もえもえ図鑑

2009/02/19

湾岸の鍼治療師(ジェドゥワ)(3)

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 枯れ谷アシュギルか、と、ヘンリックはその顔をじっと眺めた。やはり、どことなくリューズに似ている。ほんの、ちらりと目の迷い程度だが。それが懐かしいような気さえする。
 いくつか系統があると言っていたが、一体、砂漠の連中の美貌には、どれくらいの数の系統があるのだろうか。ずらっと並ぶと壮観なのだろう。こんなのばかりが絢爛に着飾って、うようよいるような宮廷は、さぞかし壮麗だろうが、少々不気味でもある。この世のものとも思えないし、まるで悪い夢のようだ。
 リューズと連合して、戦場で相まみえたことはあるが、奴が玉座の間ダロワージと呼ぶ、絢爛らしい王宮の広間での様子は見たことがない。イルスは訪れたことがあり、それは美しいものだと話していたが、ヘンリックにはどことなく気味が悪く、魔術的なものとしか想像がつかなかった。
 迷信深い性分で、砂漠の魔法というのに偏見があるからだろうか。とにかく魔導師たちは油断がならない。その親玉も油断がならない。
 今さら突然、昔くれてやった鍼治療師ジェドゥワを返せとは、一体どういう目論見だ。
 ああ、もう、参ったとヘンリックは思った。
 疲れ果てるごとに、これに依存して十年だ。もはやこの鍼治療師ジェドゥワ無しでは腕も上がらず首も回らないだろう。時々深く眠らされる、あの熱く滴る針の効果も捨てがたい。
 身を起こしてみた体の中で、連日の激務で募りに募っていた疲労が、とりあえず明日も生きようかと思う程度には引き潮になっていた。
「どうあっても返せという話だったのか?」
 寝ぼけて曇るような目を指先でこすり、長椅子の上に胡座をかいて、ヘンリックは渋々訊ねた。
「いいえ。閣下がご不要と判断された場合は戻れということです」
「不要ではない」
「そのようで」
 薄笑いで同意して、アズミールは、煙管を宙に持ったまま、ゆっくり深い息をついた。腰掛けに座る姿勢はすらりと背筋が伸びて、堂々として見えた。出自卑しい者には見えない。あたかも玉座に座す、族長リューズもかくやと言ったところだ。
 どうせ、この若造は、増長しているのだろう。俺のお陰でお前は生きていられるんだぐらいの事を思っているのかもしれない。それもまあ、そう思いたければ、思えばいい。あながち嘘でもない時はある。
「引き続き、サウザスでお仕えしてもよろしいでしょうか」
「好きにしろ。どうせ戻れば斬首だろう、お前は」
 面憎いと思って、ヘンリックは嫌みを言ってやった。
 すると鍼治療師ジェドゥワは笑い、痛いところを突かれたという顔をした。
「いえいえ。閣下の都サウザスへの愛着断ちがたく、かくなるうえは、このまま生涯お仕えして、渚の砂に骨を埋めようかと」
 鍼治療師ジェドゥワはぺらぺら滑らかに喋っていた。
「口が上手いのも、枯れ谷アシュギルとやらの特徴か?」
 言葉巧みで調子がいいのもリューズ・スィノニム的だと、ヘンリックは辟易した。
「さあ。それは聞いたことがありません。畏れ多くも玉座の君と、遠く及ばず、この私だけではないでしょうか」
 薄笑いして言う鍼治療師ジェドゥワに答えるように、深夜の空に盛大な稲光が閃き、間断ない素早さで雷鳴が轟いた。雨はさらなる豪雨になっていた。
 これではサウザス市街の石畳は、流れる川のごとくになっているだろう。とっくに夜会もはねる時刻で、車輪が滑るのを恐れる御者は、馬車を出すのを嫌うだろう。
 アズミールには市井に家を与えてあったが、そこまで徒歩で帰れとも言いがたい。雷鳴轟く水浸しの街道で、馬車が横転でもして、鍼治療師ジェドゥワの腕が鈍るような怪我でもされたら大事だ。
 もう一人送れとリューズに泣きつくのは格好がつかない。
「王宮で、朝まで寝ていけ。雨が止むまで。従僕に声をかけて、部屋を用意させろ」
 上掛けの綿布をうるさく長椅子に放って言い渡し、軽く申し訳程度の一礼をする鍼治療師ジェドゥワを残して、ヘンリックは裸足のまま、窓辺に雨を見に行った。海上から来た嵐のようだった。港の船も沖に逃げた頃だろう。
 野分のわきの風が吹き荒れて、王宮の庭には見る影もなかった。風に嬲られたテラスの行燈ランタンが、すでに火も絶え、雨に打たれて踊り狂っている。
 これでは鷹も飛ぶまいと、ヘンリックは思った。
 嵐が過ぎていってからでいいだろう。リューズに鷹通信タヒルを送るのは。
 鍼治療師ジェドゥワは大変気に入っているので、召還しないでもらいたい。お前の気遣いには感謝している。お陰で痛みも紛れるし、時にはぐっすり眠れると、なけなしの言葉を尽くして口下手が、喜んでみせねばならないだろう。
 それで砂漠の黒い悪魔も、いい気味だと満足をして、鍼治療師ジェドゥワを留め置くことにするだろう。針が好きかと、ちくりと皮肉は言うだろうが。
 のんびり道具を片付けて、アズミールは部屋を出るらしかった。吹き消された蝋燭と、消え残る甘い煙の匂いがする。また盛大に雷鳴が轟いた。
 セレスタは、眠れたろうかとヘンリックは思った。あの、近頃とみに神経質な正妃は。
 眠れぬようなら、あいつも一刺し、ちくりとやってもらえばいい。鍼治療師ジェドゥワアズミールに。
 その針で、あの癇癪がおさまるようなら、俺もいくらか気が楽なのだが。アズミールの針は、そういうものには効かないものか。セレスタは、異国の鍼治療師ジェドゥワを気味悪がって傍へ寄せないので、確かめようがない。
 それでもまあ、結果的には同じことだ。時折、族長ヘンリックの気が晴れれば。
 嵐はその夜、翌日の昼近くまで続いた。鍼治療師ジェドゥワは飽きもせず、王宮の部屋で煙を燻らせていたらしい。
 野分明けの空にヘンリックは鷹通信タヒルを放った。それは逞しい翼で砂漠の都へ向けて飛び、やがて、読んですぐに書かれたらしい、リューズ直筆の返信を持った鷹が飛来した。
 そこには一文、流麗な書によって、こう記されていた。
 友よ、汝が鍼治療師ジェドゥワの快美を好むと聞き及び、我、極めて愉快なり。

《おしまい》
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