もえもえ図鑑

2008/11/06

ぶんぶん日記・その1

前知識:「新星の武器庫」の後日譚です。

・ ・ ・ ・ ・ ・

 蜂がぶんぶんグラナダ宮殿。そこには色んな馬鹿がいて、今日も高貴なるブチ切れ領主様に誠心誠意お仕えし、みんな大忙し。時にはダラダラ休憩中。
 そんなみんなの、ぶんぶん日記、はじまるよ。

某月某日。シャムシールを競馬に誘う。

 たまにはお前も競馬をいっしょに見にいったら。絵ばかり描いてないでさと、ギリスはシャムシールをお出かけに誘ってみた。
 土曜日なので、ラダックと競馬に行くことになったが、この際ちょっとシャムシールも連れていってみようと思い立ったのだ。
 するとシャムシールはにっこりして、画帳を持ってついてきた。やっぱり持っていくの、それ。なんで持っていくの、分かるけど。
 宮殿の玄関で落ち合うと、ラダックはぎょっとした顔をした。
「行くんですか、シャムシール。競馬が好きだったんですか」
 そんなの訊かなくても分かるだろとギリスは思った。
「いやあ、そう言う訳じゃないんですけど、せっかく誘ってもらったし、馬の絵もいいなあと思ったんです」
 にこやかなシャムシールにそう答えられて、ラダックは何か悶々と考えたようだった。競馬の件は、ラダックにとって休日の儀式みたいなもので、そこにまた馬の勝ち負けに全く興味がないふうな同行者が現れた。なんということだ、しかし断る理由もない、みたいな顔だった。
「歩くの面倒くさいし、馬で行こうよ」
 ギリスはラダックに提案した。すると金庫番は、むっとした難しい顔になった。
「あなたがたはそうすればいいですよ、エル・ギリス。私は歩いて行きますから」
「なんで別行動なの。まさか馬に乗れないんじゃないよな」
 そういえばラダックが乗馬している姿を見たことがない。ギリスはちょっと困惑して訊ねた。ラダックはさらに難しい顔で首を横に振った。
「乗れますよ、私も官僚ですから。ですけど私用に馬を飼うようなご身分ではありませんのでね」
「宮殿の馬がいるじゃん」
 ギリスはラダックが知らないはずはない事実を指摘してみた。
「あれは公用の馬です。休みの日に遊びで街へ行くのに、一官僚が勝手に乗っていいようなものではないです。それは汚職です」
 そ、そうだった、と、ギリスはいまさら気づいた。偉そうだから忘れてたけど、ラダックは地方官僚で、ただの計算屋なんだった。
「スィグルに馬をねだればよかったのに」
 ギリスは本気でそう言ったが、私服のラダックは珍しく、ふっと自虐の笑みを見せた。
「そうですね。そうしておけば今でも、宮殿ではなく市街に住んでいられましたよね」
 いやなのかお前は。いつまでも往生際の悪いやつ。
「歩いていくのでいいですよ、エル・ギリス。僕も街が見たいですから」
 画帳を抱えてにこにこと、シャムシールは提案してきた。自尊心のない宮廷絵師だった。平民出の絵師といっても、ひとたび宮廷に侍れば、身分は上級官僚並だった。族長や王族の居室に出向いて、肖像画を描いたり、決められた席までだが、晩餐の玉座の間(ダロワージ)に侍ることも許される。
 もちろん個人的に寵を受ければ、どこへだって行ける。芸能や芸術の類は、当代の愛する分野で、ほんのちょっとした気まぐれに当たれば、族長と高座で飯を食うことだって可能なのだった。
 そんな宮廷絵師であるお前が、歩いていくのでいいです、か。
 ギリスはちょっと参った。野心のないのが、バレバレみたいな男だった。容姿もなんだか、ひょろりと見えるし、やる気なさそうにゆるく束ねただけの髪まで、なんだかぐんにゃりした髪質だ。
 凛々しくないと、ギリスはその事実に感心した。
 よかったなシャムシール、お前は結局運のあるやつだよ。グラナダに引っ張り込まれて、左遷されたと思ったろうけど、ここでレイラス殿下に気に入られている限り、いずれは新星の玉座近くに侍る寵臣になるのは決定だ。
 シャムシールにそれが分かってんのか、いないのか、ぽやんとしていて分からない。
「いや、やっぱ馬で行こうよ。俺が序列一位。シャムシールが二位。それからラダックはお付きの人で、休日出勤で接待ということにして、宮殿の馬に乗ればいい」
 ギリスが提案すると、いやですよ、そんなのはと、ラダックは怒鳴った。
 しかしそんなものは簡単に無視できた。今日はお休みの日で、ラダックは私服を着ていたからだ。何だとこの野郎、俺は長老会の敷物を踏んで育ったんだぞという目でギリスが睨んでやると、ラダックは悔しそうにたじろいだ。そしてそのまま悔しそうに目を背けたが、結局なにも反論してこなかったのだ。
 いつもこうならいいのにと、ギリスは勝ち誇って嗤った。そして馬屋から馬を牽いてくるように人に命じて、愛馬ファーグリーズを待った。


 競馬場は盛況だった。
 その人混みに、シャムシールは馬上から、おおと感嘆していた。宮殿にばかり籠もっている絵師には、喧噪が物珍しく好ましいらしい。
 楕円形を描いた石造りの建物は、スィグルの趣味で白亜だった。僕の街に競馬場なんていう、いかがわしいものを建てるなと、さんざん抵抗したくせに、いざ造るとなると、石は白にしろと態度がでかかった。
 あいつは何でもかんでも白が好きだ。
 まさかそれで俺の鎧まで白なのかと、ギリスは首をかしげて考えたが、そんなはずはなかった。氷の蛇の白鎧は、長老会からもらったもので、たぶんイェズラムが選んだのだ。ギリスの初陣は十四歳で、その時スィグルは敵の虜囚だったし、新星ではなかった。
 それをイェズラムが決めたのは、スィグルが同盟の人質としてタンジールを出立する時だ。
 護衛として随行するというイェズラムに、ギリスは俺もついていきたいと頼んだが、ついてくるなと断られた。
 敵地への長旅になるので、生きて戻れるか謎だし、もし俺が戻らなかった時には、長老会の命を受けて新星に従うようにと言い置いて、イェズラムは旅立っていった。それを見送る群れのひとりとして市街までは付き従ったが、その時のスィグルがどんなだったか、実はよく憶えていない。
 たぶん、養父(デン)が生きて戻るかどうか、そっちのほうが気になったのだ。
 果たしてイェズラムはぴんぴんして戻ってきたが、王都に帰投して顔を合わせるなり、ギリスにあれを新星にすると言った。族長がどう決めるかはまだ分からないが、長老会は第十六王子スィグル・レイラスを推挙すると。
 その時になってやっとギリスは、そのスィグル・レイラスというのは、どんな顔だったっけと思った次第だった。そして元服の絵姿を見せてもらった。英雄たちも描かれるそれを、王族もやはり記念として描いてもらうものだからだ。
 元服絵のスィグル・レイラスは、にこにこした子供だった。
 生母の故郷へ向けて王都を出立する前に描かれたものだという話だった。
 そして学院から戻ってきたスィグル・レイラスは、にこりともしない陰気なやつだった。
 にこにこしているほうが、可愛げがあるのにと思って、ギリスはいろいろ派手な悪戯を見せて、スィグルを笑わせようとしたが、あいつが心底笑っているのを見るようになったのは、多分、つい最近になってからのことだ。
 王族は二十歳の姿絵は描かないのかもしれないが、せっかくだし記念としてシャムシールに描かせるといいなとギリスは思った。そうすれば二枚目の肖像も、きっと元服絵に劣らずにこやかだろう。
 シャムシールが広場の壁画に描いていた領主の似せ絵は、とても良かった。描かれた時には、スィグルが微笑して肉を食っているのは、ありえない絵面と思えたが、結局それは現実になった。あいつは最近、なぜか気恥ずかしげににやにやしながら、官僚たちと大広間で飯を食っている。俺につきあって肉を食っている時もある。
 シャムシールは魔法は使えないと言っているが、案外こいつには、未来視の力でもあるんではないかと、ギリスは囲いの中の馬を眺めているシャムシールを脇から見つめた。
「この馬たちは、競争には出ないんですか」
 競技場の片隅に造られた囲いの中を、うろうろと落ち着かない様子でいる十頭ばかりの馬たちを、シャムシールは描きたそうにうずうずした気配で眺めながら、ラダックに訊いていた。
「これは次の回に出走する馬です。ここで客に様子を見せて、勝ちそうな馬を予想させ、馬券を買ってもらうんです」
 ラダックは律儀に解説していた。シャムシールはどうも本当に、競馬を見るのは初めてらしかった。
 王都にもあったはずだが、グラナダほど盛んでない。たぶん賭をするのが王族や貴族ばかりで、上流の趣味であり、一般市民には開放されていないせいだ。
 シャムシールは平民の出身で、タンジールではあまり、上流の者との付き合いがなかったようだし、観に行く機会もなかったのだろう。
「今日はどれが勝つんだろうなあ」
 ギリスはふたりの合間に割って入って、柵にもたれ、様々な地模様をした馬たちを眺めた。
 そのうちの何頭かは、わざわざ競馬用に買い入れられたものだが、元はといえば競馬場の馬は領主レイラスの持ち馬だった。スィグルが気晴らしに無駄遣いして買った馬を、ラダックが取り上げたのだった。
 あれ、そういえば、と、ギリスは首をかしげた。ラダックは貧民の出だと言っていたような気がするが、なぜこいつは元々この地でも金満家の趣味だった競馬の楽しみを知っていたんだろう。
 思ってもみなかった疑問なので、今まで訊いてみたことがない。
 ギリスは真剣そのものの目で囲いの馬を眺めているラダックの横顔を見た。
 こいつはまだまだ奥がありそうだ。お堅くて、なかなか本性を見せないが、なあに、まだまだ時間はあるのだし、化けの皮を一枚一枚ゆっくり剥ぐさ。
 楽しくなって、ギリスはにこにこした。
「なに笑ってるんですか。気持ち悪いですね、エル・ギリス」
 吐き捨てるような棘だらけの口調で、ラダックが非難してきた。笑う自由ぐらい俺にもあるだろ。まさかそれにも税金がかかってんのか、お前の街では。そんなふうにギリスが答えると、ラダックは、ふんと忌々しそうに言った。
「あなたには、ほかに課税するところがないから、笑うのにも税金をかけないといけないかもしれないですね。レイラス殿下にそう申し上げておきます」
「えっ。じゃあ数えないといけないの。今日何回笑ったか。無理だよ、いちいち意識してないもん」
 ギリスが困って泣き言めいた口調になると、ラダックは青筋をたてて、冗談ですと言った。
 なんだ冗談かとギリスは驚いた。どうしてラダックはいつまでたっても、俺に冗談を言うんだろう。それも本気かどうか区別のつかないようなのばかり。せめて、笑って言ってくれりゃあ気がつくのに。難しすぎる。
「賭けますか、シャムシール」
 お前とは、もう話さんという気配を見せて、ラダックはギリスを無視して、ひとつ隣でぼけっと立っている絵師に話しかけた。
「賭けなきゃいけないんですか」
 ぽかんとして、シャムシールが聞き返した。画帳を開きかけているところを見つかって、シャムシールはなぜか、ぎくりとしていた。絵ばかり描くなと言われて誘われたので、描いちゃまずいとでも思ったらしかった。
「いけなくはないですが、賭けずにタダで馬だけ見ようっていうんですか、あなたは」
「えっ。そうか。まずいでしょうか」
 急に慌てたように、シャムシールは束髪にした髪を、筆を持った手でがしがし掻いた。それでますます、髪がふにゃふにゃになり、宮廷絵師の見た目の押し出しはいちだんと低下した。
「まずくはないですが……公営競馬からの収益は、今やグラナダ市の財政に大きな位置を占めています。その仕組みを一度くらいは体感しておいても、損はないのじゃないですか。あなたも仮にも、レイラス殿下の廷臣なんですから」
 仮じゃなくシャムシールは正式にスィグルの廷臣のはずだがと、ギリスは思った。繋がり的には、グラナダ市の地方官僚でしかないラダックのほうが、よっぽど仮の廷臣だった。シャムシールは、スィグルに随行してこっちに赴任しているが、身分としては、タンジール王宮に仕える上級官僚の待遇なんだから。
 官僚と、そう思ってギリスは改めてシャムシールを眺めた。全然そうは見えなかった。どう見ても、道楽で絵を描いているだけの男だ。
 天才じゃなかったら、やばかったと、ギリスは思った。他になにか取り柄があるように見えない。
「じゃあ、せっかくだし、僕も賭けます」
 頷いて、シャムシールは馬を眺めた。
 どれに賭ければいいのかと、シャムシールはラダックに訊ねた。
 それにラダックはまた律儀に、馬一頭ずつの血筋やら戦績やらを解説してやっていた。
 しかしシャムシールは、その話を聞いているようには見えなかった。にこにこしてラダックと向き合っていたが、そんなシャムシールの右の耳から左の耳へ、滔々と語られる話が突き抜けて、ざらざら溢れているのが目に見えるような錯覚がした。
 それでも全て律儀に話を聞き終えてから、シャムシールは囲いの中の馬たちを振り返り、手に持っていた筆で、そのうちの一頭を指し示した。
「僕は、あれに賭けます」
 のんびり飼い葉をはんでいる、競走馬にしては、なんとなく太った感じの、白茶のまだら馬を、シャムシールは指していた。
 ギリスはラダックとともに、目を瞬いて、しばしそれを一緒に眺めた。
「あのう……」
 ラダックが眉間に皺を寄せて、言いにくそうに訊いた。
「私の話、聞いてましたか。あれは大穴というか……駄馬です。殿下が他のを買うときに、調子に乗ってついでの発作買いをしたんですが、走らせてみたら駄馬だったんです。さっき、そう言いませんでしたか。あれは一度も勝ったことがなくて、そのうち肉になると」
「馬肉はうまいよ」
 ギリスが教えてやると、シャムシールは険しい顔で頷いていた。
「うまいんですか……でも、僕はあれに賭けようと思います」
「なぜです」
 やめとけという口調で、ラダックが訊ねた。するとシャムシールは、もう一度腕を挙げて、こんどはふらふらと水を飲みに行った駄馬を、筆で指した。
「お尻のところに、模様があるでしょう。あれが何となく、兎に見えるから」
 白地に茶なのか、そのとも逆かはわからない、馬のケツのところに、確かに茶色で影絵のように、横を向いた兎みたいな文様が浮き出ていた。
 シャムシールはつくづく兎が好きなんだなと、ギリスは納得したが、ラダックは納得できないという顔だった。
「模様で走るわけじゃないんですよ、シャムシール」
「いや、そうなんでしょうけど。でも肉にされるのは可哀想なので、賭けてやろうかと」
「掛け金の額で肉になるかどうか決まるわけじゃないんです。勝つかどうかなんです」
 ぼけっとした印象のある話し方でいるシャムシールに、ラダックは噛みつくように答えていた。それでもシャムシールはにこにこしていた。
「じゃあ、勝つといいなあ」
 笑って頷く、それがシャムシールの結論らしかった。
 ラダックは開いた口が塞がらないという青い顔をしたが、それ以上なにも言わなかった。
 結局のところ、賭けるのはシャムシールで、自分の金を賭けるのだから、どの馬を選ぼうと自由だった。
 あなたは見るだけですねと、ラダックはどことなく虚脱した声色で、ギリスに念押ししてきた。馬券を買うなという意味らしかった。いつぞやの、大金を大穴に賭ける話以来、ギリスが賭けるというと、ラダックは心臓が痛くなるとのことで、一緒に来たときは馬券を買わないでくれと約束させられていた。
 シャムシールの馬に賭けてみたかったが、約束は約束なので、ギリスは仕方なく頷いた。
 では馬券を買ってきますといって、ラダックはふらふらとその場から消えた。人混みに消える、なんとなく傾いだような休日のラダックの後ろ姿を見送ってから、ギリスが目を戻すと、シャムシールはもう画帳に向かっていた。
「……描いてもいいんですよね」
 こちらの視線にぎくりとして、シャムシールはどことなく後ろめたそうに訊いてきた。ギリスは苦笑して頷いた。結局こいつは、どこにいようが、絵を描いてるんだなと思って面白かった。
 許しがもらえたという嬉しげな顔で、絵師は描き始めた。さらさらと紙を撫でる筆先は、白紙だったところに、踊るような足取りの、まだら模様の駄馬を描きだしていった。その尻のところには、もちろん兎のような模様があった。
「こいつの名前、踊る兎(ディンブルクリフ)っていうんだよ」
「はぁ、そうなんですか。知りませんでした」
 やっぱりラダックの話を全く聞いてなかったらしい絵師は、描きながら、にっこりと微笑んだ。
「俺がつけたの」
 ギリスがさらに裏話を教えてやると、絵師はやっとこっちを見た。そして、さらに、にっこりとした。
「そうですか。いい名前ですね。僕は好きです」
 ギリスはそれに、微笑み返した。そして、踊る兎を食うのもいいが、この絵師が気に入ったんだったら、もうしばらく走らせておくように、ラダックを説得しようと思った。なんなら、こいつが食う飼い葉くらいは、俺が買ってやるから。スィグルに頼めば一発だろう。あいつはとにかく、馬が肉に変わるのが大嫌いなのだ。それはたとえ、ケツに兎のいる駄馬でもだった。


