もえもえ図鑑

2008/10/14

名君双六・もくじ

作者がスランプの沼で悶絶して書いている、リューズの若い頃の話。イェズラム視点。出来映えにはモーレツ自信がない。
「父上、昔はこんなんやったんや」「へえー、意外やね」「名君への道は一日にしてならずや」みたいな話。

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2008/10/13

名君双六(5)-7

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 部屋から退出して、静まりかえった廊下に出ると、誰の耳にも聞こえるような深いため息を、ジェレフがもらした。心なしか足元も、よろめいているようだった。
「さしもの生意気君もふらふらか」
 気味良さそうに、シャロームがジェレフをからかって言った。
「ふらふらではありません! 貴方には、言いたいことが……エル・シャローム」
 噛みつくようにジェレフに言われ、シャロームは軽い驚きの顔をした。彼と徒党を組んでいる二人の英雄たちは、にやにやしながら、その有様を見ていた。
「俺は、人を癒すときに、分け隔てなどしません。たとえ貴方でも、戦場で傷つき倒れていたら、駆けつけて癒します。それが治癒者としての、俺の役目だからです」
 ジェレフは実はずっと堪えていたのか、堰を切ったような早口で、一気にそう言った。ここが族長の居室の前であり、控え室にいる侍従たちの耳には、この声が聞こえているかもしれないなどとは、思ってもいないらしかった。
「ほう、そりゃすげえ。だけど俺の配置は常に最前線の激戦区だぜ。お前みてえな、やわな坊主が、どうやってそこまで来るつもりだ」
 お前は口先だけだと、あからさまに言い渡す口調で、シャロームは諭すように言い、ジェレフはそれに、ますます激昂したように、シャロームと間近に向き合って、凄んでみせた。
「馬でです。貴方が行けるところなら、俺にだって行けるはずです。貴方より先を走ることだって、俺にはできますよ。そして英雄だろうが一兵卒だろうが、分け隔て無く癒してみせます」
 啖呵を切っているらしいジェレフを、シャロームはあんぐりとして見ていた。それから歴戦の勇者は傷のある顔に、可笑しくてたまらんという表情を浮かべた。
「そうか、分け隔てなくか。お前みたいな、とぼけた治癒者なら、間違って敵の守護生物(トゥラシェ)まで癒すだろうよ。俺より前を走れるだと。なあ、こいつ、本気で言ってんのか……」
 自分で言っていて、耐え難く可笑しくなったのか、シャロームは顔をしかめて笑い、ジェレフを指さしながら、背後にいる仲間ふたりを振り返ろうとした。
 ヤーナーンとビスカリスは苦笑のような笑いを浮かべ、シャロームに同感のようでいたが、次の瞬間には、ひどい驚きの顔をした。
 ジェレフが意を決した素早さで、指さすシャロームの手をとり、そして腕をとり、自分よりはるかに体格のいい相手を、鮮やかに背負って投げ飛ばしたからだった。
 床に背を叩きつけられるシャロームを、イェズラムはとっさに避けた。あまりに予想外だったのだろう、シャロームは全く受け身をとっておらず、自分の全体重を食らって倒れ、短く鋭い、呻くような悲鳴をあげた。
 わずかに身を乗り出して、あぜんとしている二人の先輩(デン)たちを背後にして、ジェレフは礼装のための束髪を乱れさせた姿で、そのシャロームの醜態に、にやりとしていた。
 その顔が案外勝ち気であるのに、イェズラムは真顔のまま驚き、そして呆れた。こいつはくそ真面目な優等生かと思ってきたが、案外悪たれなのではないか。拝謁ごときで震えがくるほど気は小さいくせに、面子をかけた勝負となったら、シャローム相手にここまでやるとは。
 まるで餓鬼のころの俺のようだ。
「くっそ……痛ぇな。なにしやがるんだ、この餓鬼が……」
 よっぽど背骨に効いたのか、シャロームはまだ仰向けに寝転がったまま、イェズラムの足元でぼやくような悪態をついた。
 そして、何が面白かったのか、歯を見せて、くすくすと笑った。
「真面目野郎に、またやられちまったよ、兄貴(デン)。くだはるような歳になっても、俺はぜんぜん成長しねえなあ」
 シャロームはにやつく苦笑で言ってきた。おそらく昔、イェズラムにやっつけられた頃のことを、懐かしく思い出したのだろう。
「油断するからだ、シャローム」
 手を引いて助け起こしてやると、シャロームは、うんうんと反省したふうに頷いて答えた。
「確かにその通りでしたよ」
 特にこれといって怪我はしていないようだった。族長の居室の前に敷かれた絨毯は、その金枝玉葉のおみ足を痛めぬように、たっぷり肉厚のふかふかしたのが選ばれている。それにやんわり受け止められ、大した打ち身はないものの、自尊心はしっかり痛んだというところだろう。
 この場が幸いして、見ている者はこの四人しかいないが、シャロームはそれで己の敗北を、無かったものと誤魔化すような、そんな小狡い男ではない。
「やりやがったな、ジェレフ。この腐れ治癒者が」
 痛む背をさすりながら、シャロームは苦笑を崩さず、ジェレフに形ばかり凄んで見せた。
「いい気味です、エル・シャローム。貴方は俺を馬鹿にするばかりか、族長にまで不敬だし、エル・イェズラムにも不遜です。貴方にはこれが、いい薬になりますよ」
 腕組みして張り合う調子のジェレフの言い分は、もっともだった。イェズラムは心持ち頷く気分でそれを聞いたが、しかしそういう問題ではない。
「こっちに来い、エル・ジェレフ」
 イェズラムは差し招いた。それに素直にはいと答え、意気揚々として歩み寄ってくるジェレフを、イェズラムはじっと見つめた。 
 まだ大人になりきらぬが、ジェレフは誇り高いというような、そんな面(つら)だった。正しいと信じたことを、自分はやっているのだという、そんな自信に満ちた顔だ。
 それが、むかつく。
 イェズラムは微笑して、自分がかつて若輩だったころ、なぜ散々に虐めぬかれたかを悟った。俺は人に、頭を下げるのが苦手だから。この年になってやっと、この世には自分のほかにも、優れた者がいることを、認められるようになってきた。それで多少はお辞儀にも、相手によっては身が入るようになってきたが、もっと若いうちから、それをやれていれば、避けられた争いも多々あったろう。
 俺には今さら遅すぎるが、エル・ジェレフ、お前はまだ若い。人生まだまだこれからだ。石もちんけな小僧っ子で、頭も柔らかい。人を助ける治癒術に、ふんぞりかえる男にはなるな。お前の悪い先人(デン)たちのようには。
 イェズラムは手を挙げて、まだ小さい石のある、ジェレフの額を、びしっと指で弾いてやった。
 ジェレフにはそれは予想外だったのか、驚きと苦痛とで、ぎゃっと鋭く悲鳴をあげた。額を押さえて蹲る生意気な弟(ジョット)を、皆どこか同情したような目で見下ろしていた。
「ああ、痛いわ、それは」
 にやにや笑ってシャロームが、いかにも訳を知っているように言った。それもそのはずで、これは誰しも何度かは、躾を行う兄(デン)から食らったことのある、伝統的なお仕置きだ。石のあたりを弾かれると、とにかく無茶苦茶に痛い。子供相手にやるときの、害の薄い急所攻撃だが、痛いことは折り紙つきだった。
 ジェレフは両手で額を覆い、腰を折って冷や汗をかいていた。ちょっと効き過ぎたかと、イェズラムは苦笑した。
「まったくお前は、口で言われても理解しないやつだな、エル・ジェレフ。シャロームを敬えと、族長にも言われただろう」
「そんことは言われていません、長(デン)」
 情けないような声で、それでもジェレフは反論してきた。
「言われたよ。俺の言うことを聞けと、あいつはお前に命じただろう。愚か者にはなるなと言って」
「ですが……」
「何が、ですがだ。目上(デン)を敬え。それが派閥暮らしの基本だ。大先輩を投げ飛ばすとは、なにごとか。体術が得意なのは分かったが、それで俺やこいつらが、畏れ入るとでも思ったか」
 伏し目に見下ろして教えてやると、さっきまでの威勢はどこへ行ったか、ジェレフはまた、青い顔になった。
「ですが、長(デン)……」
 またもや、ですが、か。何遍言ったら分かるのか、こいつは。
 かばってくれと訴えるような目に、イェズラムは首を横に振って答えた。ここで甘ったれさせるわけにはいかない。
 しかし思わず苦笑が口元に湧いた。
 かばうわけないだろう、この野郎。俺の可愛い舎弟を投げ飛ばして恥かかせやがって。お前は若い新入りだけあって、俺という男を全然分かってないな、エル・ジェレフ。生意気には制裁、挑戦には制裁、攻撃には制裁をもってやり返すのが、絶対に敗北しない俺の、基本のやりかただ。
「シャローム、こいつを締めといてやれ。お前に喜んで頭を下げられるようになるまで、俺の派閥の約束ごとを、いろいろ直伝してやれ」
 それがお前にはいい薬だ、ジェレフ。そう思って見つめたが、ジェレフはあぜんとして青ざめた。
 シャロームはもちろん、二つ返事だった。
「長(デン)」
 掠れたような声で、ジェレフが言った。
「頑張れよ、エル・ジェレフ。誰もが通る道だ。鼻っ柱が折れるのは、早ければ早いほうがいい」
 そう言ってやって激励したイェズラムの顔を、ジェレフは呆然と見上げてきた。
 シャロームが親しげに、その肩をがっしりと抱いた。拉致の構えだった。
「さあ行こうかジェレフ。ここじゃ場所が不適切だからな。何から行くかな、ヤーナーン。お前の火炎術で根性焼きか」
 うっとり嬉しげに、シャロームは長年の弟分(ジョット)に提案したが、ヤーナーンは首を傾げていた。
「いやあ、それはどうかな兄貴(デン)。俺ももうトシだし、こいつのために命を張りたくないな。その代わりにどうだろ、玉座の間(ダロワージ)を裸で走らせてやったら」
「いいねえ、リューズが泣いて喜ぶぜ」
「侍従長も泣いて喜ぶでしょうよ」
 うっとり決心したふうなシャロームに、ビスカリスがにこやかに同意した。
「お前も泣いて喜ぶだろうなあ、ジェレフ」
 歯を見せて笑い、シャロームはすぐ近くにあるジェレフの顔を覗き込んだ。ジェレフはあんぐりしたまま、何度か呻くような微かな声をたてた。
「冗談、です、よね?」
「ううん、俺様は本気よ。いつも本気だよ」
 汚れないふうに目を瞬いて見せ、シャロームは嬉しそうに答えた。ジェレフはその目と顔面蒼白で見つめ合っていた。
「これからも俺たちと一緒に遊ぼうな、ジェレフ。お前が賢くなる日まで。きっと、いろいろ楽しいぞ」
 ヤーナーンがにこにこ請け合った。
「いざ行かん、栄光の玉座の間(ダロワージ)へ」
 朗々とした名調子で出発を促し、ビスカリスが広間へと戻る通路をジェレフに指し示した。
「冗談ですよね、やめてください!」
 己の窮状を察して、声を裏返らせるジェレフを、ビスカリスはものの哀れを理解した目で、哀愁を込めて見返し、共感するように小さく頷いてやっていた。
「かつて幾人そう叫んだか。そして聞き入れられた者はついぞない。哀れなるかな、エル・ジェレフ」
 一見して教養深く、まともに見えるビスカリスから、そう哀れまれて、ジェレフは混乱した顔をした。もちろんビスカリスは止めているのではなかった。
 どちらかというと、彼は完全にシャロームの一党だった。連中の悪事を、端で笑って見ているのが、ビスカリスの常で、今はリューズの悪事を、端で笑って見ている男だ。ジェレフがどんな目にあうか、多分、楽しみでたまらんのだろう。
 さあ行こうかと言って、シャロームがジェレフを引っ立てて行った。また投げれば良さそうなものだが、ジェレフは気圧されているのか、それともすでに油断の欠片もないシャロームのほうが上手なのか、気の毒な新入りは、これから屠られる仔牛のように、ずるずると引っ張られていっていた。
「助けてください、エル・イェズラム」
 これまで権威者に守られてきたやつらしく、ジェレフはこちらに助けを求めてきた。イェズラムは苦笑して頷いてやったが、それは助けてやるという意味ではなかった。もともと誰がこれを指示したか、ジェレフは一瞬で忘れたらしい。
「やめとけジェレフ。長(デン)からはデコピンで済んで、お前はついてたんだぞ。昔な、もっと強面だった頃には、長(デン)は自分が気にくわねえ、生意気なやつのタマを、火炎術で焼くって有名だったんだぞ。そしたらな、どんな奴でも急に大人しくなってな、長(デン)に逆らわねえようになるんだってよ」
 シャロームはまことしやかに教えてやっていたが、それは派閥間に流れた古い流言だった。イェズラムは、そんなことをしたことはない。しようと思ったこともない。ただ魔法制御の精密なのを背景にして、そんな噂がでっちあげられ、本当であるかのように流布しただけだ。
 あえて否定はしなかったが、肯定したこともない。それでも皆が、真実だと信じたいことが、宮廷では真実と思われる。
「そんな痛くて熱いめにあうより、裸で走った方がましだろ? 傷も残んないし、笑いもとれるぞ」
「笑いって何がですか。誰が笑えるんですか!」
 シャロームに訊ねるジェレフの声はもう、紛れもない悲鳴だった。
「族長だよ。麗しくも高貴なる族長閣下が、大笑いなさるんだよ。お目にとまって名誉なことだよなあ、若造よ。それも忠義と心得よ」
「嘘です、そんなの嘘です! エル・イェズラム!!」
 ジェレフの絶叫に名を呼ばれながら、イェズラムはふと、まずいのではないかと思った。シャロームはもしや、脅しではなく、本当にやるつもりではないかと。
 まさかこの足で玉座の間(ダロワージ)に行き、やつらはジェレフの礼服をひん剥いて、そのまま置き去りにするつもりでは。
 イェズラムは悪党どもの性格について考えてみた。
 やりかねなかった。狂人どもだから。
 こちらが許可したのだと解釈して、この際、リューズの受けを狙おうと。
「ちょっと待て、シャローム」
 イェズラムは思わず、通路を去っていく英雄たちを呼び止めようとした。しかし彼らは聞こえていないのか、立ち止まりはしなかった。
「待てシャローム、玉座の間(ダロワージ)は止せ」
 そこは聖域だ。甘くなったと言われても、止めないとと、イェズラムは軽い焦りを覚えつつ、舎弟(ジョット)たちを追った。
 とにかくやめてくれ、シャローム。そこは俺が、必死で守っている場所なんだ。治世の安泰が続き、玉座に座るリューズの被る名君の仮面が、うっかり脱げないように。それが俺の生涯を賭けた全てで、玉座の間(ダロワージ)の安寧は、その象徴なんだ。
 リューズはそれと知っていて、敢えて広間を穢そうというんだぞ。そうすりゃ俺がぶち切れるだろうと、聡いあいつは直感しているんだ。
 しかし、そうはさせるか。俺は玉座の間(ダロワージ)を守り抜いてみせる。生涯を賭けて、この俺の面子を賭けて、全身全霊を賭けて。
 そのように決心しながら、イェズラムはシャロームに追いつき、その首根っこを掴んだ。
 そうして名君双六の賽(さい)の目は、『玉座の間(ダロワージ)を裸で走る』をからくも逃れ、ひとつ手前の『イェズラムに怒られる』で落ちをつけ、今日もまた、王朝の安寧が守られたのだった。

《まだつづく》
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名君双六(5)-6

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「臣の身で、高貴なる玉座に対し奉り、しかめっ面での命令口調は、禁物かと」
 指摘されて気づき、イェズラムは思わず天井を仰いだ。また悪い癖が。
「いいのだ、ビスカリス。イェズラムは俺の兄だ。それに、こいつが臣らしく謙(へりくだ)ったら、俺は緊張のあまり吐く。お前らも想像してみろ、こいつが自分に謙る様を」
 リューズに言われ、想像する顔になっていたヤーナーンが、突然身震いして言った。
「それは何か裏がありそうです、族長。俺なら不安で夜も眠れなくなりますね」
「そうだろう、ヤーナーン。説教されているほうが、いつも通りで、むしろ心安らかだ。聞き流せばよいのだからな」
 身を乗り出して同意しているリューズに、イェズラムはまたもやむっとした。
「俺の話を聞き流すな。お前のために、我が身を挺して言ってやっているんだぞ。玉座に座しているからには、叱ってくれる者がいるうちが花だと思え」
「わかった、わかったイェズラム、わかったから、そんなおっかない顔で怒鳴るな。エル・ジェレフが泣いたらどうするのだ」
 心では耳を塞いでいるような顔をして、何度も頷いてみせながら、リューズはぐったりとしていた。
 ジェレフが泣くわけなかった。少年は呆然としたような上の空で、なにか考えているようであり、恍惚としているようでもあり、話を聞いているのかどうか、とにかく、ぼんやりとしていた。
「どうしたのだ、エル・ジェレフは」
 訝しげに、リューズが虚脱している少年を見やった。
「大方、お前の素敵な長台詞に酔ったんだろうよ」
 こちらに丸めた背を向けているシャロームが、煙管を銜えたまま振り向いて、皮肉な笑みに戻っていた。そういう自分も、何かの呪縛からやっと逃れたような顔でいた。
「そんなに素敵なことを言っただろうかな、俺は」
「無意識だよ、無意識。いつもの天然の名君の、ご光臨だよ」
 きょとんとしているリューズを見て、可笑しそうにけらけら笑い、ヤーナーンが言った。
 たぶんリューズは夢中で喋っていたのだろう。自分が何を言ったか、実はあまり憶えていないぐらいではないか。
 昔から熱弁を振るう時は、大抵そうだった。夢みたいな理想を語って聞かせ、人を心酔させておいて、話し終えて満足すると、なんだっけという顔でけろりとして、腹が減ったなイェズラムなどと、こちらの気が抜けるようなことを口走る。
 その深い心酔と、その後の虚脱の落差の激しさが、リューズと付き合う時の難物だったが、それには疲労するものの、不快ではない。むしろ何やら、癖になる。
 そう思って苦笑し、イェズラムはぼけっとしているエル・ジェレフを眺めた。
 お前もこれで、癖になったか。
 それとも、実はまだ、王家の血の与える深い心酔の中か。まったく始末に負えん、お幸せな餓鬼め。
「リューズ様」
 老齢の侍従長が戸口に現れて呼びかけてきた。
 その老練の官の落ち着いて怜悧な姿を見て、イェズラムは自分が思わず、彼の頭に瘤(こぶ)がないか確かめているのに気づき、ごくりと溜飲した。
 本当にリューズは誰かに、この気品ある老人の頭を棒で殴らせたのか。俺なら殴れと命じられても、絶対に無理だが。
「なんだ、侍従長」
「お時間でございます。そろそろ後宮にいらっしゃいませんと、お約束の刻限を過ぎます」
 戸口で平伏して、侍従長は教えた。
 リューズはそれに、眉根を寄せて、不服そうな顔をした。
「そうか。せっかく楽しく話していたのにな。無粋なことよ、侍従長」
「刻限でございますれば」
 ごねるリューズを一顧だにせず、静かにそう念押しする老人は、まるで、玉座の間(ダロワージ)の時計の化身のようだった。刻々と過ぎる時を管理し、宮廷の典礼を取り仕切る役目の男だ。暗君の時代にも、誰にもおもねらず、何事にも頓着せず、ただ過ぎる時だけを見てきた。
 リューズが即位した時に、イェズラムはこの年取った男を別の官僚に入れ替えることを考慮したが、あくまでも自分が引き続いて勤めるのが当然という顔で、新族長の嗜好や性癖を問われ、イェズラムはおとなしくそれを答えてやるしかなかったのだ。
 宮廷にはいくらでも、上には上がいる。自分もまだまだ若造なのだと感じる、数少ない相手だった。
 時間に厳しいこの男が、リューズは煙たいようだが、それが煙たいお陰で、なにかといえば道草を食いたがるリューズも、立派に典礼に則った、時間割どおりの暮らしをさせてもらえている。
「皆様どうか、お引き取りくださいませ。族長はお召し替えのうえ、後宮にお渡りになります」
 さらに深く平伏して謙り、侍従長は皆に、さっさと帰れと言った。それは極めて謙虚な口調であったが、絶対の命令だった。
「こんな昼間っから、後宮の女と一発やろうってのか、リューズ。どんだけ好き者なんだ、てめえは」
 驚いたふうに、シャロームが問うた。その、あまりにも不敬な物言いに、イェズラムは困って、顔をしかめた。侍従長がひどく冷たい目をしたからだった。
「違うぞシャローム、人聞きの悪い。俺は妻に挨拶しにいくだけだ。孕んだのでな、それを褒めてやりにな」
 そんな誤解は不本意だというふうに、リューズは早口に説明した。
「ご懐妊ですか。おめでとうございます」
 ビスカリスが微笑んで言祝ぐのに、リューズは少々気まずげに微笑んで答えた。
「まだ秘密なのだぞ、ビスカリス。知っているのは一部の者だけだ。誰にも言うなよ」
「はあ、そういうことなら、それはもう、遠国の海底に横たわる、物言わぬ貝のごとくに、口を閉ざしておきましょう」
 両手で自分の口を覆って、守秘を約束するビスカリスの、どこかふざけたような様子に、リューズはいかにもその英雄詩人が、極めて好ましいというように笑った。
 詩作の才があり、風雅に通じた趣味人で、しかも数々の戦場に立った英雄であるビスカリスは、リューズにとっては英雄譚(ダージ)の中の一人だった。それを身近に侍らせて、遊びに付き合わせていることが、リューズにはいつも、至福のようだった。
「ここだけの話、いったいどの奥方が、懐妊なさったのですか。知りたがりのビスカリスめにだけ、どうかご内密に耳打ちを」
 指を添えた耳を向ける仕草をして、ビスカリスが訊ねた。それに向かって、リューズは囁くように答えた。
「全員だ、ビスカリス。だからな、お前たちとの賭けは、無効ではないかな」
「なんと」
 驚いた顔で呟き、ビスカリスはシャロームを見た。シャロームは腹を押さえて、笑いを堪えていた。たぶんもう、侍従長に睨まれたくなかったのだろう。
「賭とは何のことだ、お前たち……」
 聞きたくなかったが、聞かずにおれず、イェズラムは思わず尋ねていた。
「どのご側室が最初にご懐妊なさるか、皆で当てようとしていたんです、長(デン)。そのほうが族長の後宮通いにも、身が入るだろうということで」
 ヤーナーンがけろりとして答えた。
「それを全員いっぺんにとは……どこまで度胆を抜くやつだ。まったく賭けになりゃあしねえよ」
 悔やむように言うシャロームは、その賭け事の発案者ではないかと思われた。とにかく賭け事の好きな男だったからだ。
 リューズを相手に賭などするな。いつか身ぐるみ剥がれるぞと、イェズラムはこの場で口に出すわけにいかず、内心でだけ忠告した。リューズは賭けとなると、いつも強運があり、イェズラムの知る限りの過去においては、だいたい勝っていたからだ。
「俺も考えたのだがな、イェズよ。産褥は命がけのものだそうだ。それなら、俺の血を残すために命を張ってくれるという、十名の女英雄たちに、この戦いに臨み、俺から一言の挨拶もなしでは、あまりにも無礼かと思ってな」
「殊勝な心がけだ」
 こちらの顔色をうかがう風なリューズに、イェズラムは微笑して褒めた。するとリューズはにっこりと、満面の笑みになり、やっと背筋を伸ばした。
「そうであろう」
 つんと取り澄まして、リューズは名君然とした声色になった。しかしそれは、演技だった。
 リューズは子供のころから兄アズレルの催す宴席でよく見た仮面劇を、見よう見まねで憶えてしまい、どんな役でも巧みに演じ分けてみせた。劇には物乞いも、英雄も、名君も、男も女も、子供も老人も、あらゆる者が立ち現れ、仮面ひとつで、役者はその役になりきってみせる。
 リューズも兄王子の投げ与える仮面を受け取ると、どんな面であろうと、子供ながらにその役を、巧みに演じ分けてみせた。名君の面で顔を覆って舞うリューズは、あたかも、本物の名君のように見えたものだ。
 それを見て皆が興がる宴席で、アズレル王子だけが真顔になったのを、イェズラムは脇で見ていた。自分の名演が、兄王子を喜ばせると信じていたリューズは、急に不機嫌になったアズレルが自分を撲つのを、悲壮な顔で見ていた。
 リューズにとっては、玉座の継承者であるアズレル様は、誰にも優る輝く星で、宮廷随一の英雄だったからだ。その兄に気に入られることが、リューズには何よりの喜びだった。
 王族の血を受けた者が、卑しい芸人のような真似をするなと、その場では怒鳴りつけたくせに、アズレルはその後も度々リューズに仮面を与えた。それは道化の面ばかりだった。もう決して、名君の面を被らせはしなかった。それでもリューズは、何ら気にせず、喜んで踊っていた。単にこいつは、仮面劇が好きだったのだ。
 たぶんアズレル様は、恐ろしかったのだろう。リューズがあまりにも、名君の役を上手く演じたので。それが自分よりも、上手いのではないかと思えて。
 それも今となっては分からない。アズレル様は戦地で急死され、玉座には座らなかった。結局あとを引き継いで、その座についたのは、名君の仮面をつけた弟のほうだった。
 未だにその面の下には、甘ったれた悪童の顔があるままだが、それでもきっと、リューズはあの宴席で見せたのと同じように、名君のごとく詠い、名君のごとく舞うだろう。それを眺める者たちを、甘く酔わせながら。
 演技でもいい。それが本物の名君のように見えるなら。死ぬまでずっと、玉座に座っている限り、その仮面を脱がせなければいいだけだ。
 もしも仮面を剥ごうとする者が現れたら、それは、俺が片付ける。これまでも、この先も、リューズが仮面を脱いでも、その下にある顔が、名君の顔になっている日まで。
「刻限でございます。皆様」
 やんわりと急かす侍従長の声が、お前らには耳はないのかと言っていた。
 イェズラムはそれに従い、部屋を辞すため、席から立ち上がった。それを合図に、皆も立ったが、まだぼけっとしていたジェレフだけが、隣にいたヤーナーンに足で尻をつつかれて、やっと飛び上がった。
 慌てて立ち上がる赤面のジェレフを、リューズは可笑しそうに見ていた。
 好かぬわけではないが、ちょろい相手だというような顔をしていた。
 リューズは人心を操ることにかけて、天性のものがある。それで攻略する相手にはいつも、難解さを求めた。
 おそらく女を口説くのと同じで、簡単になびく者より、宥めてもすかしても、にこりともせぬような難しいのが、こいつの好みなのだろう。
 それにやはりジェレフも、英雄譚(ダージ)のひとつもないうちは、リューズから見て、英雄ではないのかもしれない。ただ石があるだけでは。
 こいつは石のある者が好きなのではなく、英雄が好きなのだ。
 ジェレフには、英雄になってから出直しさせるかと、イェズラムは結論した。今はまだ、近侍のひとりには、入れそうもない。
「イェズラム、暇ができたら、また来るがよい」
 立ち去るこちらに、リューズが声をかけてきた。それはただの別れの挨拶だったが、イェズラムは随分な皮肉に思い、苦笑して答えた。
「俺には暇などできない」
 叩頭するため、戸口に立っているイェズラムに、リューズはむっとした顔をした。
「では暇を作って来るがよい。お前には治世の件で、相談したいことが何かとあるのだ。それに応えるのも、俺の腹心として、当然の役目だろう。仕事と思って時間を作れ」
 仕事と思えとは、それはあたかも仕事ではないかのようだ。イェズラムは情けなくなって、顔をしかめて目を伏せた。政治や軍事のことで内々に意見を聞きたいのであれば、それは間違いなく仕事だろう。族長が、用件があるので来いと命じれば、誰であろうと来るわけだが、イェズラムも同様だ。イェズラムはそれについて、リューズがまだ気づいていないのであれば、永遠に気づかずにいてほしかった。
 くだらない雑談や遊びに付き合わせるために、用件にかこつけて呼び立てられていては、他の職務が滞る。
 族長権を振りかざさない子供の頃でさえ、こちらが部屋で書類を作ったりしていると、遠慮なく背中を蹴ってきて、付き合って遊べとごねたり、嘘泣きしてみせたりされ、さんざん職務の邪魔をされた。
 あの頃なら、うるさい、よそへ行けと怒鳴りつけて、それでも聞き分けない時には、拳骨を食らわせてもかまわなかったが、今はそうはいかない。だから、命じないで欲しかった。シャロームたちのように、ここで自分に付き合えとは。
「返事はどうしたのだ、エル・イェズラム」
 焦れたふうに、リューズが求めてきたので、イェズラムは跪き、隣に座していた侍従長と向き合った。
「申し訳ありませんが、よろしくお願いします、侍従長」
「心得ました、エル・イェズラム」
 小声で頼むと、老人もやはり、小声で答えた。頼りがいのある、沈着冷静の声だった。この人に任せておけば、あの我が儘な弟も、何とかやっていくだろう。
 老人に目礼してから、イェズラムは族長に三跪九拝することにした。
「なんとか言え、イェズラム」
 叩頭するこちらを見て、リューズが押し殺した声で喚いていた。
「族長らしくしろ、リューズ。叩頭しにくいから」
 叱責しながら平伏すると、並んで同じように額ずいていた近侍の三名が、くすくすと笑っていた。ジェレフは何も言われなくても、年齢順の序列を弁えたのか、一番若いヤーナーンのさらに左に、大人しく平伏していた。
 立っては平伏を繰り返す面々を、リューズは憮然とした顔で鎮座し、見守っていた。おそらく、自分だけがこの部屋に残されていくのが、面白くないのだろう。
 黙っていれば王族の顔をしていて、なんとか族長のように見えはするが、イェズラムの目には、リューズはまだまだ子供のようだった。今も昔も、部屋から出て行くのを、何かを堪える憮然とした顔で見つめ、なぜ自分を置いて出て行くのかと、無言で非難している。なぜ自分は、英雄たちとともに行けないのかと。
 それは仕方のないことだった。族長冠を戴き、そして名君の仮面を被った時から。
 ともに行けないほうが、いいではないか。リューズが長く生きて、名君の御代が末永く続くほうが、きっと誰しも、幸せになれるだろう。
 返事をしろという目で睨むリューズに答えないまま、イェズラムは族長の居室を後にした。
 足繁く来てよいかどうかは、今はまだ決められない。人が見てどう思うか、名君としての仕事ぶりはどうか、玉座と長老会の力関係はどうか、それについての動向を眺め、考えるしかなかった。
 話したいから来いという、その理屈に筋は通っているが、宮廷ではその単純なことが、必ずしも正しいとは限らないからだった。その結果がどう出るか、賽子(さいころ)任せでは心許ない。
 あがりは必ず、『名君の死』でないと。それも遠い先のことでなければと、イェズラムは思った。

