もえもえ図鑑

2008/11/16

族長と伊勢エビを食う(8)

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 かつて見慣れたイェズラムの部屋にいて、不意に、歩いてみようかと思った。どうも皆、立って歩くようだし、どうして自分だけ這い回っているのかと、疑問に感じたのだ。
 その時たぶん、自分は幼児だった。そうでないとおかしい。だってその時自分は、生まれて初めて立って歩いたらしいのだ。
 すっくと立ち上がり、二、三歩よろめくように歩くと、部屋にいたイェズラムが、それはそれは驚いたような顔をして、すっ転んだ自分を助け起こしにきた。
 その時のイェズラムは、まだ本人も元服前の子供だったせいか、それとも転んで泣いている幼い弟を慰めたかっただけか、手放しでリューズを褒めた。たかが二、三歩歩いただけで、リューズお前は本当に賢くて偉いと頭を撫でてもらい、それに大層味をしめたのだ。
 人に言っても信じないので、もう誰かに話そうという気にはならないが、普通は皆が忘れ去るという幼児の頃のことを、リューズは幾つか鮮明に記憶していた。
 もしかするとそれが、イェズラムがこれまでの人生で、もっとも手放しで自分を褒めた数少ない機会だったのではないかと思う。
 あいつはケチなのだ。他の者は気軽に褒めるのに、俺のことは滅多に褒めない。褒めても条件付きだったり、一癖あったり、そんなのばかりだ。
 それに毎度、こんなはずではなかったがと、昔の姿と引き比べてみて、いつぞやはただ歩くだけで褒められて、楽だったと懐かしく思う。それが難敵を見事に撃破してみせても、渋い顔をして、まだまだ緒戦だと言うばかりになるとは。
 それが急に面白くなって、リューズは、ふふふと笑い声をもらした。
 ふと見ると、若輩の英雄が、大の字になって畳で寝ていた。それでもしっかり、皿の肉は平らげてあり、酒も律儀に飲み尽くされていた。出されたものを全部食うのは、単にこいつが意地汚いからか、それともイェズラムの厳格な躾の賜か。どちらでもいいが、あの渋面に、褒められて育ったとは、羨ましく腹の立つような小僧だ。
「お前が、俺の弟分(ジョット)だって? それはないだろ」
 寝てるのかどうか、ぐうぐう軽いいびきをかいているエル・ギリスの頬を指で強く突っついてみながら、リューズは独りごちる口調で訊ねた。
「あいにくだが、それはないなあ、エル・ギリス。俺はお前が、嫌いなんだよ。ジェレフも何となく、虫が好かなくてなあ……」
 いい奴だったのにと、済まなく思って、リューズは今回は気配もしなかった、年下の英雄のことを思った。
 つまり俺は、自分がなれなかった魔法戦士で、自分が席を譲ってやらねばならない、より幼い者がやってくるのが、癪に障ったのだろう。とにかくなんでも、自分が一番でないと、ムカムカしたんだ。
 まあ言うなれば、餓鬼っぽいんだよ。
 そういう奴が部族の家長とか、父上とか、もしくは薄ら馬鹿の兄貴分(デン)でもよいが、そんなご立派な立場に立って、本当に大丈夫なのかねえ。
 俺は正直、自信がないよ。
 禁煙して、はや十数年、名君のような面(つら)をして、戦乱も乗り越えたし、停戦も乗り越えた。そうして久々に夢薬の優しい煙を味わったところ、未だに昔と同じ夢を見るんだからさ。これはけっこう重症なんだぞ。
 しかしバレないだろう、誰にも。バレなきゃいいのだ、結局のところ。
 まだ燃え残る煙管の灰を、惜しげもなく盆に打ち落として、リューズはにやりとした。
 そして床に投げ捨てられていた、『ただの盗賊』と書かれた服を、片手で拝んでおいた。
「恩に着るよ、煙屋の。大恩の報いは、またいずれ」
 そして、そそくさと部屋を辞そうとした。氷の蛇がうたた寝する間に、とっとと逃げるが勝ちだと思った。
 しかし戸口から出ようと思った矢先、給仕の者が盆を持って入ってくるのとぶつかりかけて、その女はきゃあと驚いたような声をたてた。
 それでエル・ギリスが起きるのではないかと思い、リューズはしーっと、指を口元にあてて、静かにするよう頼んだ。それに女は照れ臭そうに微笑して、盆の上のものを見せた。
 アイスクリームだった。口直しのデザートってところだろう。
 食っときゃよかったと、リューズは後悔した。氷菓が好物だったからだ。
 そしてその冷たい甘さを舌の上に思い描いたとき、はっと記憶に蘇ってきた事実があった。それに気付いて、リューズは自分にお仕着せの、『罠』と書かれた文字の筆跡を見た。
「思い出した。氷菓のおっさんの字だ」
 確か、エル・トリギムだ。イェズラムの兄貴分(デン)で、格好いいおっさんだった。将棋は弱かったが。負けたら氷菓を食わせてくれたので、あれは実は、わざと負けていたのかも。それでも項垂れてアイスを食っていたから、案外本気で、幼髪の餓鬼に負けていたのか。
 今ではとっくに、死せる英雄となったあの人だが、懐かしい限りだ。なんで京都でTシャツ作ってんのか。それは極めて謎だが。戦争で死ぬよりはずっと、いい商売だなと、リューズは亡き英霊のために安堵した。
 そして給仕の盆の上から、銀の匙をとり、未練を残した氷菓をひと匙、すくい取って口に入れた。冷たくて甘かった。美味いなあと、リューズはその味に嬉しくなった。
 せっかくの持てなしを、オチまで居着かず申し訳ないと給仕に詫びて、出て行こうとしたが、支払いを息子の射手に押しつけるというのも妙だと気付き、リューズは右手に填めていた金と紅玉(ルビー)の指輪を外し、給仕の女に与えた。
 これが『時価』より高いのか、さっぱり見当もつかないが、まあエビの二匹くらいは購えるだろう。族長が身につけるような品だからと、気楽に考え、ついでに結構美女だった給仕の頬に口付けもして、怒られぬうちに、とっとと退散した。
 どこから出るのかと彷徨い、エレベーターを見つけて乗ると、ずっと身につけていたらしい電話が鳴った。気がつかなかった。もし気がついていたら、これで救援を呼べたのに、ケースに入れて、ベルトから背後に吊されていたので、見えてなかった。エレベーター内の壁は窓があり、その外は夜だった。夜景が鏡のようになり、それに映った自分の後ろ姿を見て、鳴っている電話を取りながら、リューズは服の背になにか書いてあるのに気付いた。
 電話に出ると、それはイェズラムからだった。聞き慣れた声が、かすかなノイズとともに、電話から呼びかけてきた。
「帰るのか」
 そう問う声に思わず苦笑になりながら、リューズは背にかかっている邪魔な自分の髪を払いのけて、鏡の中の文字を見た。反転しているが、それは単純な字だったので、すぐに読めた。
「帰るのかじゃないぞ。とんでもない目にあった。そんな時に、なんでお前はいなかったんだ」
 文句を言うと、電話の向こうの相手は、にこりともしていないような声で答えた。
「そう毎度いるわけがない。用事があったんだ。生前の礼を述べに、長(デン)のところに行っていた。それから戻ってきたが、お前はもう帰るんだろ」
「長(デン)て、アイスのおっさんか」
 リューズが訊ねると、叱るような含みのある声で、イェズラムは、エル・トリギムだと訂正した。そうそう、そのエル・トリギムだ。鏡の中で反転している、この文字を書いたのも、あのおっさんだ。イェズラムに毎年、『無愛想』と大書した、達筆の文字を与えていたのも、あのおっさんだ。
 そして今、いつの間にか無理矢理着せられている服の背に『お兄ちゃん子』と書いてある文字も、間違いなく、あのアイスのおっさんの字だ。
「なんで俺が帰るって、分かるんだ。死霊だからか」
 帰る頃合いを見計らって、挨拶ぐらいはと電話してきたのかと、リューズは僻んで訊ねた。それには微かに、笑う声が返ってきた。
「いいや。エレベーターに乗ってるお前が、見えたからだ」
 そう言われて、リューズはエレベーターの窓から、外を見た。見知らぬ街の、夜の雑踏が見えた。兄がどこにいるのかは、人混みに紛れていて、さっぱり分からなかった。
 ちん、と音がして、エレベーターが地上階に着いたらしかった。がこんと大仰な音がして、扉が左右に開くと、そこから歩み出る薄暗いエレベーターホールに、見慣れた、しかし見慣れぬ様子の人影が立っていた。
 イェズラムだが、やはりさすがの兄貴も、右脳の支配からは逃れられないのか、黒地のTシャツにジーンズだった。リューズはその姿を、思い切り笑ってやろうと思って歩みよったが、案外似合っていた。
 それで思わず渋面になり、リューズは平気なようでいるイェズラムの顔を見上げた。
「こんなもんまで着こなすな。むかつくよ」
 イェズラムの胸に大書してある、『無愛想』という文字を指さして、リューズはなじった。それにイェズラムは苦笑の顔になった。
「しょうがないだろ、着なくちゃいけないらしいんだから」
「ちょっと後ろを見せろ」
 背中にも何か書いてあるんではないかと思い、リューズは背後に回ろうとした。それに本能的な危機感を覚えるのか、イェズラムは警戒した顔で、くるりと逃げて、背を見せようとしない。
「なんのつもりだ」
「いや、別に何も悪さしないよ。背中にも何か書いてあるんだよ」
 そう教えられ、逃げるのを止めたところを見ると、イェズラムも背に何が書いてあるのか、知らないらしかった。知っていたら、もしかすると、見るなと言って逃げ続けたかもしれない。
 そこにはアイスのおっさんの筆跡で、『弟思い』と書いてあった。
 それがあまりに気味が良く、リューズは思わずほくそ笑んだ。
「なんと書いてあった?」
「さあなあ、さっぱり分からん。俺の読めない字だった」
 リューズは意地悪く笑って、とぼけておいた。イェズラムは真に受けたわけではないだろうが、むっと渋面になった。
「お前には未だに読めない字があるのか」
「うんうん。お前にとって、読めないほうがいい字があるな。それはそうと、まさかもう帰るんじゃないだろ。俺は腹が減ってるんだ。どこかで飯でも食おうよ」
「たった今、食ってきたところなんだろ」
 びっくりした口調で、イェズラムが訊ねてきた。
 でも本当に腹が減っている。思えば、ちょっとしか箸をつけてない。アイスも一口しか食えてない。このままだと腹が減って、夜も眠れなくなりそうだ。
「お前の養い子(ジョット)に呑まれて、びびって飯も食えなかった」
 正直にそう教えると、イェズラムは、まったくお前はしょうがないというような、嫌気のさした顔をした。こちらの妙な気の弱さには、もう慣れたものなのだろう。
「食事はいいが、その前に服を買う」
「どうして」
 真面目腐って言うイェズラムに、リューズは首を傾げた。
「この格好で街を歩きたくないんだ。俺の格好もずいぶんだが、お前のも最悪だ。とにかく半袖はまずい」
 嘆かわしいというふうに首を振って言い、イェズラムは有無を言わせぬ様子だった。やっぱりそうだよなあと、リューズは納得した。それにもう京都の街は、半袖でうろつくような気温でもない。すでにもう、クリスマスの電飾が始まっていた。
「確かに、めちゃくちゃ寒い」
 同意して、リューズは買い物に付き合う意向を示した。
 この界隈で、どんな衣装が名君向きか、さっぱり見当もつかないが、イェズラムが適当なのを選ぶだろう。こいつはそういうの、得意だから。
 それじゃあ行こうかと歩き出したイェズラムを追って、リューズは寒風の吹きぬける雑踏に踏み込んだ。道を知っているふうな兄に、どこへ行くのかと訊ねると、イェズラムは人目を恥じるような渋面で、一番近くてアルマーニと言った。この際、近ければ何でもいいと。この格好で人前を歩くなんて地獄そのものだ。
 そうだろうかなあと、リューズは答えた。寒くて腹は減っているが、まあとにかく気楽なことは確かだし、それに、店で買った服に着替えたあと、元着ていた服の背に書いてある『弟思い』という文字を見て、イェズラムがなんとコメントするか、想像するだに笑いが止まらない。
 アイスのおっさんにも、世話になったと、リューズは内心で英霊を拝んだ。
 世の中なにがどうなるか、分かったものではないが、とにかく人の愛に支えられて、ここまで来た。今後もそのようであるように、自分の死後も、そのような治世が続くようにと、リューズは祈った。可愛い息子のため、あるいは、愛する砂漠の民の、幸福な未来のために。
 見知らぬ街にいて、それを聞いてくれる神か天使がいたか、定かではないが。きっと何かはいるのだろう。この街の電飾はどうも、美しいようだから。
 微笑んでそう思いつつ、リューズは足早な兄を追って、夜の街に消えた。聖なる夜を讃える歌と、にぎやかな鈴の音が、楽しげに鳴り響く夜だった。

《おしまい》
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族長と伊勢エビを食う(7)

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「俺はな、世話するより、世話されるタイプなんだよ。兄貴(デン)って柄じゃないんだ。そんなの、見ればわかるだろ」
 まだ服の裾を握ったまま、エル・ギリスは嫌だというふうに首を横に振った。
「じゃあ、イェズラム亡き後の俺の面倒は誰が見るんでしょうか」
「そんなの知らないよ。大体、お前は何歳だ。もう兄貴(デン)に世話してもらう歳じゃないだろ。派閥の長(デン)に従えばいいよ。それか、身近な年長者に取り憑くかさ……」
「だからそれが族長かなと思って」
「俺のどこが身近な年長者なんだよ!!」
 心底意外で、リューズは思わず叫んでいた。畏れ多いとは言われ慣れてるが、身近だと言われたことはない。まあでも叫んでみてから考えると、こいつは乳兄弟の息子みたいなもんで、しかも次代の射手なんだから、けっこうご縁が深いというか、少なくとも赤の他人ではない。最悪でも廷臣の一人なのだし、長老会の重鎮たちも含め、誰一人こいつの面倒を見てくれる兄貴分(デン)がいないというなら、そのさらに上の、いちばん上にいるのは、確かに族長である自分と言えなくもなかった。総責任者なんだから、最悪の場合、そういうことになる。
「誰かいなかったのか、イェズラムの死後、お前の世話をしてやろうってやつが」
「いませんでした……」
 がっくりと畳に手をついて、エル・ギリスは落胆していた。それでも『真ん中』は諦めてくれたようだった。
「いそうで、いないんです。ジェレフいいかもと『パスハの南』の時は思ったんですけど、帰郷したら一瞬で逃げられましたし。サフナールはいいやつなのに敵だし、ラダックは案外ひ弱すぎです。俺より優位に立てるやつなんて、族長ぐらいしかいないんじゃないかと」
「俺、今、ものすごく劣位に立ってるような気がするんだが」
 皺くちゃになったTシャツで、なんとなく傾いて座しているリューズを、エル・ギリスは改めて眺めようという視線で、じっと上から下まで眺めた。そして、くっ、と呻いて顔をしかめた。
「ほんとだ」
 ぽつりと、エル・ギリスは認めた。そして、またがっくりと項垂れた。
「どう見ても、世話してもらうっていうより、世話してやるタイプだ」
「しょうがないんだ、そういう血筋だから。そもそも太祖からして弟(ジョット)なんだ」
 リューズは諭した。それにエル・ギリスは、つらそうに頷いた。
「そういえばそうだ……」
「お前も射手(ディノトリス)なんだからさ、宿命的に兄タイプなんだよ。たとえそれが本性と幾分違っててもさ、もうどうしようもないよ。まあでも、幸いというか、なんというか、スィグルとはいいコンビなんじゃないか。あの子はああ見えて、双子の兄のほうだから」
 その話を聞いて、エル・ギリスははっとしたように顔を上げ、リューズと目を合わせた。
「そういえばそうだ。あいつは普段、ふにゃふにゃで、ぐずぐず我が儘なくせに、時々、変に頼りがいがあります」
「そうだろ……」
 父として、すぐに同意していいか悩んだが、リューズは一応頷いておいた。これも話の流れだ、仕方ない。許してくれ、スィグル・レイラス。
「幼い頃はな、あれの弟が気弱で、なにかといえば兄上兄上だったらしくてな、スィグルは自分も甘ったれなくせに、けっこう弟に遠慮していたんだよ。後宮の部屋にいくとな、父上抱っこしてーって二人同時に突撃してきても、喧嘩めいたことはするにはするが、結局いつもスィグルが譲るんだよ。そういう子なんだ」
「抱っこしてたんですか」
 わなわなしながら、エル・ギリスが訊いてきた。
「してたよ」
「想像つかないんですけど」
「しなくていいよ、想像なんか。要点はそこじゃない。だからな、スィグルはあれでけっこう、兄貴分(デン)なのだから、お前とはいい組み合わせかもしれないという話だよ」
「……ああ、そうかも」
 やっと納得したのか、エル・ギリスはどことも知れないところに視線をそらせたまま、ぼんやりと同意をした。
「だから安心して今すぐグラナダに帰れ」
 小部屋の出口を指さして、リューズは命じた。しかしエル・ギリスは、ぼんやりと首を振って拒否した。
「まだ肉を食っていません」
 そうだったなと、リューズはなんとなく泣き言めいて答え、エル・ギリスが見ているほうを見つめた。すでに焼き上がった肉が、皿に盛られており、料理人が、いつ声をかけていいやらという表情で、じっと立って待っていた。
 こちらが気付いたことに気付くと、料理人はこれで給仕が済んだことを告げ、深々と一礼して出ていった。
 それでまた、部屋にはまた、この薄ら馬鹿とふたりきりに。
「分かった。では、もの凄い勢いで食ってから、安心してグラナダに帰れ」
 命令を訂正すると、エル・ギリスは今度は、素直にこくりと頷いた。
 席に戻って食べ始めた若造を、リューズはやれやれと思って、こころもち離れて眺めた。とんでもない奴が来たものだ。もう飲むなと思うのに、エル・ギリスは気にせず酒を食らっていた。酔ってから潰れるまでが長いのか、すでに泥酔しているようなのに、本人は全く平気なようだった。
「この肉、すごく美味いです。族長」
 しみじみと感想を述べてくるエル・ギリスに、リューズはそうかと答えた。そして、もう何ともどうしようもなく喫煙したい気持ちになって、それを堪えがたく、諦めて二服目の夢薬に手を出した。いっぺん禁を破ると、もうだめみたいな性格だった。
 エル・ギリスはもぐもぐと肉を食らいながら、煙管に葉を詰めているこちらを、じいっと横目に見ていた。正直言って、かなり居心地が悪かったが、リューズは気にしていないふりをして、葉を詰めた煙管に火口から火を入れた。そして最初の一息を吹かす姿を、エル・ギリスはさらに食い入るような視線で眺め、ごくりと傍目にも分かるような仕草で、噛んでいたものを溜飲した。ちゃんと噛んだのか、それ。
「族長って、イェズラムにそっくりじゃん。その、煙の吸い方が」
「うるさいうるさい。黙って肉を食らって去ってくれ」
「なんで真似したの」
「してない。偶然似たんだ。俺はけっこう無意識に人の仕草をコピーしちゃうんだよ」
「なんでそんなことするんですか」
「知るか。癖なんだよ」
 適当にそう答えたものの、エル・ギリスはまだ話に続きあると思っているような待つ顔をして、箸を止めていた。それに苛々してきて、リューズは二、三度煙を吹かしたが、相手が諦めないので、結局自分が折れた。
「俺はたぶん、自分に自信がないんだよ。他人のほうが偉く見えるんだ。特にお前の養父(デン)みたいな、自信満々なタイプだとな」
 イェズラムは常に、完璧なように見えた。それでも実際にはあいつにも、十二歳の頃もあれば、二十歳の頃もあったわけで、常に完璧だったはずはない。それでも幼かった自分の目から見て、イェズラムはいつでも、はるかに年長で、何事もそつなくこなす、部族の英雄だったのだ。頭も良かったし、見かけも悪くなく、上背もあれば、女にも密かにもてた。どちらかというと軟弱だった弟の目から見て、硬派な兄は格好が良かったのだ。
 もしも自分も魔法戦士であれば、そういう憧憬は普通のことだった。年少者たちには皆、目標として憧れるような年長の英雄がいて、それと直に友誼があるにしろ、ないにしろ、そこを自分の到達点として見習い、日々精進するものだ。しかし、成長する過程でふと気付くと、自分の頭に石はなく、リューズは魔法戦士ではなかった。ただの王族だったのだ。
 その見ればわかる当たり前の事実に気がついたのは、実はけっこう時を経てからだったかもしれない。幼い頃には、考えたことがなかったのだ。もしかして自分とイェズラムは、住む世界が違うのではないかと。たまたま同じ乳母の乳を飲んだが、ただそれだけで、何の義理も、深い縁もない間柄ではないかと、気がつかなかった。
 気がつくと怖かったので、気付かぬようにしていたのかもしれない。ちょうどこの若造が困っているように、イェズラムがいなくなったら、一体誰が俺の世話をするのかと心配で。
 しかし最後の最後まで、それに気付かぬふりをしておいたら、イェズラムは馬鹿正直に、俺に付き合ってくれた。兄貴(デン)のような顔をして、弟の面倒を見た。
 人の縁とは謎めいたもので、今でも改めて時折不思議だ。墓所の暗がりにイェズラムの石を見に行って、それが確かにそこにあり、静かに死んでいるのを目の当たりにすると、これはいったい何者だったのだろうと思う。乳兄弟の兄(デン)であり、射手(ディノトリス)であり、戦場では忠臣であり英雄である炎の蛇で、最後には宮廷の支配を争う好敵手のようだった。それでもいざとなれば惜しまず挺身し、誰よりも頼りがいがあったが、そういう相手を世間ではなんと呼ぶのか。
 親のようでもあり、兄のようでもあった。大恩ある相手だと思うが、いつでも平伏し、叩頭してきた。そのくせ命令には滅多に従わなかった。
 あいつは果たして、何者だったのか。
 仮にそう問う者がいても、イェズラムは、イェズラムだとしか、答えようがない。
 あのような男になるべしとして、目指した時期もあっただろうが、所詮はあまりに性分が違った。まるきり正反対と言ってもいいほど似ておらず、猿真似するにもたかが知れている。
 だから、あいつは大英雄として死に、俺は名君として死ぬというので、なんとか並び立てるのではないかというのが、今のところの結論ではあるが。しかしもう、俺が真に名君かどうか、判定できる者はいなくなった。常に、お前はまだまだだと言っていた兄が、もう死んだのだから。
「族長は、皆が認める名君なのに、なんで自信がないんですか」
 また酒杯を飲み干した、ふはあという息とともに、エル・ギリスが訊いてきた。リューズも食卓に煙管を持った手の肘をついて、ふはあと煙を吐いた。
「さあなあ。褒めてくれないからだよ。イェズラムが。あいつは厳しくてな、俺がどんなに上手くやってても、まだまだだと言うんだ。それしか言わないんだ。それがな、むかつくんだ」
「変だなあ。イェズラムは俺のことは、いっぱい褒めてくれましたけど」
 嫌みでなく、本当に不思議らしい口調で、酔眼のエル・ギリスはとろんと話していた。それにリューズはむっとして、またため息をついた。
「なぜお前のような薄ら馬鹿を褒めて、俺のことはシバキ回していたんだ、あいつは。どんだけ努力させりゃあ満足なんだ。切り果てがないよ」
「変だなあ。名君だと思うんですけど」
 ぼやくリューズに、エル・ギリスは首を傾げていた。
「褒めてたでしょう。イェズラムは褒め癖があるから、誰でも褒めてましたよ」
「そりゃあまあ、お世辞みたいなことは言ってたさ」
 もくもくと煙を吹かして、リューズは不愉快に答えた。なかなか頑張っているとかさ。なかなか部分が余計なんだよ。含みがあるんだ。もうちょっと頑張れなかったのかみたいな印象を受けるんだ。優でも完璧ではない、みたいなさ。完璧でなくても仕方がないんだよ、元々そんな器じゃないような奴が、無理して名君やってるんだから。ボロが出てないだけでも、大満足してもらいたいところなんだよ。
 それに今さらむかついても、虚しいだけだと悔やみ、深く煙を吸い込むと、不意に熱いような回想が始まった。夢薬の仕業と思えたが、すでに一度は耽溺を乗り越えた昔の酩酊だ。だから今さら何でもない。
 そう意地を張って、リューズは白日夢のような、麻薬(アスラ)のもたらす回想を、自分の脳裏に見るともなく眺めた。

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族長と伊勢エビを食う(6)

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 調理台では、料理人がすでに肉を焼く支度をはじめていた。黄金の油の中で、薄く切った大蒜(にんにく)を丁寧に炒める香りが、ぷうんと美味そうに漂ってきていた。
「ああ、なんだかボケッとしてたよ」
 煙に悪酔いしたのかなと苦笑して言い、リューズは自分も好物に箸をつけた。伊勢エビは美味だった。しかし昔、湾岸で食ったやつのほうが美味い気がする。あれを越える美味は、おそらく死ぬまで口にすることはないだろう。若い体の飢えがないと、味わえないものはある。
「お前、食い足りないのだろう。もっと焼かせるか」
 リューズが訊ねると、エル・ギリスはうっとりと恍惚の顔をした。
「いいんですか」
「いいけど、お前、普段餌をもらってない犬みたいだな。スィグルに言っておけ、臣をちゃんと食わせるように。それも上に立つ者の勤めだからな」
「力一杯伝えます」
 即答で請け合って、エル・ギリスは嬉しそうに酒をぐびぐび飲んだ。その横顔がはちきれそうに嬉しげなのを見て、リューズはふと、嫌な予感がした。まさかこいつ、上に立つ者というのが族長のことだと思ってないよな。領主って意味なのだぞ。指名したのではないからな。分かっているのだろうな。
 しかしそれを敢えて言うのも怪しく思えた。エル・ギリスは食い物が増えることを喜んでいるだけかもしれない。人柄をよく知らず、傍目に見るだけでは、判断がつかなかった。
 それに、がつんと乱暴に酒杯を置いた若造が、明らかに酔ったような嘆息をするのを聞いて、そちらに気をとられたのだ。
「今夜は無礼講ですよね、族長。いつも玉座の間(ダロワージ)の晩餐では、基本が無礼講なんですもんね」
 鉄板に乗せられ、じゅうじゅう焼けていく肉を凝視して、エル・ギリスは話していた。生でもいいから食らいつきたいみたいな、飢えた目つきだった。
 ずいぶん荒っぽい射手だと、リューズは思った。どうしてこんな強引なのを、イェズラムは選んだのだろう。自分にはなかった思い切りを、後継者に求めたのだろうか。
「それを決めるのは俺であって、お前ではないだろう」
 リューズが静かに諌めると、エル・ギリスは焼ける肉を見つめたまま、ゆっくり頷いた。
「でも俺はずっと、玉座の間(ダロワージ)の晩餐の頃、高座にいる族長を見て、言いたいことがあったんです。族長は廷臣の話はなんでも、聞いてくれるんですよね」
 何の話をするつもりかと、芯のところで警戒しつつ、リューズは頷いてやった。時にはこんな酔眼で、とんでもない話をしに来る者もいる。それを笑って受け流すのも、玉座の勤めだが、まさかこんなところでまで仕事すんのか俺は。勘弁してくれと嫌気がさしたが、それでももう、逃げ場もなかった。
「どうしてイェズラムを、止めてくれなかったんですか」
 空になった酒杯を、若造はこちらを見もせず、片手でぐいっと突きつけてきた。どうもそれは、酌をしてくれということらしかった。一瞬、なんという不遜と思えたが、リューズはそれには何も言わず、黒漆の酒器から酒を注いでやった。
「止めるとは、何のことでだ」
「最後に出て行く時にです」
「止めたよ。でも俺の言うことなんか聞くような奴ではなかったのさ」
「行けばイェズラムが死ぬとは、思ってなかったんですか」
 悔しそうに酒杯を睨み、エル・ギリスは訊ねていた。
「そんなような予感はしたが、仕方ないだろ。あいつの選んだ死に場所だ。王宮で衰弱死するより、戦って死にたいというのだから、それは英雄としてもっともな考えだ。そのお陰で死後もあいつは、大英雄だろう」
 いちいち頷いて、エル・ギリスは聞いていたが、酒杯を見下ろす視線は、どことなく哀れっぽかった。主にうち捨てられた犬みたいに。
「でも俺は、生きてて欲しかったんです。別に大英雄じゃなくてもいいんで、普通の英雄として、一日でも長く生きててほしかったんです」
 切々とそう言う若造が哀れに思えて、リューズは同意するというより、慰めるつもりで小さく頷いてやった。それは誰しも本音であろう。しかしお前はそれでいいかもしれないが、こっちはそうもいかない。なにしろ大英雄になれと頼んだのは、子供のころの自分自身で、イェズラムはそれを律儀に守っただけなのだ。今さら、やっぱり無しの方向でというのも、格好がつかない。
 それに後からいろいろ考えてみても、炎の蛇の散り際として、王宮で人知れず衰えて死ぬというより、内外に聞こえるような奇抜な英雄譚(ダージ)を残して、ど派手に死ぬほうが、格好がいいというか。それに尽きる。あの兄は、要所要所で惚れ惚れするほど、格好が良かった。それを最期のときまで、一徹に貫いたというだけのことだろう。
「まあ、仕方がないよ、エル・ギリス。あいつにも男としての誇りがあるからな。幼少のころから他人の世話ばかりしてきたような奴なのだ。死ぬ時くらいは、本人の我が儘を通させてやらないと」
「我が儘ではないです」
 がおっと吼えるように反論して、エル・ギリスはこちらを睨んだ。
「イェズラムは、族長のために死んだんです。だってそうだろ、スィグルを助けようと思ってイェズラムは出て行ったんです。それはそれで仕方なかった。スィグルは新星なんだし、その必要があれば命を賭して守らないといけないです。だけどイェズラムは、スィグルが族長の息子だから助けたんだと思います。俺はそれが、とにかく悔しい」
 胡座した膝の上で、拳を握って、エル・ギリスは蕩々と言った。言葉のとおり、悔しいという顔だった。素直な子なのだなあと、リューズは感心した。腹の中はどうなっているかと、読む気も起きない。
「そうか。じゃあ何故それを、すぐに言いに来なかった」
「だって……言えなかったんだもん。ていうか、たぶん言いました。玉座の間(ダロワージ)に絵を飾ったりして」
「回りくどいんだよ、お前みたいな薄ら馬鹿が、なぜそんな回りくどいことをするんだ」
「だって……」
 エル・ギリスは言い訳めいたつぶやきのあと、しばらく押し黙っていた。リューズは根気強く、話の続きを待った。
「だって、言わなくても気付いててほしかったんです。それで、感謝してほしかったんです、イェズラムに」
「感謝してるよ」
 宥める口調でリューズが言うと、エル・ギリスはぐっと詰まったような複雑な顔をした。
「そんなあっさり言うな」
 酔ったような木訥さで、エル・ギリスは無遠慮な不満の声で言った。リューズはそれに参った。お前はいくらなんでも、無礼ではないのか。知った者が誰も聞いてないから、別にいいけど。
「あっさり言っても、どっしり言っても同じだよ。何が不満なんだ。絵も許したし、祝日まで作ってやったんだぞ。その上、俺に何をしろと言うんだ。こっちにも立場があるんだよ。それにお前のパパじゃねえんだからさ」
 思わずそうぼやくと、エル・ギリスはさらに、くっと、呻くような声を漏らした。
「族長は、俺の兄(デン)じゃん。だって、同じイェズラムの弟分(ジョット)で、俺よか歳は上なんだもん」
 本気で言ってるらしかった。悔やむようでいるエル・ギリスを、リューズは心底驚いて見つめた。
「えっ。なんだそりゃ。そんな義兄弟システムに俺も該当してんのか」
「該当してないんですか! してるはずだと思いますけど。なんなら、この『真ん中』Tシャツに着替えていただいてもいいです。ルサールは裸でも生きていけるやつですから! お土産無しでも文句無しです」
 床にあった三つ子セットの中から、『真ん中』と書いてある一着を掴んで、エル・ギリスはぐいぐいとそれを押しつけてきた。どう見ても酔っているような顔だった。
 そんなに飲んだっけと、リューズは蒼白になって思い返そうとした。がぶがぶ飲んではいたが、イェズラムのコピーだから平気なんだと勝手に思っていた。あいつは蟒蛇(うわばみ)だったし、酔ってても顔色がほとんど変わらなかった。そのコピーがまさか酒乱だなんて、そんなことがあっていいのか。
 しかし明らかにそうだった。エル・ギリスは、着替えましょう族長と言って、リューズが着ている『罠』Tの裾をつかみ、ぐいぐい引っ張っていた。冗談でもそんなことをするやつは、いまだかつていない。少なくとも即位してからは絶対にいなかった。いや、なんというか、サフナールには時々脱がされてるけど、それはほら、お医者さんだからさ。
 何となく呆然として、リューズはエル・ギリスの手を押し返しつつ言った。
「いや、ちょっと待て。俺はまだ本編時空では脱いだことないから。一回もないんだぞ。だからそんな、なし崩しにお着替えシーンとか止めてくれ。本当にもう、俺も三十路なんだからさ、恥ずかしいったらないよ」
「大丈夫です、まだまだ行けます。エステ通いの成果でしょうか! それとも、毎日美味いもん食ってるせいでしょうか! 実年齢を言わなきゃばれません!」
 酔眼で断言し、エル・ギリスは諦めなかった。なぜそこまでして『真ん中』を着なきゃならんのか。『罠』でいい、『罠』でいいです。
「そういう問題じゃないんだよ……」
 あまりの馬鹿馬鹿しさに頭がくらっとしてきて、リューズは虚脱して言った。

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族長と伊勢エビを食う(5)

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「大丈夫か、そんなやつが金庫番をやってて」
「大丈夫です。やつは敏腕ですから。でも、もしラダックが謁見に来るような機会があったら、禁令の折には大儀であったと褒めてやってください」
 にっこりと笑い、エル・ギリスは強請った。それに、まだ苦笑の残る顔で笑い返し、リューズは浅く頷いた。なんだか良く分からんが、そうしてやるかと思った。
 こいつも馬鹿のようでいて、面倒見が良いらしい。あいつにこう言え、こいつにこうしてやれと、謎めいた指図をしてくるところも、さすがは代々の射手というべきか、イェズラムの芸風とそっくりだ。あいつもジェレフを高座に呼んで褒めてやれとか、そんなことばっかり言ってた。
 エル・ギリスはそんなリューズの回想をよそに、脇にあった黒い紙袋から、がさごそと何を取りだしてきた。これですと言って拡げて見せたのは、自分たちが着せられているような黒地のTシャツで、その胸にも達筆の文字が白抜きされていた。
「銭が好きで何が悪いねん」
 そこに書かれた文字を、エル・ギリスは嬉しげに読んだ。リューズはそれに、意味なく頷いた。確かにそう書いてあると思って。しかしこれを着せられる奴が、微妙に気の毒だった。
「これね、ラダックにお土産です。全員分あるから。わざわざ作ってもらったんですよ」
 それはそれは、俺の分までわざわざ作らせやがって、ありがとうございます。そういう目で見てやったが、若造は全く気付かぬようだった。
「これはシャムシールの。絵師です」
 そう言ってエル・ギリスが見せた服には、『絵が命』と書いてあった。
「それからこれは三つ子にやるやつです。魔法戦士です」
 畳敷きの床に、エル・ギリスは黒いTシャツをどんどん遠慮なく拡げてみせた。
 三着おそろいらしい黒地の半袖には、墨跡も鮮やかなような達筆で、『兄』『真ん中』『弟』と書いてあった。俺の服が『弟』じゃなくて良かったと、リューズは思った。それを着せられたら、さすがに情けない。
「これ、奮発してバックプリントもしましたよ」
 『真ん中』と書かれたのをエル・ギリスが裏返すと、背中には『悪党』と染めぬかれてあった。リューズには、ぜんぜん意味が分からなかった。分からないなりに、なぜかこれも、着る者が気の毒のような気がした。
「それからこれはイマームとケシュク先生の。グラナダの天才武器職人の親子なんです」
 また天才かよと、リューズは苦笑した。エル・ギリスが拡げたTシャツの片方は、まだ小さい子供が着るようなサイズで、それが大人用のと並ぶのに、なにか胸苦しいような微笑ましさがあった。俺の息子たちも、ちょっと前までは、これくらいの服が入る大きさだったんだけどなあと、リューズはお揃いの服を羨ましく見つめた。
 しかしその胸には、『職人』と大書されていた。そして子供用のほうには『発明王』と。俺は職人じゃないからなあ、これは着られないんだよな。それに息子たちも発明王じゃないしなあ。
「あと一応、ファサル様にも。ひとりだけ仲間はずれにすると、怒られるんで」
 渋々という風にエル・ギリスはまた別の黒服を取りだしてきた。その胸には『ただの盗賊』と書いてあった。
 それを笑って眺め、それでは、手紙爆弾を食らったファサル様というのは、ただの盗賊らしいと、リューズは思った。盗賊に手紙を出したことなど過去に一度もない。そしてラダックなる者は喫煙者粛正を行った経理官僚らしい。だからそいつが煙屋の息子のはずがない。従って、こっちがそうなのだ。ファサル様のほうが、迫害を生きのびた煙屋だ。
 盗賊になったのかと、リューズはぼんやり思った。それは済まないことだった。盗賊なんて、ただの悪党ではないか。元は大店の御曹司だったのだから、盗賊暮らしでは、さぞかし苦労しただろう。
 それでも命があっただけ良かったであろう、昔のことゆえ許せと言うのでは、名君リューズ・スィノニムの役柄に合わぬという気がするのだが、果たして今さら何をしてやれるもんかな。
「ファサル様はどんな男なのだ」
 興味が湧いて、リューズが訊ねると、エル・ギリスはぎくっとした顔をした。
「どうってことない、面白くもなんともない、嫌みな中年のオヤジです」
「嫌いなのか、お前……」
 たじろいで、リューズは一応訊いた。訊くまでもなく分かるが。
「嫌いです。でもスィグルが仲間にすると言うので、仕方ないです。スィグルはそういう、敵でも悪党でも味方にしちゃうみたいな所があるんです。ここポイントですから、族長。よく憶えておいてくださいよ」
「そうか、そうか」
 必死の顔でアピールしているエル・ギリスを、リューズは苦笑して見た。息子を褒められて悪い気はしない。たぶん褒めてんだろう。
「それ、裏には『煙屋』って書いてあんのか?」
 リューズが訊ねると、エル・ギリスはまた、びくりとした。
「いいえ。違います。そんなこと一切書いてません!」
 怒鳴るように答え、エル・ギリスが盗賊Tシャツをひっくり返して裏を見せた。そこには何かが書いてあることは、書いてあった。読むと、『私は喫煙者です(斬首)』とあった。リューズはそれを読み、可笑しくなって、声を上げて笑った。たぶん間違いない。そのファサル様が、かつて、王宮に夢薬を納入していた煙屋だ。そして、迫害を生き延びてグラナダの盗賊となり、今は息子に仕えているという。
 大丈夫かな、それでと、リューズは微かに心配したが、たぶん平気なのだろうと思った。射手が渋々ながら近侍を許したのなら。
 それに夢薬は結局、いい葉っぱだったじゃないか。確かに、いくら快美があるとはいえ、吸い過ぎは体に毒だったかもしれないが、あの頃の迷妄っぷりは、煙のせいではなく、自分の心の問題だったかもしれない。
 兄上の、亡霊が見えた。それが恨みの形相で王宮を彷徨い歩き、自分を探しているような妄想に駆られ、恐ろしくてたまらなくなったのだ。兄上のほうがずっと、玉座にふさわしい。名君の器だったのにと、恐ろしくなって、自分がそこに座していることに、罪悪感を憶えた。何を命じても、いちいち、兄上ならもっと違うふうに治めたのでは、自分は部族を滅亡の道へと導いてはいないかと、恐ろしくてたまらず、にこやかに戻った居室でひとりになると、身の震えが止まらないような日々だったのだ。
 だから、ほっと一息つけるそのひとときでも、気楽な夢が見られたらと、甘い煙に逃れたのだが、それが悪かったのか。
 だが結局、それがあったお陰で、何とか持ちこたえたようなところが、自分にはあったのではないか。イェズラムはとにかく厳格だったし、甘えを許さなかった。他の者たちも、太祖の末裔を仰ぎ見る視線だった。あるいは、お前など疑わしいという目で睨む、油断のできない連中ばかりで。その数知れぬ凝視する視線に、次もまた、起死回生の大勝利をと求める目つきで見られ、休んでもいいと言ってくれる者は誰もいなかった。あの、結局は顔も知らぬままだった、煙屋の他には。
 それを店ごと焼き殺そうというのだから、俺もつくづく因業なんだよ。わざとやってる訳ではないが、結果としてそうなる、そういうことが多すぎる。シャロームも最後の一片まで使い尽くして殺したし、煙屋も死んだのだと、そう思っていたが。もはやそんなことが多すぎて、忘れていた。イェズラムが、忘れろというので。そしてその、当のイェズラムも、すでに使い果たしてしまったし、次は一体誰だろうかなと、リューズは自嘲して考えた。たぶんサフナールだろうな。あいつも何をやっているのやら、近頃、ずいぶん石を肥やしているようだから。
 さっさと死なないと、あと何人殺ってしまうか、自分でも見当がつかない。
 エビが焼けましたと、調理人が言って、食卓に置かれた皿に、一口大に切り分けた美味そうなエビの身を供した。エル・ギリスはそれに感嘆し、手に持っていた盗賊用Tシャツを、ぽいっとどこかに放り投げた。
「めちゃめちゃ美味そうです。食っていいですか族長!」
「食っていいです」
 笑って許し、リューズはすでにもう皿に飛びついている若い英雄の姿を横目に眺めた。
 エル・ギリスは健康そのものだった。痛みを感じないという話だったから、こいつは石の重みをあまり感じていないのだろう。
 イェズラムは二十歳のころすでに、今にも死にそうな顔をしていたものだったが、あれは何だったのか。その割に結果として、竜の涙の中ではまあまあ長生きしてくれたほうだ。人生、生きてみなけりゃ分からないということか。
 それとも時に本物の鬼のようだったあいつも、当時は年齢に見合った若造で、石ではなく、射手としての責務に押しつぶされていたのか。兄上はいつもご機嫌がよいようでいて、その実気むずかしいお方だったので、世辞の言えない性分のイェズラムは、反りが合わずに苦労していた。適当に、調子の良いことを言ってやり過ごせば良いのに、意地を張って、兄上に意見したりするからだ。次代の星であった兄上に勝てる者が、いるわけがなかったのに。
 まあ、それこそ昔の話と、リューズは考えを押しやろうとした。しかし何とはなしに冷たく、重い石を呑まされたような気分だった。兄上は今、どちらにおいでか。冥界で俺を、待っているのか。よく来たな、リューズ、まさかただで済むとは思うまいと、毒死の苦痛にやつれた美貌で、兄が壮絶な笑みを浮かべて待っているのが脳裏に想像できて、リューズは心底ぞっとした。そこへは、できれば、行きたくない。しかし、すでに死せる英雄となった懐かしい者たちは、どっちへ行っただろう。冥界にある兄上の玉座の間(ダロワージ)か。俺を待っていてくれる者なんか、一人でもいるのか。
「召し上がらないんですか族長」
 あらかた食い終わった伊勢エビをもぐもぐやりながら、エル・ギリスが訊ねてきた。その声で、リューズはぼんやりしていたのから、我に返った。

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族長と伊勢エビを食う(4)

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「切なくないよ」
 なんとなく、うっすら冷や汗の滲む思いで答えると、エル・ギリスはさらに険しい顔をした。
「大人なんですね」
「そりゃそうだろ。俺は何歳だ。嫌でも大人になっちゃうよ」
「俺もいつか、そういうふうになれるんでしょうか……」
 自信がないという意味か、エル・ギリスはぽつりと小さく訊いていた。そして渋面で、若造は言葉を続けた。
「肉かエビか、どっちか片方を選んでも、平気でいられるような大人顔に」
 訊かれた話に、リューズは一拍してから、思わずげほっと噎せた。エビの話か。エビの話だった。
「食いたいのか、エビも」
 リューズが訊ねると、エル・ギリスは切なそうに頷いた。
「食いたいです。エビも肉も。どっちも美味そうです」
「じゃあ両方食っとけ。我が英雄よ。心残りのないようにな」
 呆れた苦笑で、リューズは許した。それだけでエル・ギリスは、苦悩から解放されて楽園に到達したかのような、満面の笑みになった。
 その笑みを見て、思いたくないが、可愛いところもあるやつだと、リューズは思った。
 おーいと店の者を呼んで、料理を注文すると、すぐに白衣の調理係がやってきて、慇懃に腰を折って挨拶し、火の入った銀板の上に黄金の油を垂らした。運ばれてきた生肉の塊と、まだ何となく蠢いている二匹の伊勢エビの赤い背を見て、エル・ギリスは思わずというふうに小さく感嘆し、うっとりした顔をした。
 テーブルにはにこやかな給仕によって、お茶やらサラダやら、焼いたものを付けるタレやらが、次々溢れんばかりに運ばれてきて、その解説を聞く若造の色の薄い目は、話のたびにきらきら輝いた。リューズはそれを彼の横で、にやにやと面白く眺めた。
 いっぱい食うやつは見ていて気持ちがいいもので、宮廷での晩餐のときにも、馴染みのある英雄たちが、顔を繋いでやろうというのか、誰だか分からないような若いのを連れて高座にやって来たりすると、ものも言わずに食っているようなのが、リューズは好きだった。恐縮して一口も喉を通らないというような賢しいのも、いないと困るが、そういうのばかりでは息がつまる。
 イェズラムはこいつを育てている頃には、もう晩餐に顔を出すことも稀だったものだから、目の前で飯を食っているのを見たことはないが、たぶん飢えたような食いっぷりだろう。それはもう、我慢できませんみたいなノリで、出されたサラダを食いたいらしいのを見れば分かる。
 しかし一応我慢しているらしかった。薄ら馬鹿なりに、族長より先に食ってはならないと思っているのだろう。それではちゃんと、躾は行き届いているわけだ。
「食っていいよ」
 リューズが許すと、エル・ギリスははっと我に返った顔になった。
「でもまだ族長が食ってないもん」
「いいよ別に。俺はだらだら食うから。腹が減ってるんなら遠慮せずに食え。どうせ誰も見てないんだ。飲めるなら酒も飲んでいいぞ」
 そういう自分が微笑んでいるような気がリューズはした。
 エル・ギリスはそれに感激したふうに、気合いの入ったような顔をして、それから素直に箸をとった。ぴしりと音を立てて割り箸を割り、若造はいただきますと呟いて、突き出しの野菜をがつがつ食った。まさに野獣の食いっぷりと、リューズは可笑しくなって、小さく声をたてて笑った。
 酒も飲みたそうだったので、店の者が勧める伏見の地酒を注文してやった。エル・ギリスはそれも全く遠慮なしにぐいぐい飲んだ。いける口らしかった。
 確かこいつは二十歳くらいで、息子よりちょっと年上だ。それでもまだ腹の減っているお年頃らしい。タンジールでスィグル・レイラスに擦り寄っていた頃は、こいつが玉座の間(ダロワージ)の王族の席につめかけて、晩餐の料理をスィグル本人より沢山食っているように見え、遠目にそれを眺め、食の細いらしい息子が可哀想になってきて、わざわざ本人に面と向かって、あいつをのさばらせておくなと説教めいたことまで言ったが、案外余計なお世話だったか。
 横でこういうのが食ってると、それだけで自分も食欲が湧くような気がした。
 年々、リューズは飽食して、なにを食ってもつまらなくなってきた。最初に玉座について御膳にありついた頃には、そこで三食飯が食えるというだけで楽園のごとく思えたものだったが、やがてそれは族長としての義務となり、食う暇もなく人が来て、なんだかんだと物申していくのに、快く相づちを打ってやるための席になった。だから何をどれだけ食ったかも良く分からないうちに、なんとなく腹が膨れるような次第だ。
 イェズラムが横で見ていた頃は、あの兄は見ていないようで案外よく見ていて、もっと食えとか、好きなものばかり食うなと、人の切れる合間に小言を言ったものだった。それに、涼しい顔をしている割にイェズラムは健啖で、ぱかぱか食っていたので、こちらも何となく食が進んだものだったが、今はその代わりを勤める者もいない。
 それでも近頃は、侍医のエル・サフナールが高座に侍り、あれを食えこれを食えと、やんわり指図してくる。砂糖衣にくるんだような、あの女の言葉が、なんとなく往年の兄を彷彿とさせ、指図されるまま食うのが面白いような気もする。しかしそれが、面白くないという者も多いようだから、程々にしないと、そのうち痛い目を見そうだ。
 じゅう、と音高く油が鳴って、調理人が鉄板の上でエビを焼き始めた。溶けたバターにまみれて踊っているエビの肉から、えもいわれぬ美味そうな香りが立って、エル・ギリスは隣でそれに衝撃を受けた顔をした。くるりと食らいつくようにこちらを見てきて、若造は断言する口調で言った。
「美味そうすぎます。族長はいつも、こんなもんを食っているんですか」
「そうだが……」
 毎日ここに来てるという意味ではないが、玉座の間(ダロワージ)の晩餐で、族長の膳を埋める料理は根本的にご馳走だよと、リューズは教えてやった。そこに侍る者も、同じ献立にありつける。それは高座で寵愛される者の特権なのだ。
「俺も族長の射手だったらよかった。そしたら毎日、ご馳走が食えたのに!」
 本気としか思えない口調で、エル・ギリスは不忠義なことを言った。伊勢エビ一匹でお前は息子を裏切るというのかと、リューズは情けなくなって苦笑した。
「スィグルは一体お前になにを食わせているんだ」
「あいつは、あっさりしたもんが好きなんです。肉も嫌いだから、あんまり付き合わせられないし。それに食費がかさむと、それは無駄ですとか言って、ラダックが喧嘩を売ってくるので、おちおち食い道楽もやってられません!」
 真剣にがなっているエル・ギリスと向き合って、リューズも形ばかりサラダをついばんだ。けっこう美味い。
「ラダックとは、誰だ」
「スィグルに仕えている経理官僚です。ただの計算屋ですが、手並みが鮮やかです。一種の天才だと思います」
 頷きながら、エル・ギリスはそれが事実というように言った。
「天才か、それは凄いな。そんなやつが何故、グラナダの一官僚として埋もれていたんだ」
「それは本人に訊かないと分かりませんけど、『銀貨三枚の矜恃』を読む限りでは、たぶん族長のせいです」
 からっぽになったサラダの皿から、指先で残っていたドレッシングをとって舐め、エル・ギリスは未練がましく言った。そこまで食わなくてもと、リューズはたじろいだ。エビが焼ける間すら、お前は待てないのか。
「なんで俺のせいだ」
「喫煙者の粛正に関わったので、族長に首を刎ねられると思ったんでしょう」
「なぜだ。粛正は俺の命令でやったことだろう。褒美をやってもいいくらいだぞ」
 訳が分からず、リューズは眉間に皺を寄せた。
 禁令の当時、玉座からの一命を受けて、嫌な仕事を引き受けた連中が、部族領全土にいたはずだ。身内の首を斬らねばならない場合もあり、民からも首切り役人として恐れられた。それを権威として心地よく利用した者たちもいたが、皆が皆、いい目を見たわけではない。心苦しかった者もいただろう。首切り仕事をして帰った自宅で、煙に巻かれた家族を見つけて、泣く泣く悪面(レベト)の刑吏に差し出したような、不遇の忠臣もいたわけだから。
 命令を発した立場から、そこまですることはないと、言ってやれるはずもない。皆それぞれ、それが部族のためであると信じて、艱難辛苦に耐えるわけだから、煌びやかな高座の奥からは、まさしく忠孝の極み、大儀であったと褒めてやるほかに言えることはない。
 だけど、ちょっと皆、やりすぎなんじゃないのと思うのが、リューズには正直なところだった。俺のどこが、そんなに有り難いのか、いつも理解に苦しむよ。イェズラムに、好きな女も抱けるし、アイスも食い放題みたいな話で説得されて、そんな邪な出来心で族長位を襲ったような馬鹿野郎なのになあ。現実っていうのはいつも、残酷なんだよ。
「ラダックはたぶん、真面目すぎなんです。粛正に乗じて、政敵を撲ったのじゃないかと、行きすぎを反省したんだと思います」
「良吏だな」
「そうです。人が良すぎなんです。もののついでに政敵をやっつけるくらいのことは、抗争の基本なのに」
 真顔でそう言うエル・ギリスは、それが当たり前と思っているらしく、まさに宮廷の派閥抗争の申し子みたいな面構えだった。それがリューズには可笑しく、微笑んでエル・ギリスの顔と向き合った。
「族長が、煙屋の迫害を行った者たちを、殺人者として処刑したのを見て、ラダックはびびったようですよ」
 空になっていた切り子の酒杯に、リューズが酌をしてやると、エル・ギリスは形ばかりは行儀よく、両手でそれを受けた。
「しかし下命を受けて重度の中毒者の処罰をした役人と、その場のノリで罪もない商人の家族を焼き殺すようなのとは、全然話の次元が違うよ」
「ラダックはアホなので区別がついていません」
 けろりとして答え、エル・ギリスは酒杯を上げた。リューズは心配になった。

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族長と伊勢エビを食う(3)

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 変な餓鬼だと思っていたが、ここまで変だとは知らなかった。
 大丈夫なのか、こいつが射手で。スィグルは本当にこれと、調子が合っているのか。真面目そのもので、顔を合わせるといつもガチガチに緊張していて、気の弱い、冗談も通じないふうだが。そんな子が、こんな変な若造と組まされて、呑まれずにやっていけるのか、父上、本当に心配なんだが。無理せずにタンジールに帰ってきたらどうかなあ。
「戦時に向かないのは、そうかもしれませんが、大丈夫です。めちゃめちゃ戦時向きの俺が、必死で補佐しますから。それに他にも役に立ちそうなのが、何人もいますから。それで足りなきゃ、どこかでまた天才を発掘してきたらいいんですから」
「天才なぁ……」
 力説しているエル・ギリスに、リューズは苦笑で応じた。それに相手は、むっと拗ねた顔になった。
「読んでないんですか、族長は。『新星の武器庫』を」
「読んでないです。だって親が読むようなもんか、怪しいんだよ」
 さらに苦笑して、リューズは言った。だって心停止するようなもんをうっかり読んじゃったらどうすんだよ。
「怪しいもんじゃないです。スィグルがグラナダでなにをやってるか、もうちょっと興味持って見てくれてもいいんじゃないですか。頑張ってるんだし。……っと、そういえば、族長はグラナダ宛てに無記名の鷹通信(タヒル)を送りましたよね」
「送ったよ。今後の内政について、スィグルから質問状が来たからさ」
 ずいぶん突っ込んだ話で、返信すべきか迷ったが、無視するのもどうかと思えて、一筆書き送った。
「それが届くあたりのですね、経過については、読み飛ばしたほうがいいです」
 エル・ギリスが真剣にそう忠告してきた。
「……なぜだ」
「族長だって、息子が変態かもとは思いたくないですよね」
 エル・ギリスは至って真面目に言っている。
「……変なのか、あいつ」
 心配になってきて、リューズは顔をしかめた。元々、なにかと傷手のある子なので、今もまだどこかおかしいのかと、心配になってくる。
「変です。というかですね、族長は、手紙を出すのは、なるべくやめたほうがいいかもしれないです。なんかけっこうヤバいです、各方面。スィグルも変だけど、ラダックもファサル様も手紙爆弾にやられてたみたいだし、それに、サウザス王宮にも絨毯爆撃してるでしょう」
「ヘンリック?」
 ぽかんとして、リューズは確かめた。エル・ギリスは頷いた。
「大したことは書いてないよ。今度海老食いに行くからとか。元気でやってるかとか、そういうような世間話だけだよ。それにスィグルに送ったのも、二、三行だっただろう。それも当たり障りのないような事しか、書いてなかったよ」
「族長の書くもんはなぜか、王族光線の放射能漏れみたいなのが出てるんですよ。行間から何か漏れてるんです。愛してちょうだい、みたいなのが。あれ、天然なんですか。そんなの最低だ」
 早口に断言されて、リューズはますますぽかんとした。
 手紙に何を書いたかなんて、いちいち憶えていない。長文を書くのが面倒くさいので、ちょろっと一、二行書くのが精々で、それも、自分の手で書かないと無礼かなと思うような時にしか書かない。
「例えば、あれは? ”嘆息堪えがたき快美ゆえ、また参れ”は?」
 リューズは、眉間に皺を寄せて意気込んで訊ねてくるエル・ギリスに、若干気圧されてのけぞった。
「お……覚えがない」
「やった。やっぱり憶えてないよ」
 小さくガッツポーズで独り言を言う若造を、リューズはあぜんと見つめた。
 それからふと、自分の煙管が目にとまり、はっと思い出した。
「ああ待て、思い出した。煙屋だろう。昔、夢薬を納めていた」
 そう確かめると、エル・ギリスは図星だったのか、ぐっと悔しそうな顔をした。
「憶えてたんですか」
 舌打ちするような口調で、エル・ギリスは呻いた。
「禁令の件だろ。あの時は、すまないことをした。俺も考えが浅かったんだよ。いきなり全廃令を発して、その煽りで煙屋が迫害されるとは、思い当たってなかったんだ」
「そうですか。でも仕方ないですよ。もう終わったことだし。忘れましょう」
 どことなく急かして、エル・ギリスは話の打ち切りを求めていた。
「お前がなぜ、その件を調べたんだ。そんな手紙の内容なんて、どこかに記録があるわけじゃないだろう。本人に会ったのか」
「会っていません。会ってないです。番外編に出てきたのを読んだだけです」
 ぶんぶん首を横に振ってみせ、エル・ギリスは必死の形相だった。
「手紙爆弾にやられたラダックやファサル様というのは?」
「ああ……その無駄な記憶力……血筋なんですか」
 顔を覆って呻いている若者を、リューズはあんぐりとして見た。
「あのな……エル・ギリス。当時の被害者がもし存命なら、俺は会って詫びたいのだが。見つけたのだったら、取り次いでもらえないか。今さらだが、慰謝になるような物を下賜してもよいし、恨んでいるというなら、跪いて詫びもしよう。別に面罵されてもいいんだが」
「そんなことしないほうがいいですって。してもいいけど他の煙屋にしてください」
「なんで」
 きょとんとして、リューズは訊いた。
「なんででも」
 頑として、エル・ギリスはきっぱりと言った。煙を吐いて、リューズは呆れた。
「ケチだなあ、お前。それでイェズラムと馬があったのか。ケチケチつながりか。あいつもケチだったよ、なんにも教えてくれないんだもんな」
「玉座は知らないほうがいいこともあるんです」
 もっともらしく説教してくる薄ら馬鹿に、何となくにやりとしてきて、リューズはふうんと相づちを打った。
 なあんだこいつ、もしかして、イェズラムとそっくりなんじゃないか。あいつは自分のコピーを作って遺していっただけなんじゃないのか。風貌も、立ち居振る舞いも、知能指数も、全く似ても似つかない感じだが、性格そっくり。そういえば戦場での戦いっぷりも、どこか似たような感じだったが、あれはイェズラムが後ろで糸を引いてたんじゃないのか。
「それなら玉座が知っておくべき話でも聞こうか」
 甘い煙に飽きて、リューズは煙管から燃えさしの葉を銀盆に打ち落とした。そして、きょとんとしているエル・ギリスを横目に見ながら、グラスの水を飲んだ。
「グラナダ宮殿の話だよ」
 わかっていない風でいた若造は、ああ、そうかと意気込むような顔をした。
「聞いていただけるんですか」
「オフレコだろ、どうせ。ここだけの話だよ」
 手持ち無沙汰を慰めようと、リューズは黒い布張りのメニューを手にとって眺めた。それも達筆の墨書で書かれていた。
 松阪牛フィレ・時価。伊勢エビ・時価と。
 時価って、なに、と、リューズは思った。そういえば、ものの値段なんか知らないのだった。自分で金を払ったことがないし、そもそも現金を持ち歩いたこともない。いつも誰かが面倒みてくれてたんで。
 でもまあ、いいやと、リューズは思った。今日だって別に一人ではない。このエル・ギリスだって一応は我が英雄だ。こいつが何とかするだろう。
「ところでお前は、肉と伊勢エビと、どっちがいい」
 リューズが訊ねると、エル・ギリスは真剣そのものの顔で、しばし苦悩していた。
「肉」
 それを答えるのがもの凄くつらいというように、エル・ギリスはやむにやまれず答えてきた。リューズは目を瞬いて、それを見た。
「じゃあお前は肉な。俺はエビにしようっと」
 エビが大好きなのだった。
 かつて自ら援軍を求めに行った湾岸で食った魚介類の味が忘れられません。特にエビ。むちゃくちゃ美味い。
 今でもお取り寄せして晩餐に出して貰うが、一番美味いのはやはり何と言っても、湾岸まで行って食うことだ。イェズラムが健在だった頃には、ふいっと玉座を留守にして旅に出ても、不在の間の宮廷が難なく切り回されていて、今にして思えば気楽なものだったが、もう、そういう訳にもいかない。
 ヘンリックも、最近あいつは来ないなあと、清々していることだろう。あの友は、行くといつも内心では嬉しいくせに、煙たいような顔で嫌々付き合いやがって、もう二度と顔を出してやるまいと、リューズは思った。
 だってなにしろ、たぶんもう二度と会えまい。玉座を留守にはできなくなったのだから。
 いつものごとく、さらっと別れて、それが今生の最後かもしれないとは、情けない限りだ。
「族長も、切ないんですか」
 真面目な顔で鉄板を睨み、淡く眉間に皺を寄せた顔つきで、エル・ギリスが訊いてきた。ぽかんとして即答できず、リューズは若造の横顔を見た。

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族長と伊勢エビを食う(2)

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「腹が減ってるからじゃないですか。『名君双六』(3)-2によれば、族長の腹が痛むのは、”腹が減っているか、変なもんを食ったか、悩んでいるか”だそうですから。変なもん食ってないですよね、まだ。なにか悩んでるんですか」
「データ君かお前は……」
 食卓に縋って、リューズはレモンの酸味のある水を飲んだ。
 とんでもない刺客が来たもんだ。こいつはただの薄ら馬鹿なんだと思っていた。
「データ君ですよ、俺は。精読する質なんです。ご存じなかったんですか」
 けろりとしてエル・ギリスは答えた。ご存じなかったという意味で、リューズは水を飲みながら頷いてやった。
 さすがに廷臣や魔法戦士もうようよいるとなると、全員をカバーしてるわけじゃない。名前と顔くらいは何となく知っているが、それだけという者も多くいる。特に魔法戦士はイェズラムの縄張りだったので、彼らとは少々距離を置くようにしていたし、世代も激しく違うちびっ子となると、正直もう誰が誰だか分からないような相手だ。
「吸っていいですよ。俺、黙っときますし。一服も二服もおんなじです。それにここは異次元なんでしょ」
 急に誘惑するような事を言って、煙草盆を差し出し、エル・ギリスはにやっと歯を見せて笑った。悪ガキくさいやつだと、リューズは思った。本当にイェズラムに育てられたやつなのか、これが。見た感じ、あくまでガサツっぽいが、よくそれでイェズラムにシバキ回されなかったな、こいつ。俺でさえシバキ回されたのに。晩年だったから、さすがのあいつも衰えたのか。
「いいじゃないですか別に。どうせ今回は俺しか来ないですし。終わったら俺はびっくりするくらいの勢いで、かなり忘れます」
 銀盆をぐいぐい差し出してきて、エル・ギリスはさらに強く勧めた。
「かなりって全部じゃないのか」
 リューズは気になって突っ込んだ。
「だいたい全部忘れます」
 なんでちょっと残してるんだよ。どうしても引っかかるそれを問うと、エル・ギリスは、ほっといてくれと言った。ちょっとくらい憶えといてもお役得ということで。
「どういう理屈だ。もういいよ。吸いたいから吸う。何もかもお前のせいということで」
 渋々と煙管をとって、渋々それに葉を摘め、リューズは火を差し出してきた、にこにこ顔のエル・ギリスを睨んだまま、夢薬の最初の一息を吹かした。
 懐かしい匂いだった。昔これにハマって、えらいことになった。当時は若輩で、つらいことが多かったし、目立った害のない薬だという触れ込みだったので、調子に乗ってもくもく吸ってたら、さすがにやり過ぎだったのか、幻覚が見えたりして、まじでやばかった。
 それがさすがにイェズラムにばれて、滅茶苦茶怒られたけど、それもまあ、適当に聞き流した。今にして思うと懐かしい思い出だった。当時はまだあいつも、朝儀のときは高座に侍ったし、玉座の間(ダロワージ)に飯を食いに来た。何事かあれば、族長部屋に説教しにも来たのだ。
 そのときは、うるせえと思ったけど、その、うるせえのが、良かったんだよなあ。
 あー。
 懐かしい。
 って、お前はなにをガン見しているのだと、リューズはふと我に返って、煙管をふかすこちらを凝視しているエル・ギリスを見返した。
「なにをそんなに必死で見てるんだよ」
「いやあ。この瞬間に族長がなにを妄想してんのか、知りたい人は多いらしくて。俺も知りたいです」
 そういうエル・ギリスは、こちらが何を考えているのか、透視してやろうみたいな目つきだった。リューズはそれにたじろいだ。まさかこいつは読心はできないのだよな。
「そんなの俺のプライバシーなんだよ」
「でもこれ族長視点ですよ。だから脳内情報垂れ流しですよ。俺も後で読みますから」
「後で読めないように目つぶし食らわすぞ……」
 思わず本音で言うと、エル・ギリスはぽかんとした。
「えっ。それ、マジで言ってるんですか。族長がそんな人だと思ってなかった」
「俺は案外そういう人だよ。サディストの家系なんだよ。お前の養父(デン)が、そんなのは玉座の徳にふさわしからぬとクドクド言うので、なるべく我慢してきたんだよ。だけどもうあいつは死んだのだから、お前も気をつけないと首を刎ねちゃうぞ」
 煙に酔って気が大きくなってきたのと、何だかもう面倒なのとが相まって、リューズは適当に思ったことをそのまんま言ってやった。なんとなく、この若造に気をつかってやるのも馬鹿らしいのだ。
「俺、次代の射手なんですけど」
 それでも首を刎ねちゃえるのかと、そういう態度で、エル・ギリスは言っていた。
「それがどうした。息子がいつもお世話になっております」
 遠慮無く煙をふかして、リューズは適当に挨拶しておいた。
「ものすごくお世話してます」
 ちょっと切ないというような顔で、エル・ギリスは訴えてきた。その顔がすごく大変そうだったので、リューズは思わず苦笑した。射手っていうのは苦労するもんらしい。
「苦労してるのか、お前も。それでも俺の世話をしたお前の養父(デン)よりは、何倍もましだよ。スィグルは真面目だし、頭もいいだろう。根性もあるし。ほんとにもう、どこに出しても恥ずかしくないような立派な息子なんだよ」
「だったら継承指名してください。今ここでしてください。電話して呼びますから」
 食らいつくような真顔になって、エル・ギリスは頼んできた。リューズはそれに焦った。
「呼ぶな! お前さっき誰も来ないって言ったんじゃなかったか。それで信用して煙吸ってんだろ。よりによって息子なんか呼ぶな」
 約束を破る気はないのか、エル・ギリスは、そうだったと思い出したような顔をして、ふう、と残念そうにため息をもらした。
「俺は早く、安心したいんです、族長。あいつが即位できるって、生きているうちに確かめたいんです」
 うつむいて、そう訴える様子は哀切なようでもあった。
「そりゃあ誰だってそうだろう。だからって焦るな。焦っちゃうのはお前ら魔法戦士の悪い癖なんだよ。まあ、それも無理もないけど。しかし部族領の命運がかかっているんだ、俺にもっと考える時間をくれないと困るよ」
「考えるって、この上なにを考えるんですか。あの子もこの子も可愛いなあみたいな親馬鹿ですか」
 じっとりと恨みがましい声で、エル・ギリスは非難してきた。
 もしもそうだったら何なんだよと、リューズはむっとした。そんなの親なら当たり前だろ。同じように生まれ育ってきて、皆それぞれ努力しているのに、あいつを選ぶから、お前たちは諦めて俺と死んでくれと、一体どこの親が平気で言えるのだ。まあ、そりゃあ、俺の親は平気で言えたみたいだったけど。俺はちょっと、子供に感情移入しすぎたよ。
「スィグルはな、戦時に向かない性質だろう」
 訊ねる口調で言うと、エル・ギリスは痛恨の一撃をくらったような顔をして、ぐっと身構えた。
「そうでしょうか」
「そうでしょうか、って。その通りですって顔に書いてあるぞ」
 目を泳がせるのを堪えているらしい若造を、鼻白んで見つめ、リューズは指摘した。
「書いていません! いつの間に誰が書くんですか、そんなもん!!」
 自分の顔をごしごし擦ってから、エル・ギリスはその手を見つめた。たぶん墨でもついてないかと、確かめているのだろう。リューズはそのリアクションに、思わずドン引きしそうになった。こいつ、本気のように見えるけど、本気なのか。
「……いや、もののたとえだよ。本当に書いてあるわけでは」
「なんだ! びっくりするじゃないですか。こんな真面目な話のときに、そんな妙な冗談を言わないでください。俺は真剣なんですから」
 確かに真剣そのものの顔つきで、エル・ギリスは怒っていた。
「いや……俺も一応、真剣なのだが……」
 煙管を銜え、リューズは所在ない気分になった。

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族長と伊勢エビを食う(1)

前知識:これは作者がイメージワークのために書いている箱庭時空モノです。
新星の武器庫」「銀貨三枚の矜恃」「発火点」「深淵」「名君双六」読了後にお読みください。(乙女堂の人は「夢薬の煙」も読んであるほうが、楽しいかもしれません)

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

「なんで俺は、お前と二人っきりで、ここにいるんだろう」
 目の前の食卓に置かれた、薄切りのレモンの入った水のグラスを見下ろして、リューズは訊ねた。扇型をした食卓は、机というよりは調理台で、銀色に磨かれた鉄板が広々と敷かれており、その周辺の黒枠のあたりが、皿を供するためのスペースだった。
 水のグラスはその卓上で、たっぷりと結露して汗をかいていた。
 その食卓は畳敷きの個室の中にあり、床から生えたような調理台の周りは掘になっていた。だから椅子みたいに座れる訳だが、なせだかいつもの癖で食卓の前に胡座してしまう。生活習慣というのは、ちょっと異次元に来たくらいでは、そう簡単には抜けないものらしい。
 それにしても最近、鉄板づいている。この前はお好み焼き屋だったし、今回のはいわゆる、鉄板焼き屋だ。そんな灼熱した鉄の板を目の前にして、二人っきりで話をさせられるのが、楽しい相手だったら別にいいのだが、今回のはなんと、エル・ギリスだった。
 エル・ギリス。
 鉄板つき食卓の、隣の席に座っている若いのを、リューズは横目に眺めた。
 なんでエル・ギリス。俺とエル・ギリス。
 どう考えても異色の取り合わせだが、一体何がどうなって、こういう事になったのか。
 しかもエル・ギリスは、なぜか部族伝統の長衣(ジュラバ)ではなく、黒地のTシャツにジーンズだった。しかもTシャツの胸には白抜きの墨書体で、『愛』と書いてあった。
 愛はともかく、半袖というのはどうかと、リューズは思った。部族では人目に肌を晒さないのが習わしで、どんなに暑かろうが長袖だ。それなのに破廉恥にも腕など晒して、まったくイェズラムが生きていたら何と言うだろうか。
 というか、あいつは今日は来ないのか。なんで来ないのだ、こういう時に来なくてどうするのだ。というか、むしろ、助けてくださいと、リューズは内心悶々とした。
 いろいろ自問してみたが、どう考えてみても、苦手な相手だった。
「あのな、お前はなんで、黙っているんだ。それになんで、半袖なんだ。仮にも族長である俺の前で、それはどうかと思うのだが」
 リューズが思わず説教口調になると、エル・ギリスはきょとんとしたように、色素の薄い灰色の蛇眼で、ぱちぱちと瞬いた。確か二十歳くらいのはずだが、子供みたいな仕草をするやつだった。
「族長も、半袖ですが」
 さらっと言われて、リューズは気づいた。本当の話だった。
「うわっ、なんで俺までTシャツにジーンズなんだ。こんな格好して大丈夫なのか、世界観的に」
 しかも黒地のTシャツの胸には、血のような真っ赤な染料で、『罠』と大書してあった。勢いのある達筆だった。しかもどこかで見たことのあるような筆跡だ。
「京都のお土産です。作者がこういうのを、京都の街で見たとかで、そのとき『罠』Tを族長に着せたいと思ったので、右脳がそれを受理したんだとか」
 まじめな顔で、エル・ギリスは教えてきた。
「どういう狂った話だ。せめて長袖にしてくれないか。落ち着かないんだ。それに俺は、餓鬼のころから冷え症なんだ。寒いんだよ」
 鉄板は徐々に熱せられて熱くなってきていたが、それと対抗するためか、部屋の冷房はガンガンに効いていて、肌寒かった。
「長袖はないです。法被(はっぴ)ならあります。新撰組のやつ」
「ふざけんな俺をなめてんのか。半袖でいいです」
 諦めてリューズはグラスの水を飲んだ。なんだか、こめかみがピクピクしてきた。
 もう十年以上も禁煙しているのに、なぜか無性に煙管を吸いたかった。たぶん何かに逃避したい気持ちでいっぱいになってきているのだ。状況がキツすぎて。
 というかイェズラムはいないのか。イェズラムは。この不忠者が。
「もうしょうがないか。さっさと話して、何かオチつけて、とっとと退却しようか」
 猛烈に口寂しいと思って、渋面で内心おろおろしていると、エル・ギリスが気が利くというか、なんだか嫌な間の良さで、さっと喫煙具一式を差し出してきた。灰を落とすための銀盆に、赤い煙管が乗っており、蓋のある白磁の椀には葉が、となりの器には火種が入っている。まだ燃やされていない葉からは、かすかに知ったような匂いが放たれていた。
「御用達の葉っぱです。夢薬」
 煙管をとれという真顔で、エル・ギリスが教えてきた。リューズはそれと、かすかな渋面で向き合い、深くため息をついた。
「なんでお前がそれを知ってるんだよ」
「調べました。最近ちょっと必要があったので」
「どんな必要なんだ。くんくん嗅ぎ周りやがって。それはまあいいが。麻薬(アスラ)は禁制なんだぞ。お前でもそれくらいは知ってるのだろ。禁を破ると斬首なんだぞ。自分で出した禁令を自分で破って、自分で自分の首を斬るのか。いくら俺でもそんな器用なことはできんよ」
 それになんで今さら連続禁煙達成記録を不意にしなきゃいけないんだよと、リューズはエル・ギリスにくよくよ言った。するとまた、若者は何か考えるように、ぱちぱちと目を瞬いた。
「俺調べでは、族長。連続禁煙達成記録は、とっくに破られています」
「そうだっけ」
 深刻な顔で、リューズは訊ねた。
「そうです。『深淵』141行目にて……」
 脇に幾つもあった黒い紙袋からがさごそと、びっしり文字の印刷された紙束を取りだしてきて、エル・ギリスはそれを参照した。
「”族長はジェレフの帯の隠しから煙草入れをとり、煙管に火を入れると、一息ふかして、甘い臭いのする煙を吐いた。袖で吸い口を拭ってから、銀の煙管を自分に差し出す彼の仕草を、ジェレフはどこか朦朧としながら眺めた。”……ね?」
 読んでんのか、お前。全部の番外編を。内心ぽかんとしながら、リューズは引用された文章を反芻した。
 そういえば、吸ったかも。でも、ちょっとだけだよ。ジェレフが遠慮してたんで、火をつけてやっただけだよ。一息は吹かさないと、火がつかないじゃん。
 でもまあ、とにかく、吸ったことは吸ったな。紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)。
「斬首」
 エル・ギリスがぽつりと言った。
「いやいや、それはどうかな。墓所で、あの場にいたのはジェレフだけだった。それにあいつはもう、死せる英雄だ。だから証拠がないだろ」
 早口にリューズは言い訳した。それにエル・ギリスは真顔のまま、かすかに視線を揺らめかせた。なにか思案しているような顔だった。
「なんでジェレフに返すとき、吸い口を拭ったんですか。『名君双六』でエル・シャロームのを借りた時には、そのまま返してるのに」
「そんなのいちいち憶えてないよ」
 うるさくなって、リューズは顔をしかめた。
「エル・シャロームはよくて、ジェレフだと嫌な何が」
 あくまで追求する口調で、エル・ギリスはしつこかった。尋問かこれは。
「そういうんじゃないよ。普通は拭うもんなんだ。シャロームの時はたまたま忘れたんだろう」
 二十歳そこらの頃の生活のヒトコマなんぞ憶えてないよとリューズは悔やんだ。それでなくても当時のことを思い返すは愉快ではない。まさかあの連中がすぐに死ぬとは思っていなかったのだ。
「普通は、拭う。それが作法で、イェズラムは作法にうるさかった。だからわざと、拭わなかったとか。それとも親しければ、いちいち拭わない回し喫(の)みもありか、みたいな、そんな話ですよね族長」
「そんな話なのか……」
 なんだか冷や汗出てきた。エル・ギリスは真顔でなおも言った。
「族長は、両刀なんですか?」
「助けてくれ……」
 そんな単刀直入っていうか、いくらこの場でも真正面から取りざたしていいのかみたいな事を訊かれて、本人がなんと返事をするべきか、考えるだけで胃が痛い。それはボカすところだろ、作品的に。そう思いたい人が、そう思うところだろうが。
「なんか俺、腹が痛くなってきたよ」
 胃のあたりを押さえて、リューズは呻いた。

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2008/11/06

ぶんぶん日記・その1

前知識:「新星の武器庫」の後日譚です。

・ ・ ・ ・ ・ ・

 蜂がぶんぶんグラナダ宮殿。そこには色んな馬鹿がいて、今日も高貴なるブチ切れ領主様に誠心誠意お仕えし、みんな大忙し。時にはダラダラ休憩中。
 そんなみんなの、ぶんぶん日記、はじまるよ。

某月某日。シャムシールを競馬に誘う。

 たまにはお前も競馬をいっしょに見にいったら。絵ばかり描いてないでさと、ギリスはシャムシールをお出かけに誘ってみた。
 土曜日なので、ラダックと競馬に行くことになったが、この際ちょっとシャムシールも連れていってみようと思い立ったのだ。
 するとシャムシールはにっこりして、画帳を持ってついてきた。やっぱり持っていくの、それ。なんで持っていくの、分かるけど。
 宮殿の玄関で落ち合うと、ラダックはぎょっとした顔をした。
「行くんですか、シャムシール。競馬が好きだったんですか」
 そんなの訊かなくても分かるだろとギリスは思った。
「いやあ、そう言う訳じゃないんですけど、せっかく誘ってもらったし、馬の絵もいいなあと思ったんです」
 にこやかなシャムシールにそう答えられて、ラダックは何か悶々と考えたようだった。競馬の件は、ラダックにとって休日の儀式みたいなもので、そこにまた馬の勝ち負けに全く興味がないふうな同行者が現れた。なんということだ、しかし断る理由もない、みたいな顔だった。
「歩くの面倒くさいし、馬で行こうよ」
 ギリスはラダックに提案した。すると金庫番は、むっとした難しい顔になった。
「あなたがたはそうすればいいですよ、エル・ギリス。私は歩いて行きますから」
「なんで別行動なの。まさか馬に乗れないんじゃないよな」
 そういえばラダックが乗馬している姿を見たことがない。ギリスはちょっと困惑して訊ねた。ラダックはさらに難しい顔で首を横に振った。
「乗れますよ、私も官僚ですから。ですけど私用に馬を飼うようなご身分ではありませんのでね」
「宮殿の馬がいるじゃん」
 ギリスはラダックが知らないはずはない事実を指摘してみた。
「あれは公用の馬です。休みの日に遊びで街へ行くのに、一官僚が勝手に乗っていいようなものではないです。それは汚職です」
 そ、そうだった、と、ギリスはいまさら気づいた。偉そうだから忘れてたけど、ラダックは地方官僚で、ただの計算屋なんだった。
「スィグルに馬をねだればよかったのに」
 ギリスは本気でそう言ったが、私服のラダックは珍しく、ふっと自虐の笑みを見せた。
「そうですね。そうしておけば今でも、宮殿ではなく市街に住んでいられましたよね」
 いやなのかお前は。いつまでも往生際の悪いやつ。
「歩いていくのでいいですよ、エル・ギリス。僕も街が見たいですから」
 画帳を抱えてにこにこと、シャムシールは提案してきた。自尊心のない宮廷絵師だった。平民出の絵師といっても、ひとたび宮廷に侍れば、身分は上級官僚並だった。族長や王族の居室に出向いて、肖像画を描いたり、決められた席までだが、晩餐の玉座の間(ダロワージ)に侍ることも許される。
 もちろん個人的に寵を受ければ、どこへだって行ける。芸能や芸術の類は、当代の愛する分野で、ほんのちょっとした気まぐれに当たれば、族長と高座で飯を食うことだって可能なのだった。
 そんな宮廷絵師であるお前が、歩いていくのでいいです、か。
 ギリスはちょっと参った。野心のないのが、バレバレみたいな男だった。容姿もなんだか、ひょろりと見えるし、やる気なさそうにゆるく束ねただけの髪まで、なんだかぐんにゃりした髪質だ。
 凛々しくないと、ギリスはその事実に感心した。
 よかったなシャムシール、お前は結局運のあるやつだよ。グラナダに引っ張り込まれて、左遷されたと思ったろうけど、ここでレイラス殿下に気に入られている限り、いずれは新星の玉座近くに侍る寵臣になるのは決定だ。
 シャムシールにそれが分かってんのか、いないのか、ぽやんとしていて分からない。
「いや、やっぱ馬で行こうよ。俺が序列一位。シャムシールが二位。それからラダックはお付きの人で、休日出勤で接待ということにして、宮殿の馬に乗ればいい」
 ギリスが提案すると、いやですよ、そんなのはと、ラダックは怒鳴った。
 しかしそんなものは簡単に無視できた。今日はお休みの日で、ラダックは私服を着ていたからだ。何だとこの野郎、俺は長老会の敷物を踏んで育ったんだぞという目でギリスが睨んでやると、ラダックは悔しそうにたじろいだ。そしてそのまま悔しそうに目を背けたが、結局なにも反論してこなかったのだ。
 いつもこうならいいのにと、ギリスは勝ち誇って嗤った。そして馬屋から馬を牽いてくるように人に命じて、愛馬ファーグリーズを待った。


 競馬場は盛況だった。
 その人混みに、シャムシールは馬上から、おおと感嘆していた。宮殿にばかり籠もっている絵師には、喧噪が物珍しく好ましいらしい。
 楕円形を描いた石造りの建物は、スィグルの趣味で白亜だった。僕の街に競馬場なんていう、いかがわしいものを建てるなと、さんざん抵抗したくせに、いざ造るとなると、石は白にしろと態度がでかかった。
 あいつは何でもかんでも白が好きだ。
 まさかそれで俺の鎧まで白なのかと、ギリスは首をかしげて考えたが、そんなはずはなかった。氷の蛇の白鎧は、長老会からもらったもので、たぶんイェズラムが選んだのだ。ギリスの初陣は十四歳で、その時スィグルは敵の虜囚だったし、新星ではなかった。
 それをイェズラムが決めたのは、スィグルが同盟の人質としてタンジールを出立する時だ。
 護衛として随行するというイェズラムに、ギリスは俺もついていきたいと頼んだが、ついてくるなと断られた。
 敵地への長旅になるので、生きて戻れるか謎だし、もし俺が戻らなかった時には、長老会の命を受けて新星に従うようにと言い置いて、イェズラムは旅立っていった。それを見送る群れのひとりとして市街までは付き従ったが、その時のスィグルがどんなだったか、実はよく憶えていない。
 たぶん、養父(デン)が生きて戻るかどうか、そっちのほうが気になったのだ。
 果たしてイェズラムはぴんぴんして戻ってきたが、王都に帰投して顔を合わせるなり、ギリスにあれを新星にすると言った。族長がどう決めるかはまだ分からないが、長老会は第十六王子スィグル・レイラスを推挙すると。
 その時になってやっとギリスは、そのスィグル・レイラスというのは、どんな顔だったっけと思った次第だった。そして元服の絵姿を見せてもらった。英雄たちも描かれるそれを、王族もやはり記念として描いてもらうものだからだ。
 元服絵のスィグル・レイラスは、にこにこした子供だった。
 生母の故郷へ向けて王都を出立する前に描かれたものだという話だった。
 そして学院から戻ってきたスィグル・レイラスは、にこりともしない陰気なやつだった。
 にこにこしているほうが、可愛げがあるのにと思って、ギリスはいろいろ派手な悪戯を見せて、スィグルを笑わせようとしたが、あいつが心底笑っているのを見るようになったのは、多分、つい最近になってからのことだ。
 王族は二十歳の姿絵は描かないのかもしれないが、せっかくだし記念としてシャムシールに描かせるといいなとギリスは思った。そうすれば二枚目の肖像も、きっと元服絵に劣らずにこやかだろう。
 シャムシールが広場の壁画に描いていた領主の似せ絵は、とても良かった。描かれた時には、スィグルが微笑して肉を食っているのは、ありえない絵面と思えたが、結局それは現実になった。あいつは最近、なぜか気恥ずかしげににやにやしながら、官僚たちと大広間で飯を食っている。俺につきあって肉を食っている時もある。
 シャムシールは魔法は使えないと言っているが、案外こいつには、未来視の力でもあるんではないかと、ギリスは囲いの中の馬を眺めているシャムシールを脇から見つめた。
「この馬たちは、競争には出ないんですか」
 競技場の片隅に造られた囲いの中を、うろうろと落ち着かない様子でいる十頭ばかりの馬たちを、シャムシールは描きたそうにうずうずした気配で眺めながら、ラダックに訊いていた。
「これは次の回に出走する馬です。ここで客に様子を見せて、勝ちそうな馬を予想させ、馬券を買ってもらうんです」
 ラダックは律儀に解説していた。シャムシールはどうも本当に、競馬を見るのは初めてらしかった。
 王都にもあったはずだが、グラナダほど盛んでない。たぶん賭をするのが王族や貴族ばかりで、上流の趣味であり、一般市民には開放されていないせいだ。
 シャムシールは平民の出身で、タンジールではあまり、上流の者との付き合いがなかったようだし、観に行く機会もなかったのだろう。
「今日はどれが勝つんだろうなあ」
 ギリスはふたりの合間に割って入って、柵にもたれ、様々な地模様をした馬たちを眺めた。
 そのうちの何頭かは、わざわざ競馬用に買い入れられたものだが、元はといえば競馬場の馬は領主レイラスの持ち馬だった。スィグルが気晴らしに無駄遣いして買った馬を、ラダックが取り上げたのだった。
 あれ、そういえば、と、ギリスは首をかしげた。ラダックは貧民の出だと言っていたような気がするが、なぜこいつは元々この地でも金満家の趣味だった競馬の楽しみを知っていたんだろう。
 思ってもみなかった疑問なので、今まで訊いてみたことがない。
 ギリスは真剣そのものの目で囲いの馬を眺めているラダックの横顔を見た。
 こいつはまだまだ奥がありそうだ。お堅くて、なかなか本性を見せないが、なあに、まだまだ時間はあるのだし、化けの皮を一枚一枚ゆっくり剥ぐさ。
 楽しくなって、ギリスはにこにこした。
「なに笑ってるんですか。気持ち悪いですね、エル・ギリス」
 吐き捨てるような棘だらけの口調で、ラダックが非難してきた。笑う自由ぐらい俺にもあるだろ。まさかそれにも税金がかかってんのか、お前の街では。そんなふうにギリスが答えると、ラダックは、ふんと忌々しそうに言った。
「あなたには、ほかに課税するところがないから、笑うのにも税金をかけないといけないかもしれないですね。レイラス殿下にそう申し上げておきます」
「えっ。じゃあ数えないといけないの。今日何回笑ったか。無理だよ、いちいち意識してないもん」
 ギリスが困って泣き言めいた口調になると、ラダックは青筋をたてて、冗談ですと言った。
 なんだ冗談かとギリスは驚いた。どうしてラダックはいつまでたっても、俺に冗談を言うんだろう。それも本気かどうか区別のつかないようなのばかり。せめて、笑って言ってくれりゃあ気がつくのに。難しすぎる。
「賭けますか、シャムシール」
 お前とは、もう話さんという気配を見せて、ラダックはギリスを無視して、ひとつ隣でぼけっと立っている絵師に話しかけた。
「賭けなきゃいけないんですか」
 ぽかんとして、シャムシールが聞き返した。画帳を開きかけているところを見つかって、シャムシールはなぜか、ぎくりとしていた。絵ばかり描くなと言われて誘われたので、描いちゃまずいとでも思ったらしかった。
「いけなくはないですが、賭けずにタダで馬だけ見ようっていうんですか、あなたは」
「えっ。そうか。まずいでしょうか」
 急に慌てたように、シャムシールは束髪にした髪を、筆を持った手でがしがし掻いた。それでますます、髪がふにゃふにゃになり、宮廷絵師の見た目の押し出しはいちだんと低下した。
「まずくはないですが……公営競馬からの収益は、今やグラナダ市の財政に大きな位置を占めています。その仕組みを一度くらいは体感しておいても、損はないのじゃないですか。あなたも仮にも、レイラス殿下の廷臣なんですから」
 仮じゃなくシャムシールは正式にスィグルの廷臣のはずだがと、ギリスは思った。繋がり的には、グラナダ市の地方官僚でしかないラダックのほうが、よっぽど仮の廷臣だった。シャムシールは、スィグルに随行してこっちに赴任しているが、身分としては、タンジール王宮に仕える上級官僚の待遇なんだから。
 官僚と、そう思ってギリスは改めてシャムシールを眺めた。全然そうは見えなかった。どう見ても、道楽で絵を描いているだけの男だ。
 天才じゃなかったら、やばかったと、ギリスは思った。他になにか取り柄があるように見えない。
「じゃあ、せっかくだし、僕も賭けます」
 頷いて、シャムシールは馬を眺めた。
 どれに賭ければいいのかと、シャムシールはラダックに訊ねた。
 それにラダックはまた律儀に、馬一頭ずつの血筋やら戦績やらを解説してやっていた。
 しかしシャムシールは、その話を聞いているようには見えなかった。にこにこしてラダックと向き合っていたが、そんなシャムシールの右の耳から左の耳へ、滔々と語られる話が突き抜けて、ざらざら溢れているのが目に見えるような錯覚がした。
 それでも全て律儀に話を聞き終えてから、シャムシールは囲いの中の馬たちを振り返り、手に持っていた筆で、そのうちの一頭を指し示した。
「僕は、あれに賭けます」
 のんびり飼い葉をはんでいる、競走馬にしては、なんとなく太った感じの、白茶のまだら馬を、シャムシールは指していた。
 ギリスはラダックとともに、目を瞬いて、しばしそれを一緒に眺めた。
「あのう……」
 ラダックが眉間に皺を寄せて、言いにくそうに訊いた。
「私の話、聞いてましたか。あれは大穴というか……駄馬です。殿下が他のを買うときに、調子に乗ってついでの発作買いをしたんですが、走らせてみたら駄馬だったんです。さっき、そう言いませんでしたか。あれは一度も勝ったことがなくて、そのうち肉になると」
「馬肉はうまいよ」
 ギリスが教えてやると、シャムシールは険しい顔で頷いていた。
「うまいんですか……でも、僕はあれに賭けようと思います」
「なぜです」
 やめとけという口調で、ラダックが訊ねた。するとシャムシールは、もう一度腕を挙げて、こんどはふらふらと水を飲みに行った駄馬を、筆で指した。
「お尻のところに、模様があるでしょう。あれが何となく、兎に見えるから」
 白地に茶なのか、そのとも逆かはわからない、馬のケツのところに、確かに茶色で影絵のように、横を向いた兎みたいな文様が浮き出ていた。
 シャムシールはつくづく兎が好きなんだなと、ギリスは納得したが、ラダックは納得できないという顔だった。
「模様で走るわけじゃないんですよ、シャムシール」
「いや、そうなんでしょうけど。でも肉にされるのは可哀想なので、賭けてやろうかと」
「掛け金の額で肉になるかどうか決まるわけじゃないんです。勝つかどうかなんです」
 ぼけっとした印象のある話し方でいるシャムシールに、ラダックは噛みつくように答えていた。それでもシャムシールはにこにこしていた。
「じゃあ、勝つといいなあ」
 笑って頷く、それがシャムシールの結論らしかった。
 ラダックは開いた口が塞がらないという青い顔をしたが、それ以上なにも言わなかった。
 結局のところ、賭けるのはシャムシールで、自分の金を賭けるのだから、どの馬を選ぼうと自由だった。
 あなたは見るだけですねと、ラダックはどことなく虚脱した声色で、ギリスに念押ししてきた。馬券を買うなという意味らしかった。いつぞやの、大金を大穴に賭ける話以来、ギリスが賭けるというと、ラダックは心臓が痛くなるとのことで、一緒に来たときは馬券を買わないでくれと約束させられていた。
 シャムシールの馬に賭けてみたかったが、約束は約束なので、ギリスは仕方なく頷いた。
 では馬券を買ってきますといって、ラダックはふらふらとその場から消えた。人混みに消える、なんとなく傾いだような休日のラダックの後ろ姿を見送ってから、ギリスが目を戻すと、シャムシールはもう画帳に向かっていた。
「……描いてもいいんですよね」
 こちらの視線にぎくりとして、シャムシールはどことなく後ろめたそうに訊いてきた。ギリスは苦笑して頷いた。結局こいつは、どこにいようが、絵を描いてるんだなと思って面白かった。
 許しがもらえたという嬉しげな顔で、絵師は描き始めた。さらさらと紙を撫でる筆先は、白紙だったところに、踊るような足取りの、まだら模様の駄馬を描きだしていった。その尻のところには、もちろん兎のような模様があった。
「こいつの名前、踊る兎(ディンブルクリフ)っていうんだよ」
「はぁ、そうなんですか。知りませんでした」
 やっぱりラダックの話を全く聞いてなかったらしい絵師は、描きながら、にっこりと微笑んだ。
「俺がつけたの」
 ギリスがさらに裏話を教えてやると、絵師はやっとこっちを見た。そして、さらに、にっこりとした。
「そうですか。いい名前ですね。僕は好きです」
 ギリスはそれに、微笑み返した。そして、踊る兎を食うのもいいが、この絵師が気に入ったんだったら、もうしばらく走らせておくように、ラダックを説得しようと思った。なんなら、こいつが食う飼い葉くらいは、俺が買ってやるから。スィグルに頼めば一発だろう。あいつはとにかく、馬が肉に変わるのが大嫌いなのだ。それはたとえ、ケツに兎のいる駄馬でもだった。


 ラダックは競馬場の窓口からふらふらと戻ってきた。
 その手には、一枚の手形が握られていた。
 ラダックはそれを、なんとなく震えながらシャムシールに差し出した。
 絵師は銀箔の枠で装飾された、ご大層な手形を受け取り、ためつすがめつして裏と表を観察していた。
「大穴です」
 額に手をやり、何か縋るものはないかという雰囲気のする立ち姿で、ラダックはきっぱりと教えた。
 出走の銅鑼を聞いたあと、踊る兎はいつものように、なんとなく踊るような足取りで、どたどたと走った。ものすごく遅かった。
 賭けた馬が負けていることくらいは、勿論分かっているのだろうが、シャムシールは踊る兎(ディンブルクリフ)の走り方がよっぽど可笑しかったらしく、嬉しそうに笑いながら出走した騎影を見守っていた。
 やがて駿馬たちは、周回遅れの踊る兎を追い抜く勢いで疾走してきたが、番狂わせはその時起こった。何に驚いたのか、今となっては謎だが、些細な音かなにかのようだった。先頭を走っていた血筋正しき神経質が、突然恐慌して竿立ちになり、騎手を放り出した。
 その恐慌は後続にも次々伝播していき、集団で走っていたまともな馬たちは、みんな狂ったようになって、あっちこっちに走り出したり、騎手を振り落としたりした。
 そんな混乱の中、踊る足取りのまだらの駄馬が、のこのこ走ってきて、見事に一着で走り抜けたのだ。いや、踊り抜けたというべきか。
 観客席は怒号を通り越した絶叫だった。たぶん、その時にこにこしていたのは、その大群衆の中でも、シャムシールとギリスだけだった。
 ラダックはほとんど死体みたいだった。
 なぜ毎度、厳選したはずの馬が勝たないのか、それについてはラダックはいつも悩んでいたが、今日はその苦悩がさらに深かった。ケツに兎がいるという理由で馬を選んだやつに負けたのだから、それも当然だろうと、ギリスには思えた。
「元気出せよ、ラダック。このまま戻るのがつらかったら、飯食って帰ろう。酒付き合うから」
 項垂れて静止しているラダックに、ギリスは励ますつもりで優しい言葉をかけた。
「僕、すごく儲かったみたいなので、おごります」
 銀枠の手形に記された金額を見下ろしながら、シャムシールはなんだか良く分かっていないふうに言った。
「貯金するといいですよ……」
 暗い声で、ラダックは項垂れたまま、おどろおどろしく言った。
「公債を買うという手もあります。それに私はやけ酒くらい、自分の金で飲みます」
「どこで飲むの」
 ギリスがにこにこして訊ねると、ラダックは、ついてくるなと言った。しかし勿論、ギリスはついていくつもりだった。
 だってこいつが普段、どういうところで遊んでるのか、知っておきたいし。その店の誰かから、鬼の官僚ラダックの、意外な話が聞けるかもしれないじゃん。
「僕は帰りましょうか」
 遠慮したふうに、シャムシールが笑っていうので、ギリスはびっくりして首を横に振った。
「なんで。一緒に行こうよ、シャムシール。仲間だろ」
「でも行ったところで、僕は不調法ですよ。絵を描くしか能がないですし、気の利いた話もできません」
 珍しく苦笑して、シャムシールは鼻を掻いていた。
「そんなことないよ。ラダックが悲しく飲めるように、お前が描いてた踊る兎(ディンブルクリフ)の絵を見せてやるといいよ」
「余計なお世話なんですよ、あんた鬼ですか、エル・ギリス」
 微笑んで絵師を誘うギリスを、ラダックが青ざめた顔で怒鳴った。しかしそれは耳に心地よい負け犬の遠吠えだった。ああ、たまらんと、ギリスは思った。俺が勝ったわけじゃないけど、お前が負けるのは気持ちいいなあ、ラダック。
 そしてギリスはシャムシールの肩を押し、ラダックの首根っこを引っつかんで競馬場を出た。ついてくるなとラダックはとにかく往生際が悪かったが、とにかく土曜の午後だった。いつもなら鬼の金庫番として、藍色の官服をまとっているこの男も、今日はいかにも平民らしい、質素な濃茶の長衣(ジュラバ)に身を包んでいた。そんな私服のラダックが、部族の英雄、無痛のギリスに勝てるわけがない。
 あたかも生きているように活き活きと描かれた馬の絵を目前に置かれて、ラダックはいかにも泣きたいという顔で酒を飲んだ。それを見ながら自分も付き合い酒を飲み、シャムシールはにっこりとして、たまには競馬もいいですねと言った。
 それはどうも本音のようだったので、ギリスはまた次の機会にも、この絵師を誘ってやろうかと思った。ラダックが賛成かどうかは謎だが、そんなことは関係ない。誰をつれていくかは、俺が決めると、ギリスは絵の中の踊る兎(ディンブルクリフ)を見つめ、満面の笑みで、にっこりと笑った。

《おしまい》
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2008/11/04

銀貨三枚の矜持(5)

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 店から出た夜の街中を徒歩で行くと、そぞろ歩く大人の群れに紛れて、露天で売られている読み本を、物欲しげに見ている子供がいた。
 ファサルはそれに声をかけ、どの本が欲しいのかと訊いた。
 少年は本を指さして、盗賊ファサルの話だと答えた。
 ファサルはそれに顔をしかめたが、面白がっているようにも見えた。
 そして当の盗賊ファサルは、懐から先程受け取ったばかりの銀貨を一枚取り出して、その子に与えた。
 予想もしていなかった大金を受け取って、子供はぽかんとしていた。それはそうだろう。銀貨は大人が労働して稼いで受け取る高額貨幣だ。子供が手にするようなものではない。
 その子にも、この金を無駄に使うなと、ファサルは教えた。銀貨一枚は、一時の遊興に使えば一瞬で潰えるが、この男のように、未来に投資すれば、街を背負って立つような、立派な官僚にもなれるかもしれない。しかし、夜遊びしていて親元に帰らないと、私のような悪党になってしまうぞと、脅しとも激励ともつかない事をファサルは子供に言った。
 子供がそれをどの程度真に受けているかは、謎だった。とにかく子供は、どうしても欲しかったらしい読み本を遠慮無く買って、どっさりとお釣りを受け取ると、盛んにファサルに礼を言い、どこかへ走って帰っていった。
 そして、かつて自分を救った銀貨はまた、グラナダ市の流通へと呑み込まれた。ラダックは微笑んでそれを見た。
 やれやれと、ファサルは言って、のんびり歩き出した。
「あと五枚もあるな。再投資先を探すのが面倒だよ。まさか頭目になってまで、銀貨を撒いて歩く羽目になるとはね。その上、禁煙までさせられて、あんたは皆の言うように、本当に鬼だ」
 歩きながら、ファサルはぼやいた。
「がんばってください」
 それと並んで歩き、ラダックは真面目に励ました。ファサルはその返事に、小さく声をあげて笑っていた。
 しばらくの間、話すともなく話して一緒に歩き、やがて途中で道が別れた。それではまたと言い置いて去るファサルの後ろ姿を、少し行ってからラダックは、ふと気になって振り返ったが、人混みの中に見え隠れする背中は、すぐに紛れて見えなくなった。あたかも、夜のグラナダにかき消えたかのように。
 その去り方は、たぶん、別段なんということのない普通の別れ際だったが、英雄が颯爽と去ったようにしか、ラダックには見えなかった。昔も今も、つくづく格好良かった。
 大した幻想だと気恥ずかしく思えたが、どうせ英雄などそんなもんだった。あんな阿呆でも英雄譚(ダージ)があれば、格好良く見えるのだからと、宮殿でぎゃあぎゃあ言っていた若造の顔を思い出し、ラダックは納得した。
 あれが英雄だというなら、牛の目のファサルが英雄でないはずがない。エル・ギリスからは自分は、日々迷惑しか被っていないが、ファサルには一生涯を救われた。あの三枚の銀貨のお陰で、自分はいま仕える主もいて、命をかける夢もある。
 その負債を負っている相手が、格好良く見えないはずはない。
 今考えると阿呆としか思えないが、あの時は義賊ファサルに才を見込まれて、銀貨を貸して貰ったのだと思いこんでいた。だから英雄の期待に応えるべく、その金で真面目に学んで、立派な官吏になって、いい世の中にしなければと、素直に決意していた。そしていつか牛の目のファサルに、銀貨を返す。昼間は官吏でもいいけど、それだけだと味気ないから、時にはそれを仮の姿として、ファサルの手下になってもいいなと、うっとり考えていた。
 もちろん昔の話だ。昔の話。もうずっと昔の、ほこりを被ったような、陳腐で美しい夢だ。
 それについては極秘事項で、他の誰にも言うつもりはないが、胸に秘めているからこそ、少年の日の夢には酔いがある。
 だから今夜は酔っぱらって帰ろうと、ラダックはひとりで飲める店を探した。どこへ行くのかはまだ決めていなかったが、空には大きな月のある、気持ちのよい晩だった。
 懐かしい少年の日の、美しい思い出を抱いて、ラダックは住み慣れた愛しい街を歩いた。これが例の、夢薬の酔いかと思いながら、うっとりと微笑んで、月明かりの下を。
 そして、そういえば明日は土曜かと、ラダックは思った。
 では、エル・ギリスを誘って、競馬でも見に行こう。そして程々のところで、ファサル様が禁煙したらしいと教えてやろう。
 英雄をぶん殴るわけにはいかないが、その話はたぶん、無痛の異名をとるあの人にとって、殴られるよりもずっと痛いはずだ。
 いい気味だと、ラダックは思った。盗賊の首をとりそこねて、氷の蛇はさぞ悔しかろう。まったくあの若造は、たかが私怨のために、族長まで持ち出してきて、不敬なのだ。目論見が外れて、ざまあみろだった。
 そして笑いを堪えて歩きながら、月を仰いだ。
 それは少年の頃に井戸端で見たのと同じ、煌々と明るい、見事な満月だった。
 今夜もグラナダの薄暗い辻々には、盗賊たちが潜んでいるだろう。ばらまかれた銀貨が、月明かりに白く輝いているだろう。それは甘い煙が見せた幻影かもしれぬが、盗賊ファサルのいるグラナダの、妖しい魅力をたたえた原風景だ。この美しい夢の残り香が、この街にいつまでも絶えず残るようにと、ラダックは愛しい故郷のために、そう願った。

《おわり》
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銀貨三枚の矜持(4)

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「禁令を知らせる速報の鷹通信(タヒル)を、私が受け取ったんです。直筆じゃなかったですけど、私も着任したての小僧だったんで、それが族長の筆跡なんだと思ったんです。だって発令した人の名前のところに、リューズ・スィノニム・アンフィバロウって書いてあったので」
「あんたも案外、阿呆なんだなあ」
 ファサルに真顔で言われ、ラダックは反論できず、仕方なく頷いた。
「喫煙断ち難き者には、断頭を以て報いよと、書いてありました。それを読んで私は、なんだか、格好いいなと思えて、一瞬くらっと来まして、しばらく変だったんです」
 事実そのままの話だったが、要約して口に出すと、救いようもなく阿呆みたいだった。愕然の目でファサルに見られ、ラダックはそれがつらくなり、なんとか耐えようと咳払いして、気をとりなおして話を継いだ。
「本当に恐ろしいことでした。ご治世のうえで必要な措置だったとはいえ、私は殺される者を選ぶ仕事の一員だったんです。下っ端とはいえ、たった十五、六の小僧が、密告を受けたり、大の大人を処刑する指令書を書いたりしていました。判子を捺すのは領主でしたけど、私は今でも、後悔しているんです。あの時のことを。それで、公正でなければと、私情に走るべきではないと、いつも怖いんですけど」
「あんたはお堅すぎるくらい、お堅いんだから、怖がることなんかないだろうよ」
 ファサルは、なんでそんな事を言わされるのかという顔だった。それでも渋々と励ましてくるあたり、人の良い悪党だとラダックは思った。
「そうだといいのですが、やはり自信がないので、レイラス殿下にお仕えして、善人として生きていきたいのです。あなたも王家を恨んでいないのなら、このまま私と同じようにして、殿下の広間(ダロワージ)で、正義の味方として、生きていってくれませんか。確かに殿下は、族長と比べると、覇気がないというか、腑抜けているというか、格好良くもないですし、いかにも駄目みたいに見えますが、あれはあれで努力しておられますし、我慢できないほど駄目ということではないと思うんですけど」
 聞きながらファサルは段々、開いた口が塞がらなくなっていった。それが同意の表情か、それとも反発なのか、ラダックは見極めかねた。ただ呆れているだけに見えたからだ。
 ファサルは口に持って行きかけていた煙管を宙に浮かせたまま、眉をひそめて答えた。
「あんたも本当に言いたい放題言える人だね。仮にも王族の殿下に対し奉り、それでいいのかい。なんだかその話しっぷりが、最近ちょっと危ない快感になってきたよ」
「ええ。そんな、危ない快感もあるんで……レイラス殿下で我慢してくださいませんか」
 ラダックはとにかく勧誘した。うんと言ってもらわないと、ファサルの首を斬らないといけないのだから、こちらも必死だった。
「わかったわかった、そうしよう」
 しょうがないなと頷いて、ファサルは最後の一息を煙管から吸い、燃え残った灰を、真鍮の盆に、かつんと音高く打ち落とした。甘い薄煙をあげるその燃えさしを、ラダックは横目に見やった。これが煙屋の、燃え残りの最後の一片かと、そういう気がして。
「ただしもう魂は売らないよ。殿下が金を払ってくださる間しか、仕えないつもりだ。裏切りは王家の習いらしいからね。給料分を越えては働かない」
 ファサルは断言した。ラダックは頷いた。
「それでいいです。でも、エル・ギリスには気をつけてください。あの人はなにがなんでも、超過勤務させようとするんです」
「信じられんな、金も払わず働かせようとは、どういう了見だ」
「まったくです。信じられません」
 ラダックは悪態をついたファサルに心から同意して、なんだか満たされた気分になった。給料分を越えて働きたくないと言ったら、エル・ギリスは鬼畜生を見るような顔をして、お前には忠誠心がないのかと言っていたが、宮殿では誰しも皆そんなような、忠義に酔った顔をしていて、ラダックは怖かった。
 昔は自分もきっと、そんなような顔をしていただろうし、その時には悪党だったのだ。もっと冷静に、玉座からの障気に中らないようにして、事務的に仕えないと、また酷い目に遭うのではないかと、心配なのだ。誰かひとりくらいは素面(しらふ)の者がいないと、万が一のこともある。
 それでも結局、宮殿に連れ込まれてしまったが、誰か分かってくれる者がいて、それが少年の頃に憧れだった義賊だったので、ラダックは内心嬉しかった。
「私たちご同類みたいですね、ファサルさん」
「序列はあんたが上なんだから、呼び捨てでいいんだよ」
「そうなんですけど、どうもそれが無理なんです」
 白状すると、ファサルは目を泳がせ、妙な顔をした。
「そういえば、あんたはファサルの信奉者なんだっけね。化けの皮が剥がれた後でも、有り難みがあるもんかね」
「ありますね、正直に言って。たぶん、都合のいいところしか見えてないんですよね。エル・ギリスから話を聞いた時に、思わず殴りそうになりましたからね、嘘だと思って」
 殴ればよかったと、ラダックは後悔した。滅多にない好機だったのに、あまりの驚きで、すぐには手が出なかったのが敗因だ。
「義賊の正体は、どんな奴だったら良かったんだい」
「分かりませんけど、たぶん正体を知りたくなかったんです。謎のままでいて欲しかったといいますか、少なくとも、阿呆ではまずかったんです」
 上げた酒杯にむせたのか、ファサルは急に咳き込んだ。痛恨の表情だった。
「黙っておきますから。あなたが実は阿呆だということは、誰にも言いません。私も忘れます。格好悪いですからね」
 ファサルは項垂れたまま頷いていた。
「それはありがとうよ。私もあんたが阿呆だってことは、忘れさせてもらっていいかい。ここだけの秘密にしようや、なんだか耐え難いから。もう私は守備隊の隊長で、あんたはその上役なんだから、義賊のおはなしの読み本を見てる小僧みたいな目で、こっちを見られても参るんだよ」
 ファサルは気まずいのか、さらに麦酒を飲もうとし、その杯が空だったので、がっくりとした。
 ラダックは店の給仕を捕まえて、麦酒のお代わりを注文し、ついでに料理が飢え死にしそうなほど遅いが、料理人が突然死でもしたのか訊ねてくるように頼んだ。
 ファサルは走って戻る給仕の背を見送り、それが厨房に消えてから、こちらに半眼の目を戻してきた。
「あんたは変わった人だよね、ラダック」
 苦笑しながら、ファサルが指摘してきた。どの点を言われているのか、ラダックには分からなかった。
「そうでしょうか。あまり言われたことがないですが」
「怖くて言わないだけだろう」
 給仕があわてて運んできた新しい麦酒を、礼を言って受け取り、ファサルはそれを飲んだ。酒には別段、弱くはないようだった。そうでなければ、さっさと酔いたいというような飲みっぷりだった。
「お願いがあるんですが」
「無理だ」
 頼む前から、ファサルは即答で拒んできた。しかしラダックはそれを無視した。
「今日のあなたは、盗賊のように見えるので、私からのお礼を受け取ってくれませんか」
「礼金はいらないと言ったはずだよ」
 気にするなというように、ファサルはひらひらと手を振った。むしろ気にしないでくれというような口調が臭った。さすが義賊としか、思えなかった。金離れがいい。
「違います。武器庫の油とは別件です」
 ラダックは懐にある財布から、いつか機会があったらファサルに渡そうと思っていたものを取り出して、相手の膳の上にひとつずつ並べて置いた。
 それは蛇の紋章の入った銀貨だった。まず三枚並べ、それから、それに並行させて、もう三枚並べた。
 自分の膳に乗せられた六枚の銀貨を、ファサルは不可解そうに睨んでいた。
「なんだい、これは」
「銀貨です」
 見ればわかるという脱力した顔を、ファサルは見せた。ではこの人は知らないのか、それとも覚えていないかだと、ラダックは思った。
「昔、牛の目のファサルからもらったんです」
「銀貨を?」
 ラダックは頷いて、身の上話を語った。それは今まで誰にも話さずにおいた、秘密の話だ。
 ファサルは眉間に皺を寄せ、真面目なような、苦笑のような顔で、黙って話を聞いていた。
 それは、こんな話だった。
 昔、自分がまだ子供だった頃、両親は貧しくて、家は食うのがやっとの暮らしだったので、皆が修学する年になっても、ラダックは学校へ行けなかった。今では教育は義務化されていて、誰でも読み書きと基礎的な算術ぐらいは教えてもらえるが、当事は金を払わねばならず、市井にはまだまだ文盲の者も多い。
 学費が当事、銀貨三枚だった。貧しい者には大金だ。
 文字を習えるという学校に、どうしても通いたく思えて羨ましく、しかし両親にはとても強請れなくて、ラダックは夜中に家の裏でめそめそしていた。そこに不意に通りかかった男が、小僧、お前はなぜ泣いているのかと訊いてきた。
 事情を話すと、なんだそんなことかと男は言い、腰に提げた革袋に沢山持っていたらしい銀貨を、三枚とって、ラダックの手に握らせてくれた。
 そして、これは牛の目のファサル様からの施しだ、ファサル様に感謝して、無駄遣いするなよ、きっとそのうち良い世の中になるから、この金で真面目に学び、諦めるなと言い、月夜の闇に立ち去った。
 颯爽と、と、助けられた少年の目には、あくまでもそのように見えた。
 銀貨を握りしめて飛んで帰り、親に見せると、両親は顔を見合わせて、お前は賢いのだから、これで学校へお行きとラダックを励ました。
 その時は嬉しいばかりで疑問に思わなかったが、うちは貧しかったし、その銀貨は大いに暮らしの助けになったはずだった。それでも息子から銀貨を取り上げずに、学費に使わせてくれた両親は、勇気のある人々だった。なんせ泥棒からもらった金で、息子を就学させようというのだから。
 そうして入った学校で、ラダックは字と算術を習い、読み書き算術ができれば出自を問わず下級官吏に登用するという族長命により、試験に通って、グラナダ宮殿の下っ端の官吏として就職を果たした。
 そうする間にも、ファサルは何度か死んでいた。処刑は公開されたので、ラダックは恐ろしかったが、あの時の男ではないかと心配でたまらず、処刑されるファサルを刑場となった広場まで見に行った。
 もしも、あの時の男だったら、助けようという覚悟だったが、当人でも別人でも、助けられる訳がなかった。夜中に一時見ただけの相手の姿は、どんどん記憶から薄れていたし、きっと別人だと自分を誤魔化して、これは偽者のファサルなのだと言い聞かせた。
 実際、凄惨な処刑が行われた後にも、ファサルを名乗る盗賊は、何度でも復活してきた。その度に嬉しいような気がしたものだ。今度こそきっと、あの人なのだろうと。
 いつか立派に出世したら、あの時もらった銀貨に利子をつけて返そうと、子供ながらにそんな世知辛いことを夢想したものだったが、ここ何年も、ずっと失念していた。レイラス殿下が黄金を盗まれるのに発狂して、盗賊討伐をすると言い出した時までは。
 何とか、今度こそは止めなければと、牛の目のファサルを助けてしまった。それだけの事ができる出世を、もう果たしていたからだ。
 思えばそれまでも、自分はファサルを助けてきた。たとえば、ファサルを討伐するための兵にかかる金より、盗まれる金のほうが少ないから、討つと損をすると領主を煙に巻いてやったりして。しかし無駄に気位の高い殿下にはそれが通用せず、あのときは肝が冷えた。
 やがて、すったもんだの挙げ句、ふん縛られたファサルが宮殿に拉致されてきたが、その時もまだ気がつかなかった。やっと、背筋を打たれるような驚きを覚えたのは、謁見の間でレイラス殿下が尋問するため、目を開いたファサルが牽かれて来たときだ。
 あの時の、銀貨三枚の男だと、確信めいた閃きを覚えた。暗がりに月明かりで、良くは見えていなかったが、あの男はなんだか奇妙な目をしていた。右と左で、違う色をしているようだった。片方の目だけが、月明かりの下でも、煌々と星のようにきらめいていた。
 彼こそファサルと、その場では直感的にそう思えたのだ。
 その男が宮殿の広間で、我が儘な殿下に言いくるめられているのを見守りながら、運命の不思議を感じたものだ。どうやら自分は、昔の恩を返したらしいと思って。
「でも、あんた、あの時私の言い値を値切っただろう」
 ファサルは明らかに非難する口調だった。ラダックは眉をひそめた。
「それとこれとは話が別です。ふっかけすぎだったんです、二万というのは」
 そこは譲れないと思って、ラダックはきっぱりと答えた。
「金銭というのは、大事なものなんです。それで運命の変わる者もいるのです。だから、一銭たりとも無駄にはできません」
「それはそれは、ずいぶん立派な官吏になったようだね」
 苦笑とも、喜んでいるともつかない笑みで、ファサルは嫌みったらしく褒めた。
 ラダックはそれに、さらに眉間に皺を寄せた。
「私のことを、憶えているんですか。やはり、あなたがあの時の盗賊だったんですか」
「いいや、全然憶えがない。そんなの盗賊とは限らないじゃないか。財布の紐に締まりのない酔漢かもしれないし。だいたい、夜の夜中にちびっこい餓鬼が、哀れっぽく井戸端でめそめそ泣いていて、銀貨三枚で助かるというんだったら、それくらいくれてやる奴はごまんといるだろうさ」
「いませんでした。それに私は、井戸端で泣いていたとは言っていません」
 ラダックが早口に論破してみると、ファサルはがっくりと項垂れた。
「……調子が悪い。これっぽっちで酔ったんだろうか」
「銀貨を受け取ってください。三枚は利子です。倍は破格ですが、出世払いですから」
 ファサルはもう話す気がなくなったらしく、うんうんと頷いて、膳の上の六枚の銀貨を、大人しく懐に仕舞ってくれた。ラダックは微笑して、それを眺めた。
「返さなくてもいいんだよ。ファサル様はあの頃盛んに、銀貨をばらまいていた。民心を掴んで、反乱を起こすつもりだったんだ。だからまあ、言うなれば泡銭なんだ。必ず返すと言っていた者は多いけど、律儀に利子までつけて返金してきたやつは、あんただけだよ、ラダック」
「私は真っ当なんです。借りたものは返すのが常識です。私は物乞いではないですから、施しは受けません。あなたは私に投資して、利子を得たんです。そこからまた困っている誰かに、投資してやってください。その正体は守備隊の隊長でもいいですけど、またある時はグラナダの義賊として活躍することも、忘れちゃいけません。この街には牛の目のファサルが必要なんです」
「そんなの必要ない世の中を作るんじゃなかったのかい」
 心底びっくりした声で、ファサルが訊いてきた。まったくその通りで、ファサルの指摘は論理的に辻褄が合っていたが、そういうことが気にくわないのは、ラダックには珍しいことだった。
「それとこれとは、話が別です」
 また、きっぱりと教えてやると、ファサルはあんぐりとして、もう何も言わなかった。
 本当に何も言わず、給仕の者が恐縮しながら持ってきた料理を、黙々と平らげた。
 それと向き合って、自分も黙々と食べ、ラダックはファサルに食事代を奢って店を出た。
 絶対に奢られたくない、新たな借り貸しの生じないように、けちくさいが割り勘でいこうとファサルは言っていたが、ラダックはそれを無視した。こちらが呼びつけたのだし、接客する側が支払うのが道理というものだ。それに、小額とはいえ長年借りのあった相手に、小額とはいえ貸しを作れるのは、いい気分だった。
 ファサルは何があっても返金すると決意していたが、ラダックは受け取るつもりはなかった。そのための言い訳として、家屋敷を抵当に入れてもらうような、莫大な利子でも請求してみようかと決めた。

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銀貨三枚の矜持(3)

