 傷は今でも、天候しだいで時折痛む。
 元は両利きで、剣を握る手は主に右だったが、負傷して右肩が痛むようになってからは、いつの間にか左利きのヘンリックと呼ばれるようになっていた。
 そこはかとなく、忌々しいようなその渾名も、今ではすっかり馴染んでしまい、悪気無く呼ぶ者さえいるようだ。
 そうなってはもう、敢えて右手で剣をとる必要もあるまいが、施療によって、一時でも右肩から痛みが消えれば、それはそれで爽快だった。
 それがまず、アズミールの第一の価値だ。
「お待たせいたしました」
 雨中を来たらしい、濡れた布地の臭いをさせて、鍼治療師ジェドゥワアズミールは現れた。ヘンリックは寝たまま起きあがらなかった。どうせまた寝ることになる。鍼治療師ジェドゥワは背中に針を刺すため、俯せに寝ろと言ってくるからだ。
 身分が低いせいかどうかは分からないが、アズミールはいつも単身訪れる。施療のための、銀色に光る細い針を、ずらりと刺した紺色の布や、薬剤を入れた瓶や、その他細々としたものを入れた包みを持って、ひとりでふらりとやってくる。
 もう十年来サウザスにいるはずだが、着ているものは相変わらずの黒エルフの長衣ジュラバで、髪も長く伸ばした黒髪を、首の辺りで束髪にしていた。
 ヘンリックの知る限り、リューズやその連れの廷臣たちは、公式の場では髪を高く結い上げていた。髪に挿す装飾も凝ったものだったし、結い方にも芸術的ともいえる複雑さがあり、その時々の流行もあるようだった。
 そうでなければリューズはだらけた垂れ髪で、宮廷服はかんざしが重くて肩が凝ると、愚痴を垂れていた。
 髪をどうするかには身分が現れるものらしい。アズミールはいつも質素ななりをしていた。俸給も与えているはずだが、衣装に凝るということもない。
 その貧乏性のようなものが、ヘンリックには居心地がよかった。自分が卑賤の生まれのせいか、身分の高い連中といると、肩肘張って息苦しい。誇れぬ程度の出自の者のほうが、どうしても気安かった。
「ひどい雨です。鎧戸を閉めさせなくてよろしいのですか」
 勝手知ったるもので、アズミールは長々しい口上は省いた。長椅子に寝ているこちらの脇に来て、用意されていた小卓のうえに、持ってきた施術道具を取り出しながら、広々とした王宮の居室の、テラスに続く漆喰の飾り窓を見て、そう訊いた。
 外では、夜半の海都サウザスに、殴りつけるような雨が降り続いていた。風もいくらか吹いている。部屋を照らす、紙の覆いがかけられた行燈ランタンが、揺らめく灯りを投げかけている。
 アズミールは用意してきた蝋燭に、指先からふっと火を灯した。火炎の魔法を使う男で、それで戦えるほどではないが、火種には不自由しない生涯らしい。
 灯された蝋燭の火も、頼りなくちらちらと揺れていた。
「風があるほうがいいんだ。閉じこめられると気が滅入る」
 寝たままヘンリックは気怠く答えた。
 夜会から戻り、正妃は具合が悪いというので、今夜は気楽な独り寝だった。セレスタと眠るのが、別に苦痛ということはないが、何とはなしに気が張って、眠りが浅いような気がする。
 近頃とみに体調が芳しくない時があるようで、そういう時には決まってセレスタは、鬱々として癇癪を起こす。そうなると、訳の分からない理由で罵られたり、泣き喚かれたりするものだから、具合の悪いときにはお互い近寄らないようにしていた。
 罵られるような理由はいくらでもあるのだろうが、こっちも疲れている。丸一日の政務から戻り、そこで癇癪女の相手をさせられるのでは、身が保たないような気がする夜もある。時にはこちらも気を抜かないと。
 くたびれているなとでも思ったのか、アズミールは笑ったようだった。枕に俯せていて目を閉じているので、見えはしないが、微かに漏れる息の音が聞こえた気がした。
