もえもえ図鑑

2008/11/16

族長と伊勢エビを食う(8)

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 かつて見慣れたイェズラムの部屋にいて、不意に、歩いてみようかと思った。どうも皆、立って歩くようだし、どうして自分だけ這い回っているのかと、疑問に感じたのだ。
 その時たぶん、自分は幼児だった。そうでないとおかしい。だってその時自分は、生まれて初めて立って歩いたらしいのだ。
 すっくと立ち上がり、二、三歩よろめくように歩くと、部屋にいたイェズラムが、それはそれは驚いたような顔をして、すっ転んだ自分を助け起こしにきた。
 その時のイェズラムは、まだ本人も元服前の子供だったせいか、それとも転んで泣いている幼い弟を慰めたかっただけか、手放しでリューズを褒めた。たかが二、三歩歩いただけで、リューズお前は本当に賢くて偉いと頭を撫でてもらい、それに大層味をしめたのだ。
 人に言っても信じないので、もう誰かに話そうという気にはならないが、普通は皆が忘れ去るという幼児の頃のことを、リューズは幾つか鮮明に記憶していた。
 もしかするとそれが、イェズラムがこれまでの人生で、もっとも手放しで自分を褒めた数少ない機会だったのではないかと思う。
 あいつはケチなのだ。他の者は気軽に褒めるのに、俺のことは滅多に褒めない。褒めても条件付きだったり、一癖あったり、そんなのばかりだ。
 それに毎度、こんなはずではなかったがと、昔の姿と引き比べてみて、いつぞやはただ歩くだけで褒められて、楽だったと懐かしく思う。それが難敵を見事に撃破してみせても、渋い顔をして、まだまだ緒戦だと言うばかりになるとは。
 それが急に面白くなって、リューズは、ふふふと笑い声をもらした。
 ふと見ると、若輩の英雄が、大の字になって畳で寝ていた。それでもしっかり、皿の肉は平らげてあり、酒も律儀に飲み尽くされていた。出されたものを全部食うのは、単にこいつが意地汚いからか、それともイェズラムの厳格な躾の賜か。どちらでもいいが、あの渋面に、褒められて育ったとは、羨ましく腹の立つような小僧だ。
「お前が、俺の弟分(ジョット)だって? それはないだろ」
 寝てるのかどうか、ぐうぐう軽いいびきをかいているエル・ギリスの頬を指で強く突っついてみながら、リューズは独りごちる口調で訊ねた。
「あいにくだが、それはないなあ、エル・ギリス。俺はお前が、嫌いなんだよ。ジェレフも何となく、虫が好かなくてなあ……」
 いい奴だったのにと、済まなく思って、リューズは今回は気配もしなかった、年下の英雄のことを思った。
 つまり俺は、自分がなれなかった魔法戦士で、自分が席を譲ってやらねばならない、より幼い者がやってくるのが、癪に障ったのだろう。とにかくなんでも、自分が一番でないと、ムカムカしたんだ。
 まあ言うなれば、餓鬼っぽいんだよ。
 そういう奴が部族の家長とか、父上とか、もしくは薄ら馬鹿の兄貴分(デン)でもよいが、そんなご立派な立場に立って、本当に大丈夫なのかねえ。
 俺は正直、自信がないよ。
 禁煙して、はや十数年、名君のような面(つら)をして、戦乱も乗り越えたし、停戦も乗り越えた。そうして久々に夢薬の優しい煙を味わったところ、未だに昔と同じ夢を見るんだからさ。これはけっこう重症なんだぞ。
 しかしバレないだろう、誰にも。バレなきゃいいのだ、結局のところ。
 まだ燃え残る煙管の灰を、惜しげもなく盆に打ち落として、リューズはにやりとした。
 そして床に投げ捨てられていた、『ただの盗賊』と書かれた服を、片手で拝んでおいた。
「恩に着るよ、煙屋の。大恩の報いは、またいずれ」
 そして、そそくさと部屋を辞そうとした。氷の蛇がうたた寝する間に、とっとと逃げるが勝ちだと思った。
 しかし戸口から出ようと思った矢先、給仕の者が盆を持って入ってくるのとぶつかりかけて、その女はきゃあと驚いたような声をたてた。
 それでエル・ギリスが起きるのではないかと思い、リューズはしーっと、指を口元にあてて、静かにするよう頼んだ。それに女は照れ臭そうに微笑して、盆の上のものを見せた。
 アイスクリームだった。口直しのデザートってところだろう。
 食っときゃよかったと、リューズは後悔した。氷菓が好物だったからだ。
 そしてその冷たい甘さを舌の上に思い描いたとき、はっと記憶に蘇ってきた事実があった。それに気付いて、リューズは自分にお仕着せの、『罠』と書かれた文字の筆跡を見た。
「思い出した。氷菓のおっさんの字だ」
 確か、エル・トリギムだ。イェズラムの兄貴分(デン)で、格好いいおっさんだった。将棋は弱かったが。負けたら氷菓を食わせてくれたので、あれは実は、わざと負けていたのかも。それでも項垂れてアイスを食っていたから、案外本気で、幼髪の餓鬼に負けていたのか。