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「あなたが調合した、夢薬なる悪質な麻薬(アスラ)に、族長が深く傾倒なさって、えらいことだったらしいと、エル・ギリスが言っていました。あなたには、王族に悪い薬をすすめる、危険な趣味があると」
 そう言われて、ファサルは小声で笑った。
「趣味ではないよ。それが私の、仕事だったんだ。当事は真っ当な稼業だったんだよ、禁令よりも前のことなんだからね。家業を継ぐ跡取りとして、私も誠心誠意頑張っていたんだよ」
 煙管をくわえ、白い煙を吐いて、ファサルは過去を見つめる遠い目をしていた。
「皆が頼みにしていた、当代の族長を中毒させて、それで気は咎めなかったんですか。あなたは害のない、気晴らしの薬を納めるようにというご命令を受けて、それを上納していたのですよね」
 思わず弾劾する口調になる自分を抑えようと、ラダックは苦労した。ファサルはそれを、苦笑して聞いていた。
「害はなかったよ。私は自分で吸って、試したんだから、間違いない。ただ人によって、効き具合に差があったんだ。族長は薬のよく効く体質のお方だったんじゃないか。体質というより、気質かもしれないな。殿下を見てると、そう思う。陶酔しやすく、耽溺しやすいお血筋なんだ」
 自分のせいではないと、この人は言いたいのだろうか。ラダックはそう感じ、不愉快になって顔をしかめた。
「あなたはそれに、当事も気づいていましたよね。なのになぜ薬の配合を、徐々に強めたんですか」
 エル・ギリスはそう話していた。族長の命に別状はなかったが、次第に深く耽溺し、妙な幻覚を見たりして、精神的に錯乱し、その身を案じた側近には死ぬ思いをさせたと。
「耐性がつくから、それも考慮しないと、効かなくなるんだよ」
 もっともらしく答えてから、ファサルは睨むこちらの目に、面白そうなふうに、また苦笑を見せた。
「それに時折ね、お褒めの言葉が届いたんだ。大変良かった、また参れと。もっと強くしたのを、もっともっとと、お強請りになるんだよ。私もその頃はまだ、二十歳にもならない若造だったんだ。高貴のお方にそんなことを言われて、こっちも脳天に来て、調子に乗ったんだろうね。たまらん感じがしたんだ、なぜかな、玉座を拝んだこともないのに、そこに座っているお方に、手が届くような気がしてね。それが忠義と、張り切ったんだよ」
「張り切っちゃまずかったですね」
 ラダックが渋面で指摘すると、ファサルは笑って頷いた。
「そうだねえ。若気の至りだよ」
 素直にそう認めたファサルの話に。ラダックは深い安堵を覚えた。そうだ。誰にでもそれはある。若気の至りだ。
 ファサルの手にある煙管から、ゆっくりと燻(くゆ)っている煙は、そのたなびく様子さえ、典雅なようだった。それが、かつては、玉座に座る者が燻らせた薫香かと思えば、なおさらのことだ。
 族長だって、その当時は若かった。十八で即位され、ファサルの夢薬に酔った時も、まだほんの、二十歳にもならない若造だったのだ。それが全部族領からの、あんな陶酔の凝視を一身に浴びて立ち、偶像として微笑み、正気でいられたことのほうが、自分の身に置き換えて考えると、むしろ異常だと、ラダックには思えた。
「あの夢薬はね、いい思い出を呼び起こす効用のある麻薬(アスラ)だったんだ。過去に味わった幸福や喜びを、思い起こさせるようなね。それで少々心地よくなって、気が晴れるという、そういう案配だった。なにが幸せな思い出か、それは人それぞれで、だから効果のほどには、個人差があった」
 ファサルはその当時を懐かしく回想する目で、しばし沈黙した。
「だけどね、一つ言えることは、あれは幸せな者には耽溺しようのないものなんだよ。過去の美しい思い出に縋るのは、今が不幸な者だけだろう。私は当時、裕福な商家の跡取りで、苦労というほどの苦労はなかった。だから自分で試しても、見る夢は他愛もないもので、私はなんともなかったが、同じ薬で族長が深く酔われたという話を聞いて、不幸なお方なのだとお気の毒に思った。それで求められるまま、薬を強くしたんだよ。せめてもっといい夢を、ご覧になれるようにと」
 族長が一個人として、どういう人で、どんな感情を持っていたか、ラダックは考えたことがなかった。当時は特に、族長リューズ・スィノニムは、燦然と輝く偶像だった。そこに、ありきたりの人としての弱さであるとか、不幸であるとか、そんな暗く陰るような部分があることを想像してみようとさえ、思いつきもしていなかった。
 自分にとって族長は、服従するものであって、労るべきものではなかった。
 一臣民の身で、それを思うのは不敬だ。族長は完全無欠と、信じるのでなければ。
 だから結局ファサルは、禁令が発されるより前から、罪人だったのだ。偶像を破壊しようとした。そして、もしかしたら、今もそうしようとしている。同情と労りによって、人を弱くし堕落させる、そういう悪い煙みたいなものだ。
 それが王族には、受けがよかったのかもしれない。グラナダ宮殿でそうであるように、タンジール王宮においても、ファサルのような甘い耽溺を与える者は、高貴のお方にとって貴重で、寵を垂れたい相手なのかもしれない。
「その煙管、族長からの下賜品ですよね」
 ファサルは手の中の赤黒い煙管を見下ろし、頷いた。その色は乾いた血のようだった。
「そうだ。これが結局、最後だったろうか。嘆息堪えがたき快美ゆえ、また参れと、礼状が添えられていた。でも、その後すぐに、禁令を発されたんだ。気まぐれなお方だよ。お陰で私は悪党にされ、家業は廃業になり、家族とも別れ、果ては本物の悪党に。それがまた王族に拾われて、忠節を尽くせというのだからね。殿下も今は罪のないにこにこ顔だが、先々どうかわからんよ。なんせあの名君の子だ。悪い薬で酔っていただいて、裏切れんように中毒させるのが良いかな」
「エル・ギリスが心配しているのは、そこです」
 ラダックは鋭くそれを教えた。ファサルは人の悪い笑みをして、そうだろうという顔だった。どうもこちらの意図を察して、話を向けてきたように見えた。
 しかし冗談ではすまない話で、ラダックは真剣に訴えた。
「そんなことを、しないでください。殿下は堪え性のない方なので、いったん耽溺しはじめたら、行き着くところまで行くと思います。あの殿下が、お父上から斬首刑を賜るのでは、あまりにお気の毒だと思いませんか」
「あまりにお気の毒だねえ」
 頷いて同意し、ファサルは苦笑しながら酒杯を上げた。こちらの話を真面目に聞いているのかどうか、怪しいような態度だった。
「お気の毒ですよ。やめてくださいね。そんなことをしなくても、殿下は誰も見捨てはしません。そういうお方だと思います。殿下の広間では、誰も皆、正義の英雄になれます。あなただってそうです。それを信じて、忠誠を尽くしてくれませんか。その結果として、捨て石にされても、それはそれで、忠義ではないですか」
 早口に話す勢いで言っていて、恥ずかしくなってきて、ラダックは項垂れた。ファサルが、はははと軽い笑い声をあげた。
「それは献身的だな。捨て石にされも恨まないなんて、そんな都合のいいことが、あると思うのかい」
 そう言うファサルの指には、赤い煙管が、酔うような甘い香りの煙を燻らせていた。なぜファサルはそれを、捨てなかったのか。王都を命からがら追われるような時に、たまたま持って逃げたというのか。
 それは一種の象徴だ。彼の王宮時代の、あるいは名君と煙屋の間をつなぐ、細くたなびく夢薬の白い煙の。それによってファサルが忠節を尽くした頃の。
 だからまだ、望みはあると、ラダックは思った。
「私なら恨みません。政治には、大義というものがあります。それを理解して、犠牲になるのも、忠節かと思います」
 ため息を堪えて、ラダックは膳を睨んで答えた。ファサルはそれを聞いているようだったが、同意するでなく、異論も唱えなかった。その、かすかに笑っているような、悪党の片目を、ラダックは見つめた。
「あなたは族長を恨んでいるのですか。それで仕返しに、ご子息である殿下を、同じ煙で酔わせて、廃人にしようと?」
「いいや。それは思い過ごしだよ。麻薬(アスラ)と言っても、様々あるんだ。全部が全部、廃人になるわけじゃない。実際、私はなってないだろう。族長も、あのまま夢薬を使い続けておられても、実は何ともなかったに違いないよ。私はちゃんと、配慮をしたんだ。玉体を害そうなんて、滅相もない。慣れない治世でお苦しみの族長に、ほんの一時でもお心安らかになっていただければと、煙屋の小倅なりの、精一杯のご奉公だったんだよ」
 断言するファサルの手からあがる薄煙を、ラダックは見やった。
 それは本当に、いい匂いだった。ほかの煙はラダックにとって、いやな匂いだったが、この香りならば、常に香っていても、不愉快でない。
 それはファサルの匂いで、身だしなみの薫香だと信じていたが、実はそれと装った、人を耽溺させる麻薬(アスラ)だったのだ。
 この悪党はそれを常用していながら、この薫香のために、誰にもその罪を気取られずにいた。ファサルのような、都びた風雅な趣味人なら、金満に愉しみ、衣服に香ぐらい焚きしめるだろうと思ったからだ。
 しかしそれが、禁制の煙を焚きしめた薫香だと分かったからには、やはり野放しにはできない。この人が何者か、確かめないわけにはいかない。殿下の忠実なる盗賊か、それとも今でも、王都の煙屋のままなのか。
「族長を、恨まないでください。禁令は必要でした。命令書も、ただ、どうしても喫煙をやめない者を処刑しろというだけの内容でした。あなたや、あなたの家族を虐げたのは、族長ではないです。その禁令を拡大解釈した、別の者たちです。恨むなら、その者たちを恨んでください。あなたが復讐しなくても、すでにもう、その者たちは、罰を受けています。王都であなたの生家に焼き討ちをした者たちは、その後に殺人者として処刑されました。他ならぬ族長ご自身の、ご命令によってです。あなたの不幸も、復讐も、全てもう、とっくに終わった過去のことです」
 うったえるこちらを、ファサルは片方だけの目で、じっと見つめて押し黙っていた。
 そんな恨みを、新しい希望の星にぶつけられては困る。
 もう十分に、罰は下された。殺人者として処刑されなかった者も、悪夢で眠れない夜を、幾夜も震え上がって過ごした。自分も何度、首のない粛正の犠牲者に取り囲まれ、断頭される夢を見たか。
 それから飛び起きる時の身の震えに、嫌が応にも酔いから醒め、後悔だけが募った。せめてもの罪の償いに、謙虚に民に献身して、職分を逸脱せず、無欲に正しく生きていこうと、それで何かの許しが与えられるならと、日夜願わずにおれないほどだ。
 怠けず溺れずを心がけて、いくら冷徹に勤めても、少しも償った気がしなかったが、今回の件では目が覚めた。自分はもともと溺れる質だ。必死で頑張るのが一番性に合っている。ただ今まで、それをやっても害のないものが、見つからなかっただけだ。
「見るからにヤワなあんたが、あの粛正の、首切り役人だったとはねえ……とんだことだよ。鬼のラダックが、頭のいかれた族長派とは」
 いかにも面白そうに、ファサルは皮肉めかして独白した。
「過去形ではないです。私は今でも、禁令の監査役から解任されていません。代々の上役が、任を解くのを忘れたまま、栄転しちゃったんです。だからもしもあなたが禁を犯しているのを見つけたら、首を斬らないといけません。しかし私はそれが、嫌なんです。ですから、どうか、禁煙してもらえませんか」
 ラダックが頼むと、ファサルはしばし、あっけにとられた顔になり、それから手の中の赤い煙管を見つめて、やがて声を上げて笑った。何がそんなに可笑しかったのか、ファサルはくつくつと腹を振るわせて、長いこと笑っていた。
「その話、殿下にはもう、お話ししたのかい」
 ファサルは笑いを引っ込めつつ、おそらく真面目に訊ねてきていた。ラダックは、首を横に振った。
「いいえ。していません。話さないでください。そんなことを知ったら、好奇心の強い殿下のことで、夢薬を吸わせろと言いだすかもしれないんで」
 ラダックは本気でそれを心配していたが、ファサルは意外だという顔をした。
「まさか。お父上が禁じておられるものに、殿下が手を出すわけがないよ」
「そうでしょうか……」
 そう言われれば、そうだった。
「そうさ。名君リューズ様のご意向に反するなんてのはね、けしからん。禁令はご英断だったのだよ。確かにあの当事、部族領に蔓延していた麻薬(アスラ)の中には、人を死ぬより悲惨な目にあわせるものも多々あった。節制のない煙屋が、金儲けのために、どんなに危ないのでも平気で売ったからね。どこかで歯止めを効かせる必要があったよ」
 話すファサルの眉間には、淡く皺が刻まれていた。見るのもおぞましいものを、かつて見たことがあるというような表情だった。それに怖気でも立ったのか、ファサルは小さく首を横に振ってから、話を続けた。
「リューズ様は、ご自身でも相当に耽溺しておられたのに、そのお体で煙を断とうとおっしゃるのだから、大したものだったのだよ。きっとお苦しみだったろうけど、殿下のお話じゃ、お父上は殿下の知る限り、全く喫煙なさらないというのだからね。さすがは強い意志のお方なのだよ」
 静かな熱弁をふるうファサルの話に、ラダックは思わず共感して聞き入ったが、やがて盗賊がやれやれと酔っぱらったふうに押し黙ったので、ふっと我に返った。
 ファサルはまだ、煙管を吹かしていた。その目は冷静そうだったが、酔っているのではないかと、ラダックは思った。冷静そうに見えて、この人も、実は熱血なのではないのか。昔の自分や、もしかすると今の自分も、そうであるように。
「まさか族長が、好きなんですか」
 思わず批判する口調で訊くと、ファサルは顔をしかめた。
「悪いか」
「いえ。悪くはないんですけど、間抜けだなと思いまして。だって……」
 言っていいのかと、ラダックは一応遠慮した。他の相手なら気にせず言っただろうが、ファサルはなんといっても市民の英雄で、憧れの義賊だった。さすがのラダックも、少々気後れして、舌鋒が鈍った。
「だって、なんなんだ。言いかけたことは全部言いなさい。気になるじゃないか」
「じゃあ言いますけど……だって、族長はあなたを捨て石にして、悪党にしたんですよ。今だって、夢薬を断ってないんでしょう。それがばれたら、斬首なんですよ。そういう立場にありながらですよ、名君を讃えて大演説というのは……阿呆なんですか、あなたは」
 言っちゃった、と思いながら、ラダックは言った。
 でも、あまりにも本音すぎて、すっきりはしたが、後悔は湧かなかった。
 ファサルは悪酔いして頭でも痛いみたいに、胡座した膝に肘をついた手で、頬杖をつくようにして、こめかみを押さえていた。
「阿呆とはなんだ、恨むなと頼んでるのは、あんただろう。阿呆ではないよ。あのね。私は族長閣下の忠実な臣民だったんだ。命を賭してご奉公と、本気でそう思っていたんだよ。そういう時代だったんだ。正直言って、恨んだこともあったがね、結果を見れば禁令の正しさは一目瞭然だった。お陰で今もいい時代だろう。そこから振り返ってみると、リューズ様は結局、優しいお方だったよ。顔も見たことのない商人の小倅にまで、いちいち礼状をお書きになって、褒美までくださった。なんというか、身に余る栄誉だったと……」
 ファサルは早口にとうとうと長い言い訳をしたが、やがて言いよどんで、今度は酔いを振り払うように、また小さく首を振った。それからこちらを見て、ラダックに頷いてみせた。
「どうせ阿呆だよ。そういう阿呆の気持ちは、あんたに分かるまい」
 拗ねたように、ファサルは目を伏せ、顔をしかめて言っていた。ほとほと自分がいやだというような表情だった。
「いえ。分かります。分かるんで、あなたがもし族長を恨んでたら、説得しようかと思って意気込んで、お呼び立てしたんです」
「なぜ分かるんだ。あんたみたいな若造が」
 ファサルは驚いたような、怒ったような口調だった。

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銀貨三枚の矜持(2)

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「礼金などいらないよ。実費は予算からいただいた。同じ主君に仕える誼(よしみ)じゃないか。他人行儀はよしなさい。それともあれか、私はあんたにとっても、まだまだ仲間ではないのかねえ」
 皮肉に笑う顔で、ファサルは言った。ラダックは居心地が悪かった。
「そうではないです。ただ、これは殿下からのご命令ではなく、私からの個人的な依頼でしたので」
「それで個人的な謝礼ということか」
 納得したふうに、ファサルは頷いて、なにか計算するふうに、横目に天井を見やった。
 やがてその青い目が、あたりを眺め、お喋りに打ち興じる人の群れを経て、こちらに戻ってきた。
「でもね、やはり要らないよ。あんたは個人的な忠義心からやったんだろう。だったら私も見習って、個人的に殿下への忠節を尽くしたことにするよ。だいたいあれは、私にとっては、大した苦労でもないんだ。昔の誼(よしみ)のあるつてを辿って、軽く一声かけさえすれば、自然と集められるような品物なんだよ。人にやる手間賃は、ちゃんといただいたし、損益はない。むしろあんたのほうが、沢山冷や汗をかいたんだろう。麦酒でも飲んで、乾きを癒やしたらどうだろうね」
 杯をあげろと飲む真似をする指で促され、ラダックは苦笑して、麦酒の杯を膳からとった。
 酒は嫌いではなかったが、ここでファサルと酔っぱらうのも妙だと思えた。
 本来なら、同じ仕事をやりとげた間柄として、完遂を祝うささやかな酒宴といったところなのだろうが、ラダックはそういうつもりでファサルを呼びつけたのではなかった。
「ひとつ、ふたつ、お話したいことが」
 手に取った酒杯に口をつける気になれず、ラダックはそれを膝の上に持ったまま、泡の消えかけている黄金色の水面を見下ろした。
「なんだろうね」
 ファサルは諦めて、煙管を吸うことにしたらしかった。
 酒杯の縁から目を上げて盗み見ると、赤黒い軸をした銀の煙管に、膝の上で新しい葉を詰めながら、ファサルはこちらを見ずに聞いていた。
「エル・ギリスが、あなたの素性を調べました。私にもそれを、教えてくれました。それで個人的に、どうしても気になったことがあったので、内密にお訊ねしたいと」
 ラダックが話を切り出すと、ファサルはこちらに目を向けた。その顔が笑っていなかったので、ラダックは口ごもり、自分の肩に力が入るのを感じた。
「あなたは、タンジールの生まれだったんですね。盗賊になる前は、王都の商人だったとか。名前ももちろん、ファサルではなかった」
 身の上話をしてくれと、水を向ける口調で訊くと、ファサルはにやりと、皮肉な笑みを浮かべた。だがそれは、いつもの盗賊の親玉の、人をからかう意地悪な笑みではなかった。おそらく自嘲したのだろう。そんな気配のする、憂いを帯びた顔だった。
「無粋な奴だね、あの若造は。正体不明が売りの義賊の、ちんけな正体を暴いてみせて、一体何になるんだか」
 してやられたふうに文句は言ったが、ファサルは怒ってはいないようだった。いつかはこうして、素性が知れることは、前々から覚悟していたらしい。とうとう来たかというような顔だった。
「もう知っているのに、私の口から身の上話を聞きたいのかい。とんだお涙頂戴だね」
「エル・ギリスが耳に入れてきたのが、本当の話なのか、あなたの話と照らし合わせて、真偽を確かめたいんです」
「それは慎重だ。しかし私も小僧と同じで、自分に都合の良い嘘ぐらいはつけるよ」
 ファサルはそう言って、煙草盆に用意されている火種に身をかがめ、煙管に火を入れた。そしてファサルが一息吹かすと、ぷうんと甘い、古い香木を焚いているような、典雅な煙の匂いが、一時強く立ち上ってきた。
 それはファサルの匂いだった。初めは衣服に焚きしめた香だと思っていたものは、どうもそうではなく、ファサルが喫煙しているこの匂いが、身にしみついたものらしい。
 どこか王宮を思わせるような、気品のある香りで、ファサルにはよく似合っていたが、それを赤い煙管で吸うのでは、あまりに不敬なようだった。赤は王族の色で、ファサルの使う煙管は、限りなく黒に近く色を落としてあるものの、やはり赤かったからだ。
 エル・ギリスも、はじめはそれが、ずいぶん気になったらしい。気になるだけでなく、激怒していたこともあった。盗賊ふぜいが、王族めいたことをやるのは、許し難いというのだった。
 確かにそうだが、殿下がそれを気に入っていて、案外喜んで眺めているので、さすがのエル・ギリスでも、もうどうしようもない。
 悔しいので、ファサルの素性を調べてやろうと、それで思い立ったような節がある。いずれ調べねばならないが、どうせ調べるなら腹いせも兼ねて、卑しい身分の出であるような、尻尾を掴んでやろうと思ったようだ。
 そして調べ上がってきた話は、どことなく驚かされるものだった。
「嘘でもいいですが、調べれば分かることです。できれば無駄な調査費を使わせないでください。同じ玉座に仕える仲間同士です。この際、腹を割って身の上話を」
「そうか、では、座興に話してやろうかな。あんたは調書でもとるがいいよ」
 ふうっと人のいない風下のほうに、吸った煙を細く吐き出して、ファサルはかすかな酔眼で言った。まさか麦酒一杯で酔ったのかと、ラダックは不思議に思った。もしもファサルが下戸だったら、それも意外な一面だ。
 ファサルは時々煙管から吸いながら、どことも知れない人の群れを見やって話した。
「私の生家は、いわゆる王都の煙屋だった。あんたの年で知っているのかどうか、つまり、麻薬(アスラ)を商う商売のことだよ。うちは代々、王宮の御用達で、王族の皆様が嗜まれるための、典雅な趣味のから、戦陣で兵にばらまくような、脳天に突き抜ける配合まで、一手に任されていたこともあったんだ」
 ラダックはファサルの話を、頷きながら聞いた。そこまでは、エル・ギリスの話と一致しているという意味で、頷いているのだった。
「あんたは麻薬(アスラ)をやったことはあるのかい。あんたなら、禁令が発される前でも、悪餓鬼ならもう、好奇心で吸うような年頃だったろうかな」
 ファサルはこちらを眺めてきて、ラダックの年を当て推量したようだった。ラダックはそれに頷いたが、それは麻薬(アスラ)の喫煙に経験があるという意味ではなかった。年齢の話だ。
「私は煙管を吸いません。麻薬(アスラ)も無縁でした。うちは貧しかったので、食うのがやっとで、そんなものに手を出す余裕はありませんでした。禁令が発布されたのも、ちょうど官僚として採用されて、宮殿に仕え始める頃でした」
「それじゃあ、せっかく出世して、一発きめようという時に、お預けを食らって、未だに初(うぶ)のままか。それはさぞかし、恨めしかっただろう」
 ファサルの軽口に、ラダックは思わず伏し目に視線をそらし、笑いをこらえる微笑になった。
「いいえ。私は熱心な族長派でしたので、発された禁令を徹底的に浸透させるために、日夜働いていました。グラナダ宮殿の隅々から、悪い煙を追い出そうとして、必死でしたよ。大体、帳簿を預かる経理官僚までが、麻薬(アスラ)で朦朧としながら計算尺を使うなんていう不届きは、私には絶対に許せなかったのです。それは民から徴収した血税で、多くは国庫に納入されるものでした。そして侵略者と戦う族長のための戦費となる、神聖な銀貨だったんです」
「族長派か」
 煙管を口の端に銜えたまま、ファサルは納得したふうに言った。おそらく話の先を読まれたのだろう。ファサルはまた、自嘲の笑みだった。
「それで私を、吊るし上げようっていうんだね。領主様になり代わって?」
「そうではありません。それに、麻薬(アスラ)の禁令に背いた場合の処罰は、斬首です」
 ファサルが知らないはずはないその事実を、ラダックは口にした。
 知っているという返事の代わりに、ファサルはにやりと笑った。
 彼が今、目の前で吸っているのは、麻薬(アスラ)だった。エル・ギリスがそう言っていた。ファサルのあの匂いに、覚えがあると思って調べたら、的中だった。いざという時には、それをねたにして、ファサルの首を落とせると。
 かつて族長が発した禁令は、当然今でも有効であり、麻薬(アスラ)を喫煙したことが明るみに出れば、審問の後に斬首刑に処せられる。審問で許され、治療に回される者もいたが、それは取調官の胸先ひとつに任されていた。
 発令当初には、熟れた果実を収穫するがごとくに、連日の斬首刑が各都市を震撼させ、熱狂させもした。グラナダでもそれは同じだった。摘発と処刑はグラナダ宮殿の官僚たちが行っていたが、他ならぬその宮殿の中にも中毒者はおり、内部告発が絶えなかった。
 昨日まで文机を並べていた者を告発し、官僚が官僚の首を切る時勢だった。
 どうしても薬を断てない者は、殺すしかなかったのだ。
 どうせもう、後戻りできないところまで来ていた連中で、遠からず死ぬのようなのだった。そんな連中が軍にも官にもいて、部族領のあらゆる場所で、統治のための機構を混乱させていた。
 そんな有害な末期患者たちに、制度による速やかな死を与えつつ、転げ落ちる首を見せしめとして皆に眺めさせ、まだ間に合う者たちを震え上がらせて、麻薬(アスラ)を断てと警告を与えるのが、おそらく玉座の意図だっただろう。
 今思えば恐ろしいことだが、ラダックはその時には何の疑問も感じなかった。族長のご英断だと思った。悪しき煙を絶ち、暗君の時代の迷妄から、一刻も早く立ち直り、侵略者と戦わなければならないという、当時の理想論の矛盾のなさに、深く納得していた。
 そのころまだ十代の半ばを過ぎたばかりで、自分は若かった。冷静なつもりでも、実は熱く血がたぎっていて、それが忠義であり正義と、心底張り切っていた。実際はただの人殺しだというのに、愚かにも、それに気付いていなかった。これは浄化だと信じ、必死で粉骨砕身したのだ。
 そして今また久々に、目の前で禁令に背いている者を見つけた。薄煙をまとったファサルを、ラダックは渋面で見つめた。もしもこの男を見逃したら、過去の自分と辻褄が合わない。かつて粛正の申し子だった頃の、鬼のラダックと。
「まさか今さら私の首を斬ろうというのか。自分でファサルの命乞いをしておいて」
 驚いたという顔で、ファサルは胡座した膝に頬杖をついていた。盗賊の青い目が、笑みもせず真面目に見返してくる凝視を、ラダックは首をすくめて苦笑しながら受けた。
「そういうつもりはないです。あなたはグラナダ市民の英雄の、牛の目のファサルで、私にとっても英雄であることに、変わりはないです。助けたものを、殺しはしません。それにもう、密告も処刑もたくさんです。私は計算屋で、人殺しではありません」
 ラダックのその返答を、ファサルは毒のある笑みをして聞き、分かった風に頷いていた。
「英雄だって? まだそんな事を……」
 苦笑の顔のまま、こちらから目をそらし、ファサルは赤い煙管から、禁じられている煙を深々と事も無げに吸った。そしてその煙管の先で、こちらを指すようにして言った。
「ははん、わかったぞ。思うにあんたは、善人でいたいんだな。とにかく正義と思えるものに、ふらふら酔っぱらう質なんだろう。それは安上がりでいいよ。正義は只(ただ)だし、それに麻薬(アスラ)より深く酔える。だけどこの際言わせてもらえば、麻薬(アスラ)が殺すのは酔っぱらった本人だけだが、正義に酔ったようなやつらは、自分ではなく、他人を殺す。あんたのようなのも、当時は立派に人殺しだったよ」
 ファサルの口調は意地が悪かった。偽善をとがめる気配が言葉の端々にあった。それは粛正の嵐によって、不運な末路を辿った者の言い分だった。
 ファサルの家族は禁令のあおりで、部族に害をなす悪党として迫害の対象となり、離散していた。ファサルが知っているのかどうか、それは分からないが、とにかくエル・ギリスの調べた限り、彼の血筋の者で、その後も生きているのは、本人だけとのことだった。
 ファサルは二十代の初め頃に迫害を経験し、王都を逃れて、他に行き場もなく、グラナダの盗賊に紛れたのだろう。そしてその悪党の群れは、義賊ファサルの率いるものだった。
 やがてそこで序列を極め、過去の名を捨て、自分自身が牛の目のファサルとなった。
 商人から悪党へ、悪党から盗賊へ、盗賊から英雄へ。そして今は、殿下の忠実なる僕(しもべ)。それが目の前の男の変転だ。
 数奇な運命だ。ずっと書類を書き、銀貨を数えていただけの自分と比べたら。しかし人はどこにいても、悪党にはなれる。そして、おそらくは、善人にも。
「あの粛正が偽善だったと言いたいなら、確かにそうですね。結局、都合が良かったんです。新時代に染まぬ古株はみんな、麻薬(アスラ)に耽溺していましたし、禁令にかこつけて、上につかえている堕落した者たちを、一掃することができました。それで汚職も止み、官の機構も蘇り、グラナダ宮殿の風通しは、格段に良くなったんです。それは軍でも、王宮でも、どこでも、きっと同じでしたよ。経過は悪かもしれませんが、結果は善だったでしょう。問題があったのは、時々、やりすぎだったことです。罪のない人まで死にました。それについては、深く反省しています、当時に関わる一人として」
 麻薬(アスラ)にどこまで酔えば手遅れなのか、自分では経験のない者には、分かりにくかったのだ。訊ねようにも、専門家はもういなかった。詳しかった煙屋たちは、迫害を恐れ、あるいはその中で殺害されて、とっくに離散していたからだ。
 禁令を伝える命令書には、こう書かれていた。度々の警告や治療も虚しく、喫煙断ちがたいという者には、断頭をもって報いよと。それは粛正を正当化する文書だった。
 族長は何と、頭の良い人かと、ラダックはそれを見て思った。それに遊び心もある。煙を断てない者の首を断てとは、なんて気の利いた命令書だろう。残酷だが、それは王族ならではの美徳とも思えた。行うべき正義は、それが多少なりと残酷であっても、行われるべきなのだ。玉座の御意を汲んで、高貴なる御手に代わり、命令を細大漏らさず実行するのが、官の勤めであり、それこそ忠義と思えた。
 何故あの頃、それを怖いと思わなかったのだろう。
 確かにファサルが揶揄するように、ほわんと何かに酔うような心地で、新しく昇ったばかりの希望の星に、心からの忠誠を尽くす夢に陶酔していた。皆そうだったのだ。そういう時代だった。
 新たに当代の玉座についたお方は、まさしく太祖の生まれ変わりで、稀代の戦上手で、計略の天才で、深く民を愛し、侵略と敗北に喘ぐ部族を、勝利に導くことができる、史上稀に見る名君と、皆が信じていた。その考えは、飢えた体に沁みる、甘い蜜のようなものだった。
 今もそれは根本としては変わらないが、あの当事の部族領を包んでいたその空気は、もっと激しい熱病のようなものだった。姿も見えぬ新族長に皆が心酔して、命を賭してお仕えしたい、目映く輝く名君の戦場で、いっそ死ねたら本望と、誰しも本気で思っていたのだ。
 経理官僚となったからには、金庫が我が戦場と思い定め、自分もたぶん必死で仕えてきた。見たことのない相手に。グラナダの民に。部族に。そして、稀代の名君に。
 そんな名君の血筋を引く殿下が、グラナダ領主に御自らご着任と聞き、どんなのが現れるかと期待していたら、あんなのだった。
 実は初め、レイラス殿下を見たとき、ラダックはがっかりした。絵にあるような太祖に全く似ていなかったし、それに、座学の出来の良さに自惚れた、口先だけのお坊ちゃんだったからだ。
 結局、名君の血は一代限りなのかと、まず最初には落胆し、やがて、そんなことが許されるかと腹が立ってきた。
 エル・ギリスは大真面目に、レイラス殿下が次代の星だというし、もしも万が一、こんなのが即位するのだったら大事だと思った。名君の登場によって折角持ち直した世は、どうなってしまうのか。
 それで恐ろしくなって、殿下を叩きまくっていたら、案外打たれ強いお方で、英雄譚(ダージ)に聞こえる名君リューズ・スィノニムとは、ずいぶん色合いが違うものの、独特の魅力によって皆の期待に応え始めた。
 これもありかと、今では思う。こっちのほうが、平和だし、血も流れない。自分の性に合っている。
 この人に仕える限りは、自分は正しいことをやったと、時折、首のない者の悪夢に飛び起きて、震えが止まらなくなることもないだろう。
 それでも結局、ファサルに頼んで毒薬の瓶をたんまり買ったことを思えば、行き着くところは同じかもしれないが、これと見込んだ主君の御ためと思えば、きっと耐えられる。
 そこまで思って、ラダックは困り、自嘲の笑みになった。
 なんだか、堂々巡りだな。
 かつては名君の御ためとして、粛正の片棒を担ぎ、次の代には、新星を打ち立てて戦う内戦で、同族殺しの先鋒を勤めようかというのだから。
 本当に、なんでこんなことに。
 勤勉に働き、慎ましく暮らし、善良に生きていくという、貧しかったが正しい人たちだった父母の教えを、忠実に守ってきただけのつもりだったが、民を助ける英雄になりたくて、官僚になったのがいけなかったのか。英雄と悪党は紙一重なのに。それは目の前にいるファサルや、宮殿でとぐろを巻いている氷の蛇を見れば、一目瞭然なのに。
 官僚を目指した少年の頃には、竜の涙はあくまで正義で、牛の目のファサルもそうだった。完全無欠の英雄たちだった。本人たちを目の前にするまで、気がつかなかったのだ。まさか悪党だったなんて。
 でも、そういう人たちが必要だ。偽善に逃げたい官僚服にはできないことを、平気でやってのけられるような強面の忠臣が、レイラス殿下には必要で、牛の目のファサルもその一人だろう。この人がいなけれは、レイラス殿下の胡蜂(すずめばち)は、自慢の針に毒を仕込めなかったのだから。
 しかしこの人は、根っからの悪党ではないと、ラダックは信じたかった。運命の与える悲劇で、やむを得ずそうなっただけだ。牛の目のファサルは、悪党だが正義漢でもあり、どちらが真の姿なのかが、この際の問題なのだった。
 たぶん今ならまだ、ファサルはどちらにでもなれる。悪党の近従を許すレイラス殿下のもとで、本当の忠節を尽くして働けば、部族の英雄になれる。あの殿下にはそういう、悪党を善人に、阿呆を天才に変える、不思議な力がある。
「ファサルさん、あなたは昔、族長に麻薬(アスラ)を調合していましたね」
 声を潜めるラダックに、ファサルはおどけて、耳をそばだてた。
「なんだって? ずいぶん昔の話だな。その頃の名前も、もう忘れた頃合いだよ。今さら私から、ファサルの名を取り上げないでくれないか。これももう、ずいぶん長く連れ添った連れ合いなのでね」
 警戒した顔で笑い、ファサルは用心して話を聞いていた。牛の目のファサルではなくなったこの男が、いったいどんな人物なのか、ラダックは相手の目を見て、見極めようとした。

