もえもえ図鑑

2008/07/31

銀の泉と紫の蛇

 いつも廊下でチクリと文句を言う、あいつに恥をかかせてやろうと、リューズは今日こそは必殺の作戦を携えてきた。
 見てろよ、イェズラム。今日こそぎゃふんと言わせてやるぞ。
 広間を出たあたりに、やっぱりやつはいた。偉そうに取り巻きをいっぱい連れて、ここまで来ておきながら俺の朝儀を無視したぞ。いつ見ても、てきとうに着てきましたみたいな普段着で、力一杯の反逆ポーズだ。その一点をとっても、いつもアホみたいに着飾らされている俺を虚仮にしている。そんなような気がする。それは被害妄想か。
「元気そうだな、エル・イェズラム。エレンディラから面白い話を聞いたぞ」
 昨日の晩餐のときに、女長老が雑談しにきたので、そのとき仕入れた話だぞ。
 イェズラムは一瞬、その隻眼を警戒するように細めたが、素知らぬ顔で煙管を吸っている。やつの取り巻きだけが、エレンディラの名を聞いて、なにごとかという顔をした。
「お前、ロリコンだそうだな」
 言ってやると、イェズラムは妙な顔をした。やつの取り巻きが凍った。
「エレンディラが、お前が好んで問題児の面倒を見るのは、ロリコンだからだと言っていた。十二歳まで限定だという話は本当なのか。たいした変態さんだな」
 力一杯笑いたいのをこらえて訊くと、イェズラムはぷかりと煙を吐き出した。
 ざまあみろ。まさか図星か。恥ずかしいだろ、この野郎。
 いかにもそういう顔をしないように、リューズは微笑を浮かべて、答えを待った。
「ああ、そうだ。エル・エレンディラの言うとおりだ。お前が餓鬼のときの姿絵も持っているぞ。何に使っているか想像して怖くなれ」
 イェズラムは余裕の笑みでそう言った。
 想像したら怖かった。
 よっぽど面白かったのか、やつの取り巻きが爆笑した。
 リューズは、しょうがないので逃げることにした。だって忙しいし、侍従が急かすし。負けたわけじゃあないからな。おぼえてろ!


「イェズラムは本当に族長の姿絵なんか持ってんの?」
 派閥の部屋(サロン)でくつろいでいると、興味ありげにギリスが訊ねてきたので、なんのことかとイェズラムは思った。
 ああ、そういえば、昼間リューズがむかつくことを言ってきたので、そんな話をしてやった。
「持っている。乳母の形見だ」
「乳母のかあ」
 ずいぶん、がっかりした顔でギリスが答えた。なにを期待してたんだ。
「リューズが五つかそこらの時に、一事件あって死んだのだ。遺品のなかにあったので、故人を偲んでとっておいた。あの人は本当にリューズを可愛がっていたからなあ」
「そんな愛のある話は族長にもしてやったらいいんじゃないの」
 ギリスは寝ころんで葡萄を食いながら、なにか読んでいる。つくづく行儀の悪いやつだ。葡萄の汁が本につくだろ。しかし小言を言い出すと、きりのない相手だった。
「俺はいやだよ。機会があったらお前がしてやれ。俺が死んだ後にだぞ。それまではずっと、自分の幼髪絵がなにに使われているか、怖い想像をさせておけ」
「イェズは陰険だなあ」
 天真爛漫な笑みを満面に浮かべて、ギリスは誉めた。こいつ、いつもズレてて面白い。
「お前も頑張って陰険になれよ。そうじゃないと王族の天然に勝てないぞ」
 激励すると、ギリスは忠実そのものの顔で、こくりと頷いた。これで次代もやっていけるだろう。皆が皆、うっとり顔で、誰もリューズをからかわないのでは、宮廷もつまらない。あいつは吠え面かかせてナンボのやつだ。
「族長はほんとうに天然だよなあ」
 ギリスがしみじみと、そう言った。そういうことを理解できるのが、ギリスの見所だ。
「あいつはほんとうに天然だなあ」
 イェズラムはしみじみと、そう答えた。
 そして、エレンディラへの報復攻撃には、誰を特攻させようかと考えた。俺を舐めるなエレンディラ。よりによって、リューズをけしかけるとは。
 目にもの見せてやるからな。
 悔しがる女を想像して、紫の蛇はにやりと笑った。


 玉座の間(ダロワージ)に人だかりがあり、皆が新しい詩を聞いていた。
 なんとも哀切な恋の詩だった。
 なかなかいいなと思いつつ通り過ぎ、リューズは部屋に戻ろうとして、珍しくイェズラムが一人で回廊にいるのに気付いた。
 磁器の丸椅子に足を組んで腰かけ、詩人が詠うのを聴いているらしかった。
「どうした、お前が芸術鑑賞か」
 らしくないなと思って訊くと、イェズラムはにやにやしていた。
「いい詩だろう」
「お前が一枚噛んでいるのか?」
 それっぽい雰囲気のする口ぶりだったので、リューズは思わず訊ねた。
「昔の女の恋文が出てきたので、詩人にくれてやったのだ」
 げっと思って、リューズは詩を聞いている人々のほうを振り返った。
「昔の宮廷では、翌朝に文をやる風習があっただろう。俺が忙しくて忘れたのを、いまだに恨んでいるようだ」
「それが誰か聞きたくないのだが、それでいいか」
 リューズが問うと、イェズラムは持っていた煙管から、ゆっくりと一息吸った。
「そのほうがいいな。こういうのは、誰も知らないのに本人だけが知っているというのが、いちばん悔しいわけだ」
 はあ、とため息のように、イェズラムは薄く煙を吐いた。
 長老イェズラムには、宮廷に七人の敵がいるらしい。
 リューズは苦笑して、晩餐のために着替えに行った。
 その夜、エル・エレンディラは晩餐の広間(ダロワージ)に現れなかった。

《おしまい》
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新星の金庫番(1)

 レイラス殿下ご一行様は無事グラナダに辿り着いた。
「あー疲れた。暑っいなぁ、クーラーもないのか、ここ。砂だらけじゃん。風呂入って寝たいけど、その前に謁見か、めんどうくさいなあもう、飲み物くらいサッと出てこないもんかなあ、これだから田舎はいやだ」
 いきなり不満しか出てこないスィグルを本当にすごいとギリスは思う。金の麦が歌う楽園だったのはどこの街だ。来る途中で道を間違えて、グラネダとか、グリナダとかに着いたのか?
 宮殿の広間はちっこい玉座の間(ダロワージ)のようで、奥の一段高くなった舞台のような場所に、これまた本物の玉座より二回りほど小さい、石造りの玉座っぽいものが作られていた。
「石の椅子って腰冷えそうじゃない?」
「その石の椅子にお前のオヤジは半日にこにこ座ってるんだから、お前もやる気あるんだったら、それくらい我慢すれば?」
「冷え症だと族長にはなれないな」
 スィグルは渋々だが、見た目はにこやかにプチ玉座に座る。
 広間には先遣隊としてすでにグラナダに到着していた少数の臣下が平伏していた。タンジールの数知れない廷臣が居並ぶ広間とちがって、いかにも疎らだが、まあそれは仕方がない。
 名前を呼ばれて、一人の若い男が恭しく跪拝叩頭した。
「ご拝謁の栄に浴し恐悦です、レイラス殿下。私は殿下の金庫番です。グラナダの財政を任されています」
「役目ご苦労。名前はなんだっけ?」
「実は未定です。もともとはギリスでした。つまり私は官僚バージョンの氷の蛇だったころのギリスの残り物です。新しい名をお与え下さい」
 びっくりしてギリスは彼を見た。出だしが一緒という割に、似ても似つかない相手だったからだ。いかにも気むずかしそうで、いかにもキレ者そうだった。
 スィグルも驚いたふうに目をぱちぱちさせ、残り物ギリスを見下ろしている。
「名前はなにか作者に考えさせておこう。それはそうと、お前は具体的にはどんな仕事をしているんだい」
「はい、いきなりですがグラナダの財政には無駄が多いです。もともと資源に恵まれた土地柄ですので、どんぶり勘定でも財政が立ちゆきますが、どうせならきちんと運営して、がっぽり稼ぐことをご提案いたします」
「なんて美しい響きだ」
 うっとりとスィグルは残り物を見つめている。育ちがいいくせに、スィグルは金目のものに目のないやつだ。官僚タイプのほうがスィグルにはもてたんじゃないかと、ギリスはやや不吉な思いがした。
「殿下のご入城を待たずご無礼とは存じますが、離宮ご建設にあたり、かなりの資金が必要となりますので、貯金から使うのも癪ですから、公債を発行しておきました」
「公債」
 スィグルが確かめると、残り物は深々と頷いた。
「レイラス殿下ご着任記念債です。グラナダで開発されたばかりの印刷技術を駆使し、債券には殿下のご尊顔を配しました」
「えっ、お前そんな勝手なことを」
 見本を手渡されて、スィグルは愕然としている。
 両手の掌を合わせた程度の大きさの、しっかりとした紙切れに、黒と赤の二色刷りで、スィグルの絵姿が印刷されていた。
 まあまあ似ていた。そっくりという感じではないが、本物より毒がなく可愛げがある。ギリスは感心してそれをのぞき込んだ。この小宮廷には腕の良い絵師がいるらしい。
「めちゃめちゃ売れました」
 残り物は表情ひとつ変えずに断言した。
「グラナダ市内だけでなく、ほかの都市にも、部族領の外ですら流通しているようです。この商売は見込みがあります、レイラス殿下。お客様アンケートによると、絵がネコミミなら十倍払ってもいいとのことです。是非ともご許可を」
「お前には恥はないのか」
 呼吸困難に喘ぎながら、スィグルは力なく金庫番をなじった。
「ございません。金の前では」
 ギリスは昔は自分の一部だったという鉄面皮の男をじっと見つめた。
 グッジョブ、残り物。さすが、もと俺。
 きっと天才だから、財政的にはこの男に一生ついていけばいいとギリスは思った。

《つづきます》 → 次へ
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2008/07/30

今日の一言

「レイラス、君は本当に役に立つ機関車だな」

機関車トーマスを見るたびに思う。
トップハムハット卿とシュレーは同じカテゴリのキャラ。
なんかね、ほめ方がいやらしい。

そんな目で児童向け作品を観るな。
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2008/07/29

ジェレフちゃんと詩人くん

読む前に番外編「深淵」と「パスハの南・帰郷編」を読むとよいですよ。

・ ・ ・ ・ ・

「この戯曲を書いたのは誰だ」
 広げたままの巻物が折れ曲がるのも構わず、ジェレフは詩人達の詩作部屋の戸を押し開いて怒鳴った。
 中にいた数人の詩人たちは、文机にかじりついて何かを書いている様子だったが、やってきたジェレフを見上げて、驚いた顔で静止していた。
「ああ」
 結い上げた髪からほつれ毛が洩れている、だらしない風体のくたびれた詩人が、ふと納得したように、そんな声をあげた。
「僕です」
 長衣(ジュラバ)の開いた襟元から首を掻きながら、彼は答えた。
 それがいつも自分の英雄譚(ダージ)を任せている詩人だったので、ジェレフは愕然とした。
「お前?」
「エル・サフナールと、あなたの恋愛譚でしょ」
「恋愛?」
 こういうのも恋愛のうちに入るのか?
 そう訊ねたつもりだったが、詩人は真顔でこくりと頷いた。
「いやあ、良かったですよ。皆に猛烈にうけましたから。近来まれに見る自信作です」
「撤回しろ、こんなものは事実無根だ」
 部屋に押し入って、ジェレフは敷物に胡座をかいて座っている詩人の膝に、巻物を叩きつけた。
「事実かどうかなんて、問題にならないです。大切なのは、いかに出来事の真髄をとらえているかです。愛が描けていれば、それでいいんです」
「愛?」
 ほとんど叫ぶようにジェレフは聞き返していた。
「これが愛? ただ破廉恥なだけだ!」
「だからいいんです。僕が思うに、本物の愛は究極の欲望のなかにこそ宿るもので」
「ただの品性下劣なエロ戯曲だ!」
 しかも勝手にひとの名前を使いやがって。
 サウザスの領事館からサフナールが送った文書は、それほど詳しい話ではなかったはずだ。少なくとも戯曲一作分もあったと思えない。鷹が持って飛べる文章量であるはずだし、それを書く時間もさほどなかったはずだ。
 この詩人が、一を十にして、あることないこと書きやがったのだ。
 それが本当に事実無根なのかは、確かに記憶がないので何とも言えないが、自分がこんなことするわけがないという信念で、ジェレフは断言していた。
 信念。いや、願望というか。一縷の望みだ。
「エル・ジェレフ」
 投げつけられた彼の名作を、詩人はくるくると巻き戻して、丁寧に絹の紐を巻きなおした。
「あなたのダージは、部族の戦史だけでなく、エロ戯曲の歴史にも残るかもしれませんね」
 そう結んで、詩人は、はいどうぞ、と巻物を差しだした。
 それは。
 それは大変な屈辱だった。
 ジェレフはなぜか巻物を受け取ってしまった。
「何とか、ならないのか……」
 ほとんど縋り付く目で、ジェレフは訊ねた。詩人はにっこりと微笑んだ。
「無理ですね。玉座の間(ダロワージ)での演奏回数、乞われてすでに三桁ですから」
 俺が留守の間に、なんの断りもなくか。そんなことは訊くだけ虚しかった。
「みんな、なんだかんだでエロ好きですねえ。まったく、けしからん世の中です」
 結い上げた髪の隙間を指先で掻きながら、詩人は笑い、また文机に向き直った。詩作に戻っていく詩人はとても幸せそうだった。
 どこかで詩人たちの奏でる琴の音が響いているのを、ジェレフは朦朧とした頭で聴いた。
 お定まりの結びを、誰かが詠っていた。
 英雄達の戦いは、なおも続く。新たなる物語は別の巻にて、息を呑み耳をそばだてて聴くダロワージの静寂に、いやなお晴れがましく響き渡るであろう。
 まさしく一巻の終わりだった。

《おしまい》
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2008/07/28

パスハの南・もくじ

エル・ジェレフと愉快な仲間達の海都サウザス旅行のおはなし。
笑いあり涙あり。というか、基本あほあほ、時々シリアス。
微エロにつきPG12くらいです。

(1) (2) (3) (4) (5)

(6) (7) (8) (9) (10)

(11) (12) (13) (14) (15)

(16) (17) 《完結済み》

帰郷編(1) (2) (3)前 (3)後 (4) 《完結済み》

さらに、おまけ。
ジェレフちゃんと詩人くん

●関連作品
紫煙蝶」本編39章読了推奨(※本編完結後が舞台です)
氷結」(女性向け)
事前にこちらを読んでいないと意味のわからない部分があります。
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パスハの南・帰郷編(4)

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・ ・ ・ ・ ・

「ジェレフ」
 派閥の執務室で文机につっぷしているエル・ジェレフの背中に、ギリスは呼びかけた。相手はぴくりとも応えなかった。
「ジェレフ、寝てんの」
「いいや、死んでるだけだ……」
「そうなんだ」
 朝儀に提出する巻物を、ジェレフは書き上げたところのようだった。公式文書にするための立派な巻紙に、長々としたためた文書が貼り付けてある。
 ギリスは文章を書くのが嫌いなので、その気持ちが理解できなかったが、ジェレフは書記に書かせるのではなく、いつも自分の手で提出書類を書いていた。
 帰り着いたその足で、たぶんひどく眠いのに、部屋で休みもせずに、よくやるとギリスは感心した。よっぽど仕事が好きなのか。
「なあジェレフ」
 もう一度呼びかけたが、屍は応えなかった。
「なあジェレフ。スィグルの舌って治んないの。お前が治したんだろ」
「治らなかったな」
「ヤブ術医だな」
 肩にある傷痕だって、治っていなかった。こいつはちゃんと仕事したんだろうかと、ギリスはジェレフを見つめた。
 おかしい。大抵なんでも治せるやつなのに。従軍したときには、同じ隊にジェレフがいたら、多少の無茶をしても奴が何とかするだろうと思って、ギリスはいろんな無茶をしたものだった。期待に違わず、ジェレフはどんな致命傷でも治癒させたし、あの口の上手い族長が、当代の奇蹟と讃える技は、伊達ではないと思う。
 ジェレフはそれを自慢にしているはずだ。
 もしかすると、宮廷詩人たちの作る英雄譚(ダージ)よりも、あの一言のほうを。
「無理なこともあるんだよ、ギリス。何事も程々にできないジェレフちゃんだから……」
「…………」
 突っ伏したまま答える屍を、ギリスはじっと見つめた。
「ジェレフ。元気出せ。エロ戯曲の変態主人公にされるくらい何でもないだろ」
 励ましたが、なんだか返って空気が重くなった。
「元通りにする方法ないのか」
「なにを。俺の地に落ちた自尊心をか」
「なに言ってんの。そんなのどうでもいいだろ。スィグルの舌だよ」
 訊ねられて、ジェレフは深いため息をついている。解いたままの髪が、ぐしゃぐしゃになって、顔と文机に垂れかかっていた。
 まさか泣いてんのかお前。ギリスはそう危ぶんだが、だからといって何かしようとは思いつかなかった。
「治ると思うよ、そのうち……」
 掠れた声で、ジェレフがその死霊のごとき口調に似合わず希望のあることを言った。
「まだまだ、休養と安息が必要なんだよ。自分を許せるようになるまでに」
「でも天使が赦したんだろ。もういいじゃん」
 額ずいて懺悔すれば、天使はどんな罪でも赦してくれる。そのためにいるんだろ、神殿の天使は。
「人を癒やすには、赦しじゃなくて、愛が必要なんだよ。それが治癒術の根本なんだよ」
 あんまり息も絶え絶えにそう言うので、それがジェレフの遺言かとギリスは思った。
「じゃあもし俺にジェレフみたいな治癒の素養があったら、治してやれたかもしれないのに。愛ならいっぱいあるよ。俺にも治癒術教えてよ」
「そんな魔法は、なくてもな……」
 むくりと顔を起こして、ジェレフは気力を振り絞ったのか、書き上げた書類を、気怠げな手つきで、くるくると巻始めた。
「あとは誰でも治せるよ。お前でも。一番危ないところは、もう遠に通り過ぎてる」
 頭痛でもするのか、ジェレフは天を振り仰ぐような姿勢で目元をおさえ、文机に放り出してあった銀色の煙管に手をのばした。盆から火を入れてジェレフが吹かした煙の匂いを嗅いで、ギリスは鼻をひくつかせた。
 ジェレフ、もう蝶々と戯れてんの。
 紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)の匂いだった。この煙を漂わせはじめた兄(デン)たちは、いつのまにかいなくなる。
「なあジェレフ、痛くない時には吸うなよ。なんかに酔いたいなら恋でもしたら?」
「誰と」
「サフナでもいいじゃん。お前ちょっとはサフナのこと好きだっただろ」
「そうだったかもしれないが、お前が割って入ってきて邪魔したんだろ」
 忠告が効いたのか、気が萎えたのか、ジェレフは何となく腹立たしそうに、煙管を盆に打ち付けて薬を捨てた。吸うと幻の蝶が舞うという、涼やかな甘い煙が、細く辺りを漂った。
「でも俺が邪魔してなかったら、半月か十日早く、紫の蛇の毒牙から何たら会の毒牙にかけられてただけじゃん」
 そうだなと情けなそうに言って、ジェレフは頷いた。
「派閥抗争なんて性に合わないんだよ。俺はまた巡察の旅に行くから」
 煙管を帯にしまって、巻物を懐に入れ、ジェレフは立ち上がった。そして何のつもりか、通りすがり様、ギリスの頭を撫でるように、ぽんと軽く叩いた。
「がんばれよ、ヴァン・ギリス」
「どこ行くの、ジェレフ」
「書類を提出してから、自分の部屋で寝るよ」
 そうじゃなくて、どこへ行く旅なんだよ。
 誰と行くんだ。ひとりで行くのか。何しに行くんだ。いつ帰ってくるんだ。どうして皆、ろくにさよならも言わずに出て行っちゃうの。
 そういうことが頭をよぎったが、どれから訊いたものか決められず、結局黙っていた。
 イェズラムが出ていく時も、そういえば、自分は部屋で腰を抜かして、ぽかんと眺めているだけだったなあと、ギリスは思い出していた。
 どうして、付いていかなかったんだろう。行こうと思えば行けたはず。一緒に付いて行ってれば、イェズラムは生きて戻れたかもしれないのに。
 その事に気付いたのは、なんとつい最近のことだった。
 だいたい俺はいつも、二十歩くらい遅いよなあと、ギリスは思った。
 そんなだから、誰にも愛してもらえないんだろう。
「ジェレフ」
 ふと思いつき、世話んなったなと、ギリスは礼を言おうとしたが、足早に去っていった治癒者の姿は、もう見えなかった。
 追うか、どうしようか、と困りながら、ギリスはちっとも決められず、部屋に残された紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)の甘い香りを、いつまでも、いつまでも嗅いでいた。

《完》
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パスハの南・帰郷編(3)後編

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・ ・ ・ ・ ・ 

「お前、ほんとに痛覚がないんだな、ギリス」
「血が美味いのか」
 鉄臭いその味を知っていたので、ギリスは平気で舐めているスィグルが不思議だった。
「僕には味覚がないんだ。お前が痛くないのといっしょで」
 知らなかったのかという顔で、スィグルは意外そうに言った。ギリスは驚いた。晩餐の時に王族に供される、あの贅を尽くした食事を、スィグルはいつも不味そうに食っていたが、ただ舌が奢っているだけかと思った。
「そんな妙なことがあるのか?」
「お前に言われたくないよ」
 心底びっくりしたという声で、スィグルが毒づいた。
「だって俺、土産に食い物買って来ちゃったよ」
「他のやつにやればいいよ」
 それが妥当だという口調で、スィグルは言った。
 タンジールに居残った派閥の連中や、幼い者たちにくれてやるような土産は、ジェレフが抜かりなく用意しているはずだった。
「他には俺の帰りを待ってるやつなんていないよ。イェズは死んだし……」
 旅先で聞かされた遺言の話を思い出して、ギリスは軽い目眩を感じた。
 そうかと呟いて、スィグルは何となく上の空のような動作で、うなだれているギリスの頭を抱いた。そこから与えられる温もりは、ギリスを深く安堵させた。帰ってきたと、唐突に思えた。
「じゃあ、僕が食うよ」
「味もわかんないのに?」
「どうせいつもそうだよ」
「わかんないんじゃなくて、そう思いこんでるだけじゃないのか?」
 痛みを感じないことには都合の良さがあるが、味が分からないことには不都合ばかりの気がする。同じ膳から分け合っている時に、同じ美味を味わっていると信じていたのに、そうではなかったことが、許し難い。
「それはお前も似たようなもんなんじゃないのか、ギリス」
「いや、俺は本当に痛くないよ。痛かったら薬無しじゃ我慢できないって。お前この石が育つとき、どんだけ痛いもんか知らないんだろ。みんな悶絶してんだから」
 自分にとっては普通のことを、なにげなく言って、ギリスは後悔した。スィグルが顔をしかめたからだった。
 竜の涙が感じる苦痛のことは、英雄達の恥部として隠されている。陰では苦しむが、王宮の回廊をそぞろ歩く時には、誰も皆、涼しい顔を作るものだった。それが無理な時には部屋にこもって出てこない。
 だから、従軍したことのないスィグルのような王族が知っているのは、広間(ダロワージ)にたむろする着飾った英雄達の姿と、英雄譚(ダージ)が伝える物語じみた勇姿だけだ。
「ごめん。でも、俺はほんとに痛くないから」
「それは幸運だったね。でもお前が僕の半分でも、つらいと思ってりゃいいのに」
「つらいって何が」
「時計が時報を打つことさ」
 困ったように、スィグルが答えた。
「今回は不覚にも、思い知ったよ。自分がいかに弱いか。お前にはすっかり、たらし込まれたよ。どうやってやったんだ……」
 自分が噛んだ、ギリスの首の傷を掴んで、スィグルは治癒の魔法を使った。熱いような魔力の流れを感じて、ギリスはスィグルのその手に自分の掌を重ねた。
「どうって……愛しただけだよ」
 答えると、なぜかスィグルが吹き出して、爆笑しはじめた。よっぽど可笑しいのか、スィグルはギリスに縋ったまま、身を揉んで笑い続けた。
 イェズラムみたいだと、ギリスは思った。
 人がなぜ笑うのか、ギリスには分からないことが多かった。声をあげて笑った事なんて、自分には記憶がない。
 スィグルがなぜ笑っているのか、ギリスには分からなかったが、それでも、彼が笑う声を聞いていると、自分の中でしばらく放置されていた空洞が、温かく満たされるような気がした。
「もっと笑って」
 笑いに震えている背中を抱いて、ギリスは頼んでみた。しかしスィグルはそれを聞いて、ゆっくりと笑い止んだ。まだどこかに笑い声の残滓のある静寂の中で、ギリスは少し早いようなスィグルの呼気を聞いていた。
「俺のこと好きかって、もういっぺん聞いてみて。答えてやるから」
 睦言のように囁きかけられた言葉を、ギリスは胸の内で反芻した。訊ねなくても、答えを知っているような気がする。新星は実際こうして自分の腕に抱かれているだろう。どこへも逃げなかっただろう。
 なのになぜ、訊ねないと不安になるのだろう。
「スィグル、俺のこと好きか」
「好きだよ」
 耳でなく、心臓に聞かせる声で、スィグルは抱かれたままギリスの胸に唇を押し当てて答えた。望み通りのその返事は、なぜかギリスの心臓を締め上げた。胸苦しさで、息がつまる。
「俺、我慢した。お前の勘定によれば二千六百十二時間も。誉めて」
「誉めるようなことなのか……」
 どこか苦笑する声で、スィグルが答えた。
「一日に一回で計算しても、百九回もたまってる」
「百八回だろ、今日はまだ終わっていないから」
 スィグルの返事を聞いて、なんの話か、分かっているんだとギリスは思った。廊下の先には、あの棕櫚の庭園に続く、赤い扉が見えていた。
「一日に十回ずつとしても、十日以上かかるから、相当頑張らないと」
「そんなの無理だろ馬鹿。現実的に考えろ」
 腕の中から、鋭く冷たい声で非難されて、ギリスは呻いた。
「緒戦ではかなり奮闘できると思う、なにしろ、二千六百十二時間は気の遠くなるような長さだったし、いろんな誘惑が旅にはつきものだったし。まず出足の戦績を見てから、計画を練り直すということで、頑張ってみるのでどうかな、この際、一致協力して」
「まあそんなところだろうね……」
 説得を受け入れて、スィグルは目を伏せ、懐いた猫のようにギリスの胸に頬を擦りつけてきた。渦巻く真珠が胸元を飾っていた。
 この首飾りはきっと、部族の衣装には似合わないわよと、買い求めた店で、エル・サフナールが忠告してくれた。でも大丈夫よ、ギリス。首飾りのほかに、なんにも着なければいいんだから。
 その話をする彼女の清純そうな微笑を見て、ギリスは絶対にサフナールには逆らわないようにしようと思った。そんなすごいことを思いつくなんて、きっとサフナは天才だから。
 どんな猫につける首輪なのと、サフナは笑って訊いていた。
 性悪なんだよと答えたが、これでしばらく捕まえておけるかな。時がくれば天空に駆け上るという新星を、生涯捕らえておけるだろうか。
「あと何回だっけ」
 顔を上げさせて、ギリスはスィグルに口付けをした。
「今ので、あと二千六百八回だよ」
「そうだっけ。俺忘れちゃうから、お前が数えて」
「いいよ。いいけど、だったら僕が寝ている時にはしないで」
 ああそうかと、ギリスは応えた。スィグルは弱くて、ときどき朦朧とする時がある。
「それは無理だから、数はだいたいでいいや。少なめに、見積もっといて」
 ギリスが提案すると、スィグルは頷いた。
 いつもの庭園まで、あと少しだったが、どうやって歩こうかとギリスは困った。
 スィグルはきつく抱きついていて、歩くためには抱擁を解かないといけなかった。だけど今の自分たちにとって、それはとても難しく思えた。なにせ二千六百十二時間は気の遠くなるような長さだったし、その旅の間じゅう恋焦がれていた麗しの故郷に、ギリスは今やっと戻ってきたばかりだったからだ。

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パスハの南・帰郷編(3)前編

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・ ・ ・ ・ ・

 朝儀は終わりそうで終わらなかった。
 大人の話はきりがない。特に石のない連中は、いつまでもだらだらと長話ばかりだ。時間の惜しさが分からないからだろう。
 食い下がる田舎貴族をやっつけた族長が、玉座を立って退出していくのを、ギリスはほっとして見送った。昔はもっと朝儀は長引いたという話だから、きっと皆、退屈で辛かっただろう。
 族長リューズはせっかちなのがいいところで、叩頭礼も略式にしたし、無駄な口上は省かせ、余計な話はさせず、朝儀の最中でも人が広間を出入りすることを許していた。自分の話の邪魔にならなければ、廷臣どうしの私語ですら許した。
 先代のころまでは、果てしない朝儀が終わるまで、皆が皆、黙りこくって広間(ダロワージ)に平伏していなければならなかったのだというから、想像するだに足の痺れる話だ。
 帰ってきたのに気付かないはずはないのだから、さっさと退出してきてくれればいいのにと、ギリスは王族の席にいるスィグルを柱の陰から恨めしく眺めた。スィグルが途中で席を立ったところで、族長はまったく気にしなかっただろう。
 焦れたギリスとしては、席まで迎えに行きたいところだったが、スィグルはそれを許してくれないだろう。広間(ダロワージ)で隣にいてもいいのは晩餐の時だけだ。近づこうとすると逃げられ、話しかけようとしても無視された。
 三々五々散っていく王族たちの煌びやかな姿を遠目に見ながら、ギリスはおとなしく待った。
 礼服の懐には、とりあえず持ってきた真珠の首飾りが隠してあった。旅先で、エル・サフナールの買い物につきあって宝石商に行った時、その店でいちばんの品だというそれを、ギリスはとても気に入って、サフナに譲ってもらったのだ。
 どことなく暗さを帯びた純白の粒を、何連も連ねたもので、本来は海辺の部族の女が、大きく胸のあいた夜会服の首もとを飾るためのもののようだが、あの白い首にも似合うと思った。
 しかし肝心のスィグルは、こちらを見もせずに、つんと澄まして広間(ダロワージ)を横切っていき、さっさと大扉を出ていこうとしていた。
 やや遅れて、ギリスは仕方なく後をついていった。
 なんとも惨めだったが、どうせいつものことだった。向こうは気付いていないわけではなく、ちゃんと知っている。追ってきているのを。
 複雑に入り組んだ道を、スィグルは延々と行った。部屋に帰るわけではないようだった。それは向こうがギリスの追跡に気付いている証拠でもあった。スィグルは自分の部屋にも決してギリスを近づけさせない。試しに何度か訪ねてみたことがあるが、その度に、戸口に現れた女官が、帰れと冷たく言った。
 なんだか切なくなって、ギリスは立ち止まり、追うのをやめた。
 それから数歩行ったところで、スィグルも立ち止まった。ふりかえって、こちらを斜に見るスィグルの顔を、ギリスは遠くから見つめた。
「せっかく帰ってきたのに、お前は俺のことは全然待ってなかったみたいだな。俺がいない間、なにしてたんだよ」
 問いかけると、スィグルはしばらく、物言いたげに黙っていた。
 やっぱり行かなきゃよかったよと、ギリスは内心に独語した。せっかく捕まえたと思った新星は、もう手をすり抜けていったんじゃないか。
 やっぱりあの、海辺の街で見た黒猫にそっくりだと、ギリスは思った。冷たくて、どこか馬鹿にしたように俺を見て、追いかけても逃げていく。
「お前がタンジールを出てから、広間(ダロワージ)の時計は二千六百十二回の時報を打った。その間、僕がなにをしていたか、教えてやろうか」
 金色の眼でこちらを見つめて、スィグルは淡々とそう言った。
「毎日、鷹通信(タヒル)を待っていた。お前が送ってくるはずの」
 スィグルが口にした、想像もしていなかったその答えに、ギリスは唇を開いた。しかし言葉は出てこなかった。
「お前こそ客地で何をしていたんだい。たったの一行も、なにか知らせようとは思わなかったの?」
 あんぐりとして、ギリスはなにか答えなければと、ほとんど呻くような声をあげた。
「でも……鷹通信(タヒル)を私用に使っちゃいけないんだぞ」
「それは建前だ」
 静かな声で、スィグルはギリスの答えを叩き返してきた。なんだか横面を殴られたような気が、ギリスはした。
 確かにスィグルは正しかった。
 戦場で用いられる鷹通信(タヒル)は貴重な連絡網で、族長の許可がなければ個人的な目的で使用することは許されなかった。いざという時に使う鷹が、くだらない用件で飛び立った後では、戦に差し支えるからだ。
 しかしサウザスにある領事館から送ろうと思えば、それは簡単にできた。ジェレフは時々、定期連絡を送っていたし、サフナだって、くだらない用事で送った。鷹たちは日々、行ったり戻ったりしていた。
 しかし、タンジールの外に知り合いのいないギリスは、普段、私用で鷹通信(タヒル)を送ったことなど一度もなかった。だから思いつきもしなかったのだ。自分も送れるということを。
「お前は、本当に、冷たい馬鹿だよ、ギリス」
 一言一言を投げつけるように、スィグルはそう言った。
 ギリスは胸が苦しくなって、今すぐ内蔵をぜんぶ吐くのではないかと思った。
「いない間に、お前の英雄譚(ダージ)を調べたよ」
 やっとこちらに向き直って、スィグルは言った。なにかを突きつけられているような気がした。
「ヤンファールでの褒美に、お前は父上に鷹通信(タヒル)をねだったらしいじゃないか。そういうものがあるってことは、いくらお前でも、知っていたってことだろう」
 スィグルが問いかける口調だったので、ギリスは頷いてみせた。王都に居残ったイェズラムに戦功を知らせるために、鷹を飛ばしたことがある。
 するとスィグルは、張りつめた苛立ちを含んだため息を、ゆっくりと吐いた。
「それじゃあ、旅があんまり楽しくて、タンジールでお前を待っている者がいることは、いっぺんも思い出さなかったってことだね」
 いじめないでよと、ギリスは思った。
 あんなに素っ気なく送り出しておいて、そんなの狡くはないか。鷹通信(タヒル)を送れなんて、一回でも頼んできたか。いい機会だから、旅して修行を積んでこいって、それしか言わなかったじゃないか。
 鷹ならタンジールにもいっぱいいただろ。お前だって、なんにも送ってこなかったろ。こっちがどこにいて、何をしてるかは、ジェレフの報告で知ってたくせに。
 どうして、何もせずにただ待ってたんだよ。
「思い出すって。俺はいつもお前のことを考えてたよ。毎日会いたかったんだよ」
 文句を言ってやろうと思ったのに、口を突いたのは別の話だった。ギリスはうなだれた。
 帰ってきたら、スィグルはにこにこして、すぐ会ってくれると思っていた。まさか喧嘩を売られるなんて、想像もしてなかった。まだ、お帰りとも言ってくれてない。
 懐にやった手に、真珠が触れて、ギリスはそのことを思い出した。うなだれたまま、懐からそれを引っ張り出し、ギリスは目の高さで首飾りを垂らしてみせた。
「これお土産。お前に似合いそうと思って。機嫌がなおったら、着けて見せて」
 そう言ったものの、どうやって渡そうかとギリスは困った。
 店の者は、真珠は傷つきやすいから、手荒に扱うなと何度も言っていた。投げ渡すわけにもいかない。かといって、こちらから渡しに行こうにも、なんとなく近寄りがたかった。
 沈黙がさすがにつらくなる頃、不意にスィグルが一歩踏み出した。それにギリスが目をあげると、スィグルは不機嫌そうな無表情のまま、通路を戻って近寄ってきた。
 すぐ目の前にある、純白の真珠の光沢を、スィグルの目がじっと眺めるのを、ギリスは盗み見た。
 お前もサフナといっしょで、物につられたの。
 そう思って眺める前で、スィグルは物珍しそうに、いくつも連なっている真珠の玉に、指を触れさせた。そうした姿を透かし見ると、やはり似合いそうな気がするのだった。
「走って帰ってきたにしては、ずいぶん遅かったね」
 受け取る気配のないまま、スィグルはなんとなく消沈した声になった。
「行きも帰りも嵐にあっちゃって、途中の港で何日も停泊だったんだよ」
「そんなの言い訳だろ」
 そうだろうかとギリスは思った。でもそうやって、スィグルに間近で見つめられて静かに断言されると、そうかもしれないという気がするから不思議だった。
「二千六百十二回もあるよ、ギリス。一時間に十回ずつとしても、不眠不休で十日以上かかるよ」
 そう教えるスィグルの声は、言い終える頃にはほとんど消え入るような小声だった。
 しばらく呆然としてから、ギリスにはやっと、スィグルが何をしてほしいのか分かった。
 華やかな礼服で飾られたスィグルの胸元に、真珠の首飾りを巻くため、ギリスは彼の首に腕を回した。それを許すために顎をあげたスィグルに、ギリスは口付けをした。その温もりに気をとられ、首飾りの留め金はなかなか掛からなかった。
「あと何回……」
「二千六百十一回だよ」
 わかっていたがスィグルに数えさせたかった。
 首飾りをさせていると、新星を捕まえたのだという気がした。
 素知らぬ顔でいるものと思っていたのに、スィグルが広間(ダロワージ)を過ぎゆく時を数えていたことに、ギリスは胸を揺さぶられた。
 旅立つ前には、こんなことはなかった。誘うギリスに手を引かれて、スィグルは大人しくどこへでも付いてきたが、愛するのはギリスの仕事で、スィグルはただそれを受けるだけだった。いくらでも水を飲む、底無しの穴みたいに。醒めた風でいて、スィグルはいくらでも欲しがった。果てしなく貪られるだけで、報いはないのだと思っていた。
 抱きしめて、口付けをし、目をのぞき込むと、スィグルがこちらを見返していた。その瞳が、自分を愛しているような気がした。それともそれは錯覚で、ただ一方的に与える苦しさのために、ありもしない幻を見ているのだろうか。
 求めたところで、きりがないのに。
「スィグル」
 結い上げた髪が崩れるのも構わず、ギリスは抱きしめたスィグルの項(うなじ)から指を梳き入れた。そこには熱がこもっていた。
「俺のこと好きか」
 そんなことを、誰かに訊いてみようと思ったのは、生まれて初めてだった。他人が自分を愛するかどうか、ギリスは考えたこともなかった。そんな者はいまいと、どこかで諦めて生きてきたような気がする。
「なぜそんなことを訊くんだよ」
 スィグルが答えた。怖いような気がした。
 ギリスは震えそうな指で、今は目の前にある華奢な体を、さらに強く掻き抱いた。
「好きだって言ってよ」
「どうして」
 聞き返してくるスィグルに、ギリスはまた口付けをした。
 王朝を支えるのは愛という名の忠節で、それには見返りを求めてはいけない。星を愛して眺めることは、誰にでも許されているが、星がいちいちそれに応えはしない。
 イェズラムはそう教えた。
 星ってなに、と訊ねたら、イェズラムはぎょっとして、ギリスを星空を望める地上層まで連れて行った。タンジール育ちのギリスは外を見たことがなかったのだ。
 そこからは確かに小さく瞬く沢山の光が見えた。美しかったが、あまりにも遠かった。そのために喜んで死ねるというほどのものとは、ギリスには思えなかった。皆がそうしていると言われても。
 イェズラムが言っている、皆が振り仰ぐ星とは、族長のことだと分かっていたが、族長はいつでも玉座に座っていた。口をききたいなら、朝儀で謁見すればいい。
 族長リューズは空の星と違って、いつでも宮廷をうろうろ歩き回っているし、飯も食えば、冗談も言う。イェズラムに至っては、部屋までやってきて怒鳴り散らしたりされていた。
 星ではない、ただの人で、振り仰ぐようなものではない気がした。
 スィグルだってそうだ。他と違うとは思えない。手に入らないと思えない。実際こうして抱くこともできる。スィグルが口付けを拒んだことが一回でもあったか。冷たい毒舌で刺しはするが、抱擁に応えるときは、糖蜜のように甘い味がする。
 どうしてそれを知った上で、一生やせ我慢しないといけないのか。
「……どうして?」
 口付けた唇が、また同じ問いを囁いていた。答えたらお終いだとギリスは恐れた。
 痛みと恐怖を、学ぶことになる。もしも拒まれたら。
「お前が俺を好きじゃないと、つらいから」
「いい気味だよ」
 喉をふるわせて笑い、スィグルは言った。そしてにわかに、礼服の襟をはだけたギリスの首に噛みついた。痛くはなかったが、そうとう強く噛まれている気がした。
 食われてる。びっくりして、ギリスはスィグルを抱き寄せている指を震わせた。
 しばらくしてから、スィグルは短いため息とともに体を離した。笑って舌なめずりする唇に血がついていた。人食いスィグルに食われてる。またびっくりして、ギリスはそれを見た。

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パスハの南・帰郷編(2)

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・ ・ ・ ・ ・

「皆様、お土産の真珠とお菓子ですよ」
 一抱えある小箱を携えて、サフナールが部屋(サロン)の扉をくぐると、髪を編んでいたり、お喋りに興じていた懐かしい顔が、どれもみな花が咲いたように微笑んで、出迎えてくれた。
「お帰りなさい。底無しサフナの凱旋ね」
 通り道に座っていた同い年の女戦士が、サフナから真珠の髪飾りを受け取りながら、そんなふうに冷やかした。
「いやだわ、その呼び名。まるで、わたくしの酒癖が悪いみたい」
 この部屋(サロン)にやってくるのは竜の涙の女ばかりだ。皆、しきたり通り男装しているが、装身具と、甘いものと、男の噂には目がない連中ばかりだ。
 どうだった、どうだったと口々に訊かれながら、エル・サフナールは海辺の街で買い入れた土産物を、惜しみなく皆に撒いてやった。船酔いしたり大変な旅で、二度と行きたくないけれど、こうして喜んでいる皆の顔を見たら、旅の疲れも吹き飛ぶわ。
 いちばん気に入っている、豪華な帯飾りの真珠を取ろうとする誰かの手をぴしゃりと叩いて、サフナールは部屋(サロン)の奥にある上座に腰を落ち着けている人のところへ、空いた床を拾い歩きながら近づいた。
 サフナを見上げて、煙管(きせる)をふかしていた長老エレンディラは、脇息にもたれたしどけない姿勢のまま、婉然と微笑んできた。
「戻りましたわ、我が兄上よ(エ・ナ・デン)」
 すぐそばに腰を下ろして、サフナはエレンディラの見事な刺繍を施されてある飾り帯に、つややかに輝く真珠を挟み込んだ。それは思った通りの品があり、彼女によく似合った。
「うまくやったようね、我が弟よ(エ・ナ・ジョット)」
 エレンディラは長い睫毛のある瞼を、何度か瞬かせて笑ったが、それはいい気味だという上機嫌の表情だった。うっふっふとサフナールは笑い返した。
「紫の蛇めの巣で育った者に、とうとう吠え面かかせてやったわよ」
 ふうっと細く煙を吐き出して、エレンディラは独り言のように呟いた。
「まったく兄上(デン)はよっぽどエル・イェズラムに恨みがおありなのですね。いったいどんな経緯があったのですか」
 遠慮無く胡座をかいて、サフナールは旅疲れした小さい自分の足から、礼装用の絹の靴を抜き取り、開放的な素足にしてやった。
「それは言えません、いくらお前にでも」
「まあそんな、けちんぼを」
「とにかくです。これで終わりと思わせないで、もっとどんどんおやりなさい。お前はどうして、あの悪童はほうっておいたの?」
 火を消すように、サフナールに煙管を渡して、エレンディラは咎めるように訊ねてきた。
「エル・ギリス? あの子はまだまだ子供ですもの。それにお馬鹿さんですよ」
「まあぁ」
 大仰に驚いてみせて、エレンディラは帯を飾った真珠に触れている。
「あの子は忠義なだけですよ。頭は悪くはありません。お前もまだまだ小娘ですね。ギリスは役に立つけれど、それもこれもイェズラムの言うとおりなのだから、まったくもって腹の立つこと」
「怒っていないで、お土産のお菓子をめしあがって」
 箱に並んだ宝石のような菓子を差しだして、サフナールは兄(デン)をなだめた。
 可愛さ余って憎さ百倍とはまさにこのことで、エレンディラは亡き首長に忠実であったのに、一方では、いやがらせばかりしていた。この人も、相手があっさり逝ってしまって、ふりあげた拳の落としどころがないのだわ。
「リューズ様に誠心誠意お仕えするように命じたのは自分のくせに、あの人は反逆ばかりでしたよ。挙げ句に宮廷を出て行って、おっ死んで戻るなんて、勝手にもほどがある」
「まったくもって、そうですわね、エレンディラ」
「お前の相づちは真心がなくて腹が立ちます」
 錐で刺すようにエレンディラが言うので、サフナールはころころと笑った。
 さばさばした性格の彼女は、女にしてはきっぱりしていて陰であれこれ言うようなところがなく、人に慕われて長年この派閥の長だった。彼女の庇護を求めて、主に女ばかりが部屋(サロン)に集まってきた。いつまにか長老会のひとりとして数えられる歳になっており、それをエレンディラは厭がっていた。
 死ぬなんてつまらないわと口癖のように彼女は言っている。
 サフナもそう思う。貴女が宮廷で死ぬなんてつまらないわ。どうせなら戦場で、皆で抱き合って死にたいわ。力が尽き果てるまで、わたくしが癒やしてあげる。
「イェズラムはギリスに新星を与えたそうですよ。サフナール、お前も新しいほうに鞍替えしたらどう。まだ若いのだから」
 その話はサフナールには初耳だった。
 それではギリスがいつも追いかけ回していたのがそうなのだろう。
 どんな星だか知らないが、サフナには、今あの玉座に輝いている星がいつかは墜ちねばならぬのだということが、納得いかなかった。
 ギリスったら、いやな子ね。
「わたくしはリューズ様が好きですわ。二君に仕えようとは思いません。どうせなら殉死でもしてみようかしら。そういうのは美しいと思うのですけど」
 あらそう、とエレンディラは気のないふうに相づちを打ち、潮風で痛んだサフナの黒髪を咎めるような目で眺めながら、毛先を指でつまんできた。
「お前もっと髪を大事におし。命はともかく、髪を粗末にするのは女の名折れですよ」
 そう言うエル・エレンディラの長い黒髪はつややかで、本当に見事なものだった。地下深くの闇のように黒々と、結われもせずに床を這っている。
 それじゃあ湯殿にいって、髪にいい泥でも塗ってもらおうかしら。潮風と砂で肌も荒れたし。せっかく王都に戻ったのだから、せいぜい磨き立てようかしら。
 土産物の菓子を口に放り込んで、サフナールは計画を立てた。異国の甘さが、舌の上でゆっくりと蕩けた。それを故郷で味わってこそ、最高の贅沢だった。

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パスハの南・帰郷編(1)

 熱砂の海を避けて、隊列は夜歩く。
 帰り着くタンジールはいつも、朝焼けを背景に浮かび上がっていた。
 尖塔(ミナレット)が砂丘の陰から現れる瞬間には感動があるが、階層状の都市層を抜けて、王宮の門をくぐるときには、安堵があった。
 また生き延びて、我が家に帰り着いたという安心感に包まれる。
 急いで旅装を改めて、朝儀を行う族長に、帰投の挨拶をしに行かねばならなかった。騎獣を降りて、ジェレフは慌ただしく王宮の通路を行き、竜の涙たちの居室が与えられている区画まで足早に歩いていった。
 砂じみた旅装の一団を認めて、仲間達がお帰りと声をかけてきた。
 三ヶ月ぶりに会う顔は、どれも懐かしかった。
「とうとう帰ったのか、無事でなにより!」
 行き合った同輩と、ジェレフは求められて握手をした。満面の笑みで、ジェレフの手と肘を掴み、彼はひどく愛想よく、握った手を何度も振ってきた。
「ジェレフちゃん」
 含みのある笑みだった。
「なんだそれは」
 いやな予感がして、ジェレフは相手を問いただした。しかし面白そうに首を振られるばかりだ。
 通りすがる誰彼となく、同じ笑みとともに呼びかけてきた。
「おお、帰ってきたか、ジェレフちゃん」
 同じ派閥に属する同輩にも、そんなことを言われて、ジェレフは思わず足を止めた。いつもの飲み仲間だった。
「なんなんだ、その呼び名は」
「これだよ」
 たまたまそこにあった、という雰囲気で、同輩は近くの部屋から巻物をとってきた。詩人が詠う叙事詩か戯曲のもののようだった。
 紐をといて中身を読み、ジェレフはその場に倒れそうになった。
 客地から、エル・サフナールが送った例の鷹通信(タヒル)が、とんでもなく下劣な枕話に化けていた。こんなもの事実ではないと思いたい。
「よ、読んだのか」
 そうに決まっているが、ジェレフは思わず訊いた。
「読んだ。というか聴いた。玉座の間(ダロワージ)で」
 元気を出せというように、同輩はジェレフの肩を叩いた。ジェレフは開いた口が塞がらなかった。
「みんな聴いたのか」
「大多数は」
「………………族長も?」
 これから謁見しにいく白い顔のことが頭をよぎり、ジェレフはほとんど無意識に訊ねていた。
「さあ、どうだろう。俺が聴いた時には、お姿は見かけなかったけど」
「じゃあご存じないんだよな。そうなんだろ」
 語気強く念押しするジェレフの肩を叩いたまま、同輩は気まずげに、しかし面白そうに目をそらした。
「それがお前の心の支えになるなら、そう思っておけよ」
 目を合わさずに何度か頷かれ、ジェレフはうめいた。
 とにかく。
 着替えに行かないと。
 礼服に。
 もっと問いただしたい気持ちから自分を引き剥がして、ジェレフはまた通路を急いだ。
 気もそぞろに礼服を纏い、玉座の間(ダロワージ)へ辿り着くと、朝儀はまだ続いていた。使節団が帰郷したので謁見したい旨を侍従に伝え、ジェレフは他の連中が集まるのをやきもきして待った。
 一人も欠けずに傷病の類もなく戻ることができ、命じられた仕事も全てつつがなくこなしてきた。何ら恥じるところのない帰郷のはずだ。
 だから大丈夫。
 ものほしそうに王族の席を見てぼけっとしているエル・ギリスの尻を叩き、ジェレフは呼ばれた順序に従って、玉座の前で跪拝叩頭した。
 族長リューズはまず長旅を労い、客地での首尾を手短に訊ねた。経過がおしなべて順調であったこと、族長ヘンリックが感謝していたこと、予定外の出来事なども、ジェレフは端的に伝え、詳細は報告書を提出すると締めくくった。
 リューズは満足しているふうに頷き、玉座から淡い微笑みとともに、こちらを見下ろしていた。
 ジェレフはそれに、ほっとした。帰ってきたなと、三度思った。
 サウザスの港町も慣れれば良いところだったが、やはり自分にはこうして、煌びやかな玉座の間と、そこに君臨するこの人がいてくれるのが、一番しっくりくる。
「報告書は急がずともいい、まずは皆、体を休めよ」
 玉座の肘掛けに頬杖をつき、族長リューズは耳飾りを弄んでいた。いつもやっている癖だ。その仕草も懐かしい。そしていつも最後には、我が英雄よと呼びかけてくれる。畏れ入って平伏し、ジェレフはその言葉を期待して待った。
「ジェレフちゃん」
 唐突に族長が小声でそう言い、くすりと笑い声をもらした。
 ジェレフはぎょっとして顔をあげた。
「いや、そうではなく、我が英雄よ」
 広間(ダロワージ)に笑いをこらえる熱気が籠もったのが、感じられる。
「なにごとも、ほどほどにしておけ」
 諭すような、からかうような口調で、リューズがそう言った。
 愕然として、ジェレフはとっさに、背後に平伏しているはずのエル・サフナールを振り返った。彼女は赤い唇で、にやりと意地悪く笑い返した。その彼女の背後に見え隠れする、王族の席に侍る取り巻きの席から、赤い竜の涙を冠のように頭に飾った、長老会のひとりがこちらを見ていた。
 ひどく美しい女(ひと)だった。彼女もサフナールと同じ笑みで、じっとジェレフの顔を見た。
 英雄(エル)・エレンディラ。
 はめられた。そうだ。あの人の目論見だったのだ。
 泣いていいなら泣きたいほどの情けない気分で、ジェレフはやむなく族長に平伏した。

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2008/07/26

パスハの南(17)

(16)からの続き

・ ・ ・ ・ ・

 すっかり慣れて、潮の香りを感じなくなっていた。
 湾岸での滞在も一ヶ月を超え、あらゆる予定を消化し尽くした。
 帰郷の時だった。
 出港の支度を調えて潮を待つばかりとなった船上で、ジェレフは舷側からサウザスの街並みを遠望していた。
 初めて降り立った時には、ひどく奇妙に見えたこの都市も、やっと住み慣れた頃合いだった。いざ離れるとなると、なにやら後ろ髪引かれる思いがするから不思議なものだ。
 滞在中、エル・サフナールは責任を感じてか、族長ヘンリックの正妃のところを時々訪れ、話し相手になっていたようだ。深入りしなければいいのにとジェレフは気を揉んだが、一度癒やした相手が気にかかるのは治癒者の習いだ。自分にしても、彼女のことをとやかく言えるようなものでもなかった。
 ジェレフは正使として族長から仰せつかった公務をこなす傍ら、空いた時間にはなるべく、イルス・フォルデスの館を訪ねるようにしていた。いかにして竜の涙と戦うか教えていけと、族長ヘンリックと約束したせいだが、王族らしからぬ気さくな少年が気に入ったのもあった。
 彼には家族もいたし、世話を焼く侍従もいる。友人もいた。しかし同じ死を待つ境遇の仲間はいない。
 それが彼と自分たちの決定的に違うところではないかとジェレフは思っていた。
 いつやってくるか分からない自分の死は、ジェレフにも恐ろしかった。だがそれに心を支配されないのは、これから行く道を自分に示してくれる兄たちがいて、自分が模範を示すべき弟たちがいるからだ。
 仲間達とともに歩み、英雄(エル)の称号を冠して呼ばれる自分の名を辱めぬように生きることには、日々新たな感動があった。ともすれば、自分は石を持って生まれてきて、むしろ幸せだったのではないかとすら思える。
 そのような世界がこの世にはあるのだと、彼に教えていくことが、自分がこの街に遣わされた理由だろう。
 ひとりで戦わなくていい。
 確かにサウザスとタンジールは遠く離れた別世界だが、順風を帆に受ければ、たった一月の船旅だ。皆いつも、すぐそばにいる。
「これは船酔い除けのお守りだそうです」
 すでに顔面蒼白のエル・サフナールが、縄を編んだような素朴な組紐を、ジェレフの眼前にさしだした。
「首からさげるのです」
 買い込んだ真珠で飾られたきらびやかな胸元に、エル・サフナールはその一見ごみのようなお守りを大事そうに下げていた。
「あなたの分も買ってきてさしあげました。どうぞ」
「そんなもの本当に効くと思っているんですか、エル・サフナール」
 出航前からすでに船酔いしている同士だった。
 渋るジェレフの手に、お守りを押しつけて、サフナは今にも倒れそうな儚い風情で、舷側にとりついた。
「効かないでしょうか……」
「俺もいま最悪の気分ですが、あなたがそうして苦しんでいるのを見ると、正直言っていい気味です」
「ひどいわ……わたくしがあなたに何をしたというのですか」
 色々したんだろ。
 結局思い出せなかった例の夜のことを思って、ジェレフは内心でサフナを罵った。つくづく、とんでもない人だった。それでも無事にタンジールに帰れることになって良かった。
「ジェレフ、これ書けたけど。いつまで書くの」
 使い古した感のある帳面をひらひら振り回しながら、エル・ギリスが舷側にやってきた。相変わらず船酔いとは縁のなさそうな、憎たらしい極めて健康そうな顔をしていた。
「言行録か……」
 頷きながら帳面を渡してくるギリスから、それを受け取り、ジェレフは中を開いた。なにかを読むような気分ではなかったが、とにかく自分が言い渡した仕事なのだから、面倒を見ないわけにはいかない。
 たまたま開いたページを、ジェレフは読んだ。
 そこにはこう書かれていた。
 某月某日。猫がいた。ジェレフと酒を飲んだ。ジェレフがサフナに犯された。もう帰りたい。
「……ギリス」
 とっさに言葉がなくて、ジェレフは悪童の名を呼んだ。
「誰が旅日記を書けと言った」
「え、言ったじゃん、ジェレフがさあ。旅の記録をつけろって」
「言行録はな、後任の者が旅するときに参考になる事柄や、後世に伝えるべき事柄を書くんだ。お前はエル・イェズラムの言行録を参考にしてまで、いったい何をやっていたんだ」
「俺はジェレフがサフナに強姦されたことを後世に伝えたいんだけどな」
 ギリスが言い終えるのを待たずに、ジェレフは帳面を海に投げ捨てた。絹張りの表紙をはためかせながら、それは青い海に落ちていった。
「あっ、捨てやがった! 俺の旅の思い出を!」
「ごみだ」
 海に吸い込まれていく帳面を見送るギリスの背に、ジェレフは言ってやった。
「あぁ、わたくしもう吐きそうです。いっそサウザスに残ればよかった」
 舷側にすがってくずおれながら、エル・サフナールが嘆いた。
「なにか、なにか方法はないのでしょうか。この船酔いから逃れる方法は」
「酒でも食らえば、サフナール」
 まだ悔しそうに海を見下ろしながら、ギリスがそんなことを言った。
 名案だった。
 どうせ酔うなら船にではなく、すっかり飲み慣れた海辺の火酒に酔っていたほうが、よっぽど気分がいいだろう。
「お前もたまには冴えてるな、ギリス。俺は船室で飲むことにしよう」
 なんとなくふらつく足元を踏みしめながら、ジェレフは舷側を離れ、船室におりる細い階段を目指して甲板を行った。
「ひまだから俺もつきあう」
「わたくしも」
 ギリスとサフナールがすかさずそう提案したのを、ジェレフは振り返った。
「いいえ。俺は戸に鍵をかけて一人で飲みます」
 引き潮を告げる銅鑼の音が、異国の調べを鳴り響かせた。白い帆が順風を受けて、頼もしく張りつめた。ここから先、次に降り立つ時には、懐かしい砂の海の上にだ。
 それまで、この筆舌に尽くしがたい連中とおさらばして、ひとりで引っ繰り返って酒を浴びているのだ。それがいい。とにかく疲れた。たとえようもないが、楽しい旅だった。
 あとは白い帆に身を任せ、故郷で待ち受ける尖塔(ミナレット)に、フラ・タンジールと呼びかける時を、ゆったりと待つばかりだ。
 詩人たちなら、お定まりの調子で、こう詠うだろう。
 そろそろ物語の時は尽き、この勲(いさおし)はこれまでにて、英雄たちの戦いはなおも続く。新たなる物語は別の巻にて、息を呑み耳をそばだてて聴くダロワージの静寂に、いやなお晴れがましく響き渡るであろう。
 そうして船はサウザスの港を離れた。

《英雄達の旅はこれで一巻の終わり》
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2008/07/25

パスハの南(16)

(15)からの続き

・ ・ ・ ・ ・

「妻がわがままを言ったそうだな」
 族長の執務室にも、やはり玉座はなかった。大きく窓をとった明るく白い部屋に、大きな木製の執務机が置かれ、黒い革張りの椅子があるだけだ。
 それらの調度品は洗練されてはいたが、やはり実用本位だった。
 それに座る族長ヘンリックも、夜会のときよりさらに地味な出で立ちだった。絹を纏っているのも、王族としての申し訳を立てる程度ではないかとジェレフには思えた。
 彼が身につけているもので、いちばん華美なのは、その剣帯に提げられている剣の鞘を飾った、色鮮やかなエナメル装飾だけだ。
 タンジールの王族は、装飾品として太刀や短剣を身につけるが、彼が帯びている剣は、よく使い込まれていて、それもやはり実用品なのだと見えた。
 きっと寝るときだって、この剣を抱いているに違いない。
「治癒者を残留させるよう、ご所望でした」
 ジェレフは、ばれない程度に微かなため息をついた。暑かったからだ。
 湿気の襲う海辺の空気の中で、肌着に襦袢と、礼装用の長衣(ジュラバ)を重ねた民族衣装で、そのうえ竜の涙を隠すための頭布(ターバン)まで巻いているのだから、暑くないわけはなかった。
 族長に謁見するのだから、それ相応の出で立ちでやってくるのは礼儀のうちだが、いかにもあっさりした格好で涼しい顔をしている相手と向き合うと、自分の姿は、なんの我慢大会だと思いたくなる。
「率直に申し上げまして、正妃様のご病気は魔法で治るものではありません。それでも日々のご不快は取り除けると思いますし、延命も図れるかと思います。しかし我々竜の涙は部族の戦力であり財産ですので、我らの族長の許可無くして、こちらでお役に立つことはできません」
「リューズに聞けということだな」
 そうです、と返事をしかけて、ジェレフはあわてて口をつぐみ、一礼した。
 タンジールの王宮では、竜の涙は準王族として扱われ、王族の名を呼び捨てても、対等な口をきいても、咎める者はいない。しかし一歩領境を出れば、相手がどう感じるかは曖昧だった。
 尊大に振る舞うつもりは、ジェレフにはなかった。無用の軋轢を避けたかったからだ。
「誰が残るのだ。お前か」
「そうなるかと」
 覚悟を決めて、ジェレフは答えた。正使ではないサフナールに居残り役を押しつけるのでは男が廃る。可愛い顔をして、とんでもない人だったが、それが恨みで置き去りにしてきたと後ろ指さされたら、不名誉きわまりなかった。
「妻は、もうひとりのほうを所望のようだ。あれは女なのか」
「いいえ。違います」
 きっぱりと、ジェレフは族長ヘンリックに答えた。するとヘンリックは妙な顔をした。
「お前は女なのか、男なのか」
 あぜんとして、ジェレフは聞き返した。ヘンリックは苦笑した。
「お前は男のように見えるが、妻を癒やしたというのが、男だというなら、男女がどのへんで分かれているのか、俺にはさっぱり分からん」
「竜の涙には、男子しかおりません」
 部族の建前を、ジェレフは異民族の族長に教えた。
 ふうん、とヘンリックは納得したとも、疑っているともつかない相づちを打った。
「まあいい。リューズからして女のような面(つら)だからな」
 そうだろうかとジェレフは意外だった。不本意だが、異民族からはそういうふうに見えているのだろう。
「息子達はどうだった」
 本題と思える事を、族長ヘンリックが尋ねてきた。ジェレフは頷いた。族長は、予定外に彼の長男まで診察されたことを聞き及んでいるらしかった。
「ご長男は心臓がお悪いようです。これも根本的には解決できません。生まれ持った素養です。療養に努められれば、魔法を頼らずとも、ご健康を維持することは可能です。もちろん治癒術の効果は、一時的なものとしては大いに期待できますが」
 ジェレフの顔を見つめ、ヘンリックはおとなしく頷きながら耳を傾けていた。
「ご三男は、我々と同じです。魔力を用いますと石が成長します。いずれはそれに殺されます。個人差がありますが、寿命は三、四十年ほどです」
「苦しむか」
 簡潔な質問を、ヘンリックは口にした。余計なことは言わない人なのだなとジェレフは思った。
「苦しみます」
 そういう相手に、砂糖衣をかけた言葉を与えても仕方がない気がした。
「治す方法はあるか」
「ありません」
 その言葉が相手を深く傷つけすぎないように、ジェレフは小声で答えた。
 ヘンリックは初めて顔をしかめた。そんなはずはないだろうと言いたげな表情だった。それでも彼は激昂する気配もなかった。ただ黙って、こちらを見ていた。
「その布をとって、お前の石を見せてくれ」
 意外な要請に、ジェレフは一瞬、答える言葉を失った。海辺の者たちは、竜の涙を不吉なものとして恐れているはずだ。人前では絶対に隠し通すようにと厳命されてきた。
 しかし相手が待っているので、逆らう理由も思い当たらず、ジェレフは頭布(ターバン)を解いて、自分の竜の涙をヘンリックに見せてやった。
 海辺の族長は、青い目を細め、険しい顔でジェレフの頭をじっと睨んできた。
 淡い紫色の石が、額から始まって、側頭を這うように成長している。結った髪に隠れている部分もあり、まだ自分の石は、それほど人を威圧するような気配は持っていないはずだ。
 しかしヘンリックは、どこか痛々しそうにこちらを見ていた。
「お前はいつ死ぬ」
 あまりの質問に、ジェレフはぎょっとした。だが、それが面白半分に訊かれたものではないことは、すぐ理解できた。彼は自分の息子がどれくらいまで生きられるか知りたいのだろう。
「分かりませんが、あと十年のうちだと思います」
 そう答えてみると、短い一生だった。
「その限られた時間を、このサウザスで費やしていいのか」
 目が離せないのか、族長ヘンリックはひたすらジェレフの石を見つめたまま、そう尋ねてきた。ジェレフはまた、返答に窮し、答えるべき社交辞令を頭の中で探した。
「我らの族長がそう命じるのであれば、喜んで従います」
「帰れ」
 端的にそう命じて、目を逸らすためだろう、族長ヘンリックは椅子から立ち上がって、執務室に作られたテラスのほうへ歩いていった。
「息子達も妻も、お前の話によれば治りはしない。だったら時間を無駄にするな。予定通りの滞在がすんだら帰れ。リューズには、俺が喜んでいたと伝えろ」
 情けをかけられたような気がしたが、あるいは単に、これ以上の政治的な借りを族長リューズに作るのが嫌なだけかも知れないとも思えた。
「ありがとうございます」
 それでもジェレフは礼を述べた。ヘンリックは微かに頷いたようだった。
「お前は、その石に殺されるのが怖くはないのか」
 茫洋とした海を背景にして、ヘンリックはこちらを向いた。
「怖いです」
 ジェレフは正直に答えた。
「では、イルスも怖いのだろうな」
「そのはずです」
 ジェレフの答えに、族長は小さく首をかしげ、こちらを眺めた。疑っているのではなく、それは彼の癖のようだった。
 しばし考えてから、ヘンリックは小さなため息をつき、乾いた唇を舐めた。
「お前は少しも恐れていないように見える。勇敢だな。お前がその恐怖とどうやって戦うか、息子に教えていってくれ」
 そう頼んで、族長ヘンリックの話は終わりだった。
 あっさりしたものだとジェレフは思った。
 自分たちが崇める族長のような、人を酔わせる甘いものは、彼の言葉にはいっさい無かった。それでも彼は、この海辺の、荒ぶる野蛮な部族を、難なく治めているのだった。
 気さくなところがいいのかな、と、ジェレフは考えた。愛想がいいとは言えないが、彼は命じる時でも、隣に立って話しているような気配がする。タンジールで跪く自分たちは、遠くに輝く星をまぶしく振り仰ぐように族長を崇めるが、この海辺の者たちは、あの夜会の席でそうだったように、親しく並んで歩くこの男を、友を助けるようにして仕えているのかもしれない。
 そういうのも、また一つの王朝か。
 納得しながら、ジェレフは深々と一礼し、退出しようとした。
「おい」
 後ずさろうとするジェレフに、ヘンリックが木訥に声をかけ、族長冠をした彼の額を、指でこつこつと叩いてみせた。
「出てるぞ」
 頭布(ターバン)を解いたままだった。
 ジェレフは恐縮して、また一礼した。そして手早く頭布(ターバン)を巻きなおそうとしたが、その姿を眺めてテラスにいる男が、喉を鳴らして笑いはじめたので、焦ってしまって中々上手くいかなかった。

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パスハの南(15)

(14)からの続き

・ ・ ・ ・ ・

「ええ、そうです。あなたを落とせるか。成功したら、わたくしの勝ちで、皆がわたくしに真珠を買ってくれるのよ。これから宝石商にいって、いちばんいいのを選びましょう」
 頬を染めて嬉しそうにしているサフナールの顔には、物欲、と大書してあった。
 顎が落ちそうになっているジェレフと目を合わせ、サフナは急に、あ、そうだわと呟いた。
 懐の隠しから、ごそごそと小さな紙切れを取り出し、サフナはそれを読み上げようとしていた。
「これを忘れてました。わたくしの兄(デン)から皆さんへの声明文です。えーと。亡きエル・イェズラムの派閥の皆様へ。英雄の死に心からお悔やみを申し上げます。派閥を引き継がれる方に申し上げます。わたくしたち、結社・紫の蛇の毒牙から銀の泉を守る会の者は、エル・イェズラム亡き後も攻撃の手をゆるめるつもりはございません。心して防戦なさいませ。まずは新首長のお一人とおぼしきエル・ジェレフに、わたくしの刺客をお送りいたしました。今回の模様はダロワージにて皆様に細大漏らさずご披露しておきます。ご無事でお戻りになりますよう、旅の安全を心よりお祈りしております。英雄(エル)・エレンディラ。かしこ」
 脳をすり潰されそうな頭痛の中で、ジェレフはサフナールのどこか舌足らずな朗読を聞いた。
 エル・エレンディラは長老会の一人で、女性だった。とても美しい人で、赤い華やかな石を冠のように髪に飾っている、雷撃の魔導師だった。エル・イェズラムと親しいとも、仲が悪いとも聞いたことがなかった。ただ彼女が熱心な族長派だという事実を知っているだけで。
「結社・紫の蛇の毒牙から銀の泉を守る会?」
 ギリスがぽかんとした声で、サフナールに尋ねた。
「ええ、そうよ。そういうものがあるの。知らなかった?」
 知らなかったと答える代わりに、ギリスはこくこくと頷いて見せている。サフナはくすりと楽しそうに笑った。
「それって名前のまんまの内容の会?」
「ええ、その通りよ、エル・ギリス」
 ジェレフは目を瞬きながら、考えた。紫の蛇とはエル・イェズラムのことだ。彼の名前はそういう意味を持っていた。そして銀の泉とは族長のことだった。族長のリューズという名は、銀の泉という意味を持っているからだ。あまりにもそのまんまだった。
「毒牙って……」
「エル・イェズラムは、リューズ様の臣でありながら、いつも反逆して、いいところを持って行くので、むかつきます」
 にっこり微笑みながら、サフナールはきっぱりと答えた。
「それはそれで部族のためにもなることですから、目はつぶりますが、リューズ様を命とも崇めるわたくしたちは、報復のためのいやがらせをすることにしたのです」
「イェズにもなんかしてたのか、あんたたち」
 ぎょっとして、ギリスが尋ねる。
「してました。でも向こうのほうが上手で、連戦連敗でした。ですから今こそ、その腹いせを」
 夢見るように、華奢な顎の先で両手を組み合わせ、サフナールは答えた。
「ごめんなさいね、エル・ジェレフ。あなた個人に恨みはないのです。むしろ好きですけど。でもあなたはエル・イェズラムの取り巻きだったから。標的になっても仕方がありませんわよね?」
 同意しろという目で見られて、ジェレフは控え目に言っても泣きそうだった。
 そしてくるりと振り向いて自分を見たサフナールの視線に、ギリスが慌てたふうに後ずさった。
「俺!?」
「さあどうかしら」
 にやりとサフナールが意地悪く笑ってみせる。
「あなたのリューズ様への出立の挨拶、ちょっと失礼だったんじゃないかしら」
「ごめんなさい! 今度からちゃんとします」
 脅しに一瞬で屈するギリスの謝罪には恥も外聞もなかった。
 なにを見たんだ、ギリス。俺の記憶がない間に。
「さっ、タンジールにいる兄(デン)に報告の鷹通信(タヒル)を送らなくっちゃ。わたしく先に行っております。おふたりは真珠の買い出しに付き合ってくださいね。異国を一人歩きするのは危険ですから、護衛が必要ですもの」
 ばさりと粋に長衣(ジュラバ)の裾を払って、エル・サフナールは颯爽と歩き出した。はっとしてジェレフは彼女を引き留めようとした。しかしサフナールは二日酔いの裸の男に捕まるような間抜けな人ではなかった。
 ひらりとジェレフの手を踏み越えて部屋から出て行く彼女は、戸口から振り返って手を振ってみせた。
「ギリス、頼むから追ってくれ」
 ジェレフは頼んだ。しかしギリスは首を振って拒んだ。
「いやだよ、邪魔したら俺もどんな目にあわされるか。あんな強烈なもんを、ダロワージでがんがん詠われたら、俺、帰ってからあいつに八つ裂きにされちゃうよ。よかった禁欲してて、あやうくバレるところだった」
「ギリス!!」
 頭が痛むのも構わず、ジェレフは叫んだ。
 衣服を改めて、鷹のところへ追っていったが、エル・サフナールはすでに、銀の矢(シェラジール)64号を遠く故郷に向けて放った後だった。
 竜の涙に女はいない。
 いるのは男と怪物だけだ。
 もしかするとそれが、今回の旅でもっとも勉強になったことだった。

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パスハの南(14)

(13)からの続き

・ ・ ・ ・ ・

 猛烈な頭痛にがっちりと頭を銜えられていた。
 目覚めた瞬間から続くその痛みが、はじめは何のことか分からず、石がまた成長してしまったんだとジェレフを悲しくさせた。
 麻薬(アスラ)を使わねばと考えつつ寝床から身を起こし、そして、やっと気付いた。それが単なる二日酔いだということに。
 昨日の礼服のまま、床でぐうぐう寝ているエル・ギリスの姿が目に入ったからだった。
 そうだった。
 酌上手のエル・サフナールに乗せられ、脳みそもとろけるくらい飲んで、途中から何も憶えていない。飲み直しはじめた時点でそうとう酔っていたはずだから、自分が昏倒するまで、もしかするとあっという間だったのではないか。
 寝床だと思っていたのは、居室の居間の敷物の上だった。いのまに解いたのか分からない黒髪が、ばさりと顔に落ちかかってきた。それを払いのけようとして、ジェレフは悲鳴を上げそうになった。
 半裸というか全裸だった。そこまでではないが、ほとんど裸だった。
 そんな細かいところに取りすがっても、この際意味がなかった。とにかく、同じくほぼ素裸のエル・サフナールと抱き合って寝ていた。
 床の上で。そして傍には空になった酒杯と酒瓶が。
 そして向かいの座には、礼服を着たまま高いびきのギリスだ。
 その上自分は何が起きたのか全く憶えていないのだった。
 頭が。頭が割れそうに痛い。顔を覆って、ジェレフは嘆いた。何をされたんだ。というか、何をしたんだ。したのか、されたのか判らないが、とにかくジェレフは参った。
 ううん、と甘くうめいて、目をこすりながらエル・サフナールが起きあがった。深酒の後だというのに、彼女の頬は健康そうにつややかで、胸も露わな裸身を隠そうという気配もなかった。
「あら。エル・ジェレフ。おはようございます」
 彼女が状況に気付いていないのではないかと思い、ジェレフは言葉が出なかった。
 自分に限って、まさかと思うが、酔って正体をなくした彼女を己の好いようにしたのではあるまいな。だとしたら彼女の挨拶に続くのは絶叫かもしれず、ジェレフは動くこともできずにただ身構えた。
 しかし彼女は口元を覆って、可愛らしい長い欠伸をもらしただけだった。それから小さく鼻をすすり、床に落ちていた自分の白い肌着を拾い上げて肩にはおると、ごそごそと床を這っていって、まだ深く眠っているギリスを揺り動かした。
「エル・ギリス。そんな格好で寝ていると、風邪をひくかもしれませんよ」
 自分たちが裸で寝ていて平気だったのだから、服を着ているギリスが風邪などひくわけがないと、ジェレフは思った。呆然としながら。
 優しく揺すられて、ギリスはうるさそうに目を醒ましたようだった。
 彼女の肩に腕をかけようとするギリスを、サフナールはやんわりといなした。
「寝ぼけないで。私はサフナールです。あなたの兄(デン)でも弟(ジョット)でもないわ。起きてちょうだい。今日は買い物にいきたいのです。あなたも来なさい」
 ギリスに話しかけるサフナールは、なにかとてもくつろいだ雰囲気だった。
 言われて目が覚めたのか、ギリスががばっと驚いたふうに体を起こした。彼の髪はまだ結われたままだった。寝ている間に崩れた元結いが、だらしなく下がってはいたが。
 ギリスが起きたのを確認して、エル・サフナールは微笑とともに自分の服を拾いに戻ってきた。
 ガンガンと殴りつけるような頭痛を感じながら、ジェレフはこちらにやってきた彼女の顔を見上げた。
「すみません……」
 もう謝るしかなかった。なんにも憶えていませんとは言いづらかった。
「なにがです?」
 不思議そうに、サフナールが尋ね、こちらにジェレフの礼服を渡してよこした。
「何がか、実はわからないんですが」
「そうでしょうね。前後不覚まであっと言う間でしたから。案外弱いんですね、お好きな割には」
 酒の話だよなとジェレフは怖くなった。
「うう……ん、ジェレフ、俺すごいものを見た」
 まさか頭が痛いわけではないだろうが、頭を抱えたギリスが、まだ酒が残っているような顔で、朦朧とそう言った。
「俺はサフナを甘く見てた。なんかもう……羨ましいという領域をはるかに越えてた。お前、腰抜けてないか。俺じゃなくて本当によかったよ」
 ジェレフは呻いて、そばで微笑んでいるサフナの顔を見た。
「ごめんなさいね、エル・ジェレフ。わたくし、あなたにいけないことを」
 赤い唇に指をそえて、サフナは悪戯っぽく詫びている。
 なんにも憶えていないんです。
 でも何か、ひどい二日酔いに紛れてすぐには気付かなかったが、なんだかひどく体が疲れている。どうしてなんだろう。
「……見てたのか、お前」
「見た。ごめん」
 恐ろしくなるほどの素直さで、ギリスが謝罪の言葉を口にした。
「気にすんなジェレフ。犬にかまれたと思って」
 遠巻きに慰めるギリスの顔が真剣だったので、ジェレフはまた呻いた。
「お前がいつもああだとは思ってないから。安心して。昨日だけだよな、相手が悪かったよ、サフナはさ……それともジェレフ、もうあれが癖になって、ずっとサフナの弟(ジョット)なのか?」
「何の話……」
 聞きたくないが、結局それを口にしてしまった。しかしギリスは、自分の口からはとても言えないと言うように、小さく首を横に振った。
「いやだわギリス、一晩だけよ。ダロワージの恋は一瞬の華なの」
 ころころと鈴を転がすような声で笑って、長衣(ジュラバ)を着付けなおしたサフナールは言った。
「まあここは、ダロワージではないけど。わたくし皆と賭けをしただけなんですもの」
「賭け?」
 ジェレフが思わず尋ねると、サフナールはにっこりと、ジェレフに微笑みかけた。

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パスハの南(13)

(12)からの続き

・ ・ ・ ・ ・

 真珠を買いに行きたいのですと、エル・サフナールは言った。
 滞在している部屋の戸口に現れた彼女に、ジェレフは顔を出し、明日行きたいという土産物の買い出しの誘いを聞いていた。
 廊下で立ち話をさせるのも失礼だったが、部屋の中に招き入れるわけにもいかなかった。
 女を男の部屋に引き入れるのはまずいというのも無いではないが、それは時と場合による。なんで今なんだエル・サフナールと、ジェレフは思った。
 なんで俺の部屋で大酒を飲んだギリスがとぐろを巻いている時に、あなたはわざわざ来たんだ。
「もちろんお供します。一人で行かないほうがいいです。でも後で相談させてください」
 自分は酒臭いのではないかとジェレフは思った。
 なにしろギリスに付き合わされて、しこたま飲んだところだ。
 飲酒はあまり誉められた習慣ではなかった。部族の者には下戸も多かったし、そうでない者が酔っぱらっているのを白眼視する向きもある。なにしろ族長が下戸なので、宮廷では飲酒を遠慮する空気があった。
 しかしジェレフは酒が好きだった。同輩ばかりの仲間内ではよく知られた話だ。もちろん男ばかりの場でのことだ。
 きゅうに立ち上がって歩いたせいか、なんとなく朦朧とした。
「族長閣下のご三男の診察は上首尾でしたでしょうか」
 なおも粘る気配で、エル・サフナールは話を継いだ。
 彼女が自分を口説きにきたのだということは、ジェレフには判っていた。そういうことは、大抵、一瞬でわかる。
「うん。でも、ものが竜の涙だから……」
 答えかけて、ジェレフは自分の言葉が少々馴れ馴れしいのではないかと思い、額をおさえて口ごもった。
 やばい、本当に酔っている。
「酔ってらっしゃるのですか」
 なんとなく気恥ずかしげに、サフナールは尋ねた。彼女は相変わらずの男装だったが、細くふにゃりとした黒髪を、肩口でゆるく結い、そこに花の形をした髪飾りをつけていた。
 可愛いなあとジェレフは考えた。ギリスではないが、呉服商から女物の服をもらってくればよかった。きっと喜んだだろう。彼女でなく自分が。
「酔っていません」
 いいや、確実に泥酔している。嘘で答えた自分の返事に、ジェレフは参った。
「お留守の間に、正妃様から遣いの方が寄越されて、わたくしにサウザスに留まるようにとおっしゃいました」
 困ったように、サフナールは言った。やっぱりそうなったか。
「どうしたらいいでしょうか。わたくしもタンジールに帰りたいです」
「そんなの当然のことです」
「ええ……でも」
 サフナは少しうつむいて、躊躇うようにもじもじした。
「エル・ジェレフ。あなたは族長のご三男の治療のために、しばらくこの地に留まられるのですか? もしそうなら、わたくしは、ご一緒できたほうが嬉しいです」
「サフナ……」
 いきなりそんな本題に入る彼女に、ジェレフは衝撃を受けた。普通ならここで部屋に連れ込んで完了じゃないか。
 なのになんであいつが部屋にいるんだ。
「ジェレーーフ!!」
 ほとんど絶叫するようなギリスの怒声が、背後から聞こえた。
 勢いよく全開された扉が壁を打って、ばん、とけたたましく鳴った。自分より身の丈の低いギリスに、背後から腕をかけ首にぶらさがられて、ジェレフは息がつまった。ほかにもいろいろ胸に詰まりそうな気分だった。
「なに逃げてんだ、吐くまで飲め!」
 ギリスは酔っているのかまだ素面なのか判然としなかった。もともと酔っているようなものなのではないかとジェレフは思った。
 ぽかんとしてこちらを見ているサフナの視線が猛烈に痛い。
「なんだサフナか。ジェレフを口説きにきたのか」
 あまりに単刀直入に訊かれたせいか、それとも酔ったギリスの勢いに気圧されたのか、サフナはぽかんとした顔のまま素直にこくこくと頷いた。
「こいつはな……お前が思ってるような男じゃないんだぞ」
 怨念のこもった声で、ギリスはサフナールに言った。ジェレフは口を挟もうとしたが、ギリスが首を絞めてそれを制した。
「弟(ジョット)なんかいるわけないだろ。今日と明日で相手が違うようなやつなんだぞ。いよいよって時に名前を呼び間違えて相手を萎えさせるようなやつなんだ」
「だれに聞いたんだ……」
「お前のことだって、どうやってやろうかとか、そんなことしか考えてないに決まってるんだ」
「考えてない、まだそこまで考えていません!」
 ジェレフはギリスの腕を振りほどこうとしながら叫んだ。しかしギリスの腕は蛇のように執拗にからみついていた。暑苦しかった。
 サフナはまだ、薄く唇を開いて、ぼかんとしていた。
「酔ってらっしゃるのですか」
 さっきと同じ事を、サフナは尋ねた。
「地元の火酒を浴びるほどかっくらって、べろんべろんです」
 勝手にギリスが返事をした。微妙に口調をまねられて、ジェレフはむっとした。
「わたくしも飲んでよろしいですか。お酒には目がないので」
 ぽかんとしたまま、サフナールが尋ねた。
「えっ」
 その相づちは、自分の声かギリスの声か、もう良く分からなかった。
 駄目だと言われないのを確認して、サフナールはふらりと部屋に押し入ってきた。
 そして膳の上にあった酒瓶を、その前の円座に優雅に横座りして彼女はとりあげ、ジェレフが飲みかけていた酒杯になみなみと注いだ。それを一気にあおろうとするサフナを、ジェレフは止めようとした。
「強い酒ですよ」
 言ったが彼女はまるで気にせず、水でも飲むように、ごくごくと喉を鳴らして飲み干した。
 酒杯の底を上げてから、サフナはふはあと深いため息をついた。
「おいしい」
 にっこりと、彼女は笑った。どう見ても可憐な彼女が、どう見ても酒豪だった。二杯目を注ぐサフナールに、ジェレフの喉は喘いだ。もしかして自分より強いのではないか。
「どうなさったのですか」
 きょとんとして、サフナは戸口に立ちつくしたままのジェレフの顔を見た。
「わたくしと一緒に吐くまで飲みましょう、エル・ジェレフ」
「それでこそゲロ仲間だな、サフナ」
 ギリスが彼女に感心したように言った。うふふ、とサフナールは笑った。
「でも、わたくしは簡単には潰れませんからね。女部屋では底なし沼と……」
「女部屋?」
 思わず聞き返すと、サフナールはまずいというように唇を押さえた。その仕草も可憐だった。
「さあ飲みましょう、エル・ジェレフ。とりあえず意識がなくなるまで」
 エル・サフナールは一人用の円座の自分の隣を、とんとんと叩いてみせた。そこに座れという意味にしか思えなかった。
 微笑むサフナールの美しい顔を、ジェレフは呆然と眺めた。まだ首にぶら下がっていたギリスが、酒臭い息とともに、ううんと呻いて耳打ちした。
「ジェレフ、据え膳食わぬは男の恥だから、こうなったからには突き進め」
 お邪魔虫が、余計なお世話だった。

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パスハの南(12)

(11)からの続き

・ ・ ・ ・ ・

 探さなければギリスは見つからなかった。
 廊下の角を曲がったところで、ギリスがしゃがんで、さっきの黒猫と対峙しているのを、ジェレフは見つけた。
「ギリス、せめて退出の挨拶くらいしないとだめだ」
 頭ごなしに叱責する気がせず、ジェレフは控えた声でギリスをたしなめた。
 しかしギリスはいつものように、全く聞いていないふうな背中をこちらに向けており、自分の前に座っている猫に、みゃうみゃうと鳴いてみせている。
 猫は逃げはしなかったが、冷たいほどにギリスを無視していた。
「お前、そっくりだな。あいつに」
 背後に立っても、ギリスはジェレフを振り返らず、猫に話しかけた。
「そう思わない? こいつスィグルにそっくりだろ、見た目も性格もさ」
 ギリスが罵るように言うと、猫はにゃあと鳴いた。名前に反応したように聞こえた。
「……スィグル?」
 ギリスが訝しげに呼びかけると、猫はやはり、にゃあと鳴いた。いや、ミャウと鳴いたのかもしれなかった。海辺の猫なのだから。
「お、お前、まさかスィグルって名前なのか」
 それが驚天動地の出来事であるかのように問うて、ギリスは猫を捕まえようとした。しかし黒猫はするりとギリスの手から逃れ、薄暗い廊下を何歩か先まで逃げた。
「そんな馬鹿な、逃げるなこら。どうして逃げるんだよ」
 ギリスは困ったふうに、床を這って猫を追いかけた。しかし猫は知らん顔をしている。まるで聞こえないかのようだった。
「……スィグル」
 泣きつくように、ギリスは猫に呼びかけた。すると猫はまたミャウと答えた。
「お前、部族の言葉がわかんないのかよ。恥ずかしいと思わないのか」
「ギリス、ただの猫だから」
 可哀想になって、ジェレフはギリスをたしなめた。
 どんな顔をしているのだろうと思ったが、見たくないような気もした。まさか泣いているのではなかろうかと恐ろしかった。ギリスがそういう感情を顕すことは、幼い子供のころですら無かった。少なくともジェレフの知る限りではそうだ。
「なあジェレフ、イェズは死ぬとき俺と話したんだろ。あいつとじゃないんだよな」
 ギリスはぼんやりとした声で、そんなことを言った。
 お前、泣いてないよな。ジェレフは内心でそう呼びかけた。頼み込むような気分だった。
「なんでだろ、ジェレフ……」
 エル・イェズラムの死を受け入れられずに苦しんでいるのだ。この場に居合わせたのが運の尽きだ。慰めてやらなければ。
 そう思って、ジェレフはギリスのそばに屈み込もうとした。
「なんか俺……ゲロ吐きそうなんだけど」
 きっぱりとそう言って振り向いたギリスの顔色は蒼白だった。嘘と思えなかった。
「よせ、せめて泣け。ここで吐くな」
 とっさになだめようと、ジェレフはギリスの丸めた背に手を置いた。この際、魔法でもなんでも使って治させなければと思ったが、吐き気を止める方法をジェレフは知らなかった。知っていればとっくに使っていた。自分か、エル・サフナールに。
「なんで泣くの」
 なにかを堪えているのが明らかな声色で、ギリスは呟いた。
「悲しいからだよ。お前いま悲しいんだよ。普通は悲しいところなんだ、こういう時は!」
「俺、泣いたことないから……わかんな……」
 げふっ、とギリスの喉が鳴った。思わず悲鳴をあげて、ジェレフは彼の口を覆った。
 しばらくお互いに息をとめて、必死で堪えているふうなギリスの背中をさすった。
「あー……治ってきた。やばかったな、でも」
 じっとこちらを見上げて、ギリスはにやりと面白そうに笑った。
「ここでジェレフの礼服にゲロ吐いてやったら、イェズがどんなに喜んだか」
「英霊がそんなもんに喜ぶか!」
「喜ぶって。絶対そうだよ。やっぱ、もいっぺん吐いてみようか」
 そう言って自分の口に手を突っ込もうとするギリスの腕を、ジェレフは必死で引き抜こうとした。目眩のする話だが、ギリスに吐き方を教えたのはジェレフだった。以前、派閥の部屋(サロン)の宴会でギリスが大量の酒を飲んだときに、昏倒しかけたので、あわてて吐き戻させたのだ。
「勘弁してくれギリス!」
「俺はほんとに情けない、あいつが俺より大切だというやつが、あいつと同じ名前をつけた猫まで飼ってるなんて、ものすごく情けない。そいつがイェズの遺言まで知ってて、イェズを看取ったなんて。しかもなんか良い奴っぽいし……俺は誰に当たればいいんだよ、お前しかいないんだジェレフ」
「あとで飲むのに付き合うから! ここの酒はうまいらしいぞギリス!」
 ギリスの両腕を掴んだまま、ジェレフは説得した。剣呑な半眼で、ギリスはじっとこちらを見た。
「ほんとか」
 ジェレフは頷いて請け合った。ひどく酒精の強いものらしいが、味はいいと聞いている。
 ギリスは年に似合わず酒豪だった。飲ませると酔っぱらうので、誰もギリスに付き合いたがらなかった。しかし一人で飲む質ではないらしく、宴会から追い払われると、いつもつまらなそうにしていた。
 今は無理でも、飲ませれば大人しく泣くのではないかという期待が、ジェレフの中にはあった。
「戻ろう、ギリス。仕事なんだから」
「嫌だ、俺はここにいる」
 立ち上がらせようとするジェレフの手を拒んで、ギリスは廊下の先に座っている澄ました黒猫を指さした。この上なく挑戦的な態度だった。
「あいつに、思い知らせてやる。俺のほうが大切だということを」
 恨んでるんだな、出立のときの仕打ちを。ジェレフはどこか呆然としながら、そう思った。
 猫は金色の眼でじっとこちらを見返し、馬鹿にしたように、ミャウと一声鳴いてみせた。

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パスハの南(11)

(10)からの続き

・ ・ ・ ・ ・

「なぜギリスをご存じなのでしょうか。レイラス殿下から何かお聞きなのですか」
 ギリスの静止のあまりの心苦しさに、ジェレフは押し出されるように口をはさんだ。それを切っ掛けに諦めたのか、イルスはギリスに差しだしていた右手を引っ込め、こちらに目を戻した。気を悪くしたふうもなく、彼はただ苦笑していた。
「スィグルが? 知り合いなのか」
 何も知らないらしかった。しまったと思って、ジェレフはただ曖昧に首を横に振った。
「では、誰が殿下にギリスのことをお伝えしたのでしょうか」
「エル・イェズラムだ」
 ギリスがぽかんとしたように、こちらを見た。
 まさか知らないのだろうかとジェレフは思った。
 確かに、エル・イェズラムの最後の英雄譚(ダージ)に、この異民族の少年の名は出てこない。だがイェズラムは、彼ら同盟の子供達を守るために戦ったのだ。停戦を維持するために。そしてそれが英雄の最後の戦だった。
 ギリスにとっては、エル・イェズラムがなんのために戦ったかは、どうでも良かったのだろう。とにかく英雄はタンジールを去り、戻った時は石だけになっていた。養い親の最期を語る英雄譚(ダージ)を詩人達が奏でても、ギリスにはそれが現実のことと思えないのかもしれない。
 幾多の歴史的な合戦場での、華々しい戦歴を誇る英雄の最期にしては、それは韻文で語るまでもないような、あっけないものだった。
 エル・イェズラムはひとりで出ていき、ひとりで死んだ。鼓舞される大軍団も、率いるべき魔法戦士もいなかった。
 彼の私闘だったのだ。
「遺言のようなものを預かっている。伝えるようなものかどうか判らないんだが」
 言葉のとおりの困った顔で言い、イルスは押し黙っているギリスの固い表情と見つめ合った。
「イェズラムはよく、俺をお前と間違えて呼んで、最期のときにも話しかけてきた。公用語じゃなかったから、俺には意味がわからなかったけど、一緒にいたシェルが黒エルフ語がわかったんだ。それで、あとで意味を尋ねたら、教えてくれた」
 言ってよいかと尋ねるように、イルスはギリスの顔を首をかしげて眺めたが、ギリスはやはり、微動だにしなかった。氷のような色の薄い目を見開いて、ギリスはじっと相手を凝視するだけだ。
「ギリス、今日はどんな悪戯をしたのだ、とイェズラムは言った」
 教えられても、ギリスはまったく反応しなかった。まさか聞いていないのではないかと、ジェレフは危ぶんだ。だが、しばしの沈黙ののち、ギリスはやっと小声で応えた。
「それだけか」
 イルスはそれに頷いてみせた。
「それだけだ」
 そして死んだ、とは彼は言わなかったが、それがイェズラムの最期の言葉なのではないかとジェレフには思えた。
 あの人は、たぶん見かけよりずっと、ギリスを可愛がっていた。重い病苦と闘うなかで、この痛みを感じないという能天気な子供を傍近くに置く感覚が、ジェレフには分からないこともあったが、エル・イェズラムは他の者には絶対に看病を任せなかった。自分など病床のある部屋に近寄ることさえ許されなかったのだ。
 気楽だったのだろうか。
 ギリスが話す、どこか外れたような話を、エル・イェズラムはいつも笑って聞いていた。ギリスが悪戯をして、皆を困らせ腹立たしくさせるのも、晩年の英雄には、このうえなく可笑しいらしかった。
 長老会の実質の首長であった彼が許したので、ギリスはいつまでも悪童のままでいられたのだ。
「殿下」
 唐突に、ギリスはまた言葉を発した。どこかのんびりした口調だった。
「イェズラムは強かったか」
「強かった。守護生物(トゥラシェ)をひとりで倒せる男がいるとは、俺はそのとき初めて知った」
 憧憬を隠すこともしないイルスの言葉に、ギリスは淡く微笑んだ。
「イェズの得意技だよ。あれには、こつがあるのさ」
 そう言うギリスはどこか誇らしげだった。
 彼もたった一人で守護生物(トゥラシェ)を屠ることができた。しかし彼が自分の強大な魔力や、華々しい英雄譚(ダージ)を誇るのを、ジェレフは未だかつて聞いたことがなかった。
 たぶん、天真爛漫なギリスにとって、それは、実際どうでもいいものだったのだろう。
 初陣で、ギリスは突撃する隊に押し迫る見上げるような巨大さの守護生物(トゥラシェ)を、いちどきにまとめて二十八体も倒した。突進する先に待ちかまえるものを、彼は全て凍らせたのだ。
 凍り付いた彫像のような敵を縫って、竜の涙たちは敵陣深くに無傷のまま突き進むことができた。
 一気に魔力を使い切ったギリスが失神して落馬するのを、ジェレフは目の前で見た。騎手を失った目隠しされた馬は、恐慌しており、ギリスを蹄にかけた。仲間を追うべきところを、ジェレフはとっさにギリスを救いに走っていた。
 そうしなければ後続の馬に踏み殺されていたのではないかと思える。今や、この戦場随一となった小さい英雄の、最初の英雄譚(ダージ)が、最後の英雄譚(ダージ)にもなるというのでは、彼にとっても皆にとっても、あまりにも惨いとジェレフは思ったのだ。
 傷を治してやると、ギリスは怖がる様子もなく、戦いに戻ろうとした。
 そこまで大量の魔力を一気に消費する者を、ジェレフは知らなかった。一戦きりで命が尽きるのではないかと心配になり、なんとかギリスを陣に帰らせようとしたが、彼はこちらの言うことなど全く聞いていなかった。
 初陣に興奮して、英雄譚(ダージ)を得ようと焦っているのかと思った。
 軍は勝利し、最大の功労を果たしたギリスを、族長は言葉を極めて誉めたたえた。
 それをぼけっと聞き、褒美はなにがよいか尋ねる族長に、ギリスは迷う様子もなく応えた。
 鷹通信(タヒル)を送りたいと。
 族長はそれを聞き入れ、ギリスは詩人たちが戦陣で書き上げた彼の英雄譚(ダージ)の一節を書き写したものを鷹に持たせて、タンジールに向けて放った。長老会の首長に宛てて。
 それで満足なようだった。
 後に、正式に奏でられた無痛のエル・ギリスの英雄譚(ダージ)を、エル・イェズラムは何が面白いのか、ほとんど爆笑しながら聞いていた。ギリスの手ひどい悪戯の話を聞くときと、それは何ら変わらない上機嫌さだった。
 たぶん、ギリスにとっては、宮廷で悪戯をするのも、戦場で守護生物(トゥラシェ)を倒すのも、根っこのところは同じなのだ。それをすれば、エル・イェズラムが笑う。
 そういうことなのか、と、ジェレフはまた黙り込んでいるギリスの横顔を眺めた。
 何を考えているのやら見当もつかない沈黙のあと、ギリスは突然に右手をのばして、向き合って立っているイルス・フォルデスの手を奪うように握った。皆ぎょっとしたが、それは握手のようだった。
 唖然としたようなイルスに、握り合わせた手を振りながら、ギリスは真顔で尋ねた。
「殿下、海エルフ語でにゃあにゃあは何というのですか」
「ね……猫の鳴き声か?」
 氷結の魔導師が握る自分の右手を見下ろし、イルスは少し仰け反っていた。
「ミャウミャウ」
 頷くギリスに頷き返しながら、イルスは律儀に答えた。
「みゃうみゃうか」
 最後に両手で相手の手を握ってから離し、ギリスは踵をかえして部屋を出ようとしていた。
 ジェレフはあんぐりとした。挨拶もしないで出ていこうとしている。まずいのだが、引き留める言葉を思いつく間もない。
「殿下……少々お時間を頂戴してもよろしいでしょうか」
 ジェレフが焦って頼むと、イルスは小さく何度か頷いて許した。
 もう扉を開けて出ていったギリスを、ジェレフは彼の名を呼びながら追った。

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パスハの南(10)

(9)からの続き

・ ・ ・ ・ ・

 廊下に猫がいた。
 真っ黒い夜のような毛並みをしており、闇の中に灯っているような二つの瞳は、金色をしていた。
 取り次ぎの者が、室内にいるイルス・フォルデスに来客の到着を告げている間、ジェレフたちは廊下で少々待たされた。
 そこへふらりと猫は現れた。
「にゃあにゃあだ」
 嬉しいのか、ギリスがふざけた調子で猫に呼びかけた。
 しっ、とジェレフは黙るようにギリスを叱りつけたが、そんなことを意に介する奴ではない。
 自分たちの足元まで偵察にやってきたらしい黒猫に屈み込んで、ギリスは猫の鳴き真似をしている。しかし黒猫はつんと澄ましていて、ギリスに取り合わなかった。
「ジェレフ、こいつ海辺の猫だから、こっちの言葉が通じないみたいだ。海エルフ語でにゃあにゃあは何て言うか知らないか」
「知るわけないだろ、そんなこと。猫に言葉の壁なんかあるのか」
 呆れた小声で、ジェレフは答えた。これが、やるときはやる男の姿と言えるのか。
 居室の扉が開かれ、取り次ぎの者が入室していいと伝えに来た。
 しゃがみこんでいたギリスを慌てて立たせ、ジェレフたちは控えの間を抜けて、中に入った。
 王族の居室ということで、無意識に、目のくらむようなのを想像していたが、それに反して中はあっけないほど質素だった。白漆喰の壁に、庭を望むテラスがあり、そこでは王宮にあったのと良く似た紙製の行燈(ランタン)が燃えている。夜風の入る室内は、床が暗い色合いの陶板で敷かれており、何台かの長椅子と、簡単な食事を盛りつけた低い食卓があった。
 椅子に腰掛けていたらしい少年は、こちらが入ってくるのを見て、立ち上がったところだった。確かに彼は、広間で彼の兄と手合わせをしていた少年だ。
 浅黒い肌と、青い目をしており、褐色の髪を束髪にしていた。王宮の夜会から戻った、そのままの格好だった。王族の礼服なのだろうが、黒エルフの王族が身に纏うものと比べると、あまりにも実際的で、まるで普段着のようだった。
「イルス・フォルデス・マルドゥーク殿下」
 挨拶をして、深く一礼しようとしたこちらに、彼は右手を指しだした。握手をしようという意味だと思えたが、ジェレフは虚を突かれて、ただ彼の顔を見つめただけだった。
 うっかり凝視しても、イルス・フォルデスは真っ直ぐこちらを見つめ返した。彼は父親には少しも似ておらず、人を拒まない、淡い微笑のような表情をしていた。
「英雄(エル)・ジェレフ」
 正式な名で呼ばれ、ジェレフは微笑を返した。彼はこちらの部族の作法を知っているらしかった。誰がそれを彼に教えたか、見当がついて、ジェレフは笑ったのだった。
 まだ大人とは言えない少年の手を握り返して、ジェレフは目礼した。
「族長リューズ・スィノニムの命を受けて参りました。スィグル・レイラス殿下がご体調を心配しておいでです」
「わざわざ来てくれて、ありがとう。俺はあいつの二倍は元気だよ」
 そう言って笑う彼は、確かに健康そのものに見えた。額冠(ティアラ)の下は計り知れないが、それ以外のところに竜の涙らしきものは見あたらず、魔法を使うようにも到底見えなかった。今でもまだ帯剣したままでいる彼は、どう見ても剣士だったからだ。
 さっそく診察を、とジェレフは考えた。
 それより先に、まずは根本的なところから説明したほうが良いのかもしれなかった。
 頭の中にある石が何をもたらし、その石を持つ者がどのように振る舞うべきか。
「英雄(エル)・ギリス」
 イルスが視線をそらして、半歩後ろにいたギリスを呼んだので、ジェレフは内心ぎょっとした。
 そうだった。彼はなぜか、ギリスに用があるのだった。
 イルス・フォルデスは気さくに、ギリスにも右手を差しだした。ギリスにその意味が分からないはずはなかったが、彼は相手の手を見つめ、凍り付いたように動かなくなった。
 挨拶に応えないまま、ギリスは視線をあげて、じっとイルスの青い目に見入った。
 お前、なにか言えよと、ジェレフは焦った。

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パスハの南(9)

(8)からの続き

・ ・ ・ ・ ・

「その子がエル・ギリス?」
 壁際から面白そうに様子を見ていた案内役が、ギリスを指さして訊いた。ギリスは十六歳で、その子と呼ばれるほど幼くないはずだが、海辺の者たちの目には、自分たちは年齢より若く見えるらしかった。
「これがエル・ギリスですが何か」
 首を絞めたまま、ジェレフは答えた。
「エル・ジェレフ、ギリスが死んでしまいます」
 サフナがはらはらしたように忠告したが、ジェレフは大丈夫ですと答えた。死ぬほどは絞めてません。気は遠くなるでしょうけど。それくらいの目に遭わせたいんですから。
「フォルデス殿下がその子を必ず連れてくるようにと」
 案内係が、ぐったりしているギリスを指さしたまま言った。
 珍獣だからですか。勢いでそう応じかけて、ジェレフは気付いた。
 どうしてギリスのことを知っているんだろう。スィグルが鷹通信(タヒル)でも打ってきたのだろうか。出立の時には会わせたくないような口ぶりだったが。
 不意に気が済んで、ジェレフはギリスを解放した。
 咳き込んでいるギリスを、エル・サフナールが心配そうに見ている。
「ジェレフ、なにかが走馬燈のようによぎって見えて気持ちよかった」
「そうか、それが天国の門だ」
 丈夫なやつだとジェレフは思った。ギリスは子供のころからとにかく強靱だった。竜の涙の中には、頭の中にある石のせいで、幼少のころから足元がふらつくような不運な者もいる中で、ギリスはまさに殺しても死なないような奴だ。
 エル・イェズラムが言っていたように、笑うと愛嬌があって憎めないやつだが、その打たれ強さが時々猛烈に憎く思える時があった。たとえば今がそうだ。
「殿下は、ここから少し離れたところにあるご自宅でお会いになるそうですから、謁見される方はそろそろ馬車のほうに。もう準備ができているはずです」
 誰を連れていこうかと、ジェレフは考えた。
 タンジールから伴ってきた透視者は双子の男で、向かいの長椅子に瓜二つの顔で腰掛けている。彼らと自分と、それから、指名されてしまったからには、ギリスを連れていくしかない。
 ほかの者は残していくことにした。何か思いも寄らないとばっちりがあると困る。
 残った者たちに、この足で早々に滞在先である領事館に戻るよう伝えて、ジェレフは双子とギリスを伴い、用意されていた馬車に乗った。
 サウザスの街は夜だった。
 王宮の庭には、そこかしこに、紙で火を覆った行燈(ランタン)が飾られていた。ぼんやりと明るく、紙に描かれた様々な文様や絵を浮かび上がらせているその光は、タンジールを照らす光に比べると、いかにも頼りなく野蛮だったが、ジェレフには美しく見えた。
 しかし、ここで一生を送りたいとは到底思えない。
 石造りの都市は、真新しかったが、単純で、取り柄といえば大らかさだけに思えた。
 艶やかに広がるタンジールの目映い商業層が、不意にとても懐かしく思い出され、にわかな里心に苦しめられている自分をジェレフは感じた。
「ギリス、行くからには約束してくれ。向こうのことは、殿下と呼べ。挨拶以外は口にするな。相手の目を凝視するな。この部族では、挑戦していると思われる。それから、相手がお前を指さしても、それには深い意味はない。絶対に魔法は使うな。絶対にだ。わかったか」
「わかってるよ。ジェレフ、苛々すんな。俺はやるときはちゃんとやるから」
 馬車の向かいの席で、ギリスはどこかむくれたような顔をしていた。
「ちゃんとしなくていい、何もするな」
 苦笑して、ジェレフは念押しした。
「殿下を診たら、俺たちタンジールに帰れるのか?」
 ギリスが馬車の窓から異国の街を眺め、そう尋ねてきた。
「いいや。着いたばかりだろ」
 長旅をしてここまで来たのだ。やるべき仕事はまだ沢山あったし、これから一ヶ月は滞在する予定だった。
「俺、もう帰りたい。タンジールに」
 いつになくひ弱な感のあるギリスのぼやきを聞き、ジェレフはこいつも案外参っているのかなと驚いた。
「そう言うな。嫌なら嫌でいいから、領境の外をよく見ておけよ。いかにタンジールが素晴らしいか、改めて思い知れる」
「そんなの、どこにも行かなくても思い知れる」
 切なそうに、ギリスは答えた。
 ジェレフは消沈している悪童の横顔を苦笑して眺めた。
 双子の透視者が、声をそろえて、麗しの(フラ)タンジールと讃え、ギリスを励ました。

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パスハの南(8)

(7)からの続き

・ ・ ・ ・ ・

「お前はほんとうにな……黙っていろと言われたら、黙っていろ。頼むから」
 ジェレフはギリスに頼んだ。もう頼むしかなかった。
 あんな微妙な話題で、もし族長ヘンリックの不興を買ったらどうすれば良かったのか。
 海辺の王宮では、血なまぐさい継承の話題は禁忌でもなんでもないのかもしれないが、異国人である自分たちが口出しするような話ではない。黙っていれば良かったのだ。
「だってジェレフがびびってたからさ。俺がなんとかしてやろうと思って」
「誰がびびってただって?」
 確かにびびってたさと悔やみながら、ジェレフは顔を擦った。
 こんな成り行きになってしまって、どうにかならないかと困っていたが、ギリスのあの一言で、族長との会話は終わりだった。
 ギリスの言葉に気を削がれたのか、それとも元々あれで終わりだったのか、族長ヘンリックは別れの挨拶をして、さっさと取り巻きを引き連れ、広間のどこか別の場所へと移動していった。
「あの兄貴のほうが次の族長ってこと?」
 興味本位なのが丸わかりの口調で、ギリスは尋ねてきた。知ったことかとジェレフは思った。
「どうなってんだっけ。ここの部族の継承って」
「現族長と対戦して勝てば、族長冠を奪える」
「すげえ」
 ギリスが驚いている。
「なんでイェズはあいつを殺っちまわなかったんだろう?」
「エル・イェズラムが異民族の族長になれるわけないだろう。治められるのは自分と同種族だけだ」
 子供のようなギリスの発想に、脱力しながらジェレフは教えた。
「そうなの?」
 あっけらかんと聞き返してくるギリスに、ジェレフは疲れた。
「神聖神殿がそう定めている。一領、一部族、一君主だ。背けば大変なことになる。……というかだな、お前、日に何度も神殿に通っているくせに、なぜ教えを知らないんだ」
「俺は懺悔したいだけなんだもん。いつも罪汚れない身でいたいの」
 じゃあ罪を犯すなとジェレフは言いたかった。
 居間らしい丁度品のある控えの間で、ジェレフたちは待たされていた。扉を開いて、案内係の海エルフが戻ってきた。
「エル・サフナールが戻られましたよ」
 彼が言うように、ちょっと落ち込んだような顔をしたエル・サフナールが部屋に入ってくるところだった。彼女は族長ヘンリックの正妃を診察するために、別行動をとったのだった。
 サフナールは今回の使節団の正使ではなく、物見遊山でやってきた志願者のひとりだった。だから仕事をしなければならない謂われはないのだが、女性の診察ということで、どこかしら身構えたジェレフの心情を察して、代役を申し出てくれたのだった。
 治癒術は相手の体に触れる必要があり、もしも大量の魔力を投入する場合、ジェレフが相手を抱きしめねばならない事をサフナは知っているからだ。
 低い長椅子に居心地悪く腰掛けて待っていた仲間のところへ、エル・サフナールは戻ってきて、ちんまりと椅子の端に腰掛けた。ジェレフの隣だった。
 その事実と、人がもうひとり座れるようでいて座れない絶妙な距離のとりかたに、ジェレフはなんだか情けないような気持ちになった。可愛いなと思ったからだ。
「どうでしたか」
「無理でした」
 ジェレフが尋ねると、サフナールは小声で答えた。
 彼女は案内役の海エルフの耳を憚ってか、部族の言葉で話していた。
「最後のご懐妊のときに胎児の毒にあたられたようで。弱っておいでです。治療はしましたが、一時的にしかご回復されないと思います。次の妊娠は危険なので、族長にはそうお伝えしたほうがいいです」
 ほとんど囁くようなサフナの話に耳を傾けながら、ジェレフは顔をしかめた。
「治療したんですか。俺に任せていいんですよ。石のない術医も連れてきているんだし」
 竜の涙の魔力を使えば、そのぶん石は成長する。一度や二度であれば僅かなものだが、それでも一歩ずつ死に近づくことは確かだ。
「でも、ずいぶんお嘆きで、お気の毒だったので。私のほうがお役に立ったと思います、その……女の方ですから」
 女同士だからという話は、サフナールはできない。それを言われると皆困るからだった。部族のしきたりでは、男女は同席できない。竜の涙でなければ、彼女はこうしてジェレフと対等に口をきくことも出来ないのだ。
「なんでも、この時期に懐妊できないと恥なのだそうです。正妃様もそうですが、族長閣下にとっても。でも本当にいけません。エル・ジェレフから族長閣下にお話ししてください」
 彼女の話に、ジェレフは黙って頷いた。
 下手に回復させない方が良かったのではないか。世継ぎの男子の頭数に不足があるとして、健康になったように見える妻がそれを望めば、他人から、やめろと言われてやめる男がいるだろうか。
 そう思えたが、今さらの話であるし、なによりサフナの気持ちは分かる。今ここで彼女に言っても詮無いことだ。
「それから、正妃様のご長男の診察もしました」
 ジェレフはサフナの話に今度は心底ぎょっとした。そんな依頼は聞いていない。
「正妃様に治癒の施術をしましたら、大変感激なさって、ご子息も診てほしいと、お部屋に呼ばれたのです」
「治したのですか」
 思わず、まさかという口調で尋ねると、サフナは決まり悪そうな顔をした。
 治したのだ。
 遠目に見ただけだが、あの長男が病身なのは分かった。どんな病か知らないが、長患いのようだった。そういう患者を治療するのは果てしないことだ。竜の涙の治癒者にとっては、こちらの血を吸わせているようなもので、長く続けるといずれ共倒れになる。
「生まれつき心臓がお悪いようです。隠しておいでです。継承に差し支えるからと」
 ひそめていた声を、さらに小さくして、サフナはこちらに身をかがめ、ほとんど耳打ちするように話していた。
 まずい話だとジェレフは思った。
 魔法で劇的に回復した姿を見て、そのあとまた不調に陥ったとして、正妃母子は再び竜の涙の治癒者を求めはしないだろうか。
 だいたいの患者は、最初に治療した治癒者を強く信頼するものであるし、正妃はエル・サフナールを求めるだろう。しかし竜の涙は黒エルフ族に仕える者で、それを留め置くのは無理な話だった。
 治癒者が欲しければ、正妃は族長リューズに情けをかけてくれるよう申し入れなければならない。族長は喜んでサフナを貸すにちがいない。同盟者に負債を与えるには好都合だからだ。
 そうしたら、エル・サフナールは一生タンジールに戻れなくなるだろう。
 こう思うのは自惚れかもしれないが、自分についてきたいばっかりに、南行を志願し、それきり故郷に戻れなくなるとは、この気の弱い人にとってはあまりに悲劇的ではないのか。
 ジェレフは切なくなって、エル・サフナールの小作りな顔を見つめた。
 早々に身を退いて、あとは自分に任せてくれと、ジェレフはサフナに言おうとした。
 その瞬間だった。ギリスがふたりの間に無理矢理割り込んで腰を下ろしてきたのは。
 恨みがましい氷の目で、ギリスは鼻が触れそうな間近でジェレフを睨み付け、そして低く脅しの聞いた声で言った。
「ジェレフ。口説いてないで仕事しろ」
 ジェレフは一瞬沸いた怒りで気絶しそうになった。目を閉じ、それから開いて、ジェレフはギリスの首をつかんだ。
「仕事なら、今してる。お前はな、もう、帰れ。エル・ギリス」
「ジェレフ、絞めてる」
 ギリスは首を絞められて藻掻いていた。お前も息はしてるんだなとジェレフは感心した。

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2008/07/24

パスハの南(7)

(6)からの続き

・ ・ ・ ・ ・

 広間の中央から、剣を打ち合わせる音が響いた。
 若い兄弟は下段に構えた剣を触れあわせていた。それは挨拶のようだった。
 その次の瞬間、弟のほうの攻撃から戦いは始まった。軽く首を巡らせて避け、ジン・クラヴィスは彼の握る長剣を舞わせて、弟の喉もとを薙いだ。殺意があるとしか思えない切っ先の速さだった。
 しかしイルスは微笑を浮かべたまま、それを紙一重で避けた。
 片方が斬りつけ、もう片方が鮮やかに避けた。その応酬は少しずつ、しかし確実に速さを増していた。彼らは笑っていたが、殺し合っているように見えた。
「止めなくていいのですか」
 思わずジェレフは誰にともなく尋ねた。
「あれは手合わせ(デュエル)だから大丈夫です」
 案内役の海エルフが、にこやかにそう教えた。
 一瞬の優勢をとり、イルスがジンに斬り込んでいった。周囲から見ていた者や、族長の警護をする制服の者たちが、それを囃すように、ヴェスタと叫んだ。
「なんと言っているのですか」
「殺せ(ヴェスタ)と。……ただの伝統的なかけ声ですから」
 安心しろというように、案内役はこちらに頷いてみせている。彼らは族長の年若い息子たちが斬り合うのを、心底楽しい娯楽と受け取っているようだった。
 熱心に打ち込みすぎたイルスをいなして、ジン・クラヴィスが彼の背後に身を翻した。剣を振り上げる兄に、弟は向き直ろうとした。しかし間に合わず、イルスは剣の腹で強かに尻を叩かれ、足を払われて、床に転倒した。
 ヴェスタ、と広間が笑って囃し立てた。
 ジンが弟の帯を掴んで立たせ、腹を刺し貫くまねをした。ふたりは笑っていたし、それを見ている、皆も笑っていた。
 笑っていないのは自分たち黒エルフと、どこか遠い目をして息子達を眺めている族長ヘンリックだけだった。
「手合わせ(デュエル)はこの部族では社交なのだ。皆の見ている前で腕を見せるのが。本気でやりあうような相手には申し入れない。殺す気は全くないという意味合いで申し込むものだ。これが夜会の儀礼だから言うが、使者殿。俺と一戦、手合わせをいかがか」
 こちらを見ずに、族長ヘンリックは億劫そうに誘った。その気怠い調子が、自分に向けられていることは確かだったが、答える必要があるのか、ジェレフには謎だった。
「せっかくですが辞退を。魔法戦士は演武は行いません」
「知っている。お前たちは人の形をした化け物だ。剣一本で戦って勝てる相手ではない」
 苦笑とともに、族長ヘンリックはそう答え、ジェレフの辞退を快く受け入れた。
「昔、お前たちの兄貴分をからかって、危うく焼き殺されるところだった。剣ならともかく、魔法を使えば、お前達にとって、俺など一捻りなのだろう」
 こちらの頭布(ターバン)をした者をひとりずつ眺めて、ヘンリックは言った。彼はエル・イェズラムのことを話しているのだと、皆わかっていた。ギリスが物言いたげで、それと向き合った族長ヘンリックは、少し面白そうに微笑を取り戻した。
「そんな力を持っていながら、お前達はよくも大人しく、あいつに仕えているものだ。湾岸では考えられないことだ。あの顔がそんなに好きか」
 不思議そうに、ヘンリックは尋ねていた。あの顔というのが、族長リューズのことを言っているのは確かだった。ジェレフは返答に困った。顔が好きだから仕えているわけではない。でも、なぜ仕えているのか、改めて考えると返答に窮する。
 たぶん族長が英雄譚(ダージ)を与えてくれるからだろうが、そのあたりの心理をこの場で手短に説明するのはひどく難しかった。
「族長」
 隻眼の男が、ヘンリックの注意を引くため小声で呼びかけた。
 彼の示すほうへ、ヘンリックは目を向けた。
 手合わせの戦いを終えた兄弟たちは、まだ広間の中程に立っていたが、抜き身の剣を持ったままのジン・クラヴィスは、どこか遠くを見やるような後ろ姿をしていた。
 その視線は広間の向こう側に向けられており、そこには豪華に着飾った女性が、どことなく青白い顔色で長椅子に腰掛けており、彼女の子らしい、年の離れた三人の少年たちが傍らにいた。
 末の子らしいひとりはまだ子供で、母親のそばにくっつくように立っており、その隣にはイルスと同じくらいの背格好の、明るい雰囲気のする少年がいた。ジンが見ているのは、母親と向き合って立っている、ずいぶん痩せた気配のする若者だった。
 じっと食い入るように、ジンはその弱ったふうな背中を見つめている。
「止めろ、レスター」
 命じる声で、ヘンリックは隻眼の男に言った。
「手合わせ(デュエル)は男の嗜みです、族長」
 レスターと呼ばれた男は、どこか突っぱねるように答えた。
「母親の前で挑戦させるな。戦う必要はない。ジンが勝つ」
「それを皆の前で確かめて、なにがいけないんだ」
 挑むような微笑みを、隻眼の男は浮かべていた。ヘンリックは真顔で首をかしげて、それを見返した。
 ヘンリックは何も言わなかったが、彼の目はレスターに、命令が聞こえなかったのか、と言っていた。隻眼の男はそれにも、目で答えた。聞こえていますよ、と。
 一呼吸あってから、レスターは腰に帯びていた自分の剣を抜きはなった。
 彼は大仰に大股で広間の中央にいる兄弟のところへ歩いていき、ジンの肩を叩いて振り向かせた。
「殿下、このレスターめと手合わせ(デュエル)を一戦」
 彼の道化師のような戯けた口調に、ジン・クラヴィスは我に返ったように笑った。
 広間を彼らにゆずって、イルスは兄の妻の待つところへ引き上げていった。大きな腹を抱えた彼女はどこか所在なげに立っていた。イルスはそれを励ますように笑いかけ、戦いはじめた兄とレスターを見ている。
「使者殿、出し惜しみして無粋だが、まだ早い。兄弟殺しが見たければ、また四年後に来られるといい。そちらの宮廷とは違って、うちの喧嘩は皆に公開されているのだ。まずは俺の次男が、異腹の兄を平らげるだろう。この中央広間(コランドル)で」
 それを確信しているが、嘆きはしない口調で、ヘンリックが語った。
「仕方がない。王族の定めだから」
 突然ギリスがそう言ったので、ジェレフは心底ぎょっとした。口を利くなと言っておいたのに。
 族長ヘンリックは、小さな子供を見るような視線で、ギリスのほうに顔を向けた。
「お前の言うとおりだ」
 微笑んで、ヘンリックはギリスに答えを返した。
 笑っていると、族長は彼の次男と驚くほどそっくりだ。
 それはその昔、先代の族長と、それを守る者たちを全て斬殺して、族長冠を奪い取った男の顔だった。

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パスハの南(6)

(5)からの続き

・ ・ ・ ・ ・

 慣れない異国で不自由だろうが、滞在を楽しんでいってくれと、族長ヘンリックは言った。こちらは畏れ入って一礼した。型どおりの挨拶だった。
 例の三男の件は、秘密であるわけだから、今ここで話題にするような事ではなかった。お互いに了承済みであろうし、今はただ、族長にこちらの顔を見せておけば礼儀に叶う。
 ジェレフはそう判断して、もう引き下がろうかと思った。沈黙がちな彼らを前にしていると、どうも会話の糸口がつかめない気がしたからだ。
 また一礼して退がろうと決めた瞬間、族長ヘンリックが広間の一角を指さして示した。ジェレフも他の者も、皆そちらを見た。
 そぞろ歩く貴人たちのいる、なにもない開けた場所に、まだ年若いような三人連れが立っていた。ひとりは女性で、金髪だった。いくらか浅黒い肌をしていたが、どう見ても森エルフのようで、どう見ても妊娠している大きな腹を抱えていた。
 彼女に寄り添って立っている若い男は、すらりとした体格をしており、遠目に見ても、族長によく似ていた。目の前にいるこの男を、そのまま若くしたようだ。
 彼は向き合った少年と笑いながら話していた。頭ひとつぶん背の低い相手の髪をぐしゃぐしゃと乱して厭がられ、彼は笑っていた。
「あれがイルスだ」
 族長はそう言ったが、どちらのことかジェレフには分からなかった。それを察したのか、ヘンリックはややあってから付け加えた。
「女(ウエラ)を連れていない方だ」
 それは妻を意味する言葉だとジェレフは解釈していた。あの妊娠している娘がそうなのだろう。ヘンリックに似ているほうのが、あの娘の相手だろうから、背の低いほうのがイルス・フォルデスに違いなかった。
「優れた治癒者だそうだな。リューズが手紙に書いていた。我が王朝の奇蹟」
 族長リューズの言葉を引用しているのであろう、族長ヘンリックが口にしたそのほめ言葉に、ジェレフは恐縮した。族長は同盟者に恩を売るためにそう書いたのだろうが、分かっていても気恥ずかしかった。同じ治癒者であるエル・サフナールが、微笑みを自分に向けるのが感じられた。
「妻を診てやってくれ。末の息子を産んでから体調が優れない。もう孕めないと本人は思い詰めている」
 大して深刻そうでもなく、ヘンリックはジェレフに頼んだ。世間話のような気がした。
「族長。それが今期不発の言い訳で?」
 彼の護衛のひとりが、軽い調子でそう話しかけた。ヘンリックが声もなく笑い、その他の者たちは声を上げて笑った。彼らには面白い冗談らしかった。
「それは俺への挑戦か? 使者殿たちには、ちょうどいい余興だ。中央広間(コランドル)で俺と踊るか、カダル」
「まさか」
 笑って言うヘンリックに男はやはり笑って答え、両手を挙げて空手を示した。
「そういうのは殿下がたに任せます」
 男が顎で示したほうを、ジェレフは見やった。なにもない、がらんとした広間の向こう岸で、ヘンリックに似た若者は、彼の妻らしい娘を抱き寄せて口付けをしていた。その濃厚なことに、ジェレフはたじろいだ。
 その横にいるイルス・フォルデスが、なぜか抜刀している。その剣の腹で、接吻する男の尻を叩いて、彼はなにか罵ったようだった。笑って妻を手放し、若者はイルスに笑い返すと、おもむろに腰に帯びていた剣を抜いた。
 それはどう見ても真剣だった。親しげになにか言い交わしながら、がらんとした広間の中央に歩いていく二人を、ジェレフは不吉な気分で見守った。
「もうおひと方は、どなたですか」
 尋ねなくても、ジェレフには見当がついていた。彼らはふたりとも額冠(ティアラ)をしていたからだ。
「ジン・クラヴィス。イルスの兄だ」
 どことなく違和感のある族長の答えに、ジェレフはなぜだろうと考えた。どうしてこの人は、あれは自分の次男だと答えないのだろう。
「ご結婚されたのですか」
 そうなら祝辞を述べなければならないと思い、ジェレフは尋ねた。自分たちの旅の間に、情勢が動いたのかもしれない。
「いいや。あれは女(ウエラ)だ。妻ではない」
 どこか憮然として答えるヘンリックの背後に、長身で隻眼の男が控えており、たしなめるように言った。
「いいじゃないですか。その女(ウエラ)が孕んだおかげで、殿下もおとなしくなって、こうして海都に戻れたんだから。今期はもう終わりですよ」
 ヘンリックはなにも答えなかった。

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パスハの南(5)

(4)からの続き

・ ・ ・ ・ ・

 内心、無意識に玉座の間(ダロワージ)のような場を想像していた面々は、篝火の焚かれた半屋外の宴席に、寄る辺なく集まって立ちつくす羽目になった。
 族長ヘンリックからの遣いによれば、ちょうど時が折り合うので、使節団を歓迎する夜会の席で謁見するとの連絡だった。
 案内の者に連れられてやってきた王宮の広間は、海を望む高台の庭に向かって開けており、夜風の吹き抜ける中、だだっ広くあいた何も置かれていない床を取り囲むようにして、寝そべって物を食うらしい長椅子と、料理を盛りつけた低い食卓が置かれている。
 海辺の種族の貴人らしい人々は、その長椅子で会話しながら食事をしている者もいれば、そぞろ歩いて社交に熱中している者もいる。とにかく、それぞれの行動にまとまりがなかった。
 玉座の間に集い、典礼を取り仕切る侍従の号令で皆がいっせいに同じことをしているタンジールの宮廷と引き比べると、ここに集まる意味があるのかと思えてくる。
 それに何より、族長がどこにいるのか分からなかった。
 玉座がないのだ。玉座がない。
 その事実にジェレフはなかなかついていけなかった。
 玉座がない。
 あらかじめ知っていた事実だが、目の当たりにすると、違和感は絶大だった。
 一部族の族長ともあろう者が、宴席にやってきた他の者たちと同じように、この広間のどこかを、うろうろ移動しているというのだ。
 朝儀や晩餐の前後であれば、族長リューズも広間を渡って出入りするときに、廷臣たちと親しく口をきくことはあった。でも、それとこれとは根本的に性質が違う。
「ああ、あれかな。夜警隊(メレドン)の礼服が見えますか、あの一団の中に族長がいるはずです」
 指さした腕を振り回して、案内にやってきた海エルフの将校は、あけすけに教えた。
 その姿を見て、ジェレフをはじめとする黒エルフの一団はぎょっと肝を冷やした。部族の習慣では、相手を指さすのは侮辱する意味を持っていたからだ。
 しかし、そんなことを気にする様子もなく、案内係はずかずかと広間を横切って、指さした一団のいるほうへとジェレフたちを引き連れていった。
「族長。族長!」
 移動している相手を引き留めるためだろうが、大声で呼びかける案内係に、街で会った友達を引き留めるような気安さがあり、ジェレフは顎が落ちそうになった。
 しかし、とにかく、その呼び止める声に、族長を警護しているらしい一団は、こちらが近づくのを待つふうに足を止めた。
「なんだかな……」
 ぼやくようにギリスが呟いた。ギリスですら呆れているらしかった。
「イェズラムの言行録には、粗野にして野蛮て書いてあったよ」
「そんなこと死んでも口にするなよ、どうやら謁見らしいから」
 情けない気分で、ジェレフはギリスに注意を与えた。しかしエル・イェズラムの批評に賛成する気持ちしか湧かなかった。
「目のやり場に困るよなジェレフ」
 ため息をつき、ジェレフは族長の一団を見つめたまま、小さく頷いた。
 夜会の広間には、貴人の妻らしい女性たちが、うようよいた。
 タンジール宮廷では、男女は同席しないものだったし、公式な席に女が現れることはまずない。竜の涙の女戦士を除いて。
 サウザスでは違う。その話も予備知識として知ってはいたが、それがまさか胸のふくらみも露わな、大きく襟のあいた夜会服姿でとは、どこにも書いていなかった。たぶん今までの誰もが、気恥ずかしくて書き漏らしたのだろう。エル・イェズラムでさえそうだったのだ。
「乳しか見えない。乳だらけ」
 ギリスが的確なことを言ったが、エル・サフナールが必死の気配のする咳払いをしたので、ジェレフはどうしていいか分からなかった。
「ギリス、わかったから、もう一言も喋るな。頼むから。謁見に集中させてくれ」
 こちらに向かって歩いてくる一団の中程に、族長ヘンリックはいた。族長冠をかぶっているから間違いなかった。
 目が合うより先に、ジェレフたちは腰を折って深々と一礼した。
 跪拝叩頭しなくていいのかと思うが、使者は相手先の宮廷儀礼に倣うのがしきたりだ。このへんが妥協点だった。
 顔をあげたジェレフを、族長ヘンリックは微かに首をかしげた姿勢から、微笑して見返した。なにかが面白くて笑ったのだと思えた。自分より十歳ほど年上の海エルフの男は、族長らしい貫禄があるというより、威容を発していた。王宮にいるより、戦陣にいる種類の顔だ。
 それを言うなら、族長を警護する者たちも、この広間にいる他の貴人たちの多くも、皆そうだった。まるで戦いの前のような気配が、どことなく張りつめている。
「ようこそ」
 端的な口調で、族長ヘンリックは直々に言葉をかけてきた。彼を守っている制服の男達は、まるで猟犬のような忠実さで、族長のごく近くに立ち、微笑みもせずにじっとこちらを見つめている。
 凝視するのは黒エルフだけの習慣ではなかったか。じっと見るなと外交儀礼の手引き書には書かれていた。それに反して、自分の目をじっと見つめてくる海エルフたちの青い瞳を、ジェレフはただ見つめ返した。


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2008/07/23

パスハの南(4)

(3)からの続き

・ ・ ・ ・ ・

 イシュテムの館からタンジールに向けて、サウザス到着目前の報を持たせた鷹通信(タヒル)を放った。
 ここまでは、船が難破でもしないかぎりは無事で当然だった。航路沿岸は部族領か、同盟国であるし、どんなとんでもない奴でも船に閉じこめられている限り、できる悪さも限度がある。
 しかしサウザス入港後のことには頭が痛い。
 竜の涙たちは教養として、公用語も外交儀礼も仕込まれている建前だから、本来なら心配することはないのだが、ギリスは本当に大丈夫だろうか。
「ギリス、公用語は話せるんだろうな」
 当然だよなという含みをたっぷり籠めて、頭布(ターバン)と格闘しているギリスに、ジェレフは尋ねた。
 ギリスの嘘に傷ついたらしいエル・サフナールは、もう手伝ってくれなくなったらしい。当然の報いだ。
「話せると思うけど、あんまり自信ないなあ。聞く方はなんとかなるけど」
 いたって正直にギリスは答えた。なぜちゃんと学んでこなかったんだと言いかけて、ジェレフは気付いた。話せないということは、失言もしないということだ。
 そんな素晴らしいことがあるだろうか。
「まあいいさ。謁見の時には、俺が代表で挨拶をするし、お前は黙っていればいいんだからな」
 とりあえず頭布(ターバン)を仕上げて、ギリスは鏡を覗き、むっとした顔をした。格好に構わないようでいて、見栄えが悪いことは理解できるらしい。ほどいて巻いてを永遠に繰り返されそうだったので、あきらめてジェレフはギリスの頭布(ターバン)を巻いてやった。
「謁見て?」
「族長への謁見だ」
「ああ、左利きのヘンリックだ」
 納得したように呟くギリスに、ジェレフはいやな予感がした。
「その名は渾名だから、公用語では口にするなよ。特に正式な場ではな」
「例のあいつには、いつ会うんだ、ジェレフ」
 ギリスの言う例のあいつとは、族長ヘンリック・ウェルンの三男の、イルス・フォルデスのことだ。スィグルの人質時代の友人で、彼の竜の涙の診察が、今回の南行の主目的のひとつだった。
 恩を着せるように、と、うちの族長は念押ししていた。形のうえではスィグルの頼みを受け入れたことになっているが、三男の難病は族長ヘンリックにとっては個人的な秘密の部類で、そこに貸しを作ることには、族長リューズにとって政治的な旨味があったようだ。
 海エルフたちは竜の涙を呪いの一種と考え忌避しており、呪われた息子を持っていることは、族長ヘンリックにとっては醜聞なのだ。
 そこまで思いめぐらせてから、ジェレフははっとした。
「ギリス、例のあいつが竜の涙だということは、秘密なんだからな。船を降りたら、いっさい口にするな。公用語でなくてもだぞ。誰が聞いているか分からない」
「なにが秘密だよ。肝の小さい野郎だよ。隠すようなことじゃないだろ」
「この国では隠すようなことなんだ。おとなしくしてろ」
 ギリスに理解しろというほうが無理かもしれなかった。
 黒エルフ族に生まれついた幸運をジェレフは改めて感じた。そのお陰で、誰に忌み嫌われることもなく、王族にも劣らず敬われ、英雄として晴れがましく生きていくことができる。その一方で、本当に王族に生まれながら、父親の弱みとして、隠れて生きている者もいるのに。
 どんな子なんだろうな、と、ジェレフは思った。あの気むずかしいスィグルが、大切な友達だというのだから、それ相応の器なのだろうが。
「頭、暑っいわ……脳みそ茹だりそう。このまま一日ずっとなのか。やってられない。呪われてると思われてもいいから、頭布(ターバン)はやめたい」
 ギリスが愚痴った。説教したいところだが、ジェレフも同感だった。
 じっとりと湿気を含んだ暑い空気が、船室にも侵入していた。ギリスでなくても王宮が懐かしくなろうというものだ。
 でもまあ、せっかくの異国の旅だ。野蛮さを楽しむくらいの度胸がないと。
「行こうか。英雄の顔をしろギリス」
 返事とも思えない声で、ギリスがあくびをしながら答えた。


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パスハの南(3)

(2)からの続き

・ ・ ・ ・ ・

 絶対に同行させるものかと思っていたが、ギリスに異国の街中をひとりで行動させる恐ろしさを考え、ジェレフは彼をボルゲン市内にあるイシュテムの屋敷に伴うことにした。
 呉服商イシュテムの主は、上品な初老の男だった。
 彼は丁重にジェレフたちを出迎え、初対面の挨拶のあとに、エル・イェズラムの死を追悼する言葉を続けた。
「お会いになったことが?」
 ジェレフが尋ねると、イシュテムは頷いた。
「ございます。短期間でしたが、族長閣下はじめ、皆様が当家に滞在されましたので」
 ギリスがなにか発言しそうだったので、ジェレフは黙らせるため彼の足を踏んだ。
「シェラジールの子孫です」
 ギリスに持たせていた鷹の鳥籠を、ジェレフは主に示した。
「イシュテム殿と鷹の忠節を讃え、閣下から褒美を賜ります」
「茘枝(レイシ)ですか」
 当てずっぽうのようだったが、イシュテムは族長リューズが持たせた褒美の一部を言い当てたので、ジェレフは驚いた。
「そうです……なぜ分かったのですか」
「滞在中に、リューズ様が当家にあった茘枝(レイシ)を全て召し上がり、もっと出せとおっしゃるので、もうないと申し上げたら、大変すまないとおっしゃいまして」
 ジェレフはあぜんとしてそれを聞いた。
「必ず返すと約束なさいましたので」
 ふっふっふっと思い出し笑いをしながら、イシュテムは話している。
 ジェレフの中で族長のイメージが崩れはじめた。
「ずいぶん時が流れました」
 ジェレフは言葉もなく頷いた。目の前の商人が知っている族長は、即位したての十八歳で、ギリスより少々成長した程度だ。その時、随行してきたエル・イェズラムは二十代の初めだったはずだから、ちょうど自分がギリスを連れてやってきたのと似たようなものだったのだろう。
 イシュテムは籠の中の鷹に目をやった。
「それで、この鷹めは、族長閣下からどんな名を頂戴したのでしょうか」
「シェラジール85号」
 すかさず答えたエル・ギリスのほうを、イシュテムの主は、彼が冗談だというのを待つように、しばらくじっと見つめた。しかしギリスは言葉を継がなかった。それが本当にこの鷹の名前なのだから、ジェレフもなにも言えなかった。
「族長閣下はお変わりないようで安心しました」
 商人は遠慮なく鷹と褒美を拝領した。
 土産に服をもっていけという主に、仲間に持って帰ってやる衣装を選ばせてもらった。
「ジェレフ、エル・サフナールに女物の服を選んでやれよ。絶対喜ぶから」
「失礼だろ、そんなの」
 頭痛がする気がして、ジェレフは顔をしかめた。餓鬼のくせに英雄譚(ダージ)よりダロワージでの戦歴を稼いでいるらしい。
「サフナはジェレフが好きなんだって。なんでジェレフはもてるんだろう。みんなお前が好きだよな」
 恨みのこもった目で見られて、ジェレフはうろたえた。
「サフナが、ジェレフには弟(ジョット)がいるのかってこっそり聞くから、俺がそうだって言ってやった」
「お前いったいどういう了見だ」
 あまりの話にジェレフは思わず叫んでいた。
「禁欲しろジェレフ……俺が三ヶ月も我慢すんだから。お前だけいい思いするなんて絶対ゆるせない」
「ギリス、お前に恨まれる覚えはないぞ」
「本当にそうか?」
 ギリスの目が怖かった。
「さ。早く選んで皆のところに戻ろうか。明日にはもう出港だからな」
 とりあえず、ジェレフは逃げた。覚えがあるとは思いたくなかった。ただでさえそれは剣呑だったが、その上さらにこの滅茶苦茶な悪童と恋のさや当てをするなんて、想像するだにいやだ。
 そうだったのか、エル・サフナール、とジェレフは思った。それで体力もないのに南行を志願したのか。そんなことタンジールにいる時に言ってくれればいいのに。
 なんだか、大変なことになってきた。無事に帰りたい。無事に帰れるといいのだが。無事に帰れますように。
 信心深くもないはずだが、ジェレフは思わず祈っていた。