 今ではとっくに、死せる英雄となったあの人だが、懐かしい限りだ。なんで京都でTシャツ作ってんのか。それは極めて謎だが。戦争で死ぬよりはずっと、いい商売だなと、リューズは亡き英霊のために安堵した。
 そして給仕の盆の上から、銀の匙をとり、未練を残した氷菓をひと匙、すくい取って口に入れた。冷たくて甘かった。美味いなあと、リューズはその味に嬉しくなった。
 せっかくの持てなしを、オチまで居着かず申し訳ないと給仕に詫びて、出て行こうとしたが、支払いを息子の射手に押しつけるというのも妙だと気付き、リューズは右手に填めていた金と紅玉(ルビー)の指輪を外し、給仕の女に与えた。
 これが『時価』より高いのか、さっぱり見当もつかないが、まあエビの二匹くらいは購えるだろう。族長が身につけるような品だからと、気楽に考え、ついでに結構美女だった給仕の頬に口付けもして、怒られぬうちに、とっとと退散した。
 どこから出るのかと彷徨い、エレベーターを見つけて乗ると、ずっと身につけていたらしい電話が鳴った。気がつかなかった。もし気がついていたら、これで救援を呼べたのに、ケースに入れて、ベルトから背後に吊されていたので、見えてなかった。エレベーター内の壁は窓があり、その外は夜だった。夜景が鏡のようになり、それに映った自分の後ろ姿を見て、鳴っている電話を取りながら、リューズは服の背になにか書いてあるのに気付いた。
 電話に出ると、それはイェズラムからだった。聞き慣れた声が、かすかなノイズとともに、電話から呼びかけてきた。
「帰るのか」
 そう問う声に思わず苦笑になりながら、リューズは背にかかっている邪魔な自分の髪を払いのけて、鏡の中の文字を見た。反転しているが、それは単純な字だったので、すぐに読めた。
「帰るのかじゃないぞ。とんでもない目にあった。そんな時に、なんでお前はいなかったんだ」
 文句を言うと、電話の向こうの相手は、にこりともしていないような声で答えた。
「そう毎度いるわけがない。用事があったんだ。生前の礼を述べに、長(デン)のところに行っていた。それから戻ってきたが、お前はもう帰るんだろ」
「長(デン)て、アイスのおっさんか」
 リューズが訊ねると、叱るような含みのある声で、イェズラムは、エル・トリギムだと訂正した。そうそう、そのエル・トリギムだ。鏡の中で反転している、この文字を書いたのも、あのおっさんだ。イェズラムに毎年、『無愛想』と大書した、達筆の文字を与えていたのも、あのおっさんだ。
 そして今、いつの間にか無理矢理着せられている服の背に『お兄ちゃん子』と書いてある文字も、間違いなく、あのアイスのおっさんの字だ。
「なんで俺が帰るって、分かるんだ。死霊だからか」
 帰る頃合いを見計らって、挨拶ぐらいはと電話してきたのかと、リューズは僻んで訊ねた。それには微かに、笑う声が返ってきた。
「いいや。エレベーターに乗ってるお前が、見えたからだ」
 そう言われて、リューズはエレベーターの窓から、外を見た。見知らぬ街の、夜の雑踏が見えた。兄がどこにいるのかは、人混みに紛れていて、さっぱり分からなかった。
 ちん、と音がして、エレベーターが地上階に着いたらしかった。がこんと大仰な音がして、扉が左右に開くと、そこから歩み出る薄暗いエレベーターホールに、見慣れた、しかし見慣れぬ様子の人影が立っていた。
 イェズラムだが、やはりさすがの兄貴も、右脳の支配からは逃れられないのか、黒地のTシャツにジーンズだった。リューズはその姿を、思い切り笑ってやろうと思って歩みよったが、案外似合っていた。
 それで思わず渋面になり、リューズは平気なようでいるイェズラムの顔を見上げた。
「こんなもんまで着こなすな。むかつくよ」
 イェズラムの胸に大書してある、『無愛想』という文字を指さして、リューズはなじった。それにイェズラムは苦笑の顔になった。
「しょうがないだろ、着なくちゃいけないらしいんだから」
「ちょっと後ろを見せろ」
 背中にも何か書いてあるんではないかと思い、リューズは背後に回ろうとした。それに本能的な危機感を覚えるのか、イェズラムは警戒した顔で、くるりと逃げて、背を見せようとしない。
「なんのつもりだ」
「いや、別に何も悪さしないよ。背中にも何か書いてあるんだよ」
 そう教えられ、逃げるのを止めたところを見ると、イェズラムも背に何が書いてあるのか、知らないらしかった。知っていたら、もしかすると、見るなと言って逃げ続けたかもしれない。
 そこにはアイスのおっさんの筆跡で、『弟思い』と書いてあった。
 それがあまりに気味が良く、リューズは思わずほくそ笑んだ。
「なんと書いてあった?」
「さあなあ、さっぱり分からん。俺の読めない字だった」
 リューズは意地悪く笑って、とぼけておいた。イェズラムは真に受けたわけではないだろうが、むっと渋面になった。
「お前には未だに読めない字があるのか」
「うんうん。お前にとって、読めないほうがいい字があるな。それはそうと、まさかもