もえもえ図鑑

2009/02/19

湾岸の鍼治療師(ジェドゥワ)(1)

「アズミールが来ました」
 戸を叩く従僕の子供の声で、ふと目が醒めた。
 耳をそばだてながら眠っていた。
 薄く目を開け、ヘンリックは俯せのまま横たわっている自分の顔の下の、絹の枕に描かれた複雑な染め柄を、間近に目で辿った。
 深くぐっすり眠ったことが、ついぞない。泥のようにぐったり眠ったことなど、一生のうちに数えるほどしかないのではないか。
 子供の頃は子供の頃で、昼より夜のほうがけたたましいような、貧民窟スラムの娼婦街に育ち、自分の寝床と言えるようなものもなく、物陰で大人を避けて眠ったし、その後は剣奴隷として、檻の中だった。とにかく常に寝るときは、物音に耳を澄まして、何かあれば飛び起きられるような支度をしたまま眠っていたような気がする。
 それに生来、寝付きが悪い。頭の芯が高揚していて、気が昂ぶって眠れないのだ。
 戦士としては、それで好都合だったかもしれないが、時折疲れ果てる。これでも昔はまだ、離宮にヘレンのいた頃であれば、あの女の寝床で一時深く眠ったような気がするが、それももはや昔のことだった。
 離宮の女が腹に子を抱いたまま死んで、それによって呪われたような気がする。それまで斬り捨ててきた負け犬どもの、募る恨みが一気に押し寄せでもしたのか、その時以来のアルマの不眠が、一向に醒めない。
 休まる時なく働き続けて、疲れ果てると、しばしば思った。死んだ方がましだと。
 そういう気がした時には、アズミールを呼ぶことにしている。
 砂漠から来た男だった。黒エルフで、年の頃は、良く分からない。若いような気もするが、実はそうでもないのか。大体において、砂漠の連中は年齢不詳に見えた。歳を訊かねばわからないが、訊く必要もない。
 アズミールは鍼治療師ジェドゥワで、族長リューズ・スィノニムからの贈り物だった。黒エルフには奴隷はいない。だから贈り物というのでは、気位のあるリューズは怒るだろうが、アズミールは最下層の身分の出らしい。家族らしい家族もおらず、実質、貴人の好き勝手で右に左に遣わされ、果てはこの湾岸まで来たわけだ。
 そういう立場の者のことを、湾岸では奴隷と呼んでいる。給金を与えているから違うとリューズは言うが、奴隷身分でも貴人に仕えれば絹を着て、小遣いめいた金銭や、時には家屋敷まで与えられることもある。
 どちらでもいい。話していると果てしない。奴隷身分か自由民かは、どうでもいいことだ。肝心なのはアズミールが腕のいい鍼治療師ジェドゥワで、湾岸にはない鎮痛の技術を持っているということだった。
 昔、戦で負った右肩の古傷が痛むので、それを癒やすためということで、リューズが寄越した一種の賄賂だった。
 傷は今でも、天候しだいで時折痛む。
 元は両利きで、剣を握る手は主に右だったが、負傷して右肩が痛むようになってからは、いつの間にか左利きのヘンリックと呼ばれるようになっていた。
 そこはかとなく、忌々しいようなその渾名も、今ではすっかり馴染んでしまい、悪気無く呼ぶ者さえいるようだ。
 そうなってはもう、敢えて右手で剣をとる必要もあるまいが、施療によって、一時でも右肩から痛みが消えれば、それはそれで爽快だった。
 それがまず、アズミールの第一の価値だ。
「お待たせいたしました」
 雨中を来たらしい、濡れた布地の臭いをさせて、鍼治療師ジェドゥワアズミールは現れた。ヘンリックは寝たまま起きあがらなかった。どうせまた寝ることになる。鍼治療師ジェドゥワは背中に針を刺すため、俯せに寝ろと言ってくるからだ。
 身分が低いせいかどうかは分からないが、アズミールはいつも単身訪れる。施療のための、銀色に光る細い針を、ずらりと刺した紺色の布や、薬剤を入れた瓶や、その他細々としたものを入れた包みを持って、ひとりでふらりとやってくる。
 もう十年来サウザスにいるはずだが、着ているものは相変わらずの黒エルフの長衣ジュラバで、髪も長く伸ばした黒髪を、首の辺りで束髪にしていた。
 ヘンリックの知る限り、リューズやその連れの廷臣たちは、公式の場では髪を高く結い上げていた。髪に挿す装飾も凝ったものだったし、結い方にも芸術的ともいえる複雑さがあり、その時々の流行もあるようだった。
 そうでなければリューズはだらけた垂れ髪で、宮廷服はかんざしが重くて肩が凝ると、愚痴を垂れていた。
 髪をどうするかには身分が現れるものらしい。アズミールはいつも質素ななりをしていた。俸給も与えているはずだが、衣装に凝るということもない。
 その貧乏性のようなものが、ヘンリックには居心地がよかった。自分が卑賤の生まれのせいか、身分の高い連中といると、肩肘張って息苦しい。誇れぬ程度の出自の者のほうが、どうしても気安かった。
「ひどい雨です。鎧戸を閉めさせなくてよろしいのですか」
 勝手知ったるもので、アズミールは長々しい口上は省いた。長椅子に寝ているこちらの脇に来て、用意されていた小卓のうえに、持ってきた施術道具を取り出しながら、広々とした王宮の居室の、テラスに続く漆喰の飾り窓を見て、そう訊いた。
 外では、夜半の海都サウザスに、殴りつけるような雨が降り続いていた。風もいくらか吹いている。部屋を照らす、紙の覆いがかけられた行燈ランタンが、揺らめく灯りを投げかけている。
 アズミールは用意してきた蝋燭に、指先からふっと火を灯した。火炎の魔法を使う男で、それで戦えるほどではないが、火種には不自由しない生涯らしい。
 灯された蝋燭の火も、頼りなくちらちらと揺れていた。
「風があるほうがいいんだ。閉じこめられると気が滅入る」
 寝たままヘンリックは気怠く答えた。
 夜会から戻り、正妃は具合が悪いというので、今夜は気楽な独り寝だった。セレスタと眠るのが、別に苦痛ということはないが、何とはなしに気が張って、眠りが浅いような気がする。
 近頃とみに体調が芳しくない時があるようで、そういう時には決まってセレスタは、鬱々として癇癪を起こす。そうなると、訳の分からない理由で罵られたり、泣き喚かれたりするものだから、具合の悪いときにはお互い近寄らないようにしていた。
 罵られるような理由はいくらでもあるのだろうが、こっちも疲れている。丸一日の政務から戻り、そこで癇癪女の相手をさせられるのでは、身が保たないような気がする夜もある。時にはこちらも気を抜かないと。
 くたびれているなとでも思ったのか、アズミールは笑ったようだった。枕に俯せていて目を閉じているので、見えはしないが、微かに漏れる息の音が聞こえた気がした。
 俺を笑うなと凄んで見せる気はしない。アズミールは気安くはあるが、身分は弁えていた。どちらが偉いか、よく知っている。
 それにどうせ、顔に似合わず底意地の悪い、砂漠の異民族だった。いちいち咎めていては事が進まない。リューズからしてそうだ。なよやかなように見えて、根性悪で、アズミールはどことなくリューズと似た面差しだった。きっと性根も似たようなものなのだ。
「始めてよろしいでしょうか」
 訊ねられたが、億劫だったので、ヘンリックは答えなかった。施術のために来たのだから、それを訊くのは無駄口というものだ。一応、頷いたつもりだが、見えたかどうか。
 それでもとにかく、始めようかということだろう。
 鍼治療師ジェドゥワアズミールはヘンリックの夜着の襟首に手をかけた。背を出させるためだ。その右肩には傷がある。かつて山の者どもの戦斧でやられた傷だ。その傷痕は今でもそのまま古傷になって残されている。
 夜着は前開きの、丈の短い部屋着ガウンのようになっており、後ろ襟を引けば着崩れて、裸の背が露わになった。
 これも砂漠の装束だ。湾岸には寝間着というものがない。肌着で寝るか、それともいっそ裸で寝るかだ。奴隷や平民は言うに及ばず、貴族や王族であってもそうだった。それで何の不足があるかという事だが、リューズはそれを野蛮だと蔑み、わざわざ仕立てて自国の夜着を送りつけてきた。
 柔らかに練られた絹地でできていて、上は前開きの、砂漠の民が着ている肌着に近い形の服で、下には同じ布地でできたズボンを着ている。はめられたと思うが、着て寝ると心地よいので、余計なお世話だと言い切れない。
 交易しているのだから、異国の趣味や習俗が、入ってくるのはやむを得ない。向こうも時折、海洋趣味が流行るとか。だからこれはお相子だと思うが、用事にかこつけて、わざわざサウザスを訪れていた向こうの族長が、新たに拓いた海都サウザスを眺め、なんと野蛮な街よとしみじみ感嘆するのには、さすがに、ぴくりと来る。
 確かに湾岸は文化面で劣るようだ。リューズが言うように。夜はけだもののごとく裸で寝ているし、手づかみでものを食い、鍼治療師ジェドゥワのような治療師もいない。
 それではお前があまりに哀れと、そんな親切心で、我が友リューズ・スィノニムは、湾岸の王宮にアズミールを寄越し、寝間着を寄越したらしい。お節介なのだ。
 ヘンリックは笑うリューズのしたり顔を思い出し、深くため息をついた。アズミールが寄越されて、もう十年以上経つというのに、それについて通り一遍以上の礼状や返礼の品を送ったことがない。それではまずいのだろうが、わざわざ使者や鷹通信タヒルをやって、気に入ったと言うのも、独特の気恥ずかしさがあった。
 ほの温い指が、右肩のあたりを揉んでいた。強すぎず弱すぎず絶妙の力加減だ。いちいち申しつけずとも、アズミールはこちらのどこがどう痛むのか、もうよく知っていた。それに、言われなくとも、触れれば分かるものらしい。指先に職業柄独特の魔法でもあるのか、海辺の者の褐色の肩を揉む白子のような異民族の手は、撫でさするだけで、疲労の溜まったところをいつも探り当てた。
 痛いような気持ちいいようなだ。思わず嘆息しかけるのを堪え、難しい顔になると、それにも鍼治療師ジェドゥワは笑ったようだった。
 妙なものだ。人を喘がすのには慣れたものだが、喘がされるのには抵抗がある。しかし、まあ、アズミールも一種の、客を喘がす商売で、それゆえ身分が低いらしい。
 砂漠の連中は身持ちが堅いのか、人の素肌に触れる仕事を蔑視したがるきらいがあるとかで、鍼治療師ジェドゥワは元来、低い身分の者が就く職業らしい。貴族の鍼治療師ジェドゥワはありえない。そのくせ、貴族の医師はいるのだし、奴らが有り難がっている、竜の涙の英雄たちにも、治癒者とか呼ぶ魔術医がいる。イルスの治療のために何度か訪れていた若い英雄、エル・ジェレフも、そういう類のものらしい。
 あれは尊くて、鍼治療師ジェドゥワは卑しいというのが、どういう区別なのか、ヘンリックには分かるような分からないようなだ。アズミールを選ぶ時、リューズは謁見しなかったらしい。族長がわざわざ顔を合わせて、送辞を述べてやるような身分の者ではないからということらしい。
 アズミールはリューズの顔を知らないと言っていた。少々似ていると言うと、畏れ多いとへりくだって、その話を拒み、拝謁したことがないと言った。
 しかし本当に似ているのだ。血が繋がっているようだとか、目鼻立ちが同じというわけではない。リューズの目は金色で、アズミールは薄い茶色をしていたが、まなじり鋭く冷たいような、きつい感じが似ているし、他にも何とはなしに似た気配がする。どちらかというと地味な容貌で、金襴装飾付きのようなリューズの顔の、突き抜けた華やかさはないが、それでもヘンリックはアズミールと面と向かうと、いつも自分の同盟者のことを連想した。
 それはおそらく、系統的に同じということだろうと、鍼治療師ジェドゥワは遠慮がちに話していた。
 黒エルフの連中は、容貌にいくつかの系統があるらしい。それにいちいち名前がついている。リューズは王家の血筋を引いていて、その容姿も王家のそれを受け継いでいるが、そのアンフィバロウ家はもともと、枯れ谷アシュギルという系統に属しているとのことだ。
 そしてアズミールも同じその枯れ谷アシュギルなる系統に属する容姿であるらしい。だから似ているような気がするのだろうと、そういう話だった。
 政略によって血を混ぜることの多い貴人はともかく、平民以下では、同じ容姿の系統の相手としか婚姻しないものらしい。貴人でも、直系の血を残すためには、なるべく同じ系統の女を選ぶ。族長もただ名君であればいいというのではなく、皆が知る、最初の族長アンフィバロウに似た容姿をしていることが、暗に大事で有り難がられるものらしい。まずは血筋がものをいう。そういう世界のようだ。
 まるで名馬か名犬か、そんな血統主義に聞こえるが、それはさすがに言うべきではないかと思い、リューズはもちろんだが、アズミールにでも、言ってみたことはない。言えばたぶん動揺するか、内心むかっと来たりして、うっかり手元が狂ってしまい、痛いところに針を刺される。
 ちくりと最初の針を刺されて、ヘンリックは寝たまま微かに身構えた。それ自体は大した痛みではないが、その後に来る疼痛を思って、緊張したのだ。
 針は髪の毛のような細いもので、刺されることには、さしたる痛みはない。ぼけっとしていれば気がつかないようなものだ。しかしアズミールはその針を深く刺す。肌の下にある、神経の流れを捕らえるまで、そうっとゆっくり押し入れて、それに触れると針先を止め、小さく針を回す。
 それが強烈だ。痛いというのとも違う。むず痒いような。思わず呻きたいような。肩に力が入るが、どうぞお楽にと言われて、それもできない。歯を食いしばりたいのを堪えて枕の端か敷布でも掴んで耐えるしかないような、良く分からない感覚だ。
 しかしこれが慣れると、妙に気持ちいい。ここにしかない妖しい快感で、癖になる。その感覚そのものが好きというよりは、その後に楽になる右肩の軽さに、はまっているのだろうが、まさかこれも好きなのかという気がする時もある。
 人には言えない気恥ずかしさだ。
 リューズも不眠に悩み、虚弱の気もあるので、時折、鍼治療師ジェドゥワを使うらしい。だからこの感覚を知っているわけだ。そういうあいつに、気に入ったとは返事しにくい。にやっとされるのが目に見えている。喜び勇んで送られてくる返信で、なんと言われるかわかったものじゃない。
「耐え難く、痛むようでしたら、おっしゃってください」
 礼儀正しくアズミールはいつもの事を言った。
 どのあたりから耐え難いのか、分かるわけがない。毛ほどの針を刺されたぐらいで、族長ヘンリックともあろう者が、痛い痛いと呻くわけにもいくまい。こちらにも面子があるのだ。
 まして相手は剣をかけて渡り合えば、一刀で倒せそうなやわな異民族の若造で、にこにこリューズに似た顔で微笑んでいる。負けるものかと、つい思う。
 わざと選んだのではないか。リューズはアズミールの顔を見ていなくても、血筋の系統を訊くくらいはできただろう。それが自分と同じだということは、知った上で送ってきたのではないか。
 それぐらいの嫌みは効かせる。あいつはそういう底意地の悪い男だ。自分に似た顔をした鍼治療師ジェドゥワに、我が友ヘンリックが針を刺されてひいひい言っていると想像すると、たぶん笑いが止まらないのだろう。
 恐らくそんな目論見もあったのだろうが、十年もの間、梨のつぶてで、当てが外れたと思っていることだろう。
 非礼だが、黙っておいてよかったと、背骨のあたりに針を刺されながら、ヘンリックは思った。怖気立つような感じが背筋に添って走ったからだ。針で直に神経を刺激しているらしいが、よくも砂漠の連中は、そんなことを思いつくものだ。これが体に良い刺激で、針で突くだけで薬効のようなものがあるらしいが、それにしても、最初にやってみた奴は凄い。一体どういう気の迷いで、体を針で突いてみたのか。
「アズミール」
 汗が出そうな気がして、ヘンリックは鍼治療師ジェドゥワの手を止めさせ、目元を覆った。
「効きすぎましたか」
 ちらりと見ると、異民族の若造は素知らぬ顔で、次に使うつもりだったらしい、やけに長い針を、慣れた手つきで蝋燭の火に炙らせていた。
「お前たち砂漠の民は、一体いつからこんな妙なことをやっているんだ?」
 息継ぎしようと思って、ヘンリックは訊ねた。話している間は鍼治療師ジェドゥワも針を刺すまい。
はりのことですか?」
 それのどこが妙かと、意外そうな声で、アズミールは答えた。
「存じませんが、大昔からです。はりでの治療には、高価な薬も要りませんので、民間では医術よりも浸透しております。医師は値が張りますが、鍼治療師ジェドゥワはさほどでも」
 話しながらでも、鍼治療師ジェドゥワは容赦がなかった。ちゃんと寝ろという仕草で長椅子に戻され、しっかり針を刺された。ぐっさりと。
 さすがに呻いた。左肩なら心臓まで突き刺さるのではないかという深い針に思えた。それがねじねじ神経を弄るのだから、それでも平気だという奴がいるなら顔を見たい。
 しかし、痛いといえば痛いそれによって、右肩の奥に常に居座っている固い凝りのような痛みが、熱くほどけていくようなのが感じられ、心地よいような居たたまれ無さだ。
「祖先が始めたのは、おそらく奴隷時代ではないでしょうか。詳しい文献などはないようですが、文献がないということは、そういうことです。部族では、太祖の王朝以後であれば、なんにでも文献はあります」
 太祖というのは、リューズの祖父の祖父の祖父の、とにかく血筋の始めにいた族長アンフィバロウのことだ。黒エルフどもは何でも記録を書いて残す。膨大な書きつけがタンジールの王宮には残されているらしい。筆まめなのも血筋なのかもしれない。どうでもいいようなことでもリューズは鷹通信タヒルを送りつけてくるし、蛇眼の連中は口約束を嫌う。とにかく書面に、そして判子はんこだ。
 使者も商人も、こちらが書く返答の書に、印璽いんじを捺せとうるさくせがむので、もともと湾岸にそんなものはないというのに、うるさくなって、ヘンリックは判子を作らせた。書状に朱墨の跡がないと、わなわな震えそうだという奴には、これでよかろうと捺してやることにしている。
 湾岸では署名でいいのだ。たとえ口約束でも、証人を立てればそれでいい。約束を守らない奴は男ではない。それがこの地の文化なのだから。言質を与えるのに書き付けなどいらない。いちいちそんな、せこいことを言うあいつらは、やっぱり女の腐ったような連中なのだ。
 ぺらぺら饒舌だし、気位が高く、ご機嫌をそこねると癇癪を起こす。親玉からしてそうだ。リューズの癇質は、正妃セレスタの比ではない。あれでも男だ、泣き喚いて詰りはしないが、通商や軍事同盟の条件が気に食わんとか、うっかり何か口が滑って、部族の誇りを傷つけたとでも思われたら、これは侮辱かヘンリックと冷たい声で言われ、粘質な嫌がらせも辞さない。それでも会うとにこやかに、会いたかったぞ我が友よと握手なんぞ求めてくるのだから、いい面の皮だ。
 優しげな容姿に油断していると、あいつには時折、酷い目に遭わされる。この鍼治療師ジェドゥワの派遣からしてそうだ。治療と称して今も情け容赦なく人の神経をほじくり回しているが、たとえこちらが男でも、できる我慢とできない我慢はある。
「痛い」
 さすがに言うしかない段階に至り、ヘンリックは忌々しく呟いて教えた。
「もう終わりでございます」
 にこやかな作り笑いで答え、アズミールは恭しい会釈を返してきた。
「もうしばらくしましたら針を抜いてまいりますので、それまでお楽に」
 じっとしてろと説教されて、ヘンリックはしぶしぶ、起こしかけていた身をまた長椅子に戻した。ため息まで漏れた。
 アズミールは退室の支度か、拡げていた余分の針を刺した布きれを、物静かに畳んで片付けているようだった。
「族長。相変わらず、不眠にはお悩みですか」
「持病だ」
 苦々しく、ヘンリックは答えた。
「そちらの施術もいたしますか」
 まだまだ針を突き刺したいのか、アズミールはいかにも親切そうに訊いていた。
 よろしく頼むと、言うしかなかった。なんせ、ここからがこの男の第二の価値で、近頃そちらが本命だ。
 足からいくらしい。いきなり裸足の足を掴まれて、土踏まずを押す指のくすぐったさに、ヘンリックは渋面で耐えた。痛いというのも恥と思えるが、くすぐったいと言うのも、それはそれで、ふざけたようで嫌だった。どこぞの女の寝床でやるなら、そんな軟派もひとつの睦言だろうが、なんでまた、こんな異国の針刺し男に足を揉まれて笑わねばならんのか。
「気苦労が多くていらっしゃるのですね、族長閣下も」
「うるさい、黙ってやれ」
 まさか考えを読まれたわけではあるまいが、鍼治療師ジェドゥワは絶妙のことを言っていた。それに噛みつく自分も、年に似合わず餓鬼臭く、少々痛みが伴った。人を痛い目にあわせるのも、こいつの性分なのか。寡黙な割に、時折、余計なことを言う。
「少々、薬を使います」
 畏まって一礼してから、恐縮してはいないふうに、アズミールは言った。それは意向を訊いているわけではない。何も言わずにやると非礼だからという程度のことだろう。
 むかむかしながらヘンリックは針を待った。
 先程、肩に打っていたのよりは、ずいぶん小振りな銀の針を蝋燭の火にかざし、アズミールは薄い茶色の蛇眼で、その針先をじっと見ていた。
 そして、熱し終えた針を、小卓の上にある硝子ガラスの小瓶に浸すと、じゅっという小さな音がしたような気がした。
 滴る薬液を、清潔そうな綿布の小片で拭き取り、アズミールはおもむろに、その針をヘンリックの首の後ろの、耳よりいくらか下のあたりに、ついと刺した。
 ちくりとした。そして、少々の後、ことりと唐突な眠りがやってきた。

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