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名君双六(5)-5

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「断る。俺には拒否権がある」
「なんだと。逆臣め」
 むかっと来たらしい顔で、リューズが罵ってきた。
「逆臣ではない。考えてもみろ。俺にはもう無理だ。今さら引き返せない」
 常用するほどではないが、イェズラムにとって、戦闘後の苦痛を癒すには、煙管がなくては話にならなかった。
 兵は皆、守護生物(トゥラシェ)殺しの火炎の大魔法を期待していたし、それによってリューズの戦闘を支えるのが自分の義務と、イェズラムは心得ていたからだ。残りの命数を打算して、毎回やるわけではないが、陣を歩く時に受ける、そろそろどうかという視線を、裏切るわけにもいかない。
 リューズもそれは熟知しているはずだ。そうでなければ、あんな代替策を練ってはこないだろう。
「そうか。ではお前など、もう知らん。お前たちはどうだ」
 あっさりと臍を曲げ、リューズは矛先を近侍の三名のほうへ向けた。シャロームはいかにも可笑しいように苦笑して首を横に振り、ほかの二人も、取り合う気がないように、にやにやして黙るばかりだった。
 彼らはイェズラム以上に、もう手遅れだった。もうもうと煙の中にいる姿を日々目にしていて、なぜそんなことを訊ねるのか、イェズラムはリューズの常識を疑った。
「どいつもこいつも、救いようもない狂人ばかりだ。残る希望は、お前だけだな、エル・ジェレフ」
 目も当てられぬというふうに、リューズは脇息に肘を置いた手で、伏せた目を覆ったままジェレフに訊ねた。
 声をかけられて、ジェレフはまた座したまま僅かに飛び上がったように見えた。
「お前には、痛みと戦う勇気があるか」
 顔から手をどけ、リューズはジェレフと向き合った。
 王家の金の目で真面目に凝視され、ジェレフは青い顔で、ぽかんとしていた。
「俺がですか」
「そうだ。お前はまだこいつらのように、煙を吸ってはいない。行ったら戻れない道だ。これから歩き始める者でないと、救いようがない。そうだろう」
 そうだと言えというふうに訊かれ、ジェレフは操られるように浅く頷いていた。
「初陣の者に、いきなり強い麻薬(アスラ)を与えるのは、志気を高めるためだろう。もともと狂わせるつもりで、吸わせているんだ。ひどいものだよ、十二の餓鬼に、脳天に来る薬をやって、戦場に叩き込むとは、まるで戦の奴隷ではないか。父祖の名を穢す恥だ。自らの意志で戦うからこそ、お前たちは英雄になれるのだ。俺はお気の毒なまでに弱かった父上が、残してゆかれた過ちを、自分の代で正したい。お前が力になってくれ」
 リューズの口調は静かだったが、秘められた熱っぽさがあり、それには人の耳を傾けさせる力があった。かすかに酔うような心持ちがするが、それはシャロームが漂わせる強い煙の残り香だけの仕業とは思えない。
「お前は治癒者だ。真面目に学んでいれば、薬学にも精通してるのだろう。石の与える苦痛というのは、当初からそんな、強い薬でなければ治まらぬような激痛なのか」
 訊けば相手は真理を答えると、リューズはそう信じる態度で話していた。そうやって訊かれる時の気分を、イェズラムはよく知っていた。
 それは、ごまかしが利かないという、なにやら追いつめられるような気分だ。
 ジェレフはあんぐりとして、即答しなかった。
 しばらく考えてから、少年は、性格の慎重さが匂う語り口で答えた。
「わかりません、経験がないので。修練のために、治癒術を施すことはありますが、今までその後に、苦痛を覚えたことがありません」
「痛まない者もいるのか」
 驚いたように、リューズはイェズラムのほうに訊いてきた。
「いや、痛まない者はいない。ただ、持っている魔力の素養や、力の使い方によって、苦痛には個人差があるようだ。治癒者の連中が、抜群に優れていると感じる程度の魔法を使っても、痛んだことがないというなら、こいつは確かに、ずば抜けて優秀なのだろう」
 イェズラムは事実に基づいた推測を述べただけのつもりで、褒めたわけではなかったが、ジェレフは照れたふうに嬉しげに恐縮して、席で小さくなっていた。
「そうか、エル・ジェレフ。お前は当代を彩る英雄になりそうだ」
 にっこりとして、リューズはジェレフに頷いてやっていた。
「治癒者が英雄か! やつらは後衛だぞ、リューズ」
 は、と皮肉に笑って、シャロームが混ぜ返してきた。リューズはそれにも、にこにこしていた。
「そうとも限らんだろうよ、シャローム。戦う気があれば、誰でも戦える。俺には一片の魔法もないし、そうそう腕の立つほうという気もしないが、それでも最前線にいるぞ」
「それはお前が族長だからだ。敵を間近で見たいんだろ。そのほうが指揮が冴えるというから、俺が連れてってやってんだろうが」
 シャロームは不機嫌そうに、リューズの顔を覗き込み、語気も荒くそう言った。仲間のふたりは、それに面白そうに肩をすくめ、ジェレフがぎょっとして、怒りの顔になった。
 しかしリューズは微笑んでおり、そういうシャロームが、憎くはないようだった。
「そうだ、お前のお陰だ、我が英雄シャロームよ。我が軍の勝利は、お前に負うところが大きい。感謝しているぞ」
 リューズが頷いて小さく頭を下げてみせると、シャロームは鋭く舌打ちをした。からかわれたと思ったのだろうし、実際からかわれたのだ。
 シャロームはそれに気づいたのかどうか、苦い顔で首を横に振り、リューズから目を背けた。見るのもいやだという素振りだった。
 リューズと親しくしていると、時々ふと、そういう気分になることがある。顔を見るのもいやなような、うとましく思える時が。たぶん、手玉にとられたような、いやな気分がするからだろう。
 リューズはそんなシャロームには目もくれず、にこやかにジェレフに向き直り、上機嫌に話していた。
「時の許すうちに、必死で学んでおけ、エル・ジェレフ。そしてお前も先輩(デン)たちのように、石の苦痛に苛まれる時が来たら、お前自身の体を使って、どの程度まで麻薬(アスラ)を減らしてもよいか調べろ。お前の石を暴れさせるための英雄譚(ダージ)は、俺が考えておいてやる。それが決まれば、お前の初陣だ」
 ジェレフは愕然としていた。それがどういう命令か、考え込む様子だった。
 施療院は様々な薬を用意していたが、魔法戦士は強い酩酊を好むものだった。それが志気を高めると信じられていたせいであるし、それに隠れて、戦闘や石による死への恐怖を紛らわすためにも、麻薬(アスラ)は重宝だったのだ。
 それに加えて、おそらくは、強い薬を使う年長者たちへの憧れも、幼い者にはあるだろう。早くその域に辿り着きたいと焦り、容易に真似できるところから、粋がって手を出す者がいるのは、想像に難くない。
 それを止める者は、これまで誰もいなかった。
「そんな、死にそうな顔をするな。なにも、薬無しで痛みに耐えろと言っているわけではない。苦悶せずに生きていくことも、お前たちの英雄性を保つためには重要だ。過不足のないところに、麻薬(アスラ)の使用を制限したいのだ。そうすればお前たちは、狂わずに生きていけるかもしれないぞ」
「頭がいかれたら死ねというのか、リューズ」
 強い煙に酔いながら、シャロームが目もくれずに訊いてきた。
「そういうことになるな」
 かすかな哀切はありつつも、リューズは冷徹に答えた。理想に関して、ひどく厳しいところが、リューズにはあった。
 それはかつて自分も、王家の血を守る理想のために死ぬ運命だった身で考えた、潔い一生の形だったのかもしれない。名誉のために死ぬことが、リューズにとっては第一義なのだろう。
 しかしそれを他人にも押しつけようというのは、あまりにも身勝手だ。
「それじゃあ俺はもう死ななきゃならねえな。こいつら二人も、それから長(デン)もだ」
 シャロームはやけっぱちのように、荒っぽい口調で教えた。
「イェズラムはまだ狂ってはいない」
「そんなのどうか分からんぜ。何を根拠にお前は、狂気と正気を区別してるんだ。俺は生まれつきこういう性格なんだよ。麻薬(アスラ)のせいじゃねえ。それにお前みてえなやつを即位させた長(デン)は、ほんとに正気なのかね。ほんとはずっと前から、頭がいかれてんじゃねえか」
 ぺらぺらと話すシャロームの軽口を、いつもは笑って聞いていたリューズが、今は明らかな渋面だった。
「それは侮辱か、シャローム。お前でも許さんぞ。俺がもし頭に来たら、悪面(レベト)を呼んで、お前の首を刎ねさせねばならない。俺にそんなことを、させたいのか」
「似たようなもんよ、リューズ。お前のせいで死ぬことにかけては」
 シャロームは笑って、それを教えた。リューズはさらに、険しい顔をした。しかしそれは、怒りの顔ではなかった。ひどく不愉快なものに行き会ったという、そんな顔だった。
「同じではない。どうせ死なねばならないなら、お前たちには英雄として死んでほしいのだ、シャローム。そのためには英雄譚(ダージ)が必要だ。英雄的に生き、そして英雄的に死んだお前たちを、民は永遠に愛するだろう。そうやって人々の記憶の中に、永遠に生きていてほしいのだ。哀れな狂人として、誰にも顧みられず、死ぬのではなく」
 横目に見て話すリューズと、シャロームは暗い顔で見つめ合っていた。
「俺はな、かつて即位する兄に道を譲って死ぬつもりだった頃、ひとつだけ辛いことがあった。それはな、自分が意味なく生まれ、価値無き者として死ぬことだ。王宮から一歩も出ずに争って、二十歳の声も聞かずに縊り殺されていたら、俺はさぞかし無念だったろうな。王室の系譜に名は残るが、俺が生きた証は、たったそれだけだ。実際そうして、俺の兄弟たちは皆、死んでいったよ。習わしに従い、先代が指名した俺を、唯一絶対の継承者として、即位させるためにな。英雄譚(ダージ)もなく死ぬ者の気持ちが、お前には分からんだろう」
 頬杖をついたまま、リューズは淡々と話していたが、その声には苦渋の気配があった。シャロームは珍しく苦いその声に、顔をしかめて聞いていた。
「俺の命令ひとつで、戦わされる兵たちもそうだ。なんの英雄譚(ダージ)もない、その他大勢ばかりだよ。お前たちはその中にあって、英雄として名を残す戦いをするのだろう。だったらお前は、英雄らしく死ね。俺も王族らしく死ぬ。そうでなければ、名も無きその他大勢が、あまりにも哀れだろう。本当にこの部族を守っている英雄は、そいつらなのにな」
 リューズの話に、シャロームは渋面のまま、かすかに頷いていた。
「無様は許さんぞ、我が英雄シャロームよ。お前は我が部族の象徴なのだ。民に仕えて、英雄らしく生きろ」
 皮肉めかせてにやりとし、リューズは話を結んで、ため息をついた。
 シャロームは頷き、なにか考え込むふうだった。
 長台詞に疲れたのだろう、リューズが脇息に戻って目を伏せて、やれやれという顔をするのがおかしく、イェズラムは淡い笑みになった。
「その部族の象徴たる英雄に、お前は夜光虫を食わせたらしいな」
 イェズラムが訊ねると、リューズは、うぐっと言うような妙な音を喉から立てて、こちらを見るわけでなく、目を見開いた。
「それは英雄的か、リューズ。侍従長の頭を棒で殴るのが、英雄的な行いだと、お前は思っているのか。民が知ったら、どう思うだろうな。さぞかしお前に、落胆するだろう」
 イェズラムは説教するつもりはなく、ただ指摘したつもりだったが、リューズは叱られた者の顔をしていた。
「それは余興だよ、イェズラム。王都での無聊を慰めるためのな、ただの遊びだ……」
 頬杖のまま脇息に縋り、またきつく目を閉じて、リューズは言い訳をした。その話は返って、イェズラムをむっとさせた。
「遊びで済むか、この馬鹿者が。偉そうなことは、偉くなってから言え。シャロームは歴戦の勇者だぞ。お前が偉そうに説教できる相手か。こいつらがお前に甘い顔をするのはな、お前が偉いからではない、族長冠をかぶっているから、仕方なくだ。本来ならお前の兄(デン)で、お前のほうが跪いて、教えを請うべき相手だぞ」
 こちらの不機嫌をかぎつけて、リューズはそわそわしていた。取り入ろうというような作り笑いをして、リューズはあたかも素直そうに答えた。
「ああ、そうだった。そうだったな、イェズラム。なんだっけ……そうだ。玉座に座す者は、謙虚であらねばだ。さすれば王気、自(おの)ずから発し、臣、自(おの)ずから従う。そうだろ?」
「口先だけで、わかったような事を言うな。行動で示せ」
 以前教えた古典から引用してみせ、逃げ腰の誤魔化す口調だったリューズに、思わずイェズラムは叱りつける口調になった。するとリューズは恐ろしそうに首をすくめて目を閉じ、うんうんと頷いてみせた。それも誤魔化しめいて見え、イェズラムはむっとした。
「長(デン)、眉間に不穏な皺が見えます」
 目の上に手をかざし、ビスカリスが遠望するような仕草で教えてきた。
 イェズラムは笑っている隠れ治癒者を見返した。目が合うと、ビスカリスはにやにやした。

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名君双六(5)-4

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「長かった名君双六も、これでとうとうお終いか」
 それがたまらなく嫌だというように、リューズは顔をしかめて嘆息した。
「つまらん。何か他の、新しい遊びを考えよう。誰かいい案はないか……イェズラムが激怒しない範囲で」
 とってつけたような条件を最後に加えて訊ね、リューズはこちらの顔色を伺いながら、シャロームのほうに指で差し招いて、煙管を貸せと求めた。たぶん、他人が横でふかす煙が、羨ましくなったのだろう。
 シャロームはそれを躊躇ったが、結局リューズに煙管をとられ、脇息にもたれた族長が、自分の煙管を一息ふかすのを、ただじっと見つめていた。
 リューズはぼんやり煙を吸ったが、一瞬伏し目になっていた目を瞑り、眉間に皺を寄せて、強い酩酊の顔をした。そして胸一杯と思われる長い息とともに、白い煙をシャロームのほうに、ふうっと吐きかけた。濃密な白煙が細くたなびき、シャロームの肩口にとりついて霧散した。
「久しぶりのせいか、シャローム、お前のはあまりにも強い」
 そう評して、リューズはシャロームに煙管を返した。そして、くらりと来たのか、縋るように脇息に戻り、麻薬(アスラ)の匂う息で、イェズラムのほうに顔を寄せてきた。
「なあ、イェズよ。お前らはいつも、強烈なのをやりすぎではないのか。本当にここまでの、脳天に来るようなのが、石を宥(なだ)めるのには必要なのか」
 内密の話のように、そう訊ねてくるリューズの視線は、微かに浮ついた上目遣いだった。よっぽど脳天に来たらしい。酔ったような顔だ。
「それは人による。早い時期から強いのを吸い付けた者や、頻繁に使った者は、だんだん効かなくなってくるので、晩年には相当に強いのが必要になる」
「頭がおかしくなるのではないか。こんなものを、毎日ずっと吸っていたら。シャロームを見ろ、とても正気とは思えん」
 軽口と思われることを、リューズはぼんやりした口調で、気怠げに言った。
「俺は正気だ、こん畜生が」
 シャロームは苦笑して毒づき、返された煙管を憮然と銜えた。
 その言葉が真実かどうか、怪しかった。仮にも族長冠をかぶった者に、その悪態はないであろうし、それに、そんな悪態を許す族長に付き合って、末期の瞬間まで戦場を駆け抜け大笑しようというのも、正気の沙汰と思えない。
「仕方がないよ、族長。素面(しらふ)であんたに付き合ったら、それこそ気が狂いそうになる。長(デン)を見ろ、毎日頭が痛くて、うんうん言ってる。せめて一発きめなきゃ、やってられないんだって。葉っぱで狂えば、素っ裸で玉座の間(ダロワージ)を走る勇気が湧いてくるってもんさ」
 けらけら笑い、ヤーナーンが言った。それを聞く三人の魔法戦士たちは、こらえきれないように、腹を振るわせて笑った。リューズはぽかんとし、イェズラムは渋面になり、ジェレフはどこか呆然として座していた。
「そうなのか、イェズラム」
 教えてくれという顔で、リューズはかすかに眉を寄せ、こちらを見た。
「なんの話だ。頭痛のことか。それとも気が狂う話か」
「いや、なんというか……お前ら魔法戦士は、実は狂人の群れなのか」
 驚いたというふうに、リューズは訊ねていた。その点について、これまで考えたことがないらしかった。
「穿(うが)った見方として、一理はあるな」
 苦笑して、イェズラムはそう答えた。皮肉のつもりだったが、リューズは真に受けた。
「まずいぞ、それは。お前たちは英雄でないと。民が崇める、部族の英雄なのだぞ」
 詩人たちの奏でる英雄譚(ダージ)は、リューズにとっては、幼い頃からの見果てぬ夢だった。その心躍る物語に甘く酔い痴れ、こいつは自分も英雄になりたかったのだ。それが無理なら、英雄譚(ダージ)を編む宮廷詩人か、あるいは英雄たちを演じることができる、仮面劇の俳優になりたいと、子供のころには本気で話していた。
 結局その夢は全て叶わず、族長になってしまったが、リューズは今でも、英雄たちを深い憧れに似た感情をもって愛している。
 その英雄たちが、麻薬(アスラ)に狂った病人にすぎないなどという考え方は、到底受け入れがたいのだろう。
 リューズは苦い顔をしていた。
「エル・ジェレフ。お前は何歳だ」
「十五です、閣下」
 急に話を向けられて、ジェレフは座ったまま飛び上がりそうになり、上ずった声で答えた。リューズはそれを、深刻な顔で見返した。
「お前も、もう頭がおかしいのか」
「いいえ、俺はまともです、閣下」
 青い顔をして、ジェレフは追い被さるように、慌てて答えている。
 その様子がおかしく、イェズラムは苦笑した。この席でいちばん、挙動がおかしいのはジェレフだったからだ。
 いったん笑うと、なにかの発作のように可笑しさが湧いてきて、イェズラムは眉間を揉んで、堪えた低い笑い声をたてた。
「なぜ笑っておられるんですか、長(デン)」
 悲鳴のような裏返った声で、ジェレフが聞いていた。
 それはもう、駄目押しのようだった。
 笑うのを済まなく思って、お前に非はないと、イェズラムは首を横に振ってみせたが、ジェレフはそれをどう受け取ったのか、ますます悲壮な顔になり、イェズラムを追いつめた。
「どうしたんだ、イェズ。お前まで発狂したのか」
 リューズが面白そうに、頬杖をついたまま、こちらを覗き込んで聞いてきた。
「いや、ジェレフはまともだ、リューズ。魔法戦士に煙管を吸わせるのは、古来から初陣の祝いで、こいつはまだだ」
 イェズラムが教えると、リューズは頷いて感心していた。その習わしについて、まだ知らなかったのだろうか。
「だけど変ではないのか、イェズラム。俺の憶えている限り、お前はこいつよりも若い時に、もう煙管を吸っていた」
「俺の初陣は十二の歳だったからだ」
 答えると、リューズは微かに眉をひそめた。
「なんでそんな、ちびっこいうちから、戦に行ったんだ」
 イェズラムが初陣のころ、リューズはまだ乳母に抱かれた舌足らずな子供だった。やがてその乳母が死に、行き場がなくなると、リューズはイェズラムのところに入り浸るようになった。
 戦に疲れ果ててタンジールに戻ると、押し黙ったリューズが、出陣したときの姿より幾分育って待ち受けており、生きて戻った兄(デン)に安堵するふうだったので、イェズラムは石から受ける苦痛を、表に出すことができなかった。
 それでも無口な渋面になるのはやむを得ず、黙って麻薬(アスラ)を使うこちらを、リューズはいつもじっと眺めて育ってきた。
 その目で見られると、イェズラムはいつも、幼い弟(ジョット)に非難されている気がした。なぜ自分を置いて戦に行くのかと。なぜもっと早く、戻ってこなかったのかと。
 リューズには生母もなく、乳母も死に、宮廷で寄る辺がなかった。後見人の兄アズレルは、助けになるよりむしろ、リューズを陰湿に虐めてばかりいたし、幼いながらに、イェズラムのほかに頼れる相手はいないと思っているらしかった。
 しかし、そう頼られても、イェズラムはいつも困った。従軍するのは義務であったし、その間の長い不在は如何ともしがたかった。
 そして疲弊して王都に戻されている間は、他の者がそうするように、部屋にひとりで籠もり、苦痛に身悶える時には心おきなく悶え、煙に巻かれて酔い痴れ、ひたすら眠っていたかった。
 しかしリューズがいると、そうもいかず、遊んでくれイェズラムとうるさく袖を引かれて、苦悶の寝床から幼髪の顔を恨めしく睨んだことも度々ある。
 それでも王都で待つ者がいてくれたお陰で、自分は他の者よりましに生きてこられたと、今では思う。
 自棄(やけ)のように英雄譚(ダージ)を求め、自ら魔法を濫用するようなことは、一度もしなかった。うまく立ち回って、生きて戻ってやらないと、誰も戻らない部屋で、リューズがいつまで待っているかと、哀れに思えて、気が咎めたのだ。
「俺たちの頃は、元服したら従軍するのが普通だったですよ。俺たちの先輩(デン)は、がんがん戦って、がんがん吸って、がんがん死んでたんです。なんせ麻薬(アスラ)で酔わされて、相当な前後不覚で、殺すなら殺せみたいな、無茶な気分にさせられてたからね。生きて戻るは恥みたいな、そんな奴までいましたよ」
 ヤーナーンが言うのに、魔法戦士たちは笑っていた。それを眺め、リューズはまだ、ぽかんとしていた。それからゆっくり、眉間に皺を寄せて、悩む顔をした。
 ヤーナーンの話は乱暴だったが、嘘ではなかった。敗色の濃かった当時、魔法戦士は成長を待たずに次々と戦線に投入され、乱費されていた。慣例では初陣は十五歳となっていたが、そんなことは無視され、元服したら大人だという理論がまかり通った。
 長老会はそれを渋ったが、魔法戦士が足りないと玉座からせがまれては、未完成の在庫を放出する以外に手がなかったのだろう。軍に魔法戦士を供給するのが、長老会の責務だからだ。
 しかし軍団に割り当てられた英雄が、まだ生っ白い顔のちびだと知って、兵の士気が上がるわけはなく、むしろ窮状に察しがついて、返って不安になるだけだ。中には魔法の制御がとれず、悲惨な落ちを見せる者もいた。時には自軍を巻き込んでの、派手な最期だった。
 同族殺しは部族の者にとって最悪の罪だ。その罪の恥辱にまみれて英雄が死ぬとは、これ以上堕ちようもない悲惨な穴の底だった。
 もはや玉座に従うことはできぬと、長老会が決断するのには、十分な理由だっただろう。
 シェラジムも長老会の一員としての決断を求められた。すでに、御意のままにと答えてよい時期は過ぎたと。
 先代は生来の虚弱のうえ、煙に中毒して死にかかっており、シェラジムはそんな傀儡を生き延びさせて操るよりは、早逝するにまかせ、自分も殉死という形で、引責して自決するほうを選んだ。
 そしてイェズラムに介錯を求め、自ら命を絶つ前に、シェラジムは話した。
 これは誰にも秘密の話だが、私は今でも、我が君は名君になれるのではないかと、期待している。確かに気の弱いお方だが、頭脳は明晰であられた。だから誠心誠意お支えすれば、いつかきっと、まぶしく輝く星におなりだと、そういう考えに縋り付いてきたのだが、そんな私の、人を見る目のない愚かさが、悪だったのだろうな。
 だが何が違ったというのだ。ほかの王子たちと比べて、ご幼少の頃より聡明だった我が君の、どこがそんなに、劣っていたのか。
 無念だと、そう話したシェラジムに、イェズラムはなにも答えられはしなかった。先代が暗愚な族長であることは、誰の目にも明らかだったのに、シェラジムにはそれが、見えていなかったのだ。
 可哀想だから助けるというなら、貴方は私となにも変わらないと、シェラジムは嘲るでなく、どこか哀れむ口調で、イェズラムに言った。
 だけど貴方は、名君の射手になるといいよ。秘訣はおそらく、御意のままにと答えぬことだ。たとえ傀儡であっても、暗君になるよりは、名君であるほうが、お心安らかだ。戦いを避けて、一日でも長くお仕えし、名君の御代をお支えするがよかろう。
 それはシェラジムからの、一生を費やした金言であっただろうが、彼はリューズをよく知らなかった。本人を見れば、また別の言葉を残したかもしれない。
 先代にはなく、当代にあるものが、幾つかあるはずだ。それが旨い方へ賽子(さいころ)を転がしてくれれば、リューズは名君になれる。魔法戦士のいかさまが必要か、それは思案のしどころではあるが。
 俺は信じたいのだ。がらくたではない、本物の星を得て、それを闇に放ったのだと。
 だから、リューズに必要なのは、不戦の人形遣いではなく、大魔法を振るう英雄だ。たとえそのために俺と道半ばで別れることになっても、リューズは困りはしない。なぜならこいつは、人形ではないからだ。一人でも立派に、歩いていける。高貴な血の匂う、名君の顔をして。
「禁煙しろ、イェズラム」
 唐突に横から言われて、イェズラムは真顔になり、隣に座しているリューズのほうを見た。
「なんだって?」
「お前が発狂すると困るので、禁煙しろ」
 リューズは本気で言っているようだった。それが命令じる口調だったので、その場にいた他の者が皆、押し黙った。

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名君双六(5)-3

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 ジェレフは与えられた席に、石像のようになって座っていた。
 それはそれで良かった。そこまで緊張していれば、目の前にある名君双六の枡目に書かれている、目を覆うような命令の数々も、ろくに読めていないのではないかと思えたからだ。
「シャローム以外は、みんなあがったのだ。こいつは本当に運のないやつだなあ、イェズラム。もう皆飽きて、いちいち命令を実行していると進まないので、とにかく『戦死する』に当たらなければ可ということにしてあるんだが、それでも中々あがってくれないんだ」
「だったら、もう、やめたらどうなんだ」
 あきれ果てて、イェズラムはリューズに提案した。一体何日ぐらい、この馬鹿げた双六で遊び続けているのだ、お前らは。
「やめちゃだめなんだそうですよ、長(デン)。みんなで『名君の死』まで行くんだ」
 煙管に火を入れながら、ヤーナーンが教えてきた。裸で走るはずだった男は、ふうっと長い息に乗せて、煙を人のいないほうへ吐き出し、それからその煙管を、賽子(さいころ)を握っているシャロームに差しだした。
「兄貴(デン)、景気づけに一服」
 頷いて勧めるヤーナーンに、シャロームは一瞬だけ苦笑を見せたが、拒まずにそれを口に入れさせた。
「煙を吸った程度で、俺の不運が尽きるものかね」
 合わせた両手の中で、賽子(さいころ)を転がしながら、シャロームがぼやいた。
「死ぬな、シャローム」
 脇息にもたれ、リューズが気怠げに、そう命じた。
 たぶんもう、内心では飽きているのだろう。リューズはそういう時の癖で、自分の耳飾りの房を弄っていた。
 後はもう、執念だけで、『名君の死』まで全員を連れて行こうという事なのだ。
 しかし、それは無理だ。リューズ。この場にいる誰一人、それに付き合える者はいない。いちばん年若いジェレフでさえ無理だ。お前がどんなに汚い手を使って、ごねてみせても、死の天使の翼に逆らえる者はいない。
 イェズラムはそう思いながら、賽子(さいころ)を振ったシャロームの、煙管を銜えて笑っている顔を眺めた。
 象牙で作られた大振りな賽子(さいころ)は、ころころとジェレフの膝元まで転がっていき、こつんと当たって止まった。
「ぐわっ、治癒者が俺の運命を変えやがった!」
 シャロームは逆上したふうに言ったが、ジェレフの横で見ていたビスカリスが、出目を確認して、盤上のシャロームを動かし始めていた。
「これなる新参者の膝蹴りが、吉と出ますか、凶と出ますか……」
 エル・シャロームの名を金で象眼された魔法戦士の駒は、『戦死する』を飛び越え、かの『玉座の間(ダロワージ)を裸で走る』をも乗り越えて、『侍従長の頭を棒で叩く』で止まった。それは『戦死する』の一歩手前だった。
「おおお、無難な枡目だ」
 驚いたように、シャロームが言った。それが無難なのかどうか、イェズラムは顔をしかめた。無難というなら、せめて棒でなく手で叩け。
 ジェレフはすでに、呆然としていた。
「治癒者だけに、死の一歩手前でシャロームを救ったか」
 リューズはどこかしら意地悪い口調で言い、次の賽子(さいころ)を振り回しているシャロームを見やった。
「俺様が腐れ治癒者に救われるとは、一生の不覚だよ」
「時代は変わったのだ、シャローム。お前も俺も、考えを改めるべき時かもしれんぞ。いつまでも暗い時代の怨念を、引きずって生きていく訳にもいかないものなあ」
 そう言うリューズの話を振り払うように、シャロームは煙管を銜えた歯の間から、ふふんと刺々しく笑った。そして振られた賽子(さいころ)は、今度はジェレフをよけて、どこまでもころころと転がっていった。
「数を見てこい、新参者」
 投げすぎた賽子(さいころ)を取りに行くよう、シャロームはジェレフに命じた。
 それにジェレフは、一瞬渋い顔をしかけたが、にこにこ見ているリューズに気づいて、それを隠した。さすがの反発した小僧も、族長の目前で、序列を無視してシャロームとやりあうつもりはないようだ。
 立ち上がって賽子(さいころ)を取りに行き、戻ってきたジェレフは、ビスカリスに問われて、見てきた数を答えていた。
「いかさまじゃねえだろうな、ジェレフ」
「そんなことはしません。やって何の得があるんですか、俺に」
 不正をしたかと言われたのが、よほど悔しかったのか、ジェレフは噛みつくように、シャロームに答えた。
「何の得もなくても、ずるして気にくわねえ奴をとっちめるのが、お前ら治癒者のやり口さ。同じ軍の戦友を見殺しにして、平気で王都にご帰還よ。力及ばずご免なさいで、誰も文句の言い様もねえ。戦で死ぬのは普通だからな」
 むっとして、ジェレフは胡座した膝の、長衣(ジュラバ)の布地を掴み、押し黙った。それを眺め、煙管をふかして、シャロームはさらに言った。
「お前らは賽子(さいころ)の出目をちょろまかすのが仕事だろ。数字を変えて、生きられるはずだったやつを見殺しに……」
 シャロームは煙管を指にとり、振り返って背後に煙を吐いた。それには強い酩酊の香りが籠もっていた。
「違います。死ぬはずだった者を助けるのが、治癒術です。それによって戦局が変わることもあるはずです。直接に戦うことはできませんが、治癒者もそうして、戦っているのです」
 ジェレフはシャロームにではなく、脇息にもたれ、くつろいでいるリューズに向かって話していた。俺の話を聞いてくれと、この少年は言いたいのだろう。
 本人も先程、治癒者を嫌いだと言い、同じく治癒者を毛嫌いしているシャロームの話を、日々こうして聞かされているらしい族長リューズが、治癒者は卑怯な役立たずだと思うのではないかと、ジェレフは耐え難く思い、そうではないと話したいのだ。
「シャロームは本当のことを言っているのだぞ、エル・ジェレフ。こいつは実際、そういう目に遭ったことがあるのだ。イェズラムが命の恩人で、その時の弱みのために今も、首根っこ掴まれて働かされているという、気の毒なやつなのだ」
「そうだ。時には、あのまま死んでたほうが、楽だったかと思うほどだぞ」
 本気なのか、それとも葉っぱに酔わされたのか、シャロームはけろりとそう言った。そこまで言うなら、こちらもわざわざ、石を肥やしてまで助けてやらねば良かったかと、イェズラムは悔やんだ。
「それに引き替え、お前の話は空想の段階だろう。初陣もまだなのだ。戦ったことがない者が、なぜ戦場における物事の理屈をこねられるのだ」
 頬杖をついて、訊ねているリューズの口調は、皮肉ではなかった。リューズは誰にでも、分からなければ訊ねるのが癖になっている。理屈に合わないから不思議に思って訊いただけなのだろう。
 それはそれで無体なことだった。なぜだと問われて、ジェレフは言葉を失っていた。
「それは……そう思うからです。自分の信条を話したまでです」
 恥じ入る気配で、ジェレフは膝を掴み、低く答えた。自分にはまだ、その話をするに必要な英雄譚(ダージ)がないことを、ジェレフは痛感しているのだろう。
 悔しそうな様子の少年を、リューズは何とはなしに苦笑したような顔で見つめて言った。
「これは俺の経験からの忠告だがな、エル・ジェレフ。経験というのは、なにものにも代え難い。経験のある者の話は、真摯に受け止めるほうがよい。その中からしか得られないものが、世の中にはあるようだから、俺はいつも、人の話はよく聞くようにしている」
「エル・イェズラムの説教以外は」
 にこにこと愛想よく、ビスカリスが合いの手を入れた。それにリューズは心持ち項垂れて頷いていた。
「くだらん指摘で俺を虐めていないで、さっさと駒を進めてくれ、ビスカリス」
 しっしっと追い払うように、リューズは手を振って、ビスカリスに双六の駒を進めさせた。
 先程ジェレフが読んできた数字のぶんだけ、ビスカリスはシャロームの駒を動かしたが、それは再び『戦死する』を乗り越えて進んだ。
 その事実に、ジェレフは、そら見ろというように暗くシャロームを睨んだが、そんな子供っぽい挑戦には乗らず、シャロームはただ苦笑していた。
「また俺が夜光虫を食っている」
 駒は『夜光虫を食う』に止まっていた。
「何匹目だシャローム。お前はよっぽど夜光虫が好きだな。病気になるぞ」
 リューズは変人を見るような目でシャロームをなじったが、よくもそんなことが言えるものだった。
「好きで止まってるんじゃないって。運命の仕業だよ」
 情けなそうに言って、シャロームはまた賽子(さいころ)を投げた。それをビスカリスが見て、また駒を動かしてやった。それは『イェズラムの顔に墨』を乗り越え、その隣の『戦死する』で止まった。
「また死んだ!」
「死にすぎだ兄貴(デン)」
「いいかげんにしてください、エル・シャローム」
 顔を覆って叫んだシャロームに、ヤーナーンとビスカリスが文句を言った。そうやって他人をなじっていられるのだから、残る二人は確かにもう名君の死を見たらしい。
「シャローム、面倒くさいから、今のはなかったことにして、もう一度やってみろ」
 やれやれと言うリューズに、シャロームは苦笑して、煙管をくゆらせ、やる気のない手で賽子(さいころ)を投げた。それは、ころころと転がってきて、イェズラムの前で止まった。
 同じ数字だった。
 指をのばしてきて、リューズが賽子(さいころ)を拾ってやり、もう一度シャロームに投げさせた。
 つややかな象牙の賽子(さいころ)は、刻まれた黒い目も鮮やかに転がり、盤の中程で止まった。
 それはまた、さっきと同じ数字だった。
 シャロームはそれを、目を瞬いて、じっと見下ろしていた。
「凄いな。なんというか、もの凄い強運というか、不運というか。同じ出目が三回連続で出る確率はどれくらいだ」
 計算していない顔で言って、シャロームは賽子(さいころ)を引き取った。
「もう止めようや、リューズ。俺には『戦死する』があがりだよ。『名君の死』まで付き合いたいが、どうも俺には運がなさ過ぎる」
 リューズは自分の左隣で、双六を止める許しを求めたシャロームを、じっと見つめて真顔で言った。
「この、不忠者めが」
 シャロームはそれと向き合い、苦笑いをした。
「誠に申し訳ございません」
 芝居がかって答えるシャロームの声は、ふざけた笑いを含み、軽快に響いた。リューズはそれを、かすかに不機嫌そうに聞いたが、それでも、まだ続けろと命じはしなかった。
「かくして、英雄シャロームは死せり」
 朗々と詠う、詩人のごとき声で、ビスカリスが茶化した。皮肉な笑みとともに、シャロームは、ビスカリスとヤーナーンに恭しく頭を下げた。それに二人が答礼するのを、リューズは退屈げな半眼で、うっすら不機嫌そうに見ていた。

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名君双六(5)-2

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「派閥の新入りを、目通りに。エル・ジェレフ、挨拶を」
 イェズラムが促すと、ジェレフはぎょっとしたのか、血の気のひいた蒼白の顔になった。
 まさか族長と直に話すことになると、想像していなかったのか、ジェレフは舌を忘れてきたように、いっとき口ごもった。
「お目通りがかない、光栄です。ジェレフと申します、閣下」
 それでもジェレフはやがて、躾けの行き届いた口のきき方で挨拶をした。
「初めて見る顔か。俺は共に戦った英雄たちは、全て憶えているつもりなのだが。お前の初陣はまだか、エル・ジェレフ」
「はい」
 微笑して話してくるリューズに、ジェレフは平伏して答えた。たぶんそうやって、顔を合わせないでいるほうが、話しやすかったのだろう。
 その姿を見て、リューズがこっそりと苦笑をイェズラムに向けてきた。この餓鬼は誰だと、その金色の眼は訊ねていた。
「そいつは治癒者だ。なんでも相当に使うらしい。新入りの餓鬼のくせに、部屋(サロン)ではいつも、長(デン)のすぐ目の前に座っていて、俺に挨拶もしない、糞生意気な野郎だ」
 リューズを斜に振り返り見て、シャロームが教えてやっていた。リューズはそれに、面白そうに微笑を強めただけだったが、言われたジェレフはぎょっとしていた。
「治癒者か」
 納得したふうに、リューズは頷きながら言った。
 それは問いかけだったので、ジェレフはなんとか、素知らぬ顔のシャロームから目を戻し、族長に、はいと答えた。その声はどことなく上の空だった。
「エル・ジェレフ。俺は治癒者が嫌いだ。それがなぜか、お前は知っているか」
 聞き違えようもない、あからさまな拒否を、リューズに笑いながら言われて、ジェレフは衝撃の顔をした。それはそうだろう、有り難く拝んだ相手から、お前が嫌いだと通告されては、こいつも困るだろう。
「存じません……なにか失礼を、いたしましたでしょうか」
 ジェレフは立っていたら、よろめいていただろうと思えるような、落胆の声で答えていた。リューズは治癒者全般が嫌いだと言ったのだが、ジェレフにはそれが、自分自身への嫌悪と思えたのだろう。それはそれで、自意識の強いことだった。
「いいや、お前のことは今の今まで知らなかった。だからお前のことは嫌いではない。俺が治癒者を嫌うのは、先代の族長だった父に仕えた腹心の魔法戦士が、治癒者だったせいだ。不戦のシェラジムだ。お前も同じ治癒者なら、それくらいは、知っているだろう」
 リューズに説明されて、ジェレフは頷き、かすかな小声で、はいと答えた。
 治癒者であればシェラジムの名は、知らぬわけがない。治癒者でなくても、リューズが即位する以前の宮廷を見知っている者であれば、シェラジムのことは、その不戦という悪名とともに、印象深く記憶しているはずだ。
 イェズラムにとっては、シェラジムは赤の他人ではなかった。彼は先代の射手で、リューズの父デールを即位させ、戴冠させた人物だったが、その星の死を追って殉死した。そういう、今ではもう、この宮廷にいない男だ。
 彼の死を看取り、死後に頭の中にある竜の涙を、慣例に従って取り出してやったのは、イェズラムだった。
 それは、自決する前のシェラジム本人に介錯を頼まれたからだったが、断れば、他には誰もそれを引き受ける者がいなかったシェラジムのことで、石を取り出す役目は最終的に、族長に引き渡されることとなる。つまり即位したてのリューズがやる運びだった。
 しかしリューズは、父親を麻薬(アスラ)漬けにした張本人として、シェラジムのことを嫌っていた。
 介錯するのは普通、親しく付き合いのあった、縁のある者だ。そういう習わしである上に、リューズは族長になったとはいえ、まだ即位したての十七歳で、たとえそれが族長冠に伴う義務とはいっても、憎む相手の介錯をするというのは、心の乱れるものだろうと、イェズラムは哀れに思った。あるいは本来、敬意を以て行うべき介錯を、リューズが復讐のために行うのではという想像が、不快だったからかもしれない。
 それでシェラジムに頼まれるまま、自分が引き受けたのだ。
 先代は治世において、シェラジムの傀儡であると噂されていた。実際、朝儀の席では、シェラジムは玉座の隣に椅子を置かせ、いつもそこに座っていた。
 そして一事が万事、先代は、シェラジムはどう思うか、どう思うかと、人目も憚らず、腹心の者の意見をその場で求めた。それにシェラジムはただ、御意のままにとしか答えなかったように思うが、その言い方や仕草などに、許諾か拒絶を示す、何らかの暗号符牒があるのだと、まことしやかな噂が流れていた。
 リューズはそんな父親を、屈辱だと感じていたようだ。
 主体性に欠ける暗君としての父も情けなければ、その横に陣取る治癒者も憎かった。そしてそれを長(デン)として掲げ、玉座の間(ダロワージ)でいつも、尊大な我が物顔でいる治癒者たちの群れも、リューズには忌まわしかったのだろう。
 あの当事を生きた魔法戦士の中には、治癒術をあえて棄てる者もいた。シェラジムを筆頭とする治癒者の派閥と、一線を画す目的でのことだ。愛とか道義とか、そういった生ぬるい話ではない。敗北に甘んじ続ける暗君と、その寵臣におもねるか、名君となるべき新星を待望し、別の理想に身を投じるかという、信条のあらわれだったのだ。
 イェズラムは自らの治癒術を棄てはしなかったが、それを宮廷で教える治癒者の先輩株(デン)から習うのではなく、戦場で治癒者が無視した仲間を癒すことで、実地に鍛えることになった。
 別に見捨ててもよかった。火炎術士として働くことで、英雄譚(ダージ)が得られるのだから、治癒術は無駄な脇道だった。
 しかし放っておけば死ぬものを、見捨てていくにしては、自分はまだまだ、やわだったのだ。
 炎の蛇は隠れ治癒者と、古くから派閥いる者たちは、皆知っている。それを恩義に思って、いまだに裏切らぬ者たちも、少なくはない。
 だがもう、そんな、治癒者がどこでも幅をきかせ、隠れて癒す者が英雄性を帯びるような、そんな時代ではなかろう。先代は没し、不戦のシェラジムも死んだ。その後の闇夜には新しい星が昇り、暗い時代は、終わりを告げた。
「シェラジムはな、今にして思えば、そう悪いやつではなかったのだ。悪かったのは恐らく、俺の父のほうだろう」
 困り切って聞いているジェレフを、リューズは面白そうに笑って見ていた。
「父上は決断するのが苦手なお方だったらしくてな、些細な命令ひとつご自分では下せず、いちいちシェラジムを頼ったのだ。シェラジムはそれに、御意のままにとしか答えていなかったらしい。つまりな、エル・ジェレフ、あいつは父上に、そんなことは自分で決めてくれと、いつも答えていたんだよ」
 リューズが教えている話は、伝聞だった。シェラジムが御意のままにと答えることは、イェズラムが教えた。リューズは兄アズレルに締め出され、玉座の間(ダロワージ)に席を与えられていなかったせいで、そこでの出来事はすべて、イェズラムが話してやっていた。
 しかし最後にジェレフに話した解釈については、リューズ独自のものだった。そんな話は、イェズラムはしていない。
「シェラジムはおそらく、父上があまりに気弱なので、心配でたまらず、隣に座していたのだろう。励ますためにだな。そうでないと、父上は、玉座に座っていることもできなかったのだろう。そういう気分は、俺にも分かる。玉座から見下ろす広間(ダロワージ)は、案外恐ろしいところでな、俺も右隣に、イェズラムがいると、それだけで心強いのだ」
 そう言って、リューズはイェズラムにまた、苦笑を見せた。こちらがその話に、咎めるような渋い顔をしてみせたせいだろう。ほかの三名はともかく、ジェレフに軽々しくそんな話をすべきでないと思ったのだ。
 だがリューズは全くこちらの無言の制止に頓着しなかった。
「だがな、お前たちの長(デン)は、シェラジムのように優しい男ではない。俺が頼ろうとして目をやると、知らん顔をするのだ。目も合わせようとしないぞ。薄情なこと、この上ない」
 リューズが目を覆って大仰に嘆いてみせるのに、近侍の三名が笑った。ジェレフはその有様を、青い顔で眺めていた。
「そのお陰で俺は今のところ、少なくとも暗君ではあるまい、エル・ジェレフ。お前もその男の言うことをよく聞いて、愚か者にはなるな」
 にこやかに頷いて、リューズがジェレフに説教をしていた。
 ジェレフは恐縮して、蚊の鳴くような声で返事をした。そして項垂れ、どうしていいやらという様子だった。
 リューズ、お前は、他人に説教をできるような立場かと、イェズラムは内心思った。それが顔に出ていたらしく、こちらに目を向けたリューズが、ふざけているのか、怯えたような顔で目を閉じ、顔をそむけていた。
「怖いなあ、シャローム。イェズラムが俺を睨んでいるぞ」
「俺に話を振らないでくれ。とばっちりで睨まれたら、俺までちびりそうだから」
 降りかかる火の粉を払うように、シャロームは顔の前で手をぶんぶん振ってみせていた。リューズはそれに、楽しげな笑い声をあげた。
「双六の途中だったのだ。エル・ジェレフ。せっかく来たのだから、お前もこっちに混ざって遊んでゆけ」
 まだやっていたのかお前らは。イェズラムはあきれ果てて、車座に座っている四人の弟(ジョット)たちを見た。確かに彼らの座る中央には、いつぞや目にした、手書きの名君双六が敷かれていた。
 呼ばれたジェレフが、行くべきなのかどうかという戸惑う顔で、こちらを見た。
 もちろん行くべきだろう。族長が呼び寄せているのを、わざわざ戸口で拒む理由もない。
「イェズラム、お前も忙しいのだろうが、たまには付き合ってゆけよ。一緒に双六をしたぐらいで、シェラジムの二の舞にはなるまい。それとも戸口が好きなのか」
 ねだる口調のリューズに、イェズラムは苦笑して、首を横に振った。戸口が好きなわけではない。
 諦めて立ち上がり、ジェレフを促して、イェズラムは居間にいる者たちのほうへ行った。
 シャロームはリューズの右隣をイェズラムに譲り、足りない円座を侍従に持ってくるよう言いつけた。そして、お前は末席だとわざわざ言い渡して、ジェレフを自分たちの間に座らせたが、結局のところ車座だったので、戸口に一番近いとはいっても、そこは族長の向かいの席だった。

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名君双六(5)-1

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 エル・ジェレフは猛烈に緊張していた。
 族長の居室の前に突っ立っている礼服の中の体は、石でできている。そういう雰囲気のする立ち姿だ。
 それを脇に従え、イェズラムは控えの間に引っ込んだ侍従が、族長に取り次いで戻ってくるのを、内心ぼんやりして待っていた。
 ここには二度と来ないと思ったが、ふと気が変わった。
 ジェレフの問題を思い出したからだった。
 出陣する前に、この際まとめて色々やっつけておこうかと思ったのだ。
 エル・ジェレフは明らかにシャロームを敵視していた。同じ派閥内に内輪もめがあるのは、別に珍しいことではなかったが、大枠として団結していなければ、いざという時に困る。
 それに、年長者という点を別にしても、自分より現実に功のある相手のことを、自分のほうが優れていると見くびるような、性根の腐った若いのを、それがいくら優秀な治癒者だからといって、派閥の一員として抱えておく気にはなれないのだ。
 長(デン)としての信条に反する。
 年功序列を鵜呑みにしろとか、喧嘩ひとつなく仲良くやれとは言わないが、人に対する敬意は必要だ。それが自分の派閥の部屋(サロン)に座する者が、骨身にしみて理解しておくべき、必要最低限の掟だと、イェズラムは考えていた。
 シャロームが日頃、派閥の部屋(サロン)に顔を出しもせず、一体なにをやっているか、ジェレフに直に見させるのがよかろうと思った。
 やつらが相変わらず馬鹿なことをやっていて、見たまま馬鹿だと思うなら、それはそれで仕方ない。運がなかったのだと思おう。
 それにジェレフの、リューズとの相性も見たかった。近侍として差し向けるなら、多少なりと面白みを感じる相手でなければ、リューズは傍に寄せ付けないだろう。
 侍従がひょいと姿を現し、族長が謁見をお許しになりましたと伝えた。
 それでジェレフがさらに硬質に緊迫した。こいつは一体、どこまで固くなれるのかと、イェズラムは思った。さっきまでが大理石としたら、今は金剛石(ダイヤモンド)くらいか。まさかこの上はないだろうから。
「控えの間を抜けて族長の居室に入ったら、まず戸口で三跪九拝だ。それから声をかけられるか、もっと近寄るように促されたら、中に進んで、そこでもう一度叩頭しろ」
 念のため教えてやると、ジェレフはどことなく縋り付くような目でこちらを見返し、ただ黙って頷いた。
 他の者がいれば、長(デン)に返事をしろと怒鳴られるところだろうが、今は言っても無理だった。目には見えない緊張の指が、ジェレフの喉を締め上げていて、たぶんぐうの音も出ない。
 族長に謁見するというのは、そこまで緊張するものだったろうか。イェズラムにはもう、分からなかった。リューズに会うのに、いろんな意味で身構えるのはしょっちゅうだったが、緊張したことはない。
 今さらするわけがなかった。リューズが襁褓(むつき)をつけて部屋を這い回っていた頃から知っており、面倒を見てきた間柄だ。見ていてはらはらすることはあっても、ジェレフのように、高貴な血筋に気圧されるということは稀だった。
 だからきっと、いくら敬うような姿勢を取って見せても、見ている者たちには、茶番だと思われるのだろう。結局不遜な内心が、透けて見えていて。
 ジェレフを急かして、イェズラムは扉をくぐった。
 やってきた族長の乳兄弟を、侍従たちはお辞儀して迎えた。今はもう、以前のような、もうもうたる煙の匂いはしていなかった。
 部屋に入ると、リューズは例の三人を従えていた。
 居間の上座には、普段着姿でリューズが座し、それの両脇と向かいの席に、三人の魔法戦士たちが侍っていた。
 戸口に自分たちより序列の高いイェズラムが現れたのを見て、彼らは座したままこちらに体を向け、床に手をつき頭を垂れて、答礼の姿勢をとった。
 薄い笑みでこちらを見る族長リューズの視線に触れ、ジェレフはさらに硬度を上げた。まだ先があったのかと、イェズラムは感心したが、それで跪くことができるのか、危ういところだった。
 儀礼を思い出させるため、イェズラムが先に膝をつくと、ジェレフは弾かれたようにびくりと震えて、自分も慌てて跪いた。そこから先は、宮廷で育った者であれば、子供のころから仕込まれた自然な流れだ。
 アンフィバロウの継承者である族長に対し、叩頭礼を行うのは、宮廷での儀礼の基本中の基本だった。王宮で育てられた者は、寝ぼけていても、三跪九拝できる。ましてジェレフは、族長になんの含みもなく、そうすることに一切の疑問がないだろう。
 自分もかつて、元服を終え、玉座の間(ダロワージ)の末席に侍ることを許されて、遠目に玉座を拝んだ時には、そこに座る族長冠をかぶった顔に、三跪九拝することに、なんの疑問も覚えなかった。
 しかし、やがてその顔が、暗君の顔だと気づいた時の落胆は、ずいぶん激しかった。星だと思って振り仰いでいたものが、実はがらくただったとは。一度そう思えば、跪くのもつらく、朝儀での度々の号令で三跪九拝させられるのは、なにかの拷問かと感じられた。
 だが今にして思えば、そうしろと命じていた側も、実はつらかっただろう。その有様を玉座から見下ろし、嫌々叩頭する者たちの無数の顔を、ただじっと眺めるほかはなかった立場の者の心も、もしかすると、苦しかったかもしれない。
 先日リューズは、もしも必勝の策を思いつかなかったらと言って震え、もうもうたる麻薬(アスラ)の煙の中にいた。あの時の姿は、かつて暗い玉座に見た先代の顔と、どことなく似てはいなかっただろうか。
 あの姿を、決して当代の玉座に晒してはならない。広間(ダロワージ)の一同が、望んで跪き、玉座に座るリューズに叩頭する己を、誇りに思うような治世でなければ、折角良くなったようなこの時代も、おそらくは簡単にまたあの頃の、暗く狂ったような煙の立ちこめる、暗君の時代に逆戻りするだろう。
 それを阻むために、自分には一体何ができるのか。星を見守る射手として。
 あるいは、弟を守る兄として。
 そう考えて見やった上座のリューズは、今日は先日とは打って変わり、静かな微笑をたたえ、こちらの叩頭礼をおとなしく受けていた。
 その姿は、族長の居室の壁の暗い赤を背景にして、まるで墓所の玄室にある太祖の絵のようだった。リューズは顔立ちもその血筋をよく現していたし、肌の色も人並みより白く、壁画の太祖が一人だけ白く描かれるのに似て、人と群れていても、彼一人だけが異質に見えた。
 それが玉座に座っていると、その姿形は、まさしくアンフィバロウの再臨と見えた。
 そんな有様を、そのまま素直に、有り難いと覚える者も、王宮にはいるようだ。
 ジェレフもそういう手合いかもしれなかった。
 三跪九拝し終えて、ぼけっと上座を見る少年の目は、どことなく、目映いものを見る目つきだった。イェズラムはそれに、安堵を覚えた。いつかは皆がこのような目で、玉座を振り仰ぐ日が、来るように思えた。きっといつか、そう遠からず。できれば自分が、まだ生きていて、この目が見えているうちに。
「足繁く三跪九拝しに来たな、エル・イェズラム。珍しいことだ、お前が俺の命令を、大人しく聞くとは。今日はいったい何の用だ」
 心持ちに落ち着きのあるらしい、ゆったり響く声で、リューズが微かにからかうように、言葉をかけてきた。

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2008/10/10

イェズラム様は頭が痛い・巻の2

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その3。携帯電話。

 もう限界だと思って、イェズラムは仮眠することにした。
 眠いなあと思わなくなって、何時間か経つ。そういう自覚もないぐらい、眠くなったということだ。重要な件で人に何かを命じてすぐに、今なんと言ったっけと、ふと思い、眠るべきだと気がついた。
 玉座の間(ダロワージ)の時計が二度鳴るまでは、誰も起こしに来ないよう、皆に言い渡して居室に戻った。
 いちいち着替える気もせず、寝室でとりあえず長衣(ジュラバ)だけ脱いで、肌着で布団に入ると、一瞬で眠れそうな気がした。
 こういう時は俯せ寝。とにかく世界の全てを背にして、枕を抱いて眠るに限る。
 しかし悲しい性というか、緊急連絡用にある、携帯電話の電源だけは、どうしても切れない。何が何でもの一大事には、昼でも夜でも連絡するよう、何人かにだけ番号を教えてあった。
 鳴るなよと、拝み倒す気分でそれを枕元に置き、イェズラムは目を閉じた。
 そしてその時、電話が鳴った。
『もしもし、リューズ・スィノニムです』
 イェズラムが、慌てて答えた電話から、いちばん聞きたくなかった声が聞こえた。
「どうしてこの番号をお前が知ってるんだ」
 暇人に、くだらん雑談で非常回線を埋められて、職務に触るとキレるので、イェズラムはこの番号を、リューズには秘密にしてあった。
『シャロームを、軽くシメたら吐きました。さて問題です』
 けろりと笑った声で言い、リューズが謎をかけてきた。
『上は大水、下は大火事。それは何でしょう』
 わかりやすすぎる謎々で、どう考えても嫌がらせだった。
 ブチッと切れる一秒手前で、イェズラムは電話をブチッと切った。
 そして眠りに逃れようとしたが、寸暇も与えず電話が鳴った。出ないわけにはいかなかった。たとえ誰だかバレバレの、発信情報秘匿の番号からでも、緊急回線への連絡を無視したら、それでは緊急回線の用を成さない。
 このやろうと思いつつ、電話に出ると、やっぱりリューズだった。
『いきなり切るなよ、この不忠者。さっきの答えは何だか分かるか』
 ちょっと不機嫌なような、それでも笑った声で、電話の向こうの族長が訊いた。
「風呂だろう」
 アホでも知ってるそのネタを、なんで今さら訊いてくるかと、心底腹が煮えてきた。こっちはお前の治世のために、日も夜も眠らず挺身し、倒れる寸前で仮眠しようというのに、たった二時間しかない時を割き、なんでお前と謎々なのか。
『違います。答えは、タンジール第四層』
 教えられて、何のことかすぐには分からず、イェズラムは布団の上で顔をしかめた。巨大な地下都市タンジールの、地下第四層は居住区だった。
『第三層で洪水、第五層で出火した。冗談みたいな大災害だ。族長権を行使して、魔法戦士の出動を、緊急に要請したい。どうか俺の民を救ってくれ、我が英雄よ』
 一気に眠気が吹き飛んだ。
 ほんとの話かと我が耳を疑い、イェズラムは電話を耳に当てたまま、慌てて寝台に身を起こした。つい今しがた脱ぎ捨てた長衣(ジュラバ)をとって、それを肩から羽織りながら、すぐ行くと、リューズに答えかけた矢先だった。
『なんちゃって。びっくりしたか、イェズラム。謎々の答えは風呂でした』
 くすくす笑う声が言い、ブチッと電話が切られた。
 つーつーと、通話切断の音を聞きながら、イェズラムは、自分の中で何かがブチッと切れる音を耳にした。
 ここで選べる行動は二種類だった。
 寝る。
 あるいは。
 走っていって族長を殴る。
 しかし殴れば逆臣で、とにかく結局寝るしかなかった。


その4。携帯電話の十数年後。

 もう限界だと思って、イェズラムは仮眠することにした。
 頭痛は年々深刻になり、お世辞にも体調がいいとは言えなかった。それでも王宮の剣呑な雑務は益々勢いを増し、族長の腹心として権勢を増すに連れ、うずたかく積もる責務も天井知らずだった。
 それでもこれが忠義と覚悟を決めて、玉座の間(ダロワージ)を守ってきたが、たとえどんな英雄であろうと、眠いもんは眠かった。
 玉座の間(ダロワージ)の時計が二度鳴るまでは、誰も起こしに来ないよう、皆に言い渡して居室に戻った。
 いちいち着替える気もせず、寝室でとりあえず長衣(ジュラバ)だけ脱いで、肌着で布団に入ると、一瞬で眠れそうな気がした。
 こういう時は俯せ寝。とにかく世界の全てを背にして、枕を抱いて眠るに限る。
 しかし悲しい性というか、緊急連絡用にある、携帯電話の電源だけは、どうしても切れない。何が何でもの一大事には、昼でも夜でも連絡するよう、何人かにだけ番号を教えてあった。
 鳴るなよと、拝み倒す気分でそれを枕元に置き、イェズラムは目を閉じた。
 そしてその時、電話が鳴った。
 どこかでやったことがあるような、そんな既視感があった。
『もしもし、リューズ・スィノニムです』
 昔より、ずいぶん落ち着きの増した、名君然として響く美声だった。
「どうしてこの番号をお前が知ってるんだ」
 うんざりと枕に沈んだまま、イェズラムは一応訊ねた。
『エル・ジェレフを軽くシメたら吐いたのだ。それはともかく相談がある』
 いかにも深刻そうなリューズの声に、騙されるものかと身構え、イェズラムは目を閉じた。
「この回線は治世の一大事限定だ。くだらん雑談はよそでやれ」
『まさに治世の一大事の件だ。継承者指名について、死ぬほど悩んでいるんだぞ』
 悩んで死ぬというのなら、リューズはとっくに死んでいる男だった。陰ではけっこう、思い詰める性分だからだ。
「それで……とうとう決めたのか、指名する継承者を」
 もしかして、案外これは、当代族長から長老会の長(デン)への、秘密の通達なのだろうかと、イェズラムはほんの少しだけ聞く耳を持った。
 リューズは悶々と、長子を頭に第十七王子までの、性格や能力の長所と、その短所について、あれやこれやと想像を絶するほど話し続けた。十番目までの話を聞いたところで、どうにも耳が痛くなり、イェズラムは電話を持ち替えた。その時ちら見した通話時間は、すでに一時間を過ぎていた。
 十五番目まで話が及んだ段階で、イェズラムは、リューズに息子が十七人しかいなくて、本当に良かったと、初めてそれを感謝した。
 系譜をたどって遡ると、代々の族長には、もっと沢山の男子が生まれていた。その大勢の中から最も優れた者を選び抜き、次なる新星を選ぶのが、名君となる世継ぎを得るのに理想的であろうと、もっと作れとケツを叩いた頃もあったが、もしもこれが五十人百人の世界であれば、リューズも俺も、この話が終わる前に気が狂う。
 さんざん話して、リューズの親馬鹿トークは第十七王子で完了だった。
 それで結論は、と、イェズラムは言葉を待った。
 リューズは鬱々と言った。
『それでだな、イェズよ。この中から誰を選ぶかが、問題なのだ』
 そんなの今さら言うなだった。
「選んだから電話してきたんだろう。そうじゃないのか、リューズ」
『選べるわけがないだろう、俺に。選べないから相談しているのだろう』
 逆ギレ口調で言われ、イェズラムは遠い目をした。
「それじゃあ俺が選んでやろう。(16) スィグル・レイラスで決定だ」
『なぜそう思うんだ』
「話せば長いが、短く言うと、ただの勘。お前を選んだ、俺を信じろ。うだうだ言わずにハンコを押して、その遺言書を俺のところに持って来い」
 手短にそう告げて、再び答えを待つと、リューズはひどく長い間、沈黙していた。
 電話が切れているのかと思った。
 まさか地下だから圏外か。そんなわけあるか、もともとメタフィクションなのに。電話なんかない世界なのに、そこでわざわざ携帯電話ネタをやり、挙げ句まさかの圏外か。いくらなんでも、それはないだろ。
「聞こえてるのか、リューズ」
 念のため、イェズラムは声をかけてみた。すると深いため息の音が答えた。
『エル・イェズラム……この、逆臣め』
 なんのこっちゃと思い、イェズラムは脱力した渋面になった。
『俺が必死で悩んでいるのに、テキトーなこと言いやがって。しかも族長権を侵すような、遠慮のない越権発言を堂々と、恥ずかしげもなく俺に言いやがって。昔のお前はよかったよ。どうしてそんなんなっちゃったんだ。お前になんかもう相談しない。話した時間が無駄だったわっ』
 がおっと吠える捨て台詞を吐いて、リューズはブチッと通話を切った。
 ちょうど二時間だった。
 どんどん、と控え目に、寝室の戸が打ち鳴らされた。
「イェズラム、二時間経ったけど。ジェレフが顔面蒼白で、謝りたいって戸口に来てるよ」
 時間が来たら起こしに来いと、頼んであったギリスの声が、扉の向こうで教えてきた。
 そうか、殊勝にも、土下座に来たか、エル・ジェレフ。
 俺もこの十数年で、ずいぶん人格変わったぞ。お前が新入りだった頃、なにかと大目に見ていたが、お前もすでにいいかげん、中堅といっていい歳だ。ゴメンで済むと思うまい。
 リューズに番号を教えるな。何度言ったら分かるんだ。お前はいったいどんな手で、リューズに電話をむしり取られた。
 じっくり聞いてやりたいが、生憎そんな暇がない。
「ギリス」
 頭を抱えて呼びかけると、エル・ギリスが薄く開いた扉から、ちらりと片目だけ出した。
「ジェレフに、おしおきその(36)をやってやれ。俺の代わりに、頼んだぞ」
「了解了解」
 にやりと笑った悪童の口が、扉の隙間によぎって消えた。
 さてと、あっちは使える養い子(ジョット)に任せ、俺は玉座の間(ダロワージ)に行くか。そこへ踏み込むわけではないが、晩餐に来るリューズを逃がさず捕まえて、廷臣一同の見守る前で、ぎったんぎったんにやっつけてやる。
 もちろん長年仕えた名君の、当代随一の忠臣として、やってもかまわん範囲でだ。
 他の誰もがやれないような、ギリギリの線を突いてやる。
 その攻撃が痛ければ、リューズ、そろそろ憶えてくれないか。
 俺の緊急回線に、緊急でない電話をするな。
 これがすでに名君となったお前に対し、俺が兄として言っておきたい、最後の最後の本音の言葉だ。
 イェズラムは着慣れた質素な普段着に、眠気の覚めない身を包み、住み慣れた居室を後にした。
 まったく今日も、イェズラム様は頭が痛い。
 だがそんな、十数年来、相も変わらぬ日常も、すでに身に染み付いた、愛しき激務だった。
 いざ、栄光の玉座の間(ダロワージ)へ。
 名君と大英雄の戦いは、なおも続く。
 時に激しく、時にアホらしく、いつ果てるともなく、椎堂かおるのネタが尽き果てるまで。

《終わり》
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2008/10/08

名君双六(4)-3

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「俺が死にそうって、リューズに言わないでくださいよ」
「言ってない。言いたければ自分で言うがいい」
 頷いて笑い、シャロームはやっと身を起こした。億劫そうに座り直して、今さらこちらに頭をさげたシャロームに、イェズラムは目で答礼してやった。
 こころなしか背を丸めて座るシャロームには、いつものような覇気がなかった。
「すみませんでした。族長に一礼もせず」
 なぜかその件を、シャロームはイェズラムに謝った。
「別にいい。他に誰もいなかった。それに、何かと我慢ならなかったんだろ」
 心中は察するがと仄めかすと、シャロームは返事をしたのかどうか、曖昧な音で答え、深いため息をついた。疲れているようだった。それは疲れもするだろう。あれに付き合わされたら。
「無理をするなシャローム。必要なら、戦場にはあと一人二人、役に立ちそうなのをお前の下につけてやることもできる。魔法を出し惜しめば、そのぶん命も延びるんだぞ」
 イェズラムが諭すと、シャロームは床を見たまま、わかっているふうに小さく頷いていた。
「そうですね、長(デン)。俺もそろそろ、遅ればせながら、後釜を育てるべき時です」
「そういうことは気にするな。俺がやる。お前は自分の延命を考えればいいんだ」
 シャロームはその話に、どことなく上の空で頷いていた。なにかを回想するような表情を、シャロームはその灰色の目に浮かべていた。その物思いは、ずいぶん長いようだった。ちらちら揺れる瞳が、今ここにはない何か激しいものを、見つめているようだ。
 やがてシャロームはぽつりと、独り言のように口を開いた。
「怖いと思ったことがないんです。族長と突撃するときは、いつも」
 なんの話かと、イェズラムはシャロームの横顔を見つめた。
「普段、ひとりで考える時には、このままだと長くないと思って、死ぬのが怖い時もあるんですが、なぜか、族長と先陣を切ると、俺は自分が、無限に魔法を使えるような気でいるんです。族長が行く、進路を塞ぐ敵を、手当たり次第に倒すと、すごく気分がいい。このままずっと、戦い続けていられたら、きっと……」
 シャロームは自分がしている話が、まともかどうか、不審がるような顔をして、いっとき言葉を呑んでいたが、結局、その続きを話した。
「きっと俺は、本物の英雄になれると思えて、まあ、それもいいかと。それはそれで、本望かと、思っているような気がします。いつも、その時には」
 だから何だと、イェズラムは答えかけ、それを堪えた。
 それはたぶん、シャローム、お前が何かに酔っぱらって見た、妄想だ。そうやって戦い続けたら、お前はもうすぐ死ぬ。なんでもないそこらの戦場で、突然死ぬのかもしれないのだぞ。
 英雄的にという保証はない。誰も気がつかないうちに、お前に最後の時がきて、皆は戦場に、乗り手を失ったお前の馬だけが駆け抜けるのを見つけ、お前は冷たい血泥のなかで、ひとり悶死するような、そんな落ちかもしれないのだ。
 それでも本望と言えるのか。
 いくら馬鹿で、直情的なお前でも、仮にも英雄だというなら、もっとましな死に方をしろ。
「俺もせめて、もうちょっと若けりゃよかったな、長(デン)。あの癒し系のやつみたいに。そしたら名君の物語の、完結までとはいかなくても、あと二、三巻先の、話の盛り上がったところまで、付き合えたかもしれないのにな」
「それだと序盤の巻にお前はいないことになるぞ。話の筋も決まり切った頃合いに現れて、山ほどいる名君の英雄たちと押し合いへしあいするうちに、ころっと死んで退場するような、ほんのちょい役が関の山だよ」
 リューズが本物の名君として名実ともに認められればそうだ。全宮廷が、あいつに跪く。その時は魔法戦士たちも、星を見上げるたくさんの顔のうちの一つにすぎなくなる。
 星はその顔のひとつひとつの名を呼んで、友よと微笑みはしない。族長とはそんな、気安いものではない。玉座の高みから冷たく見下ろして、英雄たちが死んでも、それには気づきもしない。そういう薄情で、手の届かない存在だ。
 リューズもいずれは、そうならざるを得ないだろう。いつまでもシャロームたち三人と遊び戯れ、俺のことを兄(デン)と思って生きていくわけにはいかないだろうから。
 そう思うと、寂しかったが、そんなことは問題にならないと、イェズラムは思った。感情など。竜の涙にとって、そんなものは、踏みにじられるためにあるようなものだ。
「そうか、じゃあ、序盤で良かったのかなあ」
 シャロームは真面目に思案する顔だった。難しそうに眉間に皺を寄せて、こちらを見ている弟分(ジョット)を、イェズラムは微かに苦笑して見つめ返した。見ればまだ若かった。それが死ぬと思うと哀れで、どうにかならんものかと思えたが、どうにもならない。運が尽きればそれまでで、死に行く竜の涙を引き留める、そんな魔法は、どこにもないのだ。
「シャローム、先陣を切る族長の右を、いつも同じやつに走らせるつもりは、俺にはないんだ。それをやるのは、後にも先にも、お前たち三人だけだ」
「どうしてですか」
 しかめた顔で、シャロームは不可解そうに訪ねた。
「リューズの性格だ。あいつはお前らが死んだ後、代わりの魔法戦士で後を埋めはしない。突撃するのは止めないだろうが、自分を名前で呼ばせるようなのを、新しく選びはしないさ」
「どうしてですか」
 同じ言葉で再び問うてくるシャロームは、さらに不可解そうな顔だった。イェズラムは困って、シャロームに笑いかけた。
「お前が死ぬと、あいつは悲しいからさ。リューズはお前らのことを、友達だと思っているんだ。お前は誰か自分の友が死んだとして、誰か他のやつがその代わりをやれると思うのか」
 目を瞬いて、シャロームはしばらく考え、そして言った。
「長(デン)、分かんないです。俺には。でも俺は、そういう族長のときに、英雄やっててよかったな。そこには運がありましたよ」
「そうだな。お前みたいな馬鹿でも、力業だけで活躍できる時代だよ」
 イェズラムは思わず、考えたそのままのことを言ってやった。
 シャロームはそれに、参ったという顔をして、にやりと笑った。その顔には古い傷の跡があった。
 そういう傷跡は、シャロームには沢山あるはずだった。治癒者の施術を嫌って、それを拒むので、傷が自然に治癒したあとにも、傷跡が残るからだった。
 なぜ治癒術を拒むのか、かつてイェズラムはシャロームを叱ったことがあったが、シャロームは治癒者が嫌いだというのだった。彼らに生殺与奪を握られて、足元を見られているようで、不本意だったのだろう。
 もしも負傷して死ぬなら、それが自分の運命で、自分は死を恐れないからと、若い頃にはそう言っていた。運が尽きれば死ぬのが定めと、潔く割り切って戦うのが、男の戦いだと。
 ずいぶん青臭い見栄だと思えるが、それがシャロームの、リューズと気の合うところだった。
 リューズは突撃するとき、治癒者を連れて行くのを拒んだ。突撃して死ぬなら、それが運命で、そんな弱い運の者には、部族を率いることはできないと、リューズは随分確信めいて言っていた。
 敵をこの目で見ずに戦って、勝つことはできないし、自分自身が先陣に立たずに、魔法戦士たちに突撃を命じることはできない。どこにいるんだか分からないような後ろのほうから、死ぬ気で行けと命じるやつがいて、誰がその命令に喜んで従えるだろうかと、リューズはごねて、結局イェズラムの静止を聞くことはなく、毎度毎度とっとと突撃し、けろりとして生きて戻ってきた。
 なんとか隠れ治癒者のビスカリスを紛れ込ませたので御の字と、諦めるほかはなかった。
 しかしビスカリスが族長の警護において、治癒者として働いたことはない。リューズは、彼は詩人だから連れて行くのだ。ビスカリスには詩作の才能があるらしく、やつが念話で出先から送ってくる族長の様子を語る口調は、いつも従軍詩人たちの株を奪った。
 元々は、敵陣を駆けめぐるリューズとともに動き回る大本営と、全軍との連絡をとり、あるいはこちらが族長の安否を常に知るために張り付かせたのだったが、今ではどちらかというと、ビスカリスは景気のいい即興の英雄譚(ダージ)を、全軍に向かって念話で怒鳴るためにいるようなものだった。
 その叙事詩の中で、族長リューズは勇猛果敢に敵を恐れず、エル・ヤーナーンは派手に火炎を撒き散らし、進路を切り拓くエル・シャロームの風刃術は冴えに冴えていた。我らに続け兄弟たちよと誘う念話の声を、兵たちは族長の言葉だと思って聞き、それによって志気はいつも激しく高揚した。
 誰がどんな才能によって優秀か、やってみるまで分からないものだ。おそらく魔法戦士は誰しも皆、大なり小なり英雄になれるのだろう。名君に仕えて、命がけで働くかぎり。
「長(デン)」
 真面目な面(つら)をして、シャロームが改まって言った。
「なんだ」
「名君双六の件だけど、俺はリューズの出目を、実はほとんど弄ってなかった。あいつは本当に全然死ななかったし、本当にやたらと『イェズラムに怒られる』で止まるんだ」
 それが不思議だというように、シャロームは感心して話しているが、イェズラムはどう思っていいか分からず、とっさに難しい顔をした。
 シャローム、お前はそれでは、実は賽子(さいころ)任せで、リューズに典医や女官の服を剥がせたり、夜光虫を食わせたりしていたのか。どんな忠臣だ。お前は本当に、俺の頼んだ仕事をやっていたのか。
「人には運てものがあるでしょう、長(デン)。俺は運のないほうだから、余計に分かるけど、リューズにはきっと、ものすごい強運がありますよ。あいつはきっと、何か凄いものになる。それが名君かどうか、俺にはわからないけど、とにかく何か、もの凄いものに」
「もの凄い馬鹿な暴君かもしれないぞ」
 先行きを悔やんで、イェズラムがぼやくと、シャロームは面白そうに、声をあげて笑った。
「それはないよ、兄貴(デン)が手綱を取ってる限り。俺も一応、ちゃんと英雄になったじゃないですか。怖くてできないんだって、大した悪さは。また兄貴(デン)に怒鳴られると思うと」
 よく言うよと、イェズラムは項垂れた。
 お前もリューズも他の連中も、何かといえば世話かけやがって。危なっかしいわ腹が立つわで、正視に耐えないんだよ。時には哀れで、可愛くもあり、なんとか守ってやりたいが、結局なにもしてやれないし、それぞれ一人で歩いていくのを、はらはら心配して見ているほかには、うるさく説教するぐらいしか、できることもないのに。
 まさかお前が、俺より先に死せる英雄になるとは。シャローム。
「すまなかったな、シャローム。お前に変な役目を押しつけて。リューズは我が儘だから、お前もいろいろ困っただろう」
「そんなことないですよ。兄貴(デン)が族長の警護役に、俺を選んでくれて、感謝してますよ。まさか夜光虫まで食うはめになるとは、思ってなかったけど」
「お前も当たったのか、『夜光虫を食う』に……」
「いや、食わされたんですよ、リューズに。忠臣なら主君と苦楽をともにしろっつって。あれは不味いです、今まで食ったものの中でも最低です」
 忠告めいた口調で真剣にそう言って、それからシャロームは笑った。
「でも、あいつといるのは楽しいな。本当に最高です。最後の瞬間まで、げらげら笑って一緒に走り抜けますよ。英雄と出るか、馬鹿と出るかは、この際、名君双六の賽子(さいころ)任せです」
 冗談めかせて笑って話し、シャロームは立ち上がった。その姿には、もういつもの生気が漲っていた。もうじき死なねばならないというのが、何かの間違いではないかと、イェズラムは思った。しかしそれは、願望だったろうか。
「お先に失礼します、長(デン)。この足で施療院に行って、それから氷菓と族長の部屋へ行って、俺は機嫌を直します」
「もう変なもんを食わせるな、シャローム。双六もやめてくれ」
 イェズラムは、シャロームに言った。それは命令のつもりだった。
 しかしシャロームは、にやりとして、頷きながら答えた。
「保証しません、長(デン)。リューズは誰かが止めるのを、聞くような玉じゃないから。知ってるんですよね、それは。骨身にしみて。いいかげん、そろそろ、覚悟決めたらどうですか。なんせ長(デン)は、何もかも知ったうえで戴冠させた張本人なんですから」
 にやにやして言うシャロームと真顔で見つめ合い、イェズラムはどことなく、呆然とした。
 深々と一礼して、シャロームは部屋を出て行った。
 その知った風な口調が生意気に思え、イェズラムは渋面のまま鼻で笑ったが、シャロームの言うとおりだった。リューズは制止を聞くような玉ではない。まして三人もいる目付役が、すっかり酔わされて、誰も制止しないのなら、なおさら増長するだけだ。
 まったく毎日頭が痛い。
 イェズラムは内心にそう愚痴ったが、しばらく頭に食らいついていた頭痛は、すっかり晴れていた。あたかも、名君の戦勝を予感する静かな高揚が、頭の芯からゆっくりと、石に冒された脳の苦痛を、深い酔いに痺れさせているかのようだった。
 再びの王都出陣まで、あと半月ばかり。
 文字通りの突貫工事に向けて、王都や近隣の都市から、工人を根こそぎ集めさせていた。
 そんな作戦に本当に勝機はあるのかと、王宮でごねる軟弱な連中も、あの手この手で根こそぎ蹴散らしてやった。
 玉座に対し奉り、勝てるかどうかと訊く者は、不忠者だ。勝利は待つものでなく、戦って掴みとるものだ。
 かくなる上は、着慣れた甲冑に身を包み、稀代の名君と見込んで掲げた星を担いで、忠節を尽くすひと戦を、勝つまで戦い抜くだけだ。
 穴掘り(ディガー)の長(デン)の花道か。
 あいつは本当に、面白いことを考えるやつだと、イェズラムは改めて胸中に、得意げなリューズの笑みを反芻した。
 あいつが次の巻ではどう出るか、それがあまりに気がかりで、死ぬに死ねない。その物語(ダージ)が『名君の死』であがるまで、我が目で見守りたいというのは、石を持ったこの身の上には、途方もない野望だが、それでもまだ、どちらか片方だけでも、目玉の残っているうちは、あいつに付き合って、俺もいっしょに走り抜けようか。
 シャロームのように、げらげら笑ってというわけには、いきそうもないが。
 疲れた渋面で、イェズラムはそう思い、自分も立ち上がった。奥から出てくるらしい上機嫌のリューズが、妙な内容の鼻歌を歌っている声が聞こえたからだった。
 そんな高貴なる血筋の族長らしからぬ振る舞いに、この口がうるさく小言を言い始める前に、さっさと退散するのがよかろう。
 たまには、あいつにも気晴らしを。
 渋々ながらも、そう意を決して、イェズラムは足早に、湯殿から立ち去った。

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名君双六(4)-2

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「お前の側室たちがだ」
「誰がしたのだ。十人もいると誰だか見当がつかない」
 本当に見当がつかないらしく、リューズは教えられるのを待っている顔だった。
「全員だ」
 リューズは心底驚いた顔をしていた。
「そんなのありか」
「申し分のない戦績だな。流産、死産もありえるし、そのうち何人が男子を生むか、あとは運任せだが、まさか全員が女児ということはあるまい」
 半々としても、五人は男子が生まれるはずだ。
 しかし、これからが後宮では戦になるだろう。次代の族長は当代に指名されて決まる掟ではあるが、たとえそれ自体に意味がなくても、長子を挙げることには名誉がある。後宮には後宮の英雄譚(ダージ)があろうから、側室たちも、その栄光を掴もうと激戦するだろう。念入りに警護させねば、生まれる前に胎児が食い合う羽目になる。
「そりゃあ……やりまくった甲斐があったよ。男子を挙げたら、俺もいいかげん、気に入った女と寝ていいか」
 そう言う割には、深刻な顔で、リューズは尋ねてきた。
 リューズは側室たちが好きでないようだった。もともとからして、惚れて娶った正妃ナオミ姫が、政争のさなか、過分な寵愛のツケを払って死んだので、リューズは己の放蕩を批判する宮廷の不満をなだめねばならず、急ぎ世継ぎも必要だというので、やむなく有力な諸侯の娘をまとめて全員妻にしたような次第だった。
 ナオミ姫は、亡きアズレル様の未亡人だった。リューズは本当に好きだったようだが、他人のお下がりでは、結局、族長妃として適切な人物ではなかった。死んでくれてよかったのだが、正妃の冠には未だに主がおらず、正式な婚姻をした妻のいないリューズは、公には独身だった。
 めぼしい有力な諸侯の娘は一通り側室にしてしまったし、その中からひとり格上げして、二番目の正妃を作るかだが、誰にするかの決め手に欠けた。女たちが後宮で争うのに任せておき、リューズはそれを眺めはするが、特に誰かひとりを寵愛するということがなかった。
 すでに娘をひとり後宮にあがらせておきながら、その姉妹をさらに正妃にという野心に対しては、リューズはけろりとして、姉妹をひとつの寝床に並べて抱くような、そのような淫蕩は、神殿が許すまいと答えるばかりだ。
 どうも、誰も正妃にするつもりがないらしい。
 それにはイェズラムは賛成だった。
 玉座の権力はまだ盤石のものとは言えない。強力な諸侯とあまりに深く結びつくと、増長した婚家に、引きずられるかもしれなかった。全員を側室にとどめて、果てしなく相争わせておくのがいい。時には正妃の冠をちらりと見せるだけで、それが弱みの相手を、容易く幻惑することもできる。
 側室の子では、神殿は婚外子として見なすので、継承のときには正妃の養子とする習いだった。リューズにはそのための正妃がいないことになるが、その時には、指名した者の生母を正妃にしてやればいいのだ。継承指名は当代族長の臨終の床で行うものだった。そのとき結婚して、そして指名して、死ねばいい。死によって婚姻は解消され、それで終わりだ。
 リューズがそこまで考えてやっているのかは、謎だった。
 たぶん、深くは考えていないだろう。正妃の座を、ほかの女に与えるのが癪なだけだ。悲惨だった即位前の時代に、ほとんど誰も自分を省みなかった宮廷で、優しくしてくれた女に、未だに義理を感じているのだろう。案外これでも、リューズは純情なやつだ。
 それでも政治的な辻褄は合っている。実に不思議なやつだった。巧妙な策士とも、感情だけで動く馬鹿とも、どうとでも読める。
「お前に、ナオミ姫のほかに、好きな女ができたのか」
「いや、そうではないんだがな。あんまりではないかと思うのだ。後宮に無数の美女を囲っておきながらだな、無駄な矢は射るなというお前が怖くて、嫌々娶った十人としか寝られないというのは。族長職に苦難が多いのは我慢するが、たまには役得があってもいいんじゃないのか」
 リューズが眉間に皺を寄せて、真剣にその話をしているのが可笑しくなり、イェズラムは堪えようとしたが、結局失敗して、喉を鳴らして笑った。
「まったくお前はな、身勝手なやつだよ、リューズ。お前の妻たちも気の毒なことだ。泣く泣く連れてこられたのは、向こうのほうだろう。実際はじめは、泣き暮らしていた者もいたようじゃないか」
「それは仕方ない。俺がよっぽど嫌だったのだろう」
 リューズはむすっとして、ぶつぶつ答えた。
 宮廷育ちのリューズは、都会の美女に慣れていて、地方の諸侯の娘たちの、鄙びた深窓の頑なさとは、折り合いが悪かったのだろう。そんな箱入りの、なよやかな姫君たちが、名だたる百戦錬磨の玉座の間(ダロワージ)の女官たちや、竜の涙の女戦士たちのようにはいくはずもない。
「お前が愛してやらないからだ」
 イェズラムは苦笑して教えた。相手は王族に美しい夢を見ているような、田舎の令嬢たちだったのだ。
「めそめそ湿っぽい女は嫌いなんだよ、俺は。弱っちいのも苦手なんだ。それでも我慢してるだろ。ちゃんと全員孕ませただろ。その血のにじむような努力をな、お前は少しは褒めろ」
 リューズは恨めしそうに、そう言った。まるで何もかもお前のせいだという口調だった。それにイェズラムは呆れた。確かに、一日も早く世継ぎをもうけろと口うるさく忠告したが、それは王統を維持する上での当たり前の義務だった。その常識を教えてやっただけで、指図したわけではない。
「さっき褒めたろう。申し分のない戦績だと。側室たちの腹が埋まっている間は、好きなのと寝ればいいさ」
 呆れた顔を隠さず、イェズラムはまた教えてやった。
 まさかリューズでも知らない訳はないだろう。ひとたび孕んだ女の腹に、追加でもう一人仕込むことはできないという事実は。それともまさか、双子や三つ子はそうやってできると思ってはいまいな。
 その辺のからくりを、自分は教えたことがあるか、イェズラムは急に不安になった。そんなことは話したことがないはずだ。リューズは色事めいた話は、玉座の間(ダロワージ)の恋のさや当てから、いつの間にか憶えてきていたのだ。宮廷の、途方もなく下らない猥談を、事実と思っていたりはしないか。
 だがその件を、今ここで率直に聞くのもどうかと思えて、イェズラムはただじっとリューズを見つめ、押し黙っていた。リューズはもう機嫌がいいらしく、汗をかきながら、にこにこしていた。
「まあ、とりあえず俺はひとりで寝るよ。当座、なんのしがらみもなく、ひとりで寝こけるほどの快楽は、そうそうないぜ、イェズラム。のんびり朝まで、勝ち戦の夢でも見るよ」
 屈託なく喜んでいるふうなのを見て、イェズラムにはまた苦笑が湧いた。
 知ってか知らずかは、この際どうでもいい。とにかく側室たちは皆、無事に孕んだのだし、勝てば戦はそれでいいのだ。正攻法かどうかなど、この際、敢えて問う必要はない。
 いかなる戦場においても、族長リューズ・スィノニムはそれでよい。こいつは道の上を歩くような玉でなく、自ら道を作って進む大器だ。そう信じて、ほうっておけばいい。よろけたときだけ、支えてやれば、あとは自分で上手に歩く。幼い頃、初めて歩いたときから、リューズはそうだった。
「それにしても暑くてたまらん。俺はいつまで蒸し風呂(ハンマーム)にいればいいんだ、イェズラム」
 リューズは呻いて、それはこちらの台詞だと思うようなことを言った。汗を拭って、イェズラムはまた少し、唖然とした。リューズはまるで、自分に言われてここに閉じこもっているような口ぶりだった。
「出たければ出てくれ。お前につきあって、シャロームも俺も、わざわざこんなところに礼装で立たされていたんだぞ」
「なんだと、イェズ……それはとんでもない話だぞ」
 両手で顔の汗をぬぐって、リューズがぼやいた。
「お前が、蒸し風呂(ハンマーム)で酔いを抜けというから、連日こうして、我慢大会だったんだろうが。それこそ干涸らびるくらい汗をかいたけどな、さっぱり酔いが抜けないんだよ。なにかこう、気分が高揚して、走り出したいというか……ずっと興奮したまんまなんだ」
 そう言って、自分の白い手のひらを見るリューズの黄金の目は、確かにいつもにまして爛々としていた。まさしく壁画の太祖の、闇夜にも燦然と輝く明るい星のごとき、王家の黄金の目だった。
「そんなに長く薬が抜けないわけはあるまい。あれから吸ってないのだろう」
 イェズラムは確かめた。
「吸ってない。でも、いつもより深く酔っている気がする。戦地での高揚を想うと、むらむらしてきて夜も寝られん」
 ああ、それでかとイェズラムは納得した。薬を抜かせて体調がいいせいかと思っていたが、勝ち戦の予感に興奮していただけだったのだ。それが後宮での戦の、勝因だったのか。
「それならもう、蒸し風呂(ハンマーム)を出て、水でも浴びて、氷菓でも食ったらどうだ。お前は麻薬(アスラ)で酔っているわけじゃない」
 イェズラムが教えると、リューズは、そうなのかと意外そうな顔をした。
「じゃあ何に酔ってるんだ、俺は」
「お前の中の、王家の血にだろう」
 自分自身の中で作られる何かに、お前は酔っぱらっているんだ。
 イェズラムがそう教えると、リューズは得心できないという顔だった。どうも本人には、それが分からないらしい。
 別に分からなくていい。たとえ分からなくても、その酔いはいずれ遠からず、玉座の間(ダロワージ)を酔わせ、全軍を酔わせ、部族領にあまねく拡大する。やがて全土が族長リューズ・スィノニムに酔いしれる日が訪れたとき、始めには俺ひとりの目にしか見えていなかったお前という星の光輝は、まさに燦然とまばゆく輝く名君の光として、部族史に誇らしく記されるだろう。
 そうだといいと願って、玉座に座らせたのだが、俺が名君の大英雄になるには、あとどれくらい生きて、どれくらい面倒をみないといけないのか。
「なんだかよく分からんが、氷菓は食いたいよ。シャロームにな、皆で冷たいものでも食って、機嫌を直そうと言ってくれ。どんな英雄譚(ダージ)にしたいのか、話ぐらいは聞くから」
 シャロームも臍を曲げて、困ったものだという声で、リューズは頼んできた。
 イェズラムは頷いた。とにかくもう、ここにいるのは暑くて敵わない。
「楽しみだなあ、我が英雄イェズラムよ。お前の勇姿を、また拝めるよ。早く出陣したいものだ」
 起きあがりながら、うっとりと上機嫌に言うリューズに、イェズラムは苦笑を隠す深い一礼をして、蒸し風呂(ハンマーム)を辞去した。
 まったくリューズは夢見がちで、いい気なものだった。
 そのおとぎ話に付き合わされる英雄たちは、命からがら血反吐を吐き、大汗をかかされる毎日だ。
 それでも名君が甘美な酔いのある夢から醒めぬように、都合良く振る舞ってやりたくなるのは、こいつの人徳のなせる技か、それともあんまり子供みたいで、世話が焼けるからか。
 イェズラムがそれを考えながら湯殿にある談話室(サロン)までいくと、そこの円座にぐったりと側臥して、シャロームが煙管を吸っていた。寝ているのかと思ったが、ぷかぷか煙をふかしているので、どうもふて腐れているだけだった。
「エル・シャローム、族長がお前と氷菓を食って、機嫌を直させるそうだ。ヤーナーンとビスカリスを探して、氷菓といっしょに族長の部屋へ行け」
 そう命じても、シャロームは目を閉じたまま、煙管をふかして寝っ転がっていた。反抗的な態度だなと思ったが、イェズラムは咎める気にはならなかった。
 側の席に座って、イェズラムはシャロームが何か言うのを待った。部屋は涼しかったが、汗で濡れた服が冷えて、居心地は良くはなかった。それでもシャロームはまだ、脂汗をかいていた。
「もっと強い薬ないかな、兄貴(デン)……」
 掠れた声で、シャロームが寝たまま尋ねてきた。
 イェズラムは考えて、シャロームが燻らせる煙の匂いを嗅いだ。
「さあな。施療院に行ってみろ。何かはあるだろう、脳まで溶けるようなのが」
 ぼんやり教えてやると、何か面白かったのか、シャロームは苦しそうに笑った。

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名君双六(4)-1

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 立っているだけでも汗が出るような、灼けた蒸し風呂(ハンマーム)の空気の中に、礼装をして突っ立っているのは、馬鹿のようだった。
 白い木綿の湯帷子を着て、陶片(タイル)で装飾された寝台に俯せに寝っ転がり、リューズは湯殿の女に脚を揉ませながら、上機嫌で話を聞いていた。
「そうか、工人たちはやれると言ったか。しかし三月でいいとはな。さすがは我が部族の技術者たちよ。一年ほども苦戦して、勝つときはたった三月とはな」
 リューズはすでに敵の首を取ったかのようだったが、勝つとは限らなかった。
 しかし族長リューズは戦の天才ゆえ、信じて戦えば必ず勝てると思い始めているものは、兵の中には多かった。そしてそれは宮廷においても、徐々に効き目を現し始めた幻想だった。
「楽しみだなあ、シャローム。敵もさぞかしびっくりするだろう。俺もお前たちと共に先陣を切るよ」
 にこにこ話すリューズに笑い返して、宮廷服のシャロームは汗だくだった。
 リューズは連日、暇さえあれば湯殿で蒸し風呂(ハンマーム)に籠もっているとかで、話すにはここに来なければならないらしかった。
 シャロームは、リューズと付き合うために、日々さんざん汗をかかされ、砂牛のように水を飲んだと言っていた。こっちも脱げば、いくらか涼しかろうが、族長の前では礼装するのが鉄則だから、そういう訳にもいかない。
「やっぱり行くのか、リューズ」
 訊ねつつも、止めても行くのだろうなと、イェズラムは思った。長らく歯ぎしりさせられた渓谷に、秘密の抜け穴を掘って、そこから奇襲するなどという、面白みのある作戦に、リューズが自分で行かないわけはなかった。
「行くに決まっているだろう、イェズよ。俺はこの作戦を考えた張本人だぞ。遂行を見届ける責任がある。それに族長が行くと知っていれば、工人たちも仕事の手を抜かず、穴掘り仕事を名誉に思うだろう。なんせ俺の勝利の花道を掘る仕事なのだからな」
 ついこの間、無様に震えていた者とは思えないような、自信たっぷりの尊大さで、リューズは上機嫌に言った。
「いてててて……そこは痛いぞ」
 足裏を揉んでいる女に、リューズは本気で痛かったらしく、焦った風に伝えていた。
 女は恐縮したふうに頭をさげ、手を変えたようだった。
 もっと痛いところをどんどん揉んでやれと、イェズラムは内心思った。
 そういう、いい気になったリューズの姿を、汗を垂らして眺めているシャロームの胸中を察すると、イェズラムはぼんやりと腹が立った。
 あと二、三戦で命が尽きるかと話しに来たときの、シャロームの顔は、いつもの乱暴者の面構えではなかった。自分の一生がもう終わるのが、嘘のようだという顔をしていた。
 それも当然で、シャロームはイェズラムより若く、まだ死ぬような歳ではなかった。身の不運で、石の育ちが早いようではあるが、近頃その進行が急激だったのは、リューズのせいだ。
 無分別に敵陣に突撃する族長を護衛するため、シャロームはおそらく無理をしている。それでも石が中に向かって育つので、そういうこともあるとは思いついていないリューズは、まださして大きくない灰緑色の石を見て、シャロームには支障がないと信じているのだろう。
 こいつは死にかかっているのだと、リューズに教えてやるべきだろうか。そうすればリューズも、魔法戦士たちと一緒に突撃するのは止めると言うかもしれない。シャロームがいつの間にか死んでもかまわないとは、リューズは思うまい。せめて、しかるべき英雄譚(ダージ)を思いつくまで、留め置こうとするはずだ。
 それとも、シャロームを待機させて、あとの二人だけを従えていくつもりだろうか。ヤーナーンは火炎術士で、ビスカリスは治癒者であり念話の使い手だった。敵からの攻撃を迎撃してやれるのは、風刃術を用いるシャロームだけだ。そのシャローム抜きで、イェズラムはリューズに突撃を許すつもりはなかった。
 今から他の、迎撃の役に立つものと、置き換えるか。
 イェズラムは、自分から離れて立っているシャロームを見やった。こちらを見返すシャロームは、長(デン)が何を思案しているか、分かっているぞという、苦みの強い苦笑を見せた。
「リューズ、司令塔のを倒すのか。俺にやらせてくれ」
 何を思ったのか、シャロームは急に、そんな頼み事をした。リューズは自分の腕を枕に顔を伏せていたが、不思議そうに顔を上げ、シャロームを見た。
「なぜだ、シャローム。あれはイェズラムの獲物だ。今回はイェズラムに英雄譚(ダージ)をやろうと思って、わざわざ考えたんだ」
「長(デン)にはもう、いくらでも英雄譚(ダージ)があるだろう。俺にもそろそろ派手なのが、回ってきてもいい頃合いだ」
 強請る口調のシャロームに、リューズは声もなく笑った。
「お前はまだ先でいいよ。イェズラムのほうが年長者だし、こいつの石を見ろよ。こいつのほうが先にくたばるんだ。道を譲ってやれよ、シャローム。それが派閥の長(デン)に対する、礼節だろう」
 リューズに言わずもがなのことを諭され、シャロームは苦笑したまま、無念そうに首を振った。
「年功序列か……それは仕方がない。それは道理だが、リューズ……この糞ったれが」
 唐突に悪態をついて、シャロームはくるりと背を向けた。蒸し風呂(ハンマーム)を出る扉に向かう、遊び仲間の魔法戦士を、リューズは唖然として見守っていた。
 シャロームが後ろ手に扉を閉めるのを、イェズラムは伏し目に見つめた。
 確かにここは、汗をかくためのの部屋で、ひどく暑かった。それにしても、シャロームは汗をかきすぎていた。顔色も良くはなかった。
 たぶん、堪えきれずに出て行ったのだ。暑いのがではなく、石が痛むのが。
 リューズはイェズラムに言い渡されたことを真に受けて、麻薬(アスラ)を抜くために蒸し風呂(ハンマーム)に籠もっているのだった。だからシャロームも、ここでは煙管を吸うわけにはいかない。そしてそのまま薬が切れたら、痛みが襲い、耐え難くなってくる。
 その話をシャロームは、リューズにしたくなかったのだろう。まさかひっきりなしに吸っていないと、耐えられないほど痛いとは、知られたくなくて。
 知られれば先陣での護衛から、自分が外されるのは目に見えていた。シャロームは与えられたその役目を、誇りに思っているらしかった。
 この次や、さらにその次の戦(いくさ)が、今回のような、派手なものである保証はない。もしやあいつは、いっそこの一戦で死のうかと、覚悟を決めて頼んだのではないのか。どうも盛大になるらしい、名君らしい勝ち戦を、自分の死に場所にしたいと考えて。
「あいつは口が悪いよなあ、イェズラム。本当にお前の弟(ジョット)か」
 リューズが上機嫌に水をさされたという口調で、文句を言ってきた。しかし怒っているのではなかった。シャロームの気安い悪態を、こいつは案外気に入っている。ただ今は、なぜ悪態をつかれたか分からず、その不可解さに不機嫌なだけだ。
「シャロームは意味無く悪態はつかない」
 イェズラムは教えてやりながら、懐から取りだした布で、顔の汗をふいた。
「あれのどこに、どんな意味が? 仕方ないだろ、順番だ。なるべく皆に見せ場をやりたいが、お前は誰かと武功を分かち合うような、寛大な英雄ではないだろ」
 脚を揉み終えて姿を消していた女が、杯によく冷えた水を入れて戻り、リューズに恭しく差し出した。結露が汗のように、銀杯を滴っていた。
 リューズはうつぶせのまま、美味そうに水を飲んだ。
「今回のは、シャロームに譲ってやってもいい。あいつが、どうしてもと言うなら」
 喉を鳴らして飲んでいるリューズに、イェズラムは答えた。
 その答えは、リューズには気にくわなかったようだった。飲み干した銀杯を、リューズは蒸し風呂(ハンマーム)の華麗な陶片装飾のある壁に投げつけた。
「今さら無理だ。お前のために考えてやったネタだろうが。俺の苦労も顧みず、いい気なものよ、エル・イェズラム」
 ふて腐れたふうに言うリューズに、イェズラムは沈黙で答えた。
 お前もな、と、嫌みを言ってやりたかったが、シャロームにも面子があろうから、それを保ってやらねばならなかった。本人が黙っているのに、自分がここで、お前もシャロームの苦労を顧みていないと言って、事情を暴露するのでは、あまりに心ない。
 だが、もし近々の、どこかの戦場において、シャロームが自分の見ている目の前で、突然死んだら、リューズはどう思うだろう。仕方なかったと思うだろうか。
 いいや、そうは思うまい。リューズはそういう性格ではない。恩義のある者には心を尽くす質だ。
 だからもし、そういうことになれば、リューズにはいい薬だ。魔法戦士はおとぎ話の英雄ではない。皆、生身の体で生きており、その死は英雄譚(ダージ)の詠うような、華麗なものではない。それでも彼らを使い潰して戦うしかない。それがつらければ、族長冠を戴く身で、魔法戦士を友人にすべきでない。リューズもそろそろそれを、悟ってもいい時期だ。彼らは家臣であって、友ではないのだと。
 しかしそれを、シャロームにやらせるか。もしもそれをやれるなら、この上ない忠義かもしれないが。あっちも案外、友のつもりで、付き合っているのではないか。この訳の分からん族長と。
「朗報がある」
 イェズラムは静かに告げた。
「なんだ、勝ち戦に優る朗報などあるものか」
 リューズはまだ不機嫌らしかった。腕に顎を乗せて、知らん顔していた。
「懐妊した」
「お前がか」
 ふん、と鼻で笑って言うリューズは、可愛げがなかった。イェズラムは渋面になった。

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2008/10/05

名君双六(3)-3

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 追いつめられると、リューズはいつもこの話だ。
 緒戦のころに、敵の族長が送ってきた伝令が、リューズの即位を言祝ぐかのような言い回しで寄越した伝言の、宛名がそういうふうになっていた。
 精霊樹アシャンティカの契約者より、親愛なる穴掘り(ディガー)の統率者へと、森エルフ族の族長シャンタル・メイヨウは使者に語らせた。リューズはおそらく、そこから先を聞いていなかった。戦陣にやってきた使者が話すのを、わなわな震えながら途中まで聞いたが、突然抜刀して近づき、自分の手でその使者の首を刎ねた。
 穴掘り(ディガー)とは、太祖より以前の森での奴隷時代に、支配者だった森エルフたちが、まだ名のなかった祖先たちのことを呼んでいた呼び名だ。今では蔑称である。少なくとも、こちらにとっては、口にするのもおぞましいような。
 しかし、それだけで使者の首を刎ねずにおれないほどの怒りは、イェズラムには感じられなかった。リューズは部族の名誉に深いこだわりを持っていた。この部族を愛し、王都を愛することだけが、幼少の頃から、こいつの心の支えだった。
 その神聖なもののために、自分は死ぬのだから、それは名誉なことだと信じずには、到底耐え難い幼少期だったのだろう。名誉ある太祖の、誇りある血筋を保つために、リューズは玉座にあがる兄に族長冠を譲って、自分は死なねばならない運命だったのだから。それがもし高貴な血筋でなければ、一体何のために耐え、何のために死ぬのか、道を見失う。
「イェズラム、俺は穴掘り(ディガー)どもの長(デン)か……」
「いいや、お前はアンフィバロウの末裔だ。今ではその族長冠を受け継いだ、唯一無二の存在だ。至高の玉座に座した、生きている星だ」
「負ければ穴掘り(ディガー)に逆戻りなんだ」
 励ましても無駄だった。
 イェズラムは仕方なく、ただ黙って頷いた。
 リューズは現状をこれ以上なく理解している。諭すようなことは、何もなかった。
 今この一戦に勝てないからといって、それで即、王都が陥落するわけではない。むしろ緒戦のころより、ずいぶん勝ち進んでいた。それでもリューズには即位したての頃の、今にも敵がタンジールに押し寄せるのではという感覚が、拭い去れない恐怖として感じられるらしかった。
 それは本人には苦痛だろうが、部族の命運を預かる族長としては、ふさわしい恐怖だった。一退を恐れず、やむなくそれを繰り返してきたことで、リューズの父親だった先代は、とうとう王都まで敵をおびき寄せたのだ。
 退かねばまずい時もあるが、それを最初には考えない根性が、リューズの戦線を今の位置まで奇跡的に押し出してきた。今後もこいつには、その恐怖を忘れないまま、戦ってもらわねばならない。
 そう思うが、目の前で苦悶されると、哀れだった。なにか気が楽になるような言葉を、かけてやりたかったが、イェズラムはそれを何一つ、思いつかなかった。あまりにも、不甲斐ない話だ。支えてやろうなどと、思い上がってここへ来たが、結局自分も、この族長冠を無理矢理かぶせた弟に、寄り縋っているしかない者のひとりだ。
「畜生、穴掘り(ディガー)か……」
 代々の族長が踏んだ居室の床に、リューズは呻くように語りかけていた。
 そして苦悶の表情で目を閉じ、やがて、その薄青いような瞼を、リューズはゆっくりと開いた。
 ぽかんとしたような金色の目が、床に敷かれた絨毯の文様を間近に見下ろしているのを、イェズラムもどこか、呆然として眺めた。
「あ、それだ」
 ちょっと何か思いついたという口調で、リューズはぽつりと言った。
「掘ればいいんだ、イェズラム」
 ああ、なあんだという口調で、リューズは言った。
 そして身を起こして、虚脱したように床に座り込んだ。
「あのな、この崖を、この辺からな、敵の側面に向かって掘るんだ」
 双六の枡目を書くためにあったらしい筆を取りに行き、乾きかけている墨をつけて、リューズはそれで模型の、味方の軍を阻む崖の上に、ひとすじの線を描いた。
 要するに脇道を作ろうというのだった。
 まだ呆然としたまま、イェズラムはリューズを見つめた。
 言われてみれば単純なことだった。渓谷を通ってしか攻め寄せられず、それを出口で待ちかまえられて撃破されているのだから、他にもこっそり通れる道があって、そこから進入が可能なら、敵陣を奇襲できる。もちろん向こうが気づかなければの話だが。
「掘れるかな」
 書き終えた筆で耳の後ろを掻いて、リューズは尋ねてきた。訊けばこちらが何でも真理を答えると思っているような口調だった。
「さあ。工人に訊いてみないとな。でも掘れるだろう。この壮大な地下都市を建設している部族だからな、我々は」
「そうだなあ、先祖代々の穴掘り(ディガー)だから」
 それがたまらん冗談だというように、リューズは窶(やつ)れた顔に、にっこりと上機嫌の笑みを浮かべた。リューズのそういう顔を、イェズラムは久々に見た。
 かつてその笑みを、リューズが話した最初の必勝の策の解説のあとに眺め、イェズラムは、こいつも名君の血筋の末裔なのだったと気がついた。
 太祖より以前、この部族の者たちは長らく森の奴隷で、その事実に疑問を抱かなかった。もしかして、我々は自由になれるのではないかと、その単純な事実にアンフィバロウが思い至らなければ、今もきっと、自分たちは森の穴掘り(ディガー)だったのだ。
「奇襲したあと、どうしようか、イェズラム」
 奇襲は成功すると信じている口調で、リューズはその先のことを話していた。
「さあ、お前はどうしたいんだ」
 作戦に没入している様子のリューズの横顔を眺め、イェズラムはただ相づちのように答えた。
「実は前々から、試したいことがあってな」
 居室の隅にあった、蜜蝋を燃やした灯火をとりにいって、リューズはそこから溶けた液状の蝋を、とろとろと敵の司令塔らしき守護生物(トゥラシェ)の周りに垂らした。それから火をそれに燃え移らせようとしているようだったが、なかなか上手くいかなかった。
「ありゃ。燃えないな」
 いかにも失策というように、リューズが顔をしかめた。
「灯心がないと燃えない。そんなことも知らんのか、お前は」
 驚いて教えると、愕然という顔で、リューズが頷いた。
 たぶんリューズには、知っていることより、知らないことのほうが多いのだ。誰しもそうだが、水準と比べても、リューズは無知だった。
 それも仕方がなかった。アズレル様が亡くなり、こいつが新星として立つまでの十七年、リューズは一度もまともな教育を受けたことがない。だから自分で見聞きした実体験のほかには、リューズは世の中のことを、人から聞いた話か、詩人たちが詠唱する英雄譚(ダージ)や戯曲、あるいはアズレル様が好んで上演させた仮面劇でしか、知る手だてがなかった。
 そこには、蜜蝋が灯心無しには燃えないという話は、一度もなかったのだろう。誰も話さなかったのだろうし、イェズラム自身も教えた憶えはない。
 でもそれを知らないからといって、誰がこいつを馬鹿だとなじれるだろうか。
 リューズが何をしたいのか、見ればわかったので、イェズラムは魔法を使って、リューズが垂らした蜜蝋のあとを、燃え上がらせてやった。
 炎の蛇の異名をとる、当代随一の火炎術師の手にかかれば、こんなものは簡単だった。
 燃える火の輪の中にある、敵の司令塔を見下ろし、リューズは微かに嬉しそうな笑みを浮かべた。
「守護生物(トゥラシェ)は火を怖がるだろう。だからこうして囲めば、逃げられないし、こいつが本当に司令塔なんだったら、これで敵の全軍の指揮が混乱するかもしれないと思ってな」
「長く燃やすなら油がいるな」
 イェズラムはそれを手配する算段を、もう頭の中で始めていた。
 点火は簡単だった。炎の蛇の、英雄イェズラムがいれば。
「これなら、守護生物(トゥラシェ)そのものを燃え上がらせるより、ずっとらくだろ。派手だしさ」
 燃えている模型を見つめて、リューズが尋ねてきたので、イェズラムは頷いておいた。
「英雄譚(ダージ)もいいけど、長生きしろよ、イェズラム。お前がいないと、俺も困るし、みんなも困るから」
 イェズラムはなんと答えるべきか分からず、苦笑した。
 みんなとは誰かと思ったが、たぶん誰でもないのだった。リューズのほかに、自分が死んで困る者がいるとは、イェズラムには思えなかった。
 リューズはどうやら、炎の蛇に派手な英雄譚(ダージ)を与えつつ、その延命を図り、なおかつ敵を撃破する方法を、苦悩していたらしかった。
 なぜそんな複雑なことを考えようとしたのだろう。
 ただ勝てばいいのだ。魔法戦士は消耗品で、派手に死ねればそれでいい。誰もお前を恨まない。シャロームも、ビスカリスも、ヤーナーンも、この俺も。
 死んでも代わりは、いくらでもいる。
 いないと思っているのは、お前だけだ。
「ああ、よかったな、名君がまた思いついて。お前のおかげだ、イェズラム。俺はどうも、ひとりではものを考えられないみたいなんだよ。困ったらまたお前が、相談に乗ってくれ」
 にこにこしながら、リューズは言った。
 何もかも一人で考えていたことに、リューズは気づいていないらしかった。こちらは相づちを打っていただけで、実際何もかもリューズが考えたのだ。
 どうしてリューズはいつも、それに気がつかないのだろう。聡いのか鈍いのか、判然としない。たぶん、鈍いし、同時に聡いのだろうとしか、思いようがない。
 目の前で名案を語られて、お前のおかげだと言われても、皮肉かと言いたくなる。イェズラムは苦笑して、すでにこの上なく上機嫌なリューズを眺めた。
 こいつを見てると、いつも向かっ腹が立つ。
「俺は腹が減ったよ、なにか食わしてくれ、イェズ」
「夜光虫をとってきてやろうか」
 思わず苦笑して言うと、リューズは心底ぎょっとした顔になった。
「あれは不味いぞ。なぜ祖先たちがあれを食わなかったのか、自分で食ってみて、深く理解できた」
「そうか、またひとつ賢くなって良かったな」
 そう褒めると、リューズは床に膝を抱えて座り、そうだろうかというふうに顔をしかめて首を傾げていたが、それでも小さく頷いてみせた。
「それじゃあ俺は行くよ」
 イェズラムが立ち上がると、リューズは意外そうな顔をした。
「どこへ行くんだよ」
「鶴嘴(つるはし)と油を買いに」
 教えてやると、リューズは煙管を銜え、くつくつ笑った。
「いつもながら仕事が早いな、お前は。愛想がないというかな。行くんなら、その前に、葉っぱが切れたから、お前のを置いていけよ」
 イェズラムは顔をしかめた。けちって断っているわけではない。常人が使うには強すぎるからだ。
「用意が調ったら、また出陣するんだぞ、リューズ。体から煙を抜いておけ。そんなふらふらで、馬に乗れるのか。酔いが醒めるまで、蒸し風呂(ハンマーム)にこもって、汗をかいてこい」
 イェズラムは自分が思わず命じる口調で言ったのに気がついて、さらに顔をしかめた。
 昔の習い性だった。またやったと思って、振り返ると、リューズは燃えている模型を見つめて、にやにやしていた。
「怖いなあ、イェズラムは。逆臣みたいだぞ、お前。ちゃんと叩頭して帰れよ。誰が見てんだか分からないんだからな。実は俺よりお前のほうが偉いってばれたら、大変なんだぞ」
 リューズは冗談で言っているらしかった。
 イェズラムは首を垂れて、うんざりした顔になった。たちの悪い冗談だと思った。
「眺めて遊んだら、ちゃんと火を消せよ。水をかけるんだぞ、分かってるだろうな」
「分かってるよ、それくらい。俺はどこまで馬鹿なんだ」
 信用ならないから言っているのだった。水でいいなら酒でもいいと思って、火にぶっかけるような奴だった。自分が点火した火で、かつては太祖も休んだこの部屋が、あえなく焼失するようなことになったら、イェズラムは悔やんでも悔やみきれなかった。
「酒はだめなんだぞ、リューズ。燃えるからな」
 念のための駄目押しと思って、イェズラムは一応言ってみた。
「えっ、そうなのか。酒って燃えるんだ」
 目を輝かせて言うリューズを、ふりかえった背後に眺め、イェズラムは怖くなった。そして部屋には今、酒杯がないようなのを確かめた。
 部屋を辞すとき、侍従たちに、族長が求めても酒を持ってこないよう、強く言っておかねばならないと考えながら、イェズラムは辞去の儀礼としての叩頭礼を行った。リューズは燃えている模型のそばに座り、自分の膝に頬杖をつきながら、にやにやと見物するように、戸口で平伏するこちらを見ていた。
 同じ跪拝叩頭だと思うが、リューズは時によって、それに不機嫌になり、時に上機嫌になった。その区別は直感できたが、イェズラムはその理由について、考えないようにしていた。なぜ今こいつが上機嫌なのか、その理由を理解したら、たぶん耐え難いだろうと思うからだ。
 叩頭で床に額をつけながら、イェズラムは何となく耐え難かった。
 リューズは自分の命令に、こちらが大人しく従ったので、気分がいいだけだ。昔からそうだった。要望を押し通すためになら、こいつはどんな汚い手でも使った。
 それが今は、族長冠を戴いて、ただ命じればいいだけなのだから、ずっと手軽だし、さぞかし気分がいいだろう。
「なあ、イェズよ」
 案の定、いかにも気分がいいという声色で、リューズが訊ねてきた。
「三跪九拝は長くてだるいから、命令を発布して簡略化させようかと思うんだが、お前はどう思う。俺はさっきまで、それで正しいと思っていたんだが、今、三跪九拝してるお前を見ていたら、これを廃すのは惜しいような気がしてきたんだよ」
 そうか、それがどうしたと、イェズラムは内心でだけ答えた。族長に対し、そんな言い様は不敬なので、口に出すべきではないと思ったからだった。
 でも言いたかった。それがどうした、俺が知るか、お前の好きにしろと。
 それでもイェズラムが堪えて黙っていると、リューズはなおも言ってきた。
「なあ、どうだろうなあ。やっぱり王宮の伝統っていうのは大事に守っていくものだろうかな、エル・イェズラム。お前はいつもそう言っていたもんなあ。悩むところだよ」
 九回拝み終えて、イェズラムはもう、することがなかった。
 それで仕方なく、リューズのにこにこ顔と向き合った。こちらは眉根を寄せた、いつものしかめっ面で。
 答えを待っている顔で、リューズは、さあ何か言えという目配せをした。嬉しそうだった。
「御意のままに……」
 そう答えるほかなかった。どう答えても負けのような気がして、曖昧にぼかすしかない。
 それにどうも、背後の控えの間には、侍従たちがいるような気配がした。もしや初めから、人払いなどされていなかったのではないか。一部始終を皆が、ここで盗み聞いていたのでは。
 イェズラムの答えを聞いて、リューズはますます、にやっと笑った。
「さすがは忠臣である、我が英雄よ。三跪九拝の廃止礼は、もうちょっと後にしておこう。ぺこぺこするお前をもっと見たいので、今後はさらに足繁く、俺に頭を下げにくるがよい。これは族長命令である、我が兄上よ」
 仮面劇の台詞よろしく、リューズは詠うような声で、芝居かがった言い回しをした。その嫌みったらしさがどうにも度し難く、イェズラムは脱兎のごとき足早で、族長の居室を辞去した。
 控えの間に踏み込むと、そこにはやはり、取り澄ました顔で侍従たちが何人もいた。
 騙されたと、イェズラムは驚いた。
 なぜ信じたのだろう。誰もいないなどと。
 なんであいつが、こちらの神経に障るような乱行を繰り返していたのか、今さら突然分かった。そうすれば俺が、怒鳴り込んでくると読んでいたのだ。
 どうも引っかかったらしい。おびき寄せられた。まさかここまでするとは。迂闊だった。リューズは我が儘を通すためなら、どんな汚い手でも使うと、よく知っているはずだったのに。
 もう二度とここには来ないと、イェズラムは心に誓った。
 最初からそういう決まりにしてあったではないか。長老会の者が足繁く現れたりすると、族長位の面子が保てないし、それに俺があいつにみだりにぺこぺこするのでは、魔法戦士たちの面子を守れない。
 あいつはそれが理解できないのか。俺の気遣いや努力を。
 それとも、理解したうえで、どうでもいいと思っているのか、リューズ。
 どうでもいいと、思っているのだろうな、お前は。人がどう見るか、どう思うかなど、お前には関係ないのだろう。そうでなければ、ここまでするわけがないな。
 今後はたとえヤーナーンが裸で玉座の間(ダロワージ)を走り回っていても、見て見ぬふりをする。そう考えてみたが、どう考えてみても、イェズラムにはそれは無理だった。
 あまりに腹立たしくなり、イェズラムは礼装した長衣(ジュラバ)の裾を激しく翻して、大股に玉座の間(ダロワージ)を横断した。皆がそれを見ていた。なぜか激怒しつつ族長の居室を去る長老会の子飼いの者を。
 それは幾分まずかったが、もはや見られたものは、どうしようもなかった。人が見て、どう思うか、それが政治というものだ。
 しかしそれをまだ、リューズには教えていなかった。だが果たして、教える方法があるのか。あいつは本当にそれを、知らないのか。イェズラムには皆目、見当がつかなかった。

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名君双六(3)-2

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「これはな、『女官とお医者さんごっこ』に当たったからだよ」
 目を伏せ額を擦ったまま、リューズは答えた。
「典医の服はどこから持ってきたんだ」
「典医が持ってきたんだよ。腹が痛くて死にそうだと呼びつけたら、慌ててやってきたので、服だけ借りたんだ」
 それでは二日前から何人か、肌着姿で慌てて走り去る者が、族長の居室から出て行ったわけだ。
 やはり頭が痛くて、イェズラムも額を押さえた。
「よくもそんなことを……」
「腹が痛かったのは、本当だよ。今も猛烈に胃が痛くて、吐きそうだ。それで煙管を吸ってるんだけど、ちっとも効かないんだよ。これは、悪徳な商人が掴ませてきた、まがい物ではないのか。イェズラム、お前のを貸せよ」
 赤い煙管を差し出して、リューズはそこに葉を詰めろというような、ねだる仕草をした。その目がどんよりと暗かったので、イェズラムは説教する目で首を横に振ってみせた。
「けちだな、お前は」
 顔をしかめて、リューズは罵った。
 家臣にそんなことを言うべきでないと、小言が喉まで出かかったが、イェズラムはなんとか黙っておいた。
 なんだかリューズは妙だった。本当に薄い磁器でできた置物で、ちょっとした衝撃で粉々に粉砕されるのではないかというような、危うさがあった。
「戦のことをな、考えていないわけじゃないんだぞ、俺は。ずっと考えているんだ、イェズラム」
 言い訳めいた口調で、リューズが急に意を決したふうに、そう言った。
 イェズラムは、軽い驚きとともに、リューズと向き合った。
 リューズは苦痛を堪えるような顔で、かすかに眉を寄せていた。腹が痛いせいかと思えたが、イェズラムはリューズのこの顔に、見覚えがあった。
 こいつがまだ幼髪のころ、文字を覚えろと怒鳴りつけて、手本を渡し、一日放って置いてから、成果を見に行ったとき、リューズはこういう顔をして、書き写したものを差しだしてきた。
 その時と同じ蒼白の渋面で、リューズはどことなく上ずった調子で、話を続けた。
「勝たねばならないんだ。勝たないとな、今も俺の兵は死んでいるかもしれないんだ。宮廷の馬鹿げた連中と、朝から晩まで、頭を下げたり上げたり、立ったり座ったり、そんなことばかりやってる場合じゃないんだぞ」
 なじるような早口だった。
 イェズラムはそれをただ、頷いて聞いた。
「どうすればいいんだ、イェズラム。思いつかなかったら。必勝の策なるものを。俺が思いつかなかったら、部族は滅亡か。思いつかなかったら……思いつかないなんて、そんなこと言えるか。みんな俺を信じて待っているんだぞ。お前もそうだろ。必勝の策を、待っているんだろう」
 煙管を握ったまま、そう言うリューズの手が、がたがた震えていた。イェズラムはそれと、リューズのどこか一点を見つめたような金の目とを、忙しく見比べた。
 リューズは寒いのでも、怒っているのでもない。怖いのだ。それで震えているのだった。
 決して臆病な質ではなく、リューズはむしろ肝の据わったほうだ。
 それがまさか、ここまで参っているとは、イェズラムは想像していなかった。
 久々に王都に戻って、お気に入りの魔法戦士たちを道化のごとく侍らせて、羽根を伸ばしているのだと思った。
 報告に来るシャロームたちは大抵、リューズの機嫌はいいと言っていた。ちょっとしたことで不機嫌でいても、遊びの中でのことのように聞こえた。怖くて震えているなどと、シャロームは仄めかしもしなかった。
 もしかすると、やつらも知らないのではないかと思えた。あの三人が出ていって、ここで軍略図の模型と二人きりになり、急に震えが来たのではないか。
「しっかりしろ、リューズ。お前は族長なんだぞ」
 励ましているのか、叱っているのか、自分でもよく分からない口調で、イェズラムは教えた。それを聞くリューズは、聞こえているのか、いないのか、見開いた目で、食い入るように戦地の模型を見つめているだけだった。
「あのな、イェズラム。族長は死なないとやめられないのだよな」
「今死ねば、お前は短命の暗君だ」
 リューズが何を考えているのか、イェズラムには分かった。
 こいつは『戦死する』の枡目に止まりたかったのだ。そしてそれを己の悪運だか、シャロームのいかさまだかに阻まれて、どうしていいか分からなくなったのだ。
「短命の暗君ではだめか」
 もう燃えていない煙管を、それを忘れているのか、リューズは銜えた。
「だめだ。俺は名君の大英雄になりたいから」
 イェズラムがそう断言すると、リューズはさらに眉を寄せ、今にも泣くのかという顔をした。
「そうか……そうだったな。お前を大英雄にか……そんなこと、俺にやれると思うのか」
「さあ、どうだろうな。失敗すればお前は暗君で、俺は英雄になれない」
 答えるこちらに、リューズは目もくれず、鼻をすすって、模型の上の守護生物(トゥラシェ)の大群を見下ろしていた。
 それはまるで、子供のころの悪い夢に出てくる怪物のようだったが、優秀な千里眼たちによって遠視された、現実の姿だった。今では動いて、場所は違っているかもしれないが、ひときわ大きな一体が、敵の陣の中央あたりにいた。それが司令塔のようで、これは樹木のように根を張っており、一年近く戦う間も、その場から微動だにしていなかった。
「畜生、暗君か……」
 煙管を持った手で、自分の唇に触れ、リューズは暗い目で独りごちた。その瞳に、小さな怪物の人形が映って見えた。
「俺はそれでもいいけど、イェズラム、お前まで巻き込むのは悪いな。これまで命を削って戦ってきたというのに、さぞかし無念だろうし、それに、俺は冥界でまで、未来永劫お前に文句を言われ、説教をされるのかと思うと、今頑張ったほうが、よっぽどましだな」
 思い詰めたような顔で、リューズはそう話した。
 冗談ではないらしかった。
 イェズラムはその奇妙な話を聞き、じわりと内心で反省した。
 リューズも未熟なりに、良くやっていると思うが、いつも説教ばかりして、褒めてやったことはなかった。いくらやっても、やるべきことは山のようにあって、自分にも、リューズにも、ただもっと頑張れとしか、言い様がなかったのだ。
 自分はそれで平気だった。昼には粉骨砕身し、夜にもさらに働いて、死ぬまで戦い続けるのが、自分の勤めと割り切っていても、それがつらいと思わない。
 だがリューズは、つらかったのではないか。現にたった今、つらいと言っている。
 しかし他に何か、言えることはなかった。ただ頑張れとしか。族長冠を戴いたからには、お前も粉骨砕身して、死ぬまで頑張りつづけろと。
 だから休みたければ、死ぬしかないのだと、こいつは思ったのだろう。
 そしてそれは、本当のことだった。
「リューズ、お前が『名君の死』であがったら、未来永劫、褒め称えてやる。食いたいものは全部食わせてやるし、お前のやりたいことは、なんでもやらせてやる。二度と説教もしない」
 だから今は、頑張ってくれ。
 結局そういう、いつもと同じ説教しかしない自分が、どうしようもなく情けないと、イェズラムは思った。
「そうか……でもイェズラム、お前が説教しないと、それはそれで、俺は気持ちが悪いんだよ」
 嘆くようにそう言って、リューズは腹を押さえ、鋭く呻いた。
 どうしたのかと思って、イェズラムは青くなった。
 リューズは子供のころから、胃弱の気があった。妙なもんを食ってみては吐き、何かに追いつめられると胃痛に苦しんでいた。
 しかし、それを知っている者は僅かだった。なんでも平気で食らい、どんな激戦でもけろっとしている肝の据わった族長リューズが、まさかこんなふうだとは、誰しも想像もしていない。戴冠以前は、リューズにそこまで親身になる者はいなかったし、今もある意味、そうかもしれなかった。
 侍医を呼ぶかと、イェズラムは考えたが、確かすでに呼んだと言っていた。それにこの状況で、人を呼ぶのはまずい。族長らしさからほど遠い姿を、これ以上、臣に晒させるわけには。そんな打算も湧いて、イェズラムは情けなくなり、ほとほと参った。
「ものすごく腹が痛いが、これはなぜだ、イェズラム」
「腹が減っているか、変なもんを食ったか、悩んでいるかだろう」
 悔やむ顔で、その場で釘付けになったまま、イェズラムは教えた。寄っていって背をさするべきか、猛烈に悩んでいた。当然そうするべきという気もしたし、族長に対して、それは不敬だという気もした。
「その全部じゃないのか……」
 胃の辺りを押さえ、床に手をついているリューズは、脂汗をかいていた。イェズラムはふと、リューズが見つめている双六の枡目に『夜光虫を食う』と書いてあるのを見つけてしまった。
 王宮のさらに地下にある地底湖にいる、棘皮生物のことだった。暗闇でも敵に襲われると威嚇のための光を発するので、そういう名前がついている。イェズラムは食ったことがなかった。食うようなものではないからだ。
「リューズ、お前は馬鹿なのか」
 さらに情けなくなって、イェズラムは尋ねてみた。違うと言ってほしかったが、それなら尋ねたのは間違いだった気がした。リューズはいつも、自分は馬鹿だと信じているのだ。何事か不始末があってイェズラムが叱ると、リューズは毎度、どうせ俺は馬鹿なのだと言っていた。
「畜生、シャンタル・メイヨウめ……俺のことを、穴掘り(ディガー)の統率者だと言いやがった」
 苦痛に喘いでいる声で、リューズは二つ折りになり、そう悔やんだ。

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名君双六(3)-1

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 背筋に嫌な汗をかきながら通り抜けた玉座の間(ダロワージ)は、いつもと変わらない様子だった。誰かが裸で走ったような気配は、微塵もなかった。
 それにほっと安堵しながら、どっぷりと疲れて、イェズラムは礼装をした自分の体を、族長の居室へと運んでいた。
 近侍の三人は、リューズの我が儘をきいて、いつも略装の宮廷着で居室に出入りしていたが、通常はそれではまずかった。正装ではない姿で、族長の部屋に出入りするのは、いわば特別扱いの寵臣で、誰も彼もがやっていいような事ではない。
 イェズラムは、リューズが即位して以来、その部屋を訪れる時には、必ず正装していった。リューズは水くさいと思うらしいが、それは族長冠をかぶる者に対する、当然の礼儀だった。
 自分とリューズが乳兄弟だということは、宮廷の誰もが知る事実だ。
 それに、アズレル王子の死後、唐突に現れて、竜の涙の長老会からの強い後押しを受け即位したリューズのことを、傀儡ではないかと揶揄する声も多々あった。その人形を操っているのが何者たちか、誰もが考えているだろう。
 そういう陰険な注視のある中で、リューズを戴冠させた本人で、竜の涙の長老会の子飼いである経歴のエル・イェズラムが、臣である分を超えて、普段着姿でふらふら居室にやってくるというのでは、いかにもまずい。
 見る者たちは連想するだろう。エル・イェズラムは放埒に、長老会の部屋(サロン)と、族長の私室を往復しているのだと。
 それでは噂を、自ら肯定しているようなものだ。
 イェズラムにとって、魔法戦士たちの利権を守り、自分が率いる派閥に利益をもたらすため、朝儀や晩餐の時に、玉座の右にいる必要はあった。
 しかしリューズが傀儡だというのでは不都合だった。それは事実ではないからだ。
 それが事実でないことを、皆が理解するまでには時間がかかる。
 リューズはまだやっと二十歳を過ぎたばかりで、見た目には歳より幼かった。そして即位前の、ふらふら遊び歩いていたころを、実際に目にしていた者たちも、玉座の間(ダロワージ)の席を埋めている。
 あからさまに馬鹿にしたようなのも、朝儀の席にやってきた。そういう相手に、さっさと族長に跪拝叩頭しろと、凄んでみせねばならない事も、イェズラムには時折あった。
 凄むだけでは、済まないことも。
 そういう機会を、僅かでも減らすためには、イェズラムは族長の居室から、可能な限り距離をとる必要があった。朝儀でも、その前後には皆と同様、高座を見上げる広間から、イェズラムも三跪九拝した。かつてのような日常のやりとりを、人前ですることもない。たとえ茶番と思われても、族長の高貴な血を敬う態度を、リューズを即位させた自分自身が示してみせるしかなかった。
 時と場合の都合しだいで、持ち上げたり、貶めたり、一人でじたばたやっているようなものだ。
 リューズはそんなイェズラムを眺め、時々玉座でぽかんとしていた。こちらが何をしたいのか、さっぱりわからんという顔で、ころころ態度の違う兄(デン)に、お前は一体どうしたのだと問いたげな目をした。あるいは自分は、どう振る舞えばいいのかという、混乱したような目を。
 何らかの宣下のあと、自信がないと、リューズは今でも時折、玉座の脇に侍るイェズラムに、これでよいかという目を向けることがあった。それと目が合わないように、ただ広間(ダロワージ)を睨んでいると、何かずいぶん薄情なような気がして、イェズラムは己の無責任さを痛感することがあった。
 リューズは即位するための教育は受けていない。幼少のころから、不明があればイェズラムに訊ねて済ませた。
 それをいきなり玉座に座らせて、何なりと御意のままにと放置するのでは、無責任ではないのか。そう思えて、時には支配者の王道めいたものを説教してみたりするものの、そうする己の口調が指図がましいのに怯んで、顔を見るのも執拗に避けたりの両極端を、ふらふら彷徨ってばかりいる。
 最近ちょうど、庶務山積にかまけて、まるっきりの他人任せだった。
 思い返すと、もうひと月ばかり、朝儀や軍議の公式の席でしか、リューズの顔を見ていない気がした。
 あいつは最近、なにを考えているのやら。そういえば、さっぱり知らなかった。腹立ちも、心配も、全ては他人の口から聞く話をもとにした、想像と憶測の中のことだ。
 これではいずれ、あいつが何者なのか、わからなくなる。ただの乱心した暗君か、それとも、かつて戴冠させるときに、そう信じ、それであれと願ったような、輝く星のごとき稀代の名君か。
 それでは責任が果たせない。射手(ディノトリス)は新星(アンフィバロウ)を闇夜に放ち、それが皆をまぶしく照らすよう、見守るのが務めだ。その射手の目に迷いがあっては、部族の命運が狂う。
 王家の血筋のもとにいる双子の片割れの、最初の竜の涙だったディノトリスは、千里眼によってタンジールを遠望し、アンフィバロウをこの都市へと導いた。そのディノトリスは兄(デン)で、後に族長となるアンフィバロウは弟(ジョット)だったのだ。
 太祖ですら兄を頼った。だからリューズが兄に支えられても、恥ではない。部族の伝統に習い、自分もそれと同じように、他の弟分(ジョット)たちを世話するように、陰でリューズを支え、世話してやればいい。まずい時にはまずいと、自分が言ってやらなくて、いったい他の誰が、族長に説教できるというのだ。
 イェズラムはそう腹を決めて、族長の居室の、華麗な両開きの戸の前に立った。
 そして戸を守っていた番兵に、謁見に来た旨を告げると、中にある控えの間から、側仕えの侍従が呼ばれて顔を出し、族長に取り次ぐと応じた。先触れは送ってあったし、こちらが来ることは、向こうも知っているはずだった。
 控えの間から漏れてきた空気に、甘い煙の匂いを嗅ぎ取って、イェズラムはむっと顔をしかめた。侍従ですら、どこか酔ったような朦朧の顔つきだった。
 いったいこれは、どういうことかと、イェズラムは思った。
 シャロームの話で聞いてはいたが、実際に目の当たりにすると、異様な気がした。
 敬遠して、直接ここに来なかったのは、やはり大きな間違いだったのではないか。
 扉が再び開き、族長が謁見をお許しになりましたと、侍従が告げた。イェズラムはそれに答礼して、控えの間を抜け、帯剣を侍従に預けて、族長の居室に入る戸をくぐった。
 作法に則り、そこで跪拝叩頭したが、その場ですでに猛烈に鼻についた煙の匂いに、床に額をつけたイェズラムの顔は、怒りの相になっていた。
 三跪九拝する間、イェズラムは徐々に怒りを募らせた。
 立ち上がった時に見えるリューズは、居間の真ん中に運び込ませた、山野を模した巨大な模型に、将兵の駒をたくさん並べたものの側にしゃがみ込み、ぼんやりと煙管をふかすばかりで、こちらを一顧だにしていなかったからだ。
 独裁権を与えられた族長だからといって、家臣を蔑ろにしていいわけではなかった。こちらが叩頭して挨拶するなら、向こうはしかるべき上座に鎮座して、それを受けるべきだった。
 まして俺はお前の兄(デン)で、お前を戴冠させた射手なのだぞと、イェズラムは内心ひどく腹立たしかった。
 先触れをやったのに、リューズはとんでもない格好をしていた。
 普段着なのはまだしも、髪も結わない乱れた垂れ髪で、しかも肩からなぜか、侍医の着る薄紫のお仕着せの長衣(ジュラバ)を羽織っていた。そしてその訳の分からない格好で、赤い煙管をくわえ、眉間に皺を寄せた難しい顔で、どことなくぼけっとして模型を見ている。
 叩頭礼が済んだので、イェズラムは怒りながら、向こうが声をかけてくるのを待った。それが慣例だった。向こうが名前を呼んでくるのが。
 しかしリューズはぼけっと黙ったままだった。
 こちらが来たのに気づかないはずはない。侍従には、中に招き入れるように返事をしたのだから。
 リューズがなぜ黙っているのか、イェズラムには直感できた。こちらが焦れて、典礼を破り、先に声をかけてくるのを、待っているのだ。
 そして、その非礼でも咎めようというのか、リューズ。
 くだらんことをと、イェズラムは苛立ち、さらに押し黙った。
 しばらく、目も合わさぬ睨み合いが続き、どれくらい経ったか、イェズラムがもう限界だと思う頃合いで、リューズは燃えるまま放っていた煙管から、一息ふかし、ぷかりと丸い煙を吐いた。
「いたのか、エル・イェズラム」
 いかにも本当に気づかなかったかのように、リューズは言った。そして、朦朧と酔ったような顔つきの白い顔をこちらに向け、そこだけ爛々と生気の漲った金色の王家の目で、イェズラムを見つめた。
「久しぶりだな、我が英雄よ。今日はなんの説教だ。ずいぶん色々溜まったか」
 とっさに何から言い出したものか、イェズラムは整理が付かず、ただじっと、リューズを睨み返した。
 そうして押し黙っていると、リューズが突然、侍従の名らしきものを大声で叫んだ。それは呼びつけたのではなく、隣の部屋に話しているのだった。
「人払いをしろ。聞こえたか。聞こえたら返事をしてくれ」
 はい、族長、かしこまりましたと答える大声が、隣室から聞こえた。イェズラムはそのやりとりに呆れた。まさか、侍従を呼ぶのが面倒くさいので、こうして大声で申しつけているというのか。
「おおい。もう誰もいないか。いないなら、いないと言え」
 リューズは真面目にそう呼びかけたが、今度は誰も答えなかった。それにくすくす笑い、リューズはまた、イェズラムを見た。
「今なら誰も聞いていないようだぞ、イェズ。言いたいことがあるなら、さっさと言え」
 戸口で話せということか。イェズラムは腹が立つのを通り越して、唖然とした。
 随分、馬鹿にされた話だった。イェズラムには宮廷序列の中で、族長と向き合って話すに足る身分があった。
 それを無視されると、情けなかった。
 寵臣のごとく扱えとは言わないが、序列に応じた待遇をしてもらいたいところだ。
「俺の友たちをどこへやったんだ、イェズラム。誰も帰ってこないんだ」
 こちらが話さないでいると、リューズは恨みがましい口調で、そう尋ねてきた。どうも、拗ねているらしかった。
 リューズが問うているのは、シャロームたち三名のことだろう。彼らが戻ってこないのが、イェズラムのせいだと思っているらしい。実際そうだが、リューズがそれへの仕返しとして、自分を戸口に留めているのだと分かって、イェズラムは益々情けなかった。
「英雄たちにも、それぞれの私用がございます、族長」
 腹が立つので、イェズラムはいかにも謙(へりくだ)った他人行儀で話してやった。
 するとリューズは露骨に嫌な顔をした。
「俺にも用がございます。双六の途中だったのに、あいつらどこへ行ったんだ。お前のところには、シャロームが行っただろう。あいつはちゃんと、お前の顔に墨を塗ったか」
 苛立ったような早口で、リューズが尋ねてきた。
「シャロームはちゃんとお前の命に従った」
 そう答えておかねば、リューズがどういう態度に出るか危うかった。まさかお気に入りのシャロームに、逆臣呼ばわりはないだろうと思いたいが、リューズは時折、些細なことで激怒した。
「それで怒って来たわけか、エル・イェズラム」
 満足げな薄笑いをして、リューズはこちらを見もしなかった。
「乱行が目に余る」
 いざ当人を目の前にすると、なぜか怒鳴る気もせず、イェズラムはただ静かにそれだけ教えた。それで悟って、大人しくしてくれればという願いもあった。
「もっと早く来るかと思ったよ。墨のついた顔で走ってくるかと思って、楽しみにしてたんだがなあ。まさか顔を洗って、着替えてくるとは。お前はつまらんやつだよ」
 はあ、とため息をついて、リューズは赤い絨毯に尻をつき、模型のそばに座り込んだ。
 リューズが見下ろすその地形には、イェズラムも見覚えがあった。考えておくよう言ってあった、苦戦している敵の防衛線だ。狭い谷間の出口に敵の守護生物(トゥラシェ)が陣取っており、攻め入っても撃破された。
 リューズはそれを、じっと険しい顔で眺めていた。
 居室の床には、シャロームが言っていたものだろう、手製の双六らしい大きな紙が、無造作に拡げられており、そこには軍議に用いるための兵を模した駒が乗っていた。
 おそらく、シャロームと、ヤーナーン、ビスカリスの名のついた魔法戦士の駒だろう。そして中には族長を表す、ひときわ立派な、錦と黄金の駒もあるのだろう。その駒は今、『イェズラムに怒られる』の上で止まっている。
「こっちへ来いよ、イェズラム。話が遠いだろ。俺は煙の吸い過ぎで、喉が痛いんだ。でかい声で話させないでくれ」
 さっきは自分で二度も叫んでいたくせに、リューズは咎めるように、そんなことを言った。
 しかし、そんな支離滅裂を、いちいち咎めていたら、リューズとは話にならない。幼髪をしていた頃から、いったんごねはじめると、大抵こんなもんだった。ころころ話を翻してきて、何が言いたいのか分からない。
 おそらく言いたいことなどなくて、こちらを翻弄するのが目的なのだろう。
 イェズラムを怒らせようとして、それをやっている時もあれば、どこまでやってもこちらが怒らないでいるか、試しているときもあった。
 イェズラムは呼ばれるまま立ち上がり、模型のそばに行った。
 そして遠からず近からず、適切と思われるところに座ったが、叩頭するのは止した。どうも、それをやると、リューズが怒りそうな予感がしたからだった。なぜそう思ったのか、自分でも良く分からなかったが、それは正解だったらしく、リューズはちらりと鋭く様子をうかがう目で、こちらを一瞬見ただけで、咎め立ても、皮肉を言いもしなかった。
「案外、死なないもんなんだな」
 難しい顔で模型を見たまま、リューズがぽつりと言ってきた。
 なんの話か、まったく脈絡が見えなかった。
「誰がだ」
「俺がだよ」
 仕方なく尋ねると、リューズは端的に答え、赤い煙管で、床の上にのたくっている双六の紙を指し示した。
 床の上には、女官の服やら、楽器やら、なんだか訳の分からないものが沢山散らばっていた。女官の服の中身が、服もないままどこへ行ったか、深く考えると、またひどく頭痛がしそうだったので、イェズラムは考えないことにした。
「この双六はな、死ぬように作ってあるんだよ、イェズラム。五枡に一度は『戦死する』なんだぞ。激戦区では三枡に一度だ。ビスカリスなんか、もう五十回くらい死んでるぞ。なのに俺はまだ一回も死ねないんだ」
「別にかまわんだろう。それだけ悪運が強いということではないのか」
 イェズラムはそう答えておいた。
 シャロームが賽子(さいころ)の出目を操作しているような口ぶりだった。双六遊びとはいえ、あいつには族長が死ぬのはまずいと思えたのかもしれない。それで『戦死』を避けるため、出目を操ったのかも。
「でも、あがりにも着かない。永遠にぐるぐる回ってるだけで」
 もう燃え尽きているらしい煙管を、リューズは執念深く銜えた。その顔を見て、イェズラムは目を細め、険しい顔になった。リューズがなんとなく、窶(やつ)れた顔だったからだ。
 それは悪い兆候だった。リューズは機嫌がよくて、意気が高ければ、まさに太祖の末裔としてふさわしい覇気があった。しかしいったん沈み始めると、どこまでも深く沈んだ。泥のような、暗い闇の中へ。
 リューズが見つめた、あがり、と書かれた枡目の中を、イェズラムも見た。そこには、『名君の死』と書いてあった。
 その意味を考えて、イェズラムはますます、渋面になった。
「リューズ、死ぬために戦っているのではない。勝つためだ」
「そうだ。勝つためだ。どうやって勝つかだ、イェズラム」
 立てた膝に、リューズは肘を乗せ、煙管を持ったままの手のひらで、族長冠をした額を支えて、目を伏せていた。そうやって座っていると、リューズは白磁でできた変な置物のようだった。苦悩しているようだったが、どことなく滑稽だった。
「考えているところに悪いが、どうしてそんな服を着ているんだ」
 イェズラムはぼんやりと気になって、それを尋ねた。リューズは典医の服を羽織っていた。

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名君双六(2)-2

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「もう走ったのか」
 それを自分で口にした瞬間、頭痛とは別の激痛を、イェズラムは脳の奥深くに感じた。
「さあ。まだじゃないですか。相当に気合いがいるはずですから」
 思い出し笑いか、シャロームは薄く笑いをこらえる顔をしていた。
 族長の命令書は廷臣にとって絶対のものだが、それに妥当性がない場合、竜の涙には拒否権がある。だから拒否すればいいのだ。
 この命令に妥当性があるわけがない。
「リューズは今、なにをしているんだ」
 もう他人任せで放置できる範囲を超えたと、イェズラムは思った。
「俺達が戻るまで、『イェズラムに怒られる』です。つまり一回休み。十六回連続で、『イェズラムに怒られる』で、相当頭に来てました。それで族長の機嫌がなおるなら、ヤーナーンが裸で走るぐらい、屁でもないですよ、長(デン)」
 それが日常だというように、シャロームは淡々と話していた。こいつらは毎度毎度、何をやっているのだ。
 イェズラムは、自分が口うるさく言っても聞かないリューズの不品行を、気の合うような者の口からやんわりと止めさせるために、彼ら三名に監視役としての側仕えを許しているつもりだった。そういう立場の者が、不品行を煽ってどうする。
「お前は今すぐ行って、ヤーナーンを止めろ」
 苛立ちとともに煙を吐いて、イェズラムは命じた。それにシャロームは、困ったという顔をした。
「でも、長(デン)、リューズが玉座の間(ダロワージ)を裸で走るより、ヤーナーンのほうがましでしょう。誰かがやらなきゃ気が済まないんだから。あんまり『怒られる』続きだと、俺が魔法の風で賽子(さいころ)の出目をちょろまかしてるって、さすがにリューズも怒りますから、この辺で落ちをつけないと」
「他の無難な目に落としてやればいいだろう」
「ああ、そうですね。なかなか難しいんです。ものすごい枡目ばっかりで」
 それが具体的に何なのか、イェズラムは知りたくなかった。
 今すぐ行って、『イェズラムに怒られる』を実行に移させてやるべき時だ。
 立ち上がろうとしたイェズラムに、シャロームがあっと驚いて引き留めるそぶりをした。
「長(デン)、その前にこの命令書に、俺が実行したっていう一筆をいただきたいんです。手ぶらじゃ帰れねえから」
 巻物を解いて、シャロームがそれを差し出してきた。
 円座の上に立ち上がったまま、イェズラムはそれを受け取って読んだ。
 それはこの上もなく正式な命令書だった。きちんと定められたとおりの前口上で始まり、日頃は他人に代筆させて書かないくせに、リューズは流麗な直筆の文字で命令をしたため、ご丁寧に族長の印璽まで捺していた。
 くっきりした文字を速読の目で追い、イェズラムは内容を読んだ。シャロームが一筆書かせるつもりか、懐から矢立を出して、墨に浸した筆を用意して待っている。
 なぜかそれは、絵を描くような筆だった。
 なぜだろうかと思いながら、イェズラムが読み進むと、命令書の内容はこうだった。
 エル・イェズラムの尊大なる顔に、族長よりの墨を下賜せよ。
 なんのことかと一瞬考え、その次の瞬間に、イェズラムは悟った。
 そして、はっとして避けたが、シャロームのほうが早かった。仰け反って避けるイェズラムの頬に、シャロームが墨を含んだ筆で一閃した。
 ひやりとした墨の感触とともに、あたかもシャロームの横っ面にある傷痕と似た、縦一閃の墨跡がつくのが、イェズラムには感じられた。
 シャロームは抜刀術の達人でもあり、彼の驚異的に素早い居合い抜きの一刀を、ここまで油断していて避けられるはずもない。
 巻物を両手に提げたまま、イェズラムは項垂れ、思わず、畜生と呟いた。
 シャロームはそれに、いかにも済まなそうに頭を下げた。
「俺もこんな事はしたくなかったんですけど、長(デン)。族長命令ですから」
「運がよかったな……シャローム。玉座の間(ダロワージ)を裸で走らされるやつがいる一方で……こんな命令で済んで」
 言いながら、猛烈に腹が立ってきて、イェズラムは命令書を掴む自分の腕が、かすかに戦慄(わなな)いているのを見下ろした。
 リューズには、なかなか突破できない敵の防衛戦を、打ち崩すための方策を、考えるように言ってあった。そこでの戦果が思わしくなく、こうしている間にも、兵や魔法戦士が無駄に死んでいる。
 それを考えもせず、あいつはなにをやっているのか。
 そう思うと、今すぐ行って首を絞めたい気がした。あいつの他に、玉座に座れる者が、今はもう居ないことを、忘れることさえできれば、今すぐ本当に走っていって、あの生っ白い首を締め上げてやりたいところだ。
「あの……できれば末尾に一筆、証明のための署名を……」
 怖ず怖ずと、シャロームが筆を渡してきた。こいつでも遠慮することはあるのかと、イェズラムは震えながら筆を受け取った。怒りのあまり、本当に手が震え、筆先がなかなか定まらなかったが、息を殺して、イェズラムは書いた。
 命令書の末尾に書き添えた、エル・イェズラムの名をつづる文字の筆跡は、命令書にあるものと酷似していた。かつて幼少のころのリューズに字を教えてやったのが、他ならぬ自分だったからだ。
 癇質の兄アズレルの意地悪な計らいで、リューズは王族らしい教育を受けさせてもらえず、イェズラムが気づくと、文盲になっていた。それにぎょっとして、隠れて文字を教えたのが、もう元服する十二の頃も間近な年齢で、書いて与えた手本を写せ、一日書きつづけて憶えなければ、飯も食わせないと脅しつけたのが、リューズにはよほど怖かったのか、まる一日明けてから成果を見にいくと、文字の留め撥ねの癖までくっきり同じの筆跡を書くようになっていた。
 それで、怒りすぎたとイェズラムは悟ったが、もう手遅れだった。リューズの筆跡からは、手本から写した癖が全く抜けず、即位した今でも、家臣であるイェズラムとそっくり同じ文字を書く。
 子供相手に、可哀想なことをしたと、字を見ると時々後悔が湧く。文盲だったのは、本人の責任ではなかった。誰もあいつに、字の読み書きを教えてくれなかっただけだ。
 だが今こうして、ふざけた命令書を見せられると、あのまま文盲でいればよかったのにと、別の後悔が湧いてくる。なんで文字なんぞ教えてしまったのか、自分は。書けなければ、こんな事にはならなかった。そうすればあいつも、馬鹿げた双六など作ってみせて、ヤーナーンを裸で走らせることもなかったのに。
 はっとそれに思い至り、イェズラムは回想から醒めた。
「早く行け、シャローム」
「え。どこへですか」
 シャロームはきょとんとした。
「馬鹿、玉座の間(ダロワージ)だ。ヤーナーンを止めろと言っただろ」
「でも、止めたらご機嫌斜めですよ。ヤーナーンの立場が……」
「ふざけるな。太祖の代から受け継いだ神聖なる玉座の間(ダロワージ)を裸体で汚そうというのか。俺の顔に墨を塗るのとは訳が違うんだぞ、これは冗談で済んでも、それは大逆なんだ。どこまで馬鹿なんだお前らは!」
 あまりに許し難く、イェズラムはほとんど叫ぶように言って、ほどけたままの巻物を持った右手で、シャロームの頭を力任せに叩いた。
 いてえ、とシャロームは泣いた。
 相当に痛いはずだった。当然のむくいだった。
 しかし、可哀想なことをしたと、すぐにイェズラムは思った。子供部屋のころからの、シャロームを怒る時の癖でつい叩いたが、石のある者は頭に衝撃を受けると、それが痛む。だから余程でなければ頭は殴ってはならないのだ。
 シャロームは猛烈に痛かったらしく、大の大人というのに、頭を抱え、叱られた餓鬼のように目頭に涙をにじませていた。
「痛いです、長(デン)。怒らないでください、怖いんだから。やっぱりこうなるんじゃないかと思ったよ……俺も『裸で走る』のほうが良かった」
 それを聞いて、イェズラムはもう一発殴りたくなり、シャロームを睨んだ。それは拳骨なみによく効いたらしく、シャロームは身をすくめて、痛そうな顔をした。
 利かん気で、怖いもの知らずのシャロームは、子供部屋時代から、口で言っても理解しないので、拳骨で話してやらねばならない手合いだった。こいつと付き合っていると、頭も痛いが、なにより手が痛い。一人前になれば、そんな必要はなくなると思っていたのに、死ぬまで殴り続けることになるのか。
「リューズには、俺が諭しておく。心配するなと、ヤーナーンに言っておけ」
「はい。ええと……諭すんですか、長(デン)。それは、怒るのとどう違うんですか」
「殴らない」
 自分の手を見下ろして、イェズラムは教えた。
 族長冠をかぶった頭を殴るわけにはいかない。たとえもう、言っても分からないとしてもだ。諭すしかない。
 即位前なら、こちらが兄(デン)だったが、あちらが玉座に座った今では、こちらが家臣だ。主君を殴れば大逆だ。
 だから、十六回連続で諭すことはできても、怒ることは、もうできない。
 いくらあちらが、こちらを怒らせようという魂胆でもだ。
 おのれ、リューズ。なめやがって。
「あのですね、長(デン)……あんまりきつく、諭さないほうがいいですよ。リューズはあれで、遊びながらでも、考えてはいるみたいだから……もうちょっとだけ、待ってやってくださいよ。ほら、その、長い目で……」
 たどたどしく弁護する口ぶりのシャロームを、イェズラムは睨み付けた。シャロームはそれで、困ったふうに押し黙った。
 部族の命運がかかった戦のことを、遊びながら考えるとは、ずいぶん余裕だ。
 お前はいつのまに、そんなに偉くなったのだ、リューズ。
 リューズは確かに、濃厚な敗色の中で即位して以来、誰も思いつかないような奇抜な戦法を編み出して、部族を窮地から救い続けている。それですっかりいい気になって、族長なのだから、宮廷では何をやっても許されると、勘違いしているのではないか。
 族長冠の重さを感じながら、昼も夜も寝食を忘れて考えるべきだ。どうすれば勝てるか。
 誰がお前の尻ぬぐいをしてやってると思ってる。お前のわがままには、いいかげんうんざりだ。
 内心にそう呪いながら、イェズラムは会談室を足音高く横切り、派閥の広間(サロン)に出る扉を、ばんと勢いよく押し開いた。
 そこにいた者たちが、怯えたような目で、いっせいにこちらを見た。彼らがさらに怯えた青い顔で驚愕するのを見て、イェズラムは戸口にもたれ、目眩をこらえた。
 塗られた墨を、拭いていなかった。
 シャローム。
 お前は、本当に、度し難い馬鹿だが、リューズはそれに、輪をかけた馬鹿だ。
 そんなどうしようもないお前が、稀代の名君に見えるように、必死になっている俺を、からかって楽しいか。
 楽しいのだろうな。楽しくなければ、やるわけないな。
「長(デン)……」
 いつのまにか、戻ってきていたジェレフが、戸口の脇で待っていたようで、呆然と声をかけてきた。
 悄然としており、顔色の悪い新入りを、イェズラムは戸口にすがったまま見下ろした。
「なんだ、エル・ジェレフ。俺になにか用か」
 どう見ても、顔の墨跡に目を奪われているジェレフに、イェズラムは低い声で訪ねた。
「あのう……先ほどは、生意気なことを言いまして……失礼を……」
 しどろもどろに、ジェレフは詫びてきた。
 イェズラムは、それに小さく頷いてやった。
「お前のな、生意気など、可愛いものだよ、エル・ジェレフ。そんなものは、朝飯前で、俺は実は腹も立たなかったよ。世の中には、上には上が……いや、下には下がいてな、俺は今そっちのやつに、頭にきてるところだ」
 伏し目に睨み付けて教えてやると、ジェレフはどことなく怯えた顔のまま、こくこくと頷いて聞いた。訳は分かっていないだろうが、とにかく長(デン)が激怒していることくらいは、この若造にも理解ができるらしいかった。
 しばし、どことなく乱れた呼吸でこちらを見ていたジェレフは、やがてはっとしたように、会談室にいるシャロームを見た。その顔がだんだん、咎める目つきをするのを、イェズラムは見つめた。
 違うよ、ジェレフ。お前はどこかずれてるな。俺がシャロームに怒っていると思ってるんだな。そりゃあそう思うだろうがな、でも本当のことを教えてやるわけにもいかないし。かといってシャロームの面子も守ってやらねばならんしな。
「エル・シャローム……」
 背後にいる弟分(ジョット)に、イェズラムは掠れた声をかけた。
「ご苦労だったな。引き続き頼む」
「はい、長(デン)。それじゃ俺は、これで失礼します」
 その場で深々と一礼する気配がして、それからシャロームは、すれ違い様にも目礼をし、イェズラムを追い抜いていった。
 本来なら、イェズラムが出るのを待つべきところだが、そんなことはこの際些事だ。早く行かねば、ヤーナーンが裸で走る。
 しかし行きすぎるシャロームを、ジェレフはむっとした目で見送った。
 シャロームはそれを、じろりと一瞥していった。自分に挨拶をしなかったジェレフが、許し難いという目だった。
 ああ、ここにもまた一悶着かと、イェズラムは思った。
 どいつもこいつも。手間をとらせやがって。
「ジェレフ……」
 項垂れて、イェズラムは相手の顔を見る気力もなく、声をかけた。
「シャロームを敬え。あいつはお前の兄(デン)だ」
「あの人はこの派閥の一員なのですか、エル・イェズラム」
 罪のない口調で、若い治癒者は尋ねてきた。派閥の一員もなにも、シャロームは子供部屋のころからのイェズラムの弟分(ジョット)だった。性格が合うとは言い難いが、いわば苦楽をともにしてきた部下だ。そうでなければ、リューズを任せられない。
「そうだ、あいつもお前も、俺から見れば可愛い弟分(ジョット)だよ。序列を守って、仲良くやってくれ。お前は自分も優秀なつもりだろうが、シャロームは歴戦の英雄だ。お前にはまだ英雄譚(ダージ)はないが、詩人はシャロームを玉座の間(ダロワージ)で何度も讃えた。そんな相手に敬礼できないというなら、お前はここでは生きていけない」
 それにエル・ジェレフ、お前は族長に命令されても、いくらなんでも玉座の間(ダロワージ)を裸で走れないだろう。
 当代の治世を支えるには、人知れぬ様々な苦労があるんだ。馬鹿なあいつらが、お前の代わりに、裸で玉座の間(ダロワージ)を走ってくれるから、お前はいい子でいられるんだ。だからあいつらに、お前は頭を下げてやれ。
 そういうつもりでイェズラムはジェレフを見たが、少年は思い詰めた目をするだけで、ちっとも理解したふうではなかった。
「俺のほうが、あの人より優秀です、長(デン)」
「それはまだ証明されていない」
「証明します。仕事をくだされば」
 なんでもする、という目を新入りはしていた。たぶん誰かに、シャロームに逆らうな、あいつのほうが強いと諭され、これまで鼻を挫かれたことがなかったジェレフは、悔しかったのだろう。皆の面前で侮辱されて、それに報いることができないどころか、皆から頭を下げろと言われて、シャロームが憎いのだ。
 それでやつを、見返したいのだろう。自らの優秀さを示して。
 しかし、その坊や面(づら)を見れば、できることはたかが知れているのは、試すまでもないと、イェズラムには思えた。
 シャロームとこいつとでは、場数が違う。あいつは命じれば何でもするが、ジェレフは自分の頭ひとつ、下げられないというのだから。なんの力もない餓鬼のくせに、いい気になりやがって。つくづく馬鹿で、危なっかしいやつだ。
 俺がお前くらいの頃には、もう戦地で濫用されて、文字通り死ぬ目にあってたけどな。
 それと引き比べてみると、ジェレフは賢しいかもしれないが、ぼけっとした奴だった。それは今この時代が、以前よりましになっているという証明だった。
 確かにましになっている。リューズは魔法戦士を重用していた。それもこれも、乳兄弟である俺への義理立てだ。
 いやなことに思い至って、イェズラムはさらに顔をしかめた。そんなことを考えたら、怒りが萎えるじゃないか。
「仕事か。それじゃあ、俺は顔を洗いたいので、湯をもらってこい、英雄ジェレフ」
 イェズラムがそう命じると、ジェレフは複雑な顔をした。
 たぶん、そんな簡単な仕事ではなく、もっと困難なのが好みだったのだろう。
 だけど今のお前には、それくらいしか、頼んでやれる仕事がない。それで満足して、とっとと働け。
 イェズラムは苦笑を堪える顔で、ジェレフの情けない面(つら)と向き合った。子供は屈辱を堪え、とってつけたようなお辞儀をして、部屋から走り出ていこうとしたが、どこかから飛んできた年長者たちの、長(デン)に返事をしろという叱責を受け、ますます早く走りながら、ほとんど叫ぶような声で、はいと答えた。
 その尻を叩かれた子馬のような有様が可笑しく、イェズラムは笑った。
 確かにシャロームが言うように、あいつはこの派閥の癒し系らしい。さっきまで激怒していたのが醒めてしまって、今ならリューズを絞め殺さないだろう。
 忠義なやつよ、エル・ジェレフ。族長の命を守ったな。
 そう思い、イェズラムは笑って戸口にもたれ、煙管の残り火をふかした。頭痛が鎮まりはじめ、軽い酔いが始まっていた。