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2008/07/22

パスハの南(2)

(1)からの続き

・ ・ ・ ・ ・

「ジェレフ。エル・サフナールがゲロ吐いてんだけど」
 揺れる通路にふらつきながらやってきて、ギリスが臆面もなくそう言った。
 お前には他人の名誉への気遣いってものはないのか。ジェレフはそう思ったが、何も言えなかった。あまりの吐き気で。
 船酔いだった。
 出航後、数日したころに海が荒れ始め、船室は暴れ馬の背のようになった。
 皆、多かれ少なかれ顔面蒼白の体で、平気そうにしているのは、ギリスくらいのものだった。
「ジェレフを呼んできてくれって、泣きつかれたんだけど」
 船室の扉にとりつき、よろめく体を支えながら、ギリスはのんびりと言う。
 なんとかできるものなら行ってやりたかった。エル・サフナールは女性で、あまり頑健なほうではないからだ。線の細い美人で、苦しんでいると思うと気の毒だ。
「行っても役に立てない。俺には船酔いは治せないから」
 そう答えると、ギリスは深く納得した顔をした。
「そうだよな。治せたら自分を真っ先に治すもんな」
 頷きながら、ギリスはこちらを眺めている。
「じゃあ、サフナには、ジェレフもゲロ吐いてるから来られないって言っておくし」
「もっとぼかせ」
 微かな掠れ声で、ジェレフは頼んだ。頷き返しながら、ギリスは懐から帳面とペンを取り出した。仕事として与えた言行録だった。
「全員船酔い、と……」
 揺れの中で器用に書き付けて、ギリスは去っていった。
 まじめに書いているらしかった。嬉しいような、悲しいような気が、ジェレフはした。


 いくつかの港を経由して、ボルゲン港に入港した。
 さんざん揉まれた割に、あっけなく晴れ渡った青空のもと、船は船着き場に係留された。
「下船する際には、石のある者は頭布(ターバン)を着用して隠すように」
 なんとか元気を取り戻した面々を集めて、ジェレフは注意事項を説明した。
 これまで下船を避けさせていたが、あの船酔いの後では、皆が一時でもいいから船から出たいと思っているのが感じられたし、ボルゲンには族長に命じられた用件があった。自分だけ下船するのでは仲間に悪い。
「なんで隠すの」
 随員のなかで最年少のギリスを、皆が見た。
「海エルフたちは竜の涙を不吉なものとして恐れているのよ」
 優しげに響く美声で、エル・サフナールが説明してやっている。彼女の瞳は灰色がかった緑で、右側頭にだけ現れた竜の涙は、青い色をしていた。彼女も治癒者で、ジェレフとはほぼ同世代だった。
「だからって隠す必要なんかあるの。そんなの不名誉だろ」
 珍しくまともなことをギリスが答えたが、この際迷惑だった。
「いやなら船から出なくていいぞ」
 ジェレフが冷たく言うと、ギリスはげっという顔をした。船酔いには苦しまなかったが、退屈に苛まれているらしい。
 優しいエル・サフナールに説得されて、ギリスは渋々納得したようだった。
「ジェレフ、どこ行くの」
 サフナールに頭布(ターバン)を巻いてもらいながら、ギリスが尋ねてきた。
 ジェレフは随行の侍従たちが運んできた鳥籠を受け取った。中には鷹通信(タヒル)に用いる鷹が入っている。
「イシュテムという呉服商にこの鷹を届けに行く」
「それは。シェラジール85号」
「良く分かるな……」
 鷹の名前を当てたギリスを、ジェレフは誉めた。
 族長の鷹はとにかくシェラジールだった。その名をよほど気に入っているのか、名前を考えるのが嫌なのか、それともどの鷹がどの名前なのかを憶えるのが面倒なのか、族長は初代シェラジールから発した全ての鷹をシェラジールと名付けていた。仕方がないので、個々のシェラジールには通し番号がつけられている。
「スィグルが絵に描いていたよ。こいつは族長のお気に入りだろ。鷹通信(タヒル)の駅に置いてきちゃうのか」
 随行してきた鷹と仲良くなっていたのか、ギリスは惜しそうに85号の翼に触れている。
「イシュテムが元々のシェラジールの持ち主らしい。鷹の血筋を持ち主に戻して、褒美もとらせるとかで。こいつは繁殖用にするようだ」
「そうか……がんばれよ85号。体に気をつけて、精々やりまくれ」
「そこまで直接的に励ますな」
 エル・サフナールが恥じらったふうだったので、ジェレフは慌ててギリスを叱った。
「なんで?」
 理由はいろいろあるが、とにかく女性の前でそこまで言うな。そう言いたかったが、竜の涙の女戦士は、男性として遇するのが礼儀だったので、ジェレフの話は遠回しになった。
 しばらく諭していると、ギリスはやっと納得した顔をした。
「ああ、分かった。ジェレフはサフナに気があるわけ?」
 ギリスの結論に、唖然としていると、悪童はなおも言った。
「ゲロ仲間だから?」
 サフナが衝撃を受けている。
 ギリスをこのまま海に捨てていっても罪にならない方法はないか、ジェレフは考えてみた。しかしギリスは貴重な部族の戦力だった。
 でも本人が迂闊にも船に乗り遅れるのに誰も気付かないくらいなら罪にならないのじゃないか。本気でそう検討したい気分だった。

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パスハの南(1)

 ここは狭間の時空。物語と物語の間にある場所。
 今日も神の視点から、いろいろ語っていくよ。
 彼の名はエル・ジェレフ。族長の命令でタンジールを出発して、同盟国、海エルフ族の首都サウザスまで旅をすることになった。イルスの竜の涙を初めて診察しに行くんだよ。
 南行の随員は、ジェレフの他に一般の治癒者が数人と、透視者がふたり。頭の中にある石を透視して、どれくらいのサイズがどの位置にあるかを確かめる仕事をしてもらう。
 その他、竜の涙からの志願者も連れていく。彼等は全くの遊びの旅。族長が、平和になって暇にしている連中に、慰安旅行をさせている。税金を使って行くんだから、もちろん何らかの役目は与えられるけど、戦時には兵器として使われていた彼等の労苦をねぎらうのが族長の目的だ。
 さすがは名君、だろ。
「だから、ぶうぶう言うのはやめて、心から深く感謝して行け、エル・ギリス」
 乗船を待つ港で、未だにタンジールを振り返るギリスに、ジェレフは説教をした。幾夜を継いで砂漠を横断し、大陸西端に到達した。タンジールはすでに、はるか東だった。
「暑くてたまんない。魔法で氷作りたい……」
 泣き言めいたことを呟き、ギリスは初めて見る海を無視して、港の背後にある砂漠を見つめている。
 冷暖房完備の王宮に慣れすぎて、部族領の本来の風土が身に堪えるらしい。
「お前が外に出るのは、ヤンファールでの戦闘以来か」
 従軍する以外の理由でタンジールを出たことがないのは、竜の涙であれば普通のことだった。しかし暑いのには、そろそろ慣れねばならない。これから行く先は、もっと熱帯なのだから。
 ジェレフがそう言うと、ギリスは心底うんざりという顔をした。
「船旅に移ったら、お前にも仕事をやるよ」
 ジェレフは二冊の本をギリスに渡した。ひとつは古いもので、ひとつは新しく、まだ中身が書かれていない帳面だ。
「今回の旅の記録をつけろ。将来、同じ経路で旅をする後任者が参考にできるように」
「こっちは何」
 古い方の頁をめくって、ギリスは興味薄げに尋ねてくる。
「資料室にあったから借りてきた。昔、エル・イェズラムが南行したときの直筆の記録だよ」
 驚いた顔で、ギリスは紙面を埋める文字を見た。
「イェズって字が書けたのか。いつも他人に代筆させるから、書けないのかと思った」
「そんなわけないだろ。普通に考えてありえないだろう」
 ジェレフはギリスの発想にうなだれた。宮廷で養育される竜の涙の中に文盲の者がいるはずがない。エル・イェズラムは隻眼になってから、視力に難があったこともあるが、とにかく何もかもが億劫な人になったのだ。
「イェズはいったい何のために南へ行ったんだ」
「族長が即位直後に海エルフ族の旧都バルハイに行ったんだ。援軍を求めに。自分の仕える王朝の歴史を知らないのかお前は」
 そのころ窮地に陥っていた戦線を持ち直させるため、族長リューズ・スィノニムは海エルフ領へ行き、援軍をつれて戻った。その第一報をタンジールに知らせたのが、族長が飼っている銀の矢(シェラジール)という名の鷹の祖だし、このときの共同戦線で共に戦ったのが、のちに即位することになった海エルフ族の現族長であるヘンリック・ウェルン・マルドゥークだ。援軍の借りを返すため、リューズはヘンリックの即位を支援した。
 エル・イェズラムは族長の警護のために同行し、一部始終を知っている。
 言行録があるはずだから持って行ってやれと言ったのは、他ならぬ族長リューズだった。ギリスがイェズラムの秘蔵っ子だったことは族長にも知られているので、養い親を失って消沈しているだろうギリスを慰めようと、特別の計らいとして、気晴らしになればと南行への志願も取り立てたし、今や貴重な資料となった直筆の言行録も気前よく貸し出してくれたのだ。
 それがあの渋々の出立で、族長はどう思っただろう。
 ほんとうにもう、どの面さげて帰ればいいのか。
 ジェレフにはギリスがエル・イェズラムの死を悲しんでいるようには見えなかった。けろっとしていて、出立前にエル・イェズラムから直々に任された遺品の整理も、やっているんだか、いないんだか、遊び歩くほうにかまけて放ったらかしているような気配だ。
 つくづく情けない。
「その言行録は死んでも無くすなよ。もらったんじゃないからな、戻ったら返却するんだから。汚したり、書き込んだり、破いたりするなよ。部族の宝だからな」
 知っていて当然だとは思ったが、ジェレフは一応説明しておいた。ギリスと付き合うときに、それは常識だろうとか、分かっていると思っていたなんていう言い訳が、失敗したあとで通用することはまずない。何があろうと向こうは知らん顔で、こちらだけが責任を感じることになる。
 ほかに何かやりそうな事はないかと考えながら説教したが、ギリスは頁をめくっていて、聞いてもいないようだった。
「昔は陸路だったんだ」
「行きはな。帰りに使った海路を族長が気に入って、航路を開いたんだ。そのお陰で俺たちも、昔よりかなり早くに大陸南端まで行ける」
「あの人、玉座でにこにこしてるだけに見えて、案外いろんな事やってんだなあ」
 ぼけたような事を言っているのが、族長のことを評しているのだとしか思えなかったので、ジェレフは呆然となった。
「ギリス、お前、族長が滅亡しかけた部族を救ったことは知っているんだよな」
「ああ、なんかそんな話は聞いたことある」
 感激に泣き咽(むせ)べとは言わないが、日頃、玉座にいるのを自分の目で見たり、出立のときに直々に言葉をかけてもらった相手が、いったいどういう人だったか、まったく認識できていないのは、あまりにもひどい。
 この旅で経験を積んで、ギリスもちょっとは大人になればいいのだが。
「向こうの族長にも謁見しなきゃならないのに、大丈夫なのかお前は」
「大丈夫だって。心配すんなジェレフ」
 ギリスに保証されればされるだけ不安だった。

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2008/07/21

今日の一言

「ギリス、僕の部屋で、崖の上のポニョの主題歌を歌うのはやめてよ。耳に残るんだよ。何度言ったら分かるんだ、この馬鹿が」
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もう一度だけチャンスをやろう

 ここは狭間の時空。物語と物語の間にある場所。(元ネタ
 今日も神の視点からいろいろ書くよ。
 彼の名はスィグル・レイラス。「蜜月」の収録を終えて、ふと思った。
 そうだ。グラナダに連れて行く竜の涙に、エル・ジェレフも入れたらどうだろう。
 「氷結」では、せっかくの僕の誘いを断りやがって。きっと後悔してるに違いない。後悔しないはずない。絶対そうだ。
 そんなの可哀想だから、ジェレフにはもう一度だけチャンスをやろう。寛大な僕に感謝するがいい。
 というわけで、も一遍だけジェレフを呼び出してみた。
「エル・ジェレフ。僕の領地グラナダに小さな宮廷を作ることにしたから、そこに仕える竜の涙を選んでいるところなんだ。治癒者も必要だと思うから、ジェレフが来てくれると嬉しいんだけど」
 上から目線の割に、ついつい口調は低姿勢だった。ジェレフには頭があがんない。
 話を聞いたジェレフは、困ったなという顔で笑った。
「いい話だと思うけど、俺は君のお父さんの宮廷に仕えている身だから。族長が行けというなら、どこへでも行くけど、俺の一存では決められないな」
 無難な返事をしやがった。
 正直むかついたので、それを隠そうともしないスィグル・レイラスだったが、むっとしている彼に、エル・ジェレフは苦笑して、ごめんねと呟いただけだった。
 父上にオネダリしてみるという手もあるけど、それはそれで負けた気がするので、スィグルは泣く泣く諦めた。
 無痛のエル・ギリスで我慢しよう。
「お前またジェレフを口説いたろ」
 噂っていうのは光よりも早く駈けるものである。特に宮廷というところでは。
 隠れて誘うのは無様だと思って、広間(ダロワージ)で堂々と正式に申し入れて、正式に玉砕したのが失策だったのか。見ていたのか人から聞いたのか、ギリスはすでに知っていて、怒っているというより情けないという顔でいる。
「もう口説かないって言ってたじゃん。氷結では。この嘘つきが」
「しょうがないよ、嘘をつくのは僕のキャラクター性だから。初期設定の時代からそう書いてあったよ。嘘つきスィグルって」
「そんなメタフィクショナルな話でごまかそうとするな。ジェレフのことはあきらめろ。あいつは年上が好きなんだ」
 えっ、そうなの?
「そうだよ。餓鬼のころからエル・イェズラムの取り巻きで、お前の親父にも骨抜きにされてんだろ。ジェレフは気が弱いから、こいつの言うなりになって必死に頑張ればいいんだみたいな相手に弱いんだ。族長が出す王族光線にあたってないと、いてもたってもいられないようなやつなんだ」
「そんなの僕だって出せるさ、僕だって王族なんだから」
 腕組みして立っている冷たい目のギリスに、スィグルは強がってみせた。そんな目で見るな。
「お前と族長では、格が違う。深淵を読んでみろ」
 スィグル・レイラスは読んでみた。
「父上……。ジェレフに死ねなんてひどいよ」
 ほんまにひどい話だった。
「お前が紫煙蝶で、ジェレフ死なないでなんて泣きべそかいてた時に、お前の親父はこんなふうだったんだぞ。勝てっこないだろ。戦え我が英雄よ、にっこり、でこれまで何人殺してきたか。俺だってヤンファール戦線ではあやうく籠絡されかけて、必要以上に頑張ってしまったさ。お前も修行して、あれくらいの王族光線が出せるようにならなきゃ」
「ううう……そうだねギリス」
 スィグル・レイラスは敗北感に打ちのめされて頭を抱えた。
「大丈夫。お前も最近ちょっとだけ出てるから」
「ほんと? ギリスは父上でなく僕に仕えてくれる?」
 エル・ギリスの励ます笑顔に、スィグルは微笑み返した。こういうときのギリスは優しいのが取り柄だ。
 スィグルの問いかけに、ギリスはもちろんという顔で頷いた。
「じゃあ、お前が行って、僕のいうことをきくようにジェレフを説得してこい」
「……殺すぞ」
 そうは言え、せっかくの新星を抹殺するわけにもいかないので、いっちょ揉んどくだけにしておいた。その詳しいあらましは読者のご想像にお任せして全省略。ラブコメなんてハイレベルなものは書けないから。
 そういえば、紫煙蝶のとき、ギリスはいったいどこで何をしていたのか、作者はその穴をどうするつもりなのか。最終魔法「まあいいか」を発動して走り去ってもいいが、辻褄合わせをしておいたほうが無難ではないか。
「俺はたぶんグラナダにいた。蜜月でタンジールを発ってから、たぶんずっとグラナダにいたんだ」
 そうなの? いっぺんも帰らなかったの?
「あとから矛盾する諸事情が出てくれば別だけど。スィグルは結局、この後の人生のほとんどをグラナダで過ごして、ときどきタンジールに帰るだけの暮らしをする。里帰りしたときの留守居役が必要だろ」
 おるすばんギリスなの?
「おるすばんギリスなの」
 そう反復して、ギリスは深く頷いた。
 それでいいの。君は都会の宮廷人だったのに、タンジールから見たらグラナダはド田舎だよ。いいところらしいけど。発展途上の街で、雑務も多いし、タンジールにいたときみたいに、ふらふら遊んでられないよ。
「それでいいの。忙しければ退屈しないし。グラナダを富ませて、ヘタレなスィグルの継承争いの助けにしなくちゃならない。王宮でごちゃごちゃ争うのが継承争いの基本行動だけど、平時の統治手腕を族長に見せつけられれば、それは確かに大きな評価点になる。スィグルはビビリだから戦なんかでは役に立たない。平和なときに継承させるのが、やつが一番威力を発揮できるんだ」
 ギリス……あほじゃなかったの?
「誰があほだ」
 そうだった……。本編時空のギリスは元々は文官だったんだった。官僚だっていう設定だったのよ。それを作者が、もっと派手さが欲しいなと言うことで、竜の涙に変えたんだった。
 そして魔法戦士になったあほあほギリスと、おおもとの設定にあった官僚タイプの氷の蛇との、合成合体を試みたんだった。
「グラナダを、みんなが歌って暮らせる幸せな都市に。それが新星が最初に描いた夢で、俺はそれを気に入っている。甘ったれだけど、あいつを何とか族長にして、その夢を部族領全土に広げよう。そのために死んでもいい。それが俺の英雄譚(ダージ)になるだろう」
 うまいことフュージョンしたようですね。おめでとうございます。
 ところでエル・ジェレフが死んで、あなたも悲しかったですか。
「いいや、全然。あいつはいいやつだった。一緒に戦えて幸せだった」
 たぶんそれが、紫煙蝶のときに、スィグルが君を随行しなかった理由なんじゃないのかな。そんなこと言われたら、たまらんよね。いっしょに泣いてほしいときが、人にはあるものじゃない。
 無痛のエル・ギリスは苦笑した。
「完全無欠のキャラクターなんて、この小説にはひとりもいないさ。みんな痛いやつばっかりさ。作者はむしろ痛みのある組み合わせを選んで、絡みをつくってんのさ。そういうサド女なのさ」
 お褒めの言葉をありがとうございます。
 そろそろお時間も尽きましたようで。この勲(いさおし)はこれまでにて、英雄たちの戦いはなおも続く。新たなる物語は別の巻にて、息を呑み耳をそばだてて聴くダロワージの静寂に、いやなお晴れがましく響き渡るであろう。
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2008/07/20

投稿テスト

携帯から投稿テスト。
改行。

絵文字??

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作ってみた

おもいつきネタをとりあえず放り込める場所として作ってみました。
あほなことしか書けません。主に小説の断片です。
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