 俺を笑うなと凄んで見せる気はしない。アズミールは気安くはあるが、身分は弁えていた。どちらが偉いか、よく知っている。
 それにどうせ、顔に似合わず底意地の悪い、砂漠の異民族だった。いちいち咎めていては事が進まない。リューズからしてそうだ。なよやかなように見えて、根性悪で、アズミールはどことなくリューズと似た面差しだった。きっと性根も似たようなものなのだ。
「始めてよろしいでしょうか」
 訊ねられたが、億劫だったので、ヘンリックは答えなかった。施術のために来たのだから、それを訊くのは無駄口というものだ。一応、頷いたつもりだが、見えたかどうか。
 それでもとにかく、始めようかということだろう。
 鍼治療師ジェドゥワアズミールはヘンリックの夜着の襟首に手をかけた。背を出させるためだ。その右肩には傷がある。かつて山の者どもの戦斧でやられた傷だ。その傷痕は今でもそのまま古傷になって残されている。
 夜着は前開きの、丈の短い部屋着ガウンのようになっており、後ろ襟を引けば着崩れて、裸の背が露わになった。
 これも砂漠の装束だ。湾岸には寝間着というものがない。肌着で寝るか、それともいっそ裸で寝るかだ。奴隷や平民は言うに及ばず、貴族や王族であってもそうだった。それで何の不足があるかという事だが、リューズはそれを野蛮だと蔑み、わざわざ仕立てて自国の夜着を送りつけてきた。
 柔らかに練られた絹地でできていて、上は前開きの、砂漠の民が着ている肌着に近い形の服で、下には同じ布地でできたズボンを着ている。はめられたと思うが、着て寝ると心地よいので、余計なお世話だと言い切れない。
 交易しているのだから、異国の趣味や習俗が、入ってくるのはやむを得ない。向こうも時折、海洋趣味が流行るとか。だからこれはお相子だと思うが、用事にかこつけて、わざわざサウザスを訪れていた向こうの族長が、新たに拓いた海都サウザスを眺め、なんと野蛮な街よとしみじみ感嘆するのには、さすがに、ぴくりと来る。
 確かに湾岸は文化面で劣るようだ。リューズが言うように。夜はけだもののごとく裸で寝ているし、手づかみでものを食い、鍼治療師ジェドゥワのような治療師もいない。
 それではお前があまりに哀れと、そんな親切心で、我が友リューズ・スィノニムは、湾岸の王宮にアズミールを寄越し、寝間着を寄越したらしい。お節介なのだ。
 ヘンリックは笑うリューズのしたり顔を思い出し、深くため息をついた。アズミールが寄越されて、もう十年以上経つというのに、それについて通り一遍以上の礼状や返礼の品を送ったことがない。それではまずいのだろうが、わざわざ使者や鷹通信タヒルをやって、気に入ったと言うのも、独特の気恥ずかしさがあった。
 ほの温い指が、右肩のあたりを揉んでいた。強すぎず弱すぎず絶妙の力加減だ。いちいち申しつけずとも、アズミールはこちらのどこがどう痛むのか、もうよく知っていた。それに、言われなくとも、触れれば分かるものらしい。指先に職業柄独特の魔法でもあるのか、海辺の者の褐色の肩を揉む白子のような異民族の手は、撫でさするだけで、疲労の溜まったところをいつも探り当てた。
 痛いような気持ちいいようなだ。思わず嘆息しかけるのを堪え、難しい顔になると、それにも鍼治療師ジェドゥワは笑ったようだった。
 妙なものだ。人を喘がすのには慣れたものだが、喘がされるのには抵抗がある。しかし、まあ、アズミールも一種の、客を喘がす商売で、それゆえ身分が低いらしい。
 砂漠の連中は身持ちが堅いのか、人の素肌に触れる仕事を蔑視したがるきらいがあるとかで、鍼治療師ジェドゥワは元来、低い身分の者が就く職業らしい。貴族の鍼治療師ジェドゥワはありえない。そのくせ、貴族の医師はいるのだし、奴らが有り難がっている、竜の涙の英雄たちにも、治癒者とか呼ぶ魔術医がいる。イルスの治療のために何度か訪れていた若い英雄、エル・ジェレフも、そういう類のものらしい。
 あれは尊くて、鍼治療師ジェドゥワは卑しいというのが、どういう区別なのか、ヘンリックには分かるような分からないようなだ。アズミールを選ぶ時、リューズは謁見しなかったらしい。族長がわざわざ顔を合わせて、送辞を述べてやるような身分の者ではないからということらしい。
 アズミールはリューズの顔を知らないと言っていた。少々似ていると言うと、畏れ多いとへりくだって、その話を拒み、拝謁したことがないと言った。
 しかし本当に似ているのだ。血が繋がっているようだとか、目鼻立ちが同じというわけではない。リューズの目は金色で、アズミールは薄い茶色をしていたが、まなじり鋭く冷たいような、きつい感じが似ているし、他にも何とはなしに似た気配がする。どちらかというと地味な容貌で、金襴装飾付きのようなリューズの顔の、突き抜けた華やかさはないが、それでもヘンリックはアズミールと面と向かうと、いつも自分の同盟者のことを連想した。
 それはおそらく、系統的に同じということだろうと、鍼治療師ジェドゥワは遠慮がちに話していた。
 黒エルフの連中は、容貌にいくつかの系統があるらしい。それにいちいち名前がついている。リューズは王家の血筋を引いていて、その容姿も王家のそれを受け継いでいるが、そのアンフィバロウ家はもともと、枯れ谷アシュギルという系統に属しているとのことだ。
 そしてアズミールも同じその枯れ谷アシュギルなる系統に属する容姿であるらしい。だから似ているような気がするのだろうと、そういう話だった。
 政略によって血を混ぜることの多い貴人はともかく、平民以下では、同じ容姿の系統の相手としか婚姻しないものらしい。貴人でも、直系の血を残すためには、なるべく同じ系統の女を選ぶ。族長もただ名君であればいいというのではなく、皆が知る、最初の族長アンフィバロウに似た容姿をしていることが、暗に大事で有り難がられるものらしい。まずは血筋がものをいう。そういう世界のようだ。
 まるで名馬か名犬か、そんな血統主義に聞こえるが、それはさすがに言うべきではないかと思い、リューズはもちろんだが、アズミールにでも、言ってみたことはない。言えばたぶん動揺するか、内心むかっと来たりして、うっかり手元が狂ってしまい、痛いところに針を刺される。
 ちくりと最初の針を刺されて、ヘンリックは寝たまま微かに身構えた。それ自体は大した痛みではないが、その後に来る疼痛を思って、緊張したのだ。
 針は髪の毛のような細いもので、刺されることには、さしたる痛みはない。ぼけっとしていれば気がつかないようなものだ。しかしアズミールはその針を深く刺す。肌の下にある、神経の流れを捕らえるまで、そうっとゆっくり押し入れて、それに触れると針先を止め、小さく針を回す。
 それが強烈だ。痛いというのとも違う。むず痒いような。思わず呻きたいような。肩に力が入るが、どうぞお楽にと言われて、それもできない。歯を食いしばりたいのを堪えて枕の端か敷布でも掴んで耐えるしかないような、良く分からない感覚だ。
 しかしこれが慣れると、妙に気持ちいい。ここにしかない妖しい快感で、癖になる。その感覚そのものが好きというよりは、その後に楽になる右肩の軽さに、はまっているのだろうが、まさかこれも好きなのかという気がする時もある。
 人には言えない気恥ずかしさだ。
 リューズも不眠に悩み、虚弱の気もあるので、時折、鍼治療師ジェドゥワを使うらしい。だからこの感覚を知っているわけだ。そういうあいつに、気に入ったとは返事しにくい。にやっとされるのが目に見えている。喜び勇んで送られてくる返信で、なんと言われるかわかったものじゃない。
「耐え難く、痛むようでしたら、おっしゃってください」
 礼儀正しくアズミールはいつもの事を言った。
 どのあたりから耐え難いのか、分かるわけがない。毛ほどの針を刺されたぐらいで、族長ヘンリックともあろう者が、痛い痛いと呻くわけにもいくまい。こちらにも面子があるのだ。
 まして相手は剣をかけて渡り合えば、一刀で倒せそうなやわな異民族の若造で、にこにこリューズに似た顔で微笑んでいる。負けるものかと、つい思う。
 わざと選んだのではないか。リューズはアズミールの顔を見ていなくても、血筋の系統を訊くくらいはできただろう。それが自分と同じだということは、知った上で送ってきたのではないか。
 それぐらいの嫌みは効かせる。あいつはそういう底意地の悪い男だ。自分に似た顔をした鍼治療師ジェドゥワに、我が友ヘンリックが針を刺されてひいひい言っていると想像すると、たぶん笑いが止まらないのだろう。
 恐らくそんな目論見もあったのだろうが、十年もの間、梨のつぶてで、当てが外れたと思っていることだろう。
 非礼だが、黙っておいてよかったと、背骨のあたりに針を刺されながら、ヘンリックは思った。怖気立つような感じが背筋に添って走ったからだ。針で直に神経を刺激しているらしいが、よくも砂漠の連中は、そんなことを思いつくものだ。これが体に良い刺激で、針で突くだけで薬効のようなものがあるらしいが、それにしても、最初にやってみた奴は凄い。一体どういう気の迷いで、体を針で突いてみたのか。
「アズミール」
 汗が出そうな気がして、ヘンリックは鍼治療師ジェドゥワの手を止めさせ、目元を覆った。
「効きすぎましたか」
 ちらりと見ると、異民族の若造は素知らぬ顔で、次に使うつもりだったらしい、やけに長い針を、慣れた手つきで蝋燭の火に炙らせていた。
「お前たち砂漠の民は、一体いつからこんな妙なことをやっているんだ?」
 息継ぎしようと思って、ヘンリックは訊ねた。話している間は鍼治療師ジェドゥワも針を刺すまい。
はりのことですか?」
 それのどこが妙かと、意外そうな声で、アズミールは答えた。
「存じませんが、大昔からです。はりでの治療には、高価な薬も要りませんので、民間では医術よりも浸透しております。医師は値が張りますが、鍼治療師ジェドゥワはさほどでも」
 話しながらでも、鍼治療師ジェドゥワは容赦がなかった。ちゃんと寝ろという仕草で長椅子に戻され、しっかり針を刺された。ぐっさりと。
 さすがに呻いた。左肩なら心臓まで突き刺さるのではないかという深い針に思えた。それがねじねじ神経を弄るのだから、それでも平気だという奴がいるなら顔を見たい。
 しかし、痛いといえば痛いそれによって、右肩の奥に常に居座っている固い凝りのような痛みが、熱くほどけていくようなのが感じられ、心地よいような居たたまれ無さだ。
「祖先が始めたのは、おそらく奴隷時代ではないでしょうか。詳しい文献などはないようですが、文献がないということは、そういうことです。部族では、太祖の王朝以後であれば、なんにでも文献はあります」
 太祖というのは、リューズの祖父の祖父の祖父の、とにかく血筋の始めにいた族長アンフィバロウのことだ。黒エルフどもは何でも記録を書いて残す。膨大な書きつけがタンジールの王宮には残されているらしい。筆まめなのも血筋なのかもしれない。どうでもいいようなことでもリューズは鷹通信タヒルを送りつけてくるし、蛇眼の連中は口約束を嫌う。とにかく書面に、そして判子はんこだ。
 使者も商人も、こちらが書く返答の書に、印璽いんじを捺せとうるさくせがむので、もともと湾岸にそんなものはないというのに、うるさくなって、ヘンリックは判子を作らせた。書状に朱墨の跡がないと、わなわな震えそうだという奴には、これでよかろうと捺してやることにしている。
 湾岸では署名でいいのだ。たとえ口約束でも、証人を立てればそれでいい。約束を守らない奴は男ではない。それがこの地の文化なのだから。言質を与えるのに書き付けなどいらない。いちいちそんな、せこいことを言うあいつらは、やっぱり女の腐ったような連中なのだ。
 ぺらぺら饒舌だし、気位が高く、ご機嫌をそこねると癇癪を起こす。親玉からしてそうだ。リューズの癇質は、正妃セレスタの比ではない。あれでも男だ、泣き喚いて詰りはしないが、通商や軍事同盟の条件が気に食わんとか、うっかり何か口が滑って、部族の誇りを傷つけたとでも思われたら、これは侮辱かヘンリックと冷たい声で言われ、粘質な嫌がらせも辞さない。それでも会うとにこやかに、会いたかったぞ我が友よと握手なんぞ求めてくるのだから、いい面の皮だ。
 優しげな容姿に油断していると、あいつには時折、酷い目に遭わされる。この鍼治療師ジェドゥワの派遣からしてそうだ。治療と称して今も情け容赦なく人の神経をほじくり回しているが、たとえこちらが男でも、できる我慢とできない我慢はある。
「痛い」
 さすがに言うしかない段階に至り、ヘンリックは忌々しく呟いて教えた。
「もう終わりでございます」
 にこやかな作り笑いで答え、アズミールは恭しい会釈を返してきた。
「もうしばらくしましたら針を抜いてまいりますので、それまでお楽に」
 じっとしてろと説教されて、ヘンリックはしぶしぶ、起こしかけていた身をまた長椅子に戻した。ため息まで漏れた。
 アズミールは退室の支度か、拡げていた余分の針を刺した布きれを、物静かに畳んで片付けているようだった。
「族長。相変わらず、不眠にはお悩みですか」
「持病だ」
 苦々しく、ヘンリックは答えた。
「そちらの施術もいたしますか」
 まだまだ針を突き刺したいのか、アズミールはいかにも親切そうに訊いていた。
 よろしく頼むと、言うしかなかった。なんせ、ここからがこの男の第二の価値で、近頃そちらが本命だ。
 足からいくらしい。いきなり裸足の足を掴まれて、土踏まずを押す指のくすぐったさに、ヘンリックは渋面で耐えた。痛いというのも恥と思えるが、くすぐったいと言うのも、それはそれで、ふざけたようで嫌だった。どこぞの女の寝床でやるなら、そんな軟派もひとつの睦言だろうが、なんでまた、こんな異国の針刺し男に足を揉まれて笑わねばならんのか。
「気苦労が多くていらっしゃるのですね、族長閣下も」
「うるさい、黙ってやれ」
 まさか考えを読まれたわけではあるまいが、鍼治療師ジェドゥワは絶妙のことを言っていた。それに噛みつく自分も、年に似合わず餓鬼臭く、少々痛みが伴った。人を痛い目にあわせるのも、こいつの性分なのか。寡黙な割に、時折、余計なことを言う。
「少々、薬を使います」
 畏まって一礼してから、恐縮してはいないふうに、アズミールは言った。それは意向を訊いているわけではない。何も言わずにやると非礼だからという程度のことだろう。
 むかむかしながらヘンリックは針を待った。
 先程、肩に打っていたのよりは、ずいぶん小振りな銀の針を蝋燭の火にかざし、アズミールは薄い茶色の蛇眼で、その針先をじっと見ていた。
 そして、熱し終えた針を、小卓の上にある硝子ガラスの小瓶に浸すと、じゅっという小さな音がしたような気がした。
 滴る薬液を、清潔そうな綿布の小片で拭き取り、アズミールはおもむろに、その針をヘンリックの首の後ろの、耳よりいくらか下のあたりに、ついと刺した。
 ちくりとした。そして、少々の後、ことりと唐突な眠りがやってきた。

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