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名君双六(2)-1

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 会談室は通常は、客用の部屋だった。よそからやってきた者を招き入れて、茶なり酒食なりを供して接待するための場所だ。
 いつも現れるなり、長(デン)をそこへ連れ込むシャロームには、部外者のような気配がするのだろう。派閥の者が命じたらしく、後からやってきた女官は、客に供するような華麗な茶器に、シャロームに飲ませる茶を入れてきた。
 派閥の備品は、代々の伝来のものだった。外から来た者に供するものは特に、派閥の力を誇示する目的で、贅をこらした逸品である。女官が持って現れた茶器も、暗い朱の彩色のうえに描かれた鳥の絵が、年を経た今もまだ生きているような、本来ならもう、茶を入れて飲むようなものではない芸術品だった。
 下座に出されたそれを見下ろし、シャロームはどこか、困ったような顔をした。
「なんだろうなあ、これは。こんなので茶を飲まされるとは、俺もとうとう派閥から追い出されちまったよ、長(デン)」
「気にするな、シャローム。お前はよくやっている」
 イェズラムは褒めたが、それでもシャロームは苦笑していた。
「さっきの餓鬼はなんですか。長(デン)の前で、あんなふざけた話をしやがって。俺がいっぺん締めておこうか」
「今頃、なにがまずかったか、他の者が教えているだろう」
 イェズラムはたしなめた。するとシャロームは、手ぬるいなという不満げな顔をした。
「長(デン)も隠れ治癒者でしょうが。道義に悖(もと)るてなことを、あんな餓鬼にけろっと言われて、むかっ腹が立たないんですか」
「俺を批判したわけじゃない。知らずに言ったんだ。許してやれ」
 諭すイェズラムに、そんな馬鹿なというふうに首を横に振ってみせ、シャロームは不味いものでも食ったような複雑な表情をした。
「兄貴(デン)も甘くなったよ」
「長い目で見てやれ、シャローム」
 そう言うと、シャロームはいかにも可笑しそうに、けらけらと笑った。
「それは無理です。俺はもう先がないから。短い目でしか見られねえよ」
 自分の頭の石を指さして、シャロームは言った。表に出ている灰緑色の石は、大して酷いようには見えなかったが、最近、戦地から戻ったあとに、施療院の透視者に視させたといって、その足でイェズラムのもとへ報告に来たときには、さすがのシャロームもどことなく青い顔をしていた。
 あと二、三戦かな、長(デン)と、端的に告げるシャロームには、イェズラムも頷くしかなかった。話を聞けば、その通りとしか思えなかったからだった。
 しかし今ここで、それについて話し合う気はなかった。
「リューズはどうしてる」
 イェズラムは本題を促した。シャロームは、どこから話すかというふうに、目を眇(すが)め、記憶を遡るように斜め上を睨んだ。
「族長は、部屋で双六(すごろく)をしています。自分で作ったやつを。これでもう、丸二日かな」
 それを聞き、イェズラムは煙管を吸いたくなった。しかしまだ、それには火が入っていなかった。そういえば吸いそびれたまま、ここへ連れ込まれたのだった。
 話のとっかかりを聞いただけで、すでに苛立ってきて、頭痛が増していた。
「今朝の朝儀のとき、リューズはおかしかった」
 相づち代わりにそう答え、イェズラムは煙草入れから火種を取りだした。シャロームは頷いて、それを聞いていた。
「酔っぱらってたんでしょう。遊びながら、吸いっぱなしだから。自分が吸わなくても、誰かが吸ってるし、煙が充満してて、抜ける間もないです。そのまんま着替えて、玉座の間(ダロワージ)へご出陣」
 シャロームは敢えて言いはしなかったが、それは麻薬(アスラ)の話だった。リューズには即位前から、喫煙の習いがあった。
 魔法戦士と親しく付き合っていれば、それも別段、不自然ではなかった。
 イェズラムとリューズとは乳兄弟で、本当に血の繋がった王族の兄弟たち以上に、身近に過ごしてきた。リューズは幼年の頃にはおそらく、自分も魔法戦士のひとりだと勘違いしていたのではないだろうか。もしくはこの世に魔法戦士以外の者がいることに、あまり気がついていなかったか。
 こちらに付き合って、魔法戦士の派閥に籠もり、戦の後にはもうもうと煙を上げる者たちの間に居れば、それが普通だと思うだろう。
 苦痛が始まり、煙管を使う自分に、なぜ吸うのかとリューズが問うてきた時も、イェズラムは痛いからだとは答えなかった。その事実を隠すのが、嗜みだったからだし、まだ子供だったリューズに、イェズラムは、自分がいずれ死ぬ話をしたくなかった。
 だからリューズは昔、魔法戦士が麻薬(アスラ)の煙を漂わせるのは、単なる嗜好だと思っていたようだ。そしてそれを英雄らしい見栄えの良さと、勘違いして憶えた。
 魔法戦士にとって、それは悪習ではなく、やむを得ないことだった。王族にとっても、一時の気晴らしとして、麻薬(アスラ)を嗜む者はいる。しかしリューズのそれは、時として、嗜むという域ではなかった。
 このままでは危ないと、以前から時折イェズラムは思ったが、リューズはその頃、即位するはずのない立場だった。リューズが戴冠するほんの少し前までは、彼の異腹の兄アズレルが、継承争いの本命株として燦然と輝いており、リューズはその新星の即位とともに、死を賜る運命だったのだ。
 それが怖くて、素面(しらふ)では耐えられず、煙で酔いたいのだろうかと思うと、なんともいえず哀れで、やめろとも言いにくかった。どうせ長くもない一生だと割り切り、それでリューズの喫煙を放置していたのだったが、いったん玉座に座った今、事情はまるで違っていた。
 あいつには、一日でも長く生きてもらわねばならない。まだ世継ぎもいなければ、戦のまっただ中だった。
 暗君として知られるリューズの父親である先代の族長は、敗戦に継ぐ敗戦に怯えて麻薬(アスラ)に耽溺し、かなりの短命だった。リューズにその二の舞をやらせるわけにはいかない。それでなくても王家には、長年の血の澱か、早逝の気があるのだ。
「喫煙を控えさせろ、シャローム」
 そう命じながら、はき出す煙が苦いような気がして、イェズラムは顔をしかめた。
「無理です、言って聞くような玉じゃないでしょう、リューズは。俺や、ビスカリスやヤーナーンは吸うのに、なんで自分はだめなのかって、ご機嫌斜めになるのが落ちです」
 ビスカリスとヤーナーンも魔法戦士だった。シャロームとともに、気に入られてリューズの近侍だ。
 元はといえば、戦場で敵陣に突撃したいというリューズの護衛の目的で、気に入りそうな性格の魔法戦士をイェズラムが選び、側に付けたのが始まりだったが、それがよっぽど気に入ったのか、王宮にいる間にも、身近に侍らして遊び歩く始末だった。
 二十代も後半に入る三人の魔法戦士は、どれもそろって堪え性のない性格をしており、その出し惜しみのない魔法で、激戦の時代を戦ったせいで、三人揃ってすでにもう、末期と言える病状だった。中でもシャロームは運がないようで、特に進みが早い。薬無しで耐えろというのは無理な注文だった。
 そろそろ入れ替え時期なのだと、イェズラムには思えたが、それもなかなか言いだしにくかった。お前らはもう死ぬだろうから、他の者に近侍を譲れというのでは、あまりに可哀想な気がして。
「それで……ビスカリスとヤーナーンは、まだリューズの部屋なのか」
 皺の寄ってきた眉間を揉んで、イェズラムは尋ねた。リューズをなるべく一人にするなと、彼らには命じてある。一人にしておくと、なにをするか分からないようなところが、リューズにはあるので、常に誰か監視をつけておきたかったのだ。
「いいえ。それが、俺はとっとと戻らないと」
 持ってきていた錦の巻物を、シャロームは懐から取りだし、イェズラムに示すともなく示した。
「双六(すごろく)の途中なんです、長(デン)。賽子(さいころ)の出目に従って、止まった枡目に書いてある命令に、従わないといけない決まりなんです。それで俺のはこれなんですが……」
 シャロームが携えているのは、確かに、族長が下命するための、錦で裏打ちされた命令書のように見えた。
 あいつはそれを、遊びに使っているのかと、イェズラムは軽い目眩を覚えた。
「ヤーナーンは今、『玉座の間(ダロワージ)を裸で走る』に向けて精神統一中です。ビスカリスは、『女官の服で女部屋に潜入』して、ばれて、魅惑の袋叩きに……」
 手を挙げて、イェズラムは頭痛に目を伏せたまま、喋るシャロームの言葉を止めた。
「あのな、『玉座の間(ダロワージ)を裸で走る』というのは、ヤーナーンが玉座の間(ダロワージ)を裸で走るという意味か?」
「……そうです」
 シャロームはさすがに言いにくいというふうに答えた。

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名君双六(1)

 朝から頭痛がした。
 不意に強い痛みの脈を感じて、イェズラムは顔をしかめた。
 右目の少し上あたりから、頭の奥の方まで、何かが長く鋭い牙で食らいついているような、呪いめいた静かな頭痛が、ゆっくり脈打つように続いていた。
 イェズラムには近頃、よくあることだった。
 放っておけば治るだろうと思ったものの、すでにもう昼を回り、治まる気配はしない。このまましばらく、居座るつもりのようだった。
 やむを得ないから、麻薬(アスラ)を使うかと、イェズラムは考えた。
 無闇と薬に頼っていては、無駄に寿命を縮めるだけと、常用するのを避けていたが、このまま痛みを堪えて、険しい顔をしていては、周りに機嫌を伺われるばかりで、今ひとつ仕事にならない。
 戦地から久々で、王都タンジールに帰還し、半年ばかりの留守の間に、うんざりするほど山積していた物事に、日々追い立てられていた。
 戦線の敵は、夜になれば退いていったが、王宮の敵は、夜も眠らない。昼は玉座の間(ダロワージ)において、至高の玉座に座る若き族長リューズの、高貴なる白い面(つら)にも心底からはひれ伏さず、舌鋒するどく怒鳴りこんでくる不忠者たちを迎撃し、夜は夜で、これこそ治世の一大事ともったい付けて、居室の戸を叩く者どもに、眠たい顔を見せる訳にはいかなかった。
 それだけでも頭が痛いところに、この頭痛ときては、さすがのイェズラムも疲弊した。
 今は王宮にいて、魔法も使わないのに、なぜ石が痛むのか。その理由は以前、診察をした典医から聞かされていた。
 石が痛むのではなく、目が痛んでいるらしい。確かに頭痛がするときは、目を開けているのもつらいような気がした。
 透視をする者が視たところ、初陣よりの連戦で、やむなく濫用した大魔法のために、着実に育ってきた石が、今では右目の傍まで迫ってきており、それがいずれは目玉を含めた反面を奪っていくだろうというのが、医師の見立てだった。
 隻眼になるのに不都合があれば、魔法の使用を控えるしかないが、というのが、無駄口を聞く宮廷の医師の言い分であったが、職務上、他に言えることもなかったのだろう。いかにも不機嫌なひと睨みで、許してやるほかは仕方がなかった。
 どいつもこいつも、救いようもなく愚かに思えた。
 部族の英雄として戦う魔法戦士に対して、魔法を控えろとはいかなる意味か。英雄をやめろということか。やめていいなら、いつでもやめるが、それでどうやって戦に勝つのか。いったい誰がお前らのために血を流しているのか、王宮の者たちはいつも、そのことに疎すぎる。
 一時は王都を陥落せしめるかという勢いで迫っていた敵も、族長リューズの奮闘に圧され、今ではかなりの撤退を強いられていた。長年の敗色を急激に塗り替える快進撃の波に乗って、全軍の志気はにわかに沸騰していた。
 今この時をおいて、奪われた版図を回復できる時はない。起死回生の好機を逃すことなく、命を惜しまずに、名誉の戦(いくさ)を戦うべき時だった。
 そんな時局にあって、たかが己の片目が惜しくて、炎の蛇は戦をやめたというのでは、兵たちは呆れ、英雄たちの面子は丸つぶれだろう。
 それよりはまだ、石に顔をつぶされるほうが、幾らかましというものだった。その頃には今よりずっと、魔法戦士の重鎮(デン)にふさわしい面構えになっていることだろう。その挺身の権化のような面(つら)で、長老会に君臨するというのも、まあ悪くない絵だ。
 それも、もちろん、そんな時期までイェズラムが生きていられればの話だった。
 戦場での華々しさも重要だが、宮廷にもまだ仕事はうずたかく残されている。族長リューズはまだほんの二十歳で、一人で治世を担わせるには心許なさがあった。戦場での奮闘はめざましいが、玉座ではまだまだ奥手だ。イェズラムがべったり横にはりついて、睨みを効かせていなければ、いつも朝儀は雑然と混乱した。
 景気のいい英雄譚(ダージ)に調子づいて、うっかりくたばっている場合ではない。自重しなければ、もともと限られた命だ。
 確かに医師の言うように、そろそろ多少は、魔法を手控えなければならないか。
 名か実か。そのさじ加減が、難しいところだ。何もかもをつかみ取れるほど、運命は竜の涙に優しくはない。
 そう思いながら、ますます難しい顔になり、イェズラムは愛用の長煙管に葉を詰めた。
 最奥の上座から見渡した派閥の部屋(サロン)には、様々な年頃の魔法戦士たちが集まっていた。皆、イェズラムのことを長(デン)と呼ぶ立場の者たちだった。
 元服を済ませた者たちは、初陣の声がかかる十五、六の年頃までに、自分が属する派閥を決める。大抵は縁のあった年長者のいるところへ、選ぶともなく入るものだが、強い魔法を持っているとか、抗争のための頭数をそろえるためなど、何らかの理由によって、半ば強引に連れてこられる者もいる。
 どんな理由で来たにせよ、いったん属してしまえば、よそへ移るのは難しかった。あいつはあの部屋の者だと、周りが思えばそれまでで、たとえばこの部屋(サロン)に一度でも居着いたことがある者は、広い王宮のどこへ行こうが、あれはエル・イェズラムの息のかかった者だと見なされ、イェズラムの敵からは、その者も敵と見なされる。
 その逆のことも当然あるだろうが、イェズラムが知る限り、宮廷というところでは、属する派閥のことは、各個人に有利に働くよりも、厄介に働くことのほうが多かった。
 だから誰しも皆、外を歩くときには、保身のための徒党を組んだし、用がなければ派閥の部屋(サロン)に引っ込んでいることが多かった。そのせいでこの部屋は、いつ何時でも有象無象のたむろする、うるさい場所だった。
 頭痛のせいか、今日はとりわけ人の話し声が耳につく。
 暇を持て余した年長者に乗せられて、若いのが熱弁を振るっていた。
 煙管に火を入れようとしながら、イェズラムは意気も高く話している、十五かそこらの小僧を見やった。
 まだまだ青臭い石をしており、確か名前はジェレフと言った。治癒の才が並はずれているというので、誰かが引っ張ってきた一人だった。普通新入りは、扉のそばの末席にいるものだったが、ジェレフはうっかり外に漏れないようにだろう、部屋(サロン)の奥も奥の、年長者の群れる中に取り込まれていた。
 治癒者は派閥には欠かせない存在だ。彼らは戦地ではもちろん、宮廷においても有用な魔法を振るい、それによって時には貴人に取り入れるというので、少なくとも一人二人は抱えておきたい術者だった。
 しかし、そもそもの頭数は限られており、一人でも多くと欲張る派閥間で奪い合われて、だいたいは幼少期から目をかけられ、甘やかされて、いい気になっているような連中だった。
 中には戦地で、日頃気の食わない政争の敵が倒れるのを、見て見ぬふりをするような、性根の腐ったのもいた。王宮での争いごとを、戦地に持ち込まないのは、英雄たちの不文律だが、治癒者の中には我こそが掟と、奢っている者もいる。
 エル・ジェレフも、この部屋にやってきた当初は、誰からもにこにこと愛想良くされていた。なんでも引く手あまただったとかで、居心地が良くなければ、なんせまだ初陣も知らない子供のことだ、不意に臍を曲げて、よそへ行くと言い出すかもしれなかった。
 治癒者に対する常で、イェズラムもジェレフに機嫌の悪い顔をした覚えはない。それどころか、奇跡的に、にっこりと新入りに笑いかけてやる長(デン)を見て、他の者は震え上がり、ジェレフは馬鹿正直に感激したようだった。それが決め手か定かでないが、ジェレフはとにかくここを選んだ。
 そして一度でもイェズラムの後を付いて回廊を歩けば、ジェレフに他に行き場はない。それで死ぬまでこの部屋(サロン)の治癒者だ。しそしその妙なからくりを、ジェレフはまだ知らないらしかった。
 イェズラムはジェレフについて、高い治癒の才があるなら将来は、族長の側仕えとして働かせてもいいと思っていた。頭も悪くなく、行儀のいい子供のようだったからだ。
 しかし少々堅物だった。真面目に過ぎるというか、善良過ぎるというか。悪く言うならくそ真面目で、融通を効かせるだけの狡さがない。それが族長の気に入るか、怪しいところだ。極めて怪しい。今のままでは恐らく、九割方は振られるだろう。
 今もなにやら、からかうような深い同意の相づちを打つ年長者(デン)を相手に、ジェレフは治癒術についての一家言をぶちまけていた。
 治癒術の根本は愛ではないかと、エル・ジェレフは語っていた。
 なにを惚(とぼ)けたことを言ってやがるのかと、イェズラムは呆れた。しかしもちろん、それを口に出しはしなかった。
 己が魔法の真髄について、考えるのは勝手だが、いまだ英雄譚(ダージ)も持たない若輩の身で、それをべらべら話すのは、生意気というものだった。
 治癒術は別に稀ではない。実際同じ派閥の部屋に、他にも治癒術を心得る者はいた。それによって歴戦に臨み、石を肥やした者もいる。そういう先輩(デン)を差し措いて、偉そうな口をきくと、後々どういう目にあうか、今時の新入りは思いもつかないのか。
 お前の周りにいる、その年長者たちが優しいのは、初めのうちだけだ。お前がここから逃げられないと、それが決まった瞬間に、やつらは本来の顔をする。派閥の掟は年功序列だ。どっちのほうが年上か、見ればすぐ分かるようなその事実を、手を変え品を変え、じっくり教えてもらえるぞ。
 派閥の真相が陰険なことは、イェズラムは身をもって知っていた。生まれつき長(デン)だったわけではない。この上座に辿り着くまでには、自分も新入りの火炎術士として、派閥の戸口に座ったことはあるのだ。そして年長者(デン)たちの煙管の火がないのや、部屋の灯火がやたらと吹き消されるのを、屈辱をこらえて点火するところから始まった。
 イェズラムはどこか唖然として、暢気に喋っている新入りの背を見つめ、銜えかけていた煙管の吸い口を、口の中で宙に浮かせた。
 話すのを止めさせようかと、うっすら思った。あのちびっこいのに、何か用事でも言いつけてやって。
 喉が渇いたから、水でも汲んでこいとか、そういう些細な用でいいから。
 しかし、どうにもしつこい鈍い頭痛のせいで、全てが億劫だった。
 そのまま険しい顔で睨んでいると、部屋(サロン)の戸が開くのが見えた。骨董の域に達した古いが華麗な木の扉を押し開けて、なぜか髪も結わない格好のまま、それでも宮廷服を着た魔法戦士がひとり、腰まで届く長髪をなびかせ、ぶらりと部屋に入ってきた。
 灰緑色の石をした、鋭い灰色の目の男だった。左のこめかみから首に至るまでの、深い古傷のある顔に、人を食ったようなふざけた薄笑いの表情を浮かべ、男は錦の巻物を持って、我が物顔に踏み込んできた。
 エル・シャロームだった。
 風を操る魔法で、真空を生み、その刃で敵を切り刻む、風刃術の使い手だ。
 その魔法の切れ味は、なかなかのものと英雄譚(ダージ)は語るが、シャロームはその舌の生む言葉の切れ味と、それに始まる争い事での喧嘩技の切れ味が、仲間に対してさえ容赦がないことで、宮廷において恐れられていた。
 控え目に言っても、札付きの悪だった。品もなければ、容赦もない。
 入ってきた男に、部屋の誰もが一目置いて、気づいた者から順に、どこか敬遠するような目礼を送っていた。それをいちいち見つめ、シャロームは、誰か自分を舐めたような者はいないか、観察するようにゆっくりと歩いてくる。
 ジェレフは話に没入しているのか、背後から迫っているその剣呑な兄(デン)に、気づいていないふうだった。
「治癒術ほど有用な魔法はないと思うのです」
 やっぱりそうだろうと同意を求める口調で話す新入りに、話をさせていた相手は、シャロームがやってくるのに気もそぞろになり、曖昧に頷いてやっている。しかしそれにもジェレフは気づかないらしかった。
「仲間も癒せるし、人の役にも立つわけですから。治癒術に恵まれた者は、他の技は捨てて、それ一本に打ち込むべきじゃないでしょうか。それが道義というものです」
 ああ、そうだろうかなあ、と、相手の者は、どうとでもとれる生返事をした。シャロームが睨む目で、ジェレフの背後に立っていたからだった。
「よく喋る小僧だなあ、お前は。挨拶はどうした」
 言うなりシャロームはジェレフの束髪にした頭を掴んだ。それに心底ぎょっとしたらしく、ジェレフは座ったまま仰け反ってシャロームを見上げた。
「エル・シャローム」
「よう、新入り。ちょっと見ない間にすっかり居着いたな。挨拶そっちのけで女みてえにべらべら喋りやがって、うるせえんだよ、この癒し系が。扉が開いたら、頭をさげろ。お前が挨拶しなくていい相手は、この部屋(サロン)にいるわけないんだからな」
「すみません……」
 真顔で悪態ともつかぬ悪態をつかれ、ジェレフは呆然としていた。
「まったく、初陣もまだの童貞君は、すみっこで黙って鼠の糞でも食ってろ。偉そうにご高説ぶちやがって、反吐が出らあ。てめえら癒し系の面(つら)を見てるとな、俺様の戦意がみるみる萎えるんだよ。俺から見えないところへ行け」
 一気にそう早口で言い、シャロームはジェレフの頭を遠慮無く揺さぶってから、一発おまけに強か叩いた。
 いかにも痛そうな音がして、ジェレフが悲鳴をあげるのに、イェズラムは自分も頭痛を覚えて、思わず共感するしかめっ面になった。
 治癒者相手にそこまでやれる者は稀だった。
 誰しも自分の命を救うかもしれない者を相手に、不興を買いたくはないものだ。
 呆然としている者たちを後に残して、シャロームはこれでよしという涼しい顔になり、ふらりとイェズラムのほうへやってきた。
 自分の前に座して、深々と頭をさげるシャロームを、イェズラムは呆れた顔のまま見下ろした。行儀は悪いが、礼儀にうるさい男だった。
 一礼を終えて、身を起こしたシャロームの背後で、話し相手に連れ出されていくエル・ジェレフが、納得がいかないという不満の顔をしていた。たぶん、なぜシャロームに殴られたか、来てまだ日の浅いジェレフは事情に疎く、理解できなかったのだろう。
 ジェレフはこちらを見て、その不道徳な乱暴者を、派閥の長(デン)の立場から叱って、非道を正してくれという目をした。イェズラムはそれに、何も答えない目で見返すしかなかった。
 あのエル・ジェレフは、一から十まで言われないと理解できないような、ちんけな頭しかないのか。それともまだ若いからか。優れた治癒者と持て囃されてきて、自分のことしか頭にないのか。
 年長者への敬礼は絶対で、相手がどういう態度だろうが、頭を下げるのがしきたりだった。皆その序列に従って生きている。そういう秩序が失われれば、強大な魔力を持った者どうしが、折り合いを付ける方法はない。他の者なら子供部屋のころに叩き込まれて、骨身にしみているはずだが、治癒者はどこでも難物だった。
「長(デン)、定期報告です」
 声をかけてきたシャロームに頷き、イェズラムは目の前の男に目を向けた。
「できれば別室のほうが」
 よそへ移れと、シャロームが促していた。イェズラムはそれにも頷いてやった。
 シャロームの話は族長のことだ。それも、聞く者が少ない方がいい話だった。
 エル・シャロームは族長の近侍で、気に入られた他の者とともに、いつもリューズと行動をともにしていて、派閥の部屋(サロン)には滅多に顔を出しはしない。
 たまに現れるのは、こうして、経過報告をしにくる用で、イェズラムを訪ねてきた時ぐらいのものだ。
 だから他の者には馴染みの薄い、得体の知れない先輩株(デン)の一人だろうが、派閥の隆盛を支えている一人であることには間違いがない。
 ジェレフも馬鹿でなければ、いずれ理解するだろう。誰のお陰で偉そうな口がきけて、誰のお陰で無傷で回廊を歩けるか。そうすれば自然とシャロームに頭が下がるようになる。
「隣へ」
 空いている会談用の部屋を顎で示すと、なぜかシャロームはにやりとした。
 そして頷き、傷のある男はイェズラムに従って、その場に立ち上がった。

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2008/10/02

無痛のエル・ギリス

※これは「新星の武器庫」からのボツ原稿(抜粋)です。40あたりに入ってたけど削ったやつです。

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 苦痛というのは極めて主観的なものだと、かつてイェズラムは話していた。
 他人がどれくらいの痛みを感じていて、自分のそれよりも強いのか弱いのか、それを知る方法がない。だから仮定として、自分が感じているこの痛みは、他の者なら平気で耐える程度のもので、それが耐え難いのは単に、己の弱さかもしれない。
 実は大したことがないのだと想定してみると、この程度のことには、平然と耐えなければ恥だと思えてくる。そうすれば耐えられる。自尊心の問題だ。
 そんな話をしていたのは、まだ養父(デン)が死ぬずっと前だった。魔法を使わなくても、時折痛むということで、イェズラムはたまに寝込むようになった。養父(デン)が他の者には見せられないというので、ギリスが枕辺で、その世話をするようになった。
 三つ子はうんうん唸り、痛いとうるさく嘆いているが、ギリスの知る限り、イェズラムが痛いという話をすることは稀だった。養父(デン)は三つ子のちっぽけな石と違って、頭部を覆い、眼球を片方奪うような末期的な状況だった。
 だからたぶん、石は三つ子の何倍も痛んだろう。しかし痛がる様子だけを見ていると、どう見ても、三つ子のほうが死にそうだった。さすがにもう泣くような歳ではないにしろ、泣いていいなら泣くがというような有様で、頭を抱えて悶絶している。
 そういう有様を他人に見せることは、竜の涙にとって恥だと考えられていた。だから誰しも、自分なりの方法で苦痛に耐えた。隠れる部屋があれば隠れたし、どうせ鎮痛のための麻薬(アスラ)が効くまでの、わずかな時間のことだ。気位のある年長者(デン)たちは、いかにも平気を装って、やせ我慢するのが常だった。
 王宮では、そう。
 しかし戦場でとなると、そう言うわけにもいかなかった。
 そこでは使う魔力も桁外れになり、なりゆき石も育って、戦闘後に英雄たちを襲う苦痛は、その日の敵よりも難物だった。
 秘密を守る天幕にしけ込んで、魔法戦士たちは皆、もうもうと焚かれた麻薬(アスラ)の煙を吸った。そこはなにか、王宮の日々とは違う、阿鼻叫喚の別世界だった。日頃は名誉を重んじ優雅な宮廷人だった者たちが、そこでは周囲の耳目を憚りもせず、武装を解くのもそこそこに、倒れ込んで悶えた。いつもなら仲間どうしでも、お互いに隠れて耐えるもののはずが、戦地では掌を返すように、皆が一緒に居たがった。
 ギリスも朦朧とした目眩の中、その群れの中に加えられたが、呆然と座り込んでいると、痛いと言って困っていた年長者(デン)が、突然、もう死ぬと言い出した。麻薬(アスラ)が全く効かなくなったといって。
 親しい者が見あたらないので、悪いがお前、介錯してくれと、ギリスはその男に頼まれた。
 しかし何の縁もない、良く知らない相手だったものだから、ギリスは拒んだ。深く考える気力が湧かず、立ち上がりたくもなかったせいだ。
 そうかと男は震える声で言い、お前には分からないだろうなと、恨めしげに言い残した。
 そして持っていた懐剣で、喉を裂いて自決した。
 ギリスはその返り血を浴びながら、それでも立ち上がる気力がなかった。たぶん石のせいで、自分はぼんやりしているのだろうと思えたが、何もかもが、鈍くしか感じられず、痛みに悶える仲間の群れが、ひどく遠くに見えた。
 なぜ今日の戦いを、生きて戦い抜いたのに、英雄として仲間のもとに戻り、そこで自分を殺すのか。確かに、死んだ男が言うように、ギリスにはいくら考えても、その意味が分からなかった。
 血を撒き散らす派手な死は、煙の中にいる他の何人かを誘い、伝染する病のような死を呼んだ。そういう者たちは皆、魅入られたような目をして、怖れもせずに死を選んだ。
 きっと目には見えない死の天使が来て、群れの中から選んだ者を、ついばんでいくのだろうと、ギリスは空想した。死んだ者が必ずしも、それ以外に仕方ないような、末期的な症状の者ではなかったせいだ。
 自分には分からない死者の印のようなものがあり、天使がひとりひとりのそれを確かめ、連れて行く者を選ぶのだろうと、ギリスは思った。
 自分にはそんな印がないといい。明日も戦いたいし、生きて王都に戻らねば。
 そんなことを朦朧と願い、眠気にまかせて眠るうち、やがて回復して、力加減をおぼえ、戦うたびに倒れるようなことはなくなった。
 あの時、なぜわざわざ自分で死ぬ者がいたのか。ギリスにはどうしても不可解で、イェズラムにそれを訊ねた。
 養父(デン)はギリスに、痛いからだと教えた。戦闘後には、石から受ける苦痛があるので、それに耐えられず、死んだ方がらくだと思い詰める者もいるのだと。
 皆が感じる痛みというのが、死よりも恐ろしいものなのかと、ギリスは不思議だった。
 死んでしまえばそれきり、墓所に眠る石と骨だけになってしまうのに、痛みとはそれほど我慢のならないものなのか。
 そんな話を聞いてから、時折伏せるイェズラムが、痛いのでもう死ぬと言い出したらどうしようかと、ギリスはいつも心配していた。
 ギリスが心配顔で枕元に座っていると、イェズラムはいつも、その時に気の向いたことを饒舌に話し続けた。その話は取り留めもないことがほとんどだったが、ギリスはイェズラムが、沈黙しないために話しているのだということを、理解していた。苦痛に耐える養父(デン)が黙っていると不安で、ギリスはいつも、何事か話しかけていたからだ。
 大丈夫だから心配するなと、イェズラムはいつも保証した。死の天使が連れて行く順番は、年齢や、石の大きさとは関係がない。苦痛に耐えられなくなった者から順だ。俺は誰よりも強いので、順番がくるのはまだ先だ。
 それでは自分が死んだ後かと、ギリスは安心して訊いた。養父(デン)はギリスよりも強かったからだ。
 その時は本気のように訊いていたが、今にして思うと、馬鹿なことを訊ねたものだ。そんなことが起きるわけはなかった。イェズラムがそう長くはないことは、誰の目にも明らかだった。
 それでも養父(デン)は笑うだけで、まさかとは言わなかった。ギリスが信じたいように信じさせておいてくれた。
 たぶん本当は悟っていた。そのずっと前から。
 養父(デン)は死ぬ。自分もいずれ死ぬ。いくら強くても、永遠に生きる者はいない。何かのせいで死なねばならない。それでも、もしも強ければ、自分が何によって殺されるのかを、選ぶ権利が手に入る。
 苦痛に追いつめられて死ぬのか。あるいは、英雄譚(ダージ)に送られて死ぬかだ。
 俺には苦痛が分からないので、死ぬ時は必ず、英雄として死ぬ。そういう、恵まれた運命だ。ギリスは時としてそう思ったが、それなのに、苦痛に悶える仲間といると、自分だけが異物に思えた。頭の中の異物である石が、その宿主を苦しめるかのように、魔法戦士たちの中で、ギリスはその無痛によって、周囲を苦しめる異物だった。

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ここまでです。なんとなく暗すぎたのでボツ。
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