 ラダックは競馬場の窓口からふらふらと戻ってきた。
 その手には、一枚の手形が握られていた。
 ラダックはそれを、なんとなく震えながらシャムシールに差し出した。
 絵師は銀箔の枠で装飾された、ご大層な手形を受け取り、ためつすがめつして裏と表を観察していた。
「大穴です」
 額に手をやり、何か縋るものはないかという雰囲気のする立ち姿で、ラダックはきっぱりと教えた。
 出走の銅鑼を聞いたあと、踊る兎はいつものように、なんとなく踊るような足取りで、どたどたと走った。ものすごく遅かった。
 賭けた馬が負けていることくらいは、勿論分かっているのだろうが、シャムシールは踊る兎(ディンブルクリフ)の走り方がよっぽど可笑しかったらしく、嬉しそうに笑いながら出走した騎影を見守っていた。
 やがて駿馬たちは、周回遅れの踊る兎を追い抜く勢いで疾走してきたが、番狂わせはその時起こった。何に驚いたのか、今となっては謎だが、些細な音かなにかのようだった。先頭を走っていた血筋正しき神経質が、突然恐慌して竿立ちになり、騎手を放り出した。
 その恐慌は後続にも次々伝播していき、集団で走っていたまともな馬たちは、みんな狂ったようになって、あっちこっちに走り出したり、騎手を振り落としたりした。
 そんな混乱の中、踊る足取りのまだらの駄馬が、のこのこ走ってきて、見事に一着で走り抜けたのだ。いや、踊り抜けたというべきか。
 観客席は怒号を通り越した絶叫だった。たぶん、その時にこにこしていたのは、その大群衆の中でも、シャムシールとギリスだけだった。
 ラダックはほとんど死体みたいだった。
 なぜ毎度、厳選したはずの馬が勝たないのか、それについてはラダックはいつも悩んでいたが、今日はその苦悩がさらに深かった。ケツに兎がいるという理由で馬を選んだやつに負けたのだから、それも当然だろうと、ギリスには思えた。
「元気出せよ、ラダック。このまま戻るのがつらかったら、飯食って帰ろう。酒付き合うから」
 項垂れて静止しているラダックに、ギリスは励ますつもりで優しい言葉をかけた。
「僕、すごく儲かったみたいなので、おごります」
 銀枠の手形に記された金額を見下ろしながら、シャムシールはなんだか良く分かっていないふうに言った。
「貯金するといいですよ……」
 暗い声で、ラダックは項垂れたまま、おどろおどろしく言った。
「公債を買うという手もあります。それに私はやけ酒くらい、自分の金で飲みます」
「どこで飲むの」
 ギリスがにこにこして訊ねると、ラダックは、ついてくるなと言った。しかし勿論、ギリスはついていくつもりだった。
 だってこいつが普段、どういうところで遊んでるのか、知っておきたいし。その店の誰かから、鬼の官僚ラダックの、意外な話が聞けるかもしれないじゃん。
「僕は帰りましょうか」
 遠慮したふうに、シャムシールが笑っていうので、ギリスはびっくりして首を横に振った。
「なんで。一緒に行こうよ、シャムシール。仲間だろ」
「でも行ったところで、僕は不調法ですよ。絵を描くしか能がないですし、気の利いた話もできません」
 珍しく苦笑して、シャムシールは鼻を掻いていた。
「そんなことないよ。ラダックが悲しく飲めるように、お前が描いてた踊る兎(ディンブルクリフ)の絵を見せてやるといいよ」
「余計なお世話なんですよ、あんた鬼ですか、エル・ギリス」
 微笑んで絵師を誘うギリスを、ラダックが青ざめた顔で怒鳴った。しかしそれは耳に心地よい負け犬の遠吠えだった。ああ、たまらんと、ギリスは思った。俺が勝ったわけじゃないけど、お前が負けるのは気持ちいいなあ、ラダック。
 そしてギリスはシャムシールの肩を押し、ラダックの首根っこを引っつかんで競馬場を出た。ついてくるなとラダックはとにかく往生際が悪かったが、とにかく土曜の午後だった。いつもなら鬼の金庫番として、藍色の官服をまとっているこの男も、今日はいかにも平民らしい、質素な濃茶の長衣(ジュラバ)に身を包んでいた。そんな私服のラダックが、部族の英雄、無痛のギリスに勝てるわけがない。
 あたかも生きているように活き活きと描かれた馬の絵を目前に置かれて、ラダックはいかにも泣きたいという顔で酒を飲んだ。それを見ながら自分も付き合い酒を飲み、シャムシールはにっこりとして、たまには競馬もいいですねと言った。
 それはどうも本音のようだったので、ギリスはまた次の機会にも、この絵師を誘ってやろうかと思った。ラダックが賛成かどうかは謎だが、そんなことは関係ない。誰をつれていくかは、俺が決めると、ギリスは絵の中の踊る兎(ディンブルクリフ)を見つめ、満面の笑みで、にっこりと笑った。

《おしまい》
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