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銀貨三枚の矜持(1)

前知識:「新星の武器庫」の後日譚です。

・ ・ ・ ・ ・ ・

 予定より少し遅れて店に入ると、待ち合わせていた相手はすでに来ていた。
 ちょっと見には分からず、ラダックは相手を探して、繁盛している食堂の店内に視線を彷徨わせた。
 ずいぶん混んでいるなと思ったが、それくらいの店のほうが、密談するのに向いているとファサルは言っていた。
 夕刻を回り、仕事から上がって寛ぐ時間帯であり、店内には沢山の客用の席があったが、そのほとんどは、帰宅する前に腹を満たす市井の男たちで埋められており、宮殿の者がいるようには見えなかった。
 仕事の愚痴やら、他愛もない与太話やらに、素朴にうち興じている者たちの中に、ぽつりと黙ってひとりで座っている男がおり、赤黒い煙管をふかし、左目には眼帯をしていた。
 物憂げに退屈して座しているその男が、ファサルだと気づくのに、ラダックはしばらくかかった。何か気になる人物だったが、それに目が留まっても、すぐにはファサルだと気づけなかった。
 何故だろうと思い、そして相手が笑っていないせいだと分かった。
 宮殿で見かけるファサルはいつも、にこやかに微笑している。盗賊として捕縛されてきた時ですら、取り調べを受ける謁見の間で、優雅に微笑んでいた。
 それが笑っていないこともあるのだと、すぐには呑み込めなかったのだ。
 加えて、いつも特徴的な、左右で色の違う目が、青い片方だけしか出ていないと、ファサルはただ麗質なだけの、普通の中年の男に見えた。さしづめ昔の戦で片目を失って、故郷に戻った帰還兵といったところか。
 そういう者は、この街には珍しくもない。容姿の端麗さを除けば、ファサルには目立つところはどこにもなかった。
 それに安心して、ラダックは歩いていき、彼の向かいに立った。
 煙管をくわえたまま、ファサルは片方だけの上目遣いで、こちらを見てきた。
「遅かったじゃないか。あんたらしくもない」
 白い煙を吐いてから、ファサルは煙管の灰を、脇にあった真鍮の煙草盆に打ち落とした。こちらが煙を嫌うことを知っていて、吸わないつもりでいるらしい。
 そんなことをしてもらったところで、どうせ店内は煙だらけだ。髪にも服にも、とっくに臭いがついただろう。
 ラダックはその様々の臭いに顔をしかめつつ、ファサルの向かいに胡座した。
「宮殿を出る時に、うるさいのが目ざとく見つけてきて、どこへ行くんだとうるさく訊くもので、振り切るのに手間取ったんです」
 ラダックは忌々しく答えた。
 うるさい英雄とたまたま行き合ったのが、運の尽きだった。
 自分が遅刻をするなど、とんだ不覚だったが、この際やむを得ない。エル・ギリスに万が一にもくっついてこられたら、なにかと鬱陶しいのだ。
「連れてきてやりゃあよかったろうに」
 苦笑のようにも見える、面白がったふうな笑みを見せ、ファサルが言った。ラダックはそれに、思わずしかめっ面になった。
「嫌です。あなたと喧嘩になって、話が進まないのでは困ります。私はさっさと帰りたいので」
 それでもラダックは、注文をとりにきた給仕に、晩飯の注文をした。宮殿に戻ってから食事をとるのが嫌だったからだ。時間帯から外れているだろうから、冷えた残り物を食うのも嫌だし、かといって、自分ひとりのために、厨房に改めて火を入れさせるのも、不経済で嫌だった。
 ファサルもこちらに付き合ってか、食べ物を注文していた。彼には自邸に食事の用意があるだろうが、なにしろここは飯を食う店なので、酒食を注文せずには長居をしづらい。
「それで今日は、なんの用だい」
 給仕が先に運んできた麦酒に、ファサルは乾杯もせず口をつけた。
 それもそうかとラダックは思った。いきなり飲むのは妙な気がしたが、乾杯する理由もなかった。
 いや。あるのかもしれないが、変装した牛の目のファサルと、暢気に乾杯するほうが、よっぽど奇妙に思える。
 それで仕方なく、ラダックも黙然と、素焼きの白い酒杯から、細かな泡の立っている麦酒を飲んだ。そして一息ついてから、話を始めた。
「例の薬の件で、お礼を。無事に納品されて、武器庫に納まりました」
「そりゃあ良かったね。英雄君は喜んだかい」
 ファサルは淡い微笑で訊ねていた。ラダックは、それに笑い返しはせず、ただ頷いて答えた。
 ファサルに用立てを頼んだ、連弩(れんど)の弓矢に塗るための毒薬は、すみやかに集められ、すみやかに納められてきた。荷を運んできた者たちは、誰も彼も言葉少なで、悪党のようには見えず、夜陰に紛れてではなく、白昼堂々とグラナダ宮殿にやってきた。
 ラダックは正直言って肝が冷えたが、剣呑な瓶の中身が整備用の油だという、偽(にせ)の納品書を彼らは用意しており、適当な品物に紛れさせて、さも当たり前のように武器庫に運び込んでいった。
 悪党というのは、悪党のような顔はしていないものかと、ラダックは武器庫の扉を閉じさせながら思った。
 荷運びを手伝わせた宮殿の部下たちは、それが油だと信じているようで、何の疑いも見せなかった。だから自分も、そしらぬ顔をして、罪のない彼らに、たった二刺しで人が死ぬという猛毒を、大量に運ばせることができたのだ。
 その時の自分は、まさに悪党の顔だったのかもしれない。
 真面目な働き者のような顔をして、その実、人殺しの算段をしているような。
 それで平気と思うには、自分はまだまだ、官僚服が板に付いた、虫も殺せないような男だ。
 ラダックは今、目の前にいる悪党の親玉のことを、不思議な違和感をもって眺めた。この人も、そうだと教えられなければ、到底人を殺すようには見えない。
 さっき宮殿で捲いてきた、あの若造もそうだ。エル・ギリスは、まだたった二十歳だというのに、平気で人を殺すような目をしていて、そのくせ屈託がない。
 彼は宮廷では悪党(ヴァン)ギリスと呼ばれていたらしいが、ファサルも彼も、まさに悪党どうしだ。同じ主君に仕えながら、いつも仲が悪い。似た者どうしで無駄に争うのはやめて、大人しくしてくれないかと、ラダックはいつも辟易していた。ファサルにではなく、主に、エル・ギリスについて。
「試そうと言い出さなかったかい、あの若造は」
 問いただしてくるファサルは楽しげだった。それでもこれは、あの毒薬のことを言っているのだろう。
「あの薬をですか」
「そうさ。私が用立てたと聞いて、中身が本物かどうかと、疑わなかったのかい」
 ファサルはなんとなく宙に手を浮かせて、時折無意識のように唇に触れ、煙管がないのを訝るような気配だった。吸いたいのなら、吸ったらいいがと、ラダックは思った。
「そういう話は出ませんでした。あなたというより、私を信用しているのでしょう。それに試そうったって、どうやって試すのですか」
 眉をひそめた渋面で、ラダックは訊ねた。ファサルはどことなく、からかうように、にやりと笑った。
「そりゃあ、矢を浸して、誰か射てみるのさ」
「誰をです」
「たとえば私とか」
 にやにやしたまま、ファサルは答えた。ラダックはその話に、唖然とした。
 おそらくファサルは、先だっての宴会のとき、エル・ギリスが誕生祝いに武器職人から送られた連弩で、自分たちに射かけてきたことを揶揄しているのだろう。その時ファサルと話していたラダックも、危うく流れ矢を食らいかけたので、腹立たしく憶えている。
「そんなことはしません。いくらあの人が阿呆でも、あなたが仲間だということは理解しているし、万が一理解していなくても、それをやらかせば、レイラス殿下が怒ることぐらいは理解しているはずです」
「それはそれは、高貴なる殿下に感謝」
 遠く宮殿の玉座か、それとも今ごろ当の英雄君と、だらけて飯でも食っているだろう王族の殿下を、ありがたく押し頂く敬礼をして、ファサルは伏し目に笑っていた。
「気をつけないとね。私はあの小僧からは、本気で殺意を感じるよ。ご主人様に叱られて、なんとか我慢をしているが、やれるもんならやりたいという、さかりの付いた犬みたいなもんだよ」
 悪し様なのか、滑稽なのかわからないファサルの口調に、ラダックは思わずつられて苦笑になった。
 しかし笑うような話ではない。エル・ギリスは本当に、ファサルに殺意があるかもしれない。元々そのつもりだったのだし、レイラス殿下がファサルの命を助け、あまつさえ家臣にすると決めたとき、本当に悔しそうだった。
 あれは市民の英雄と、玉座をそそのかしたラダックのことも、内心恨みに思っているらしく、お前はファサル様と仲良しだからなと、折に触れてエル・ギリスは嫌みを言ってきた。可愛げのある子供のような当てこすりだが、本気でそう思われていることは、なんとなく分かった。裏切り者だと言いたいらしい。
 別にファサルと親しいわけではないのになと、ラダックは思った。
 実際、なんと呼んでいいやら分からない。皆がふざけて呼ぶように、ファサル様というのでは変だし、かといってファサルと呼び捨てにするのも違和感があった。なんせ相手はグラナダ市民の英雄だ。
 いっそ英雄(エル)・ファサルとでも呼べれば気が楽なのだが、まさかそういう訳にはいかない。
 あれは竜の涙にだけ許される称号で、準王族であると同時に民の下僕でもある、彼らの身分を象徴して、敬称ではないが、かといって呼び捨てでもないという、なんだか良く分からない呼び名だ。しかしそれには、民の犠牲となって死ぬ英雄たちへの、多大な敬意がこめられている。
 だが、それを言うのなら、歴代のファサル達だってそうだ。
 過去に幾たびか、ファサルの名で呼ばれる者たちは、グラナダ領主によって、処刑の名のもとに惨殺されてきた。義賊として振る舞い、民のために死ぬことにおいて、彼らは魔法を使う英雄以上の、真の英雄だった。
 その最新のひとりは、もちろんまだ死んではおらず、目の前に座っているが、危ないところだったのだ。もしも自分が領主を止めていなければ、今ごろきっと、この人は死んでいた。そう思うと、あまりにも人の運命は不思議だった。
 今では殿下もすっかりファサルがお気に入りで、エル・ギリスも不満顔とはいえ、宮殿の仲間であるとは認めているようだ。一時は殺し合っていた連中が、今では宮殿で暢気に顔を付き合わせて茶を飲み、煙管を吸って、世間話をしているとは。
 殿下も一度は自分でも矢を射かけ、また自分に射かけても来た男を相手にして、でれでれ馬談義というのは、いかがなもんだろうか。あの人にはそういう緊張感がないのか。
 自分を殺そうとした男を、平気で許せるというのは、つくづくお育ちのいい阿呆というか、それを通り越して、もはや才能みたいなものだ。殿下は恨みを水に流し、敵でも愛せる人なのだ。まさにそれこそが鷹揚な王族気質かと、ラダックは感心していた。
 殿下は短気なくせに、懐だけは、途方もなく深い。盗賊でも、守護生物(トゥラシェ)でも、どんな悪党でも、近従を許して仲間にしてしまう。
 エル・ギリスもそれには呆れるらしいが、だからといって、逆らう気はないらしい。あの人は結局、殿下の犬なのだ。激しいように見えて、結局は忠実だ。だから殿下がファサルを気に入っているかぎり、さすがの悪党(ヴァン)ギリスも、この盗賊には手出しができない。少なくとも自らの手では。
「大丈夫ですよ、エル・ギリスは。あれでも一応、考える頭はあるんです。あなたを害しても、なんの意味もないことは、ちゃんと知っていますよ」
 ラダックが請け合うと、ファサルは気味よさげに笑い、酒杯から麦酒を飲んだ。
「欲と実との板挟みだねえ」
 その嫌みな言い様は、ラダックには面白かったが、毎度こんなふうで、エル・ギリスが怒るのも分かる。
 あの人もあの人なりに、ファサルと和解しようと努力はしているらしい面があるが、相手はいまだにちくちくと、矢を放ってくるのだから、堪え性のない彼のことで、それは苛立ちもするだろう。
 いい加減に折れて、討伐戦の恨みは忘れ、仲良くしてくださいよと、思わずファサルに言いかけたが、ラダックはそれが内心恥ずかしくなり、渋面で口ごもった。
 なんだかそれは、おかしくないか。
 確かに宮殿では、自分のほうが古株で、序列も上ではあるが、なんせ年下だし、虫も殺せぬ官僚服だ。そんな立場から、百戦錬磨の盗賊、牛の目のファサルに、何か指図をしようとは、ずいぶん生意気に思える。
 そう我に返ると、ラダックは何も言えなかった。これが宮殿で、鬼の金庫番として藍色の官服に身を包んで働く時ならば、その職責を背負って立つ気概で、たとえ玉座に対してでも怒鳴り散らせる自信はあるが、いったん我に返るとラダックは弱かった。
 実際、今日も、私服で宮殿を出るところをエル・ギリスに見つかって、付いてくるなと思いはしたが、どこへ行くんだとしつこい相手に対して、ほっといてください、急いでますからと言いはしたものの、いまいち覇気に欠けたのか、散々に付きまとわれて、最後には、やめてください、やめてくださいと頼むような始末だった。
 本当にそれでは悔しいし、仕事にも差し支えるので、なんとか宮殿から元の街中の下宿に戻る方法はないのかと、ラダックは悩んだ。ファサルなどは、殿下から市街に私邸を与えられているのだし、自分も遠慮などせずに、褒美には家が欲しいと言えばよかった。別に欲しくはなかったが、そう言っていれば、宮殿に拉致されることはなかったのだ。
 しかし、それはもういい。愚痴っても始まらない。
 貧民出の下級官僚だった自分が、王族である殿下から、グラナダ宮殿の中の、それもご大層な部類の部屋に住まいを与えられたのだから、それを光栄に思って耐えねば、罰が当たる。もう当たっているような気もするが、これ以上の酷い目に遭わないように、気をつけないと。
 そう結論して、情けなくなり、ラダックはもう本題を切りだそうと決心した。無駄口は慎まねば。相手も暇ではないのだ。たとえ暇でも、ファサルをだらだら付き合わせる訳にはいかない。彼には自邸に家族もあり、他に用事もあるだろうから。
「今日、お呼び立てした本題は、謝礼の件です」
 ラダックは自分の膳の上の酒杯を見下ろしながら話した。
「金かい」
 ファサルは不思議そうに答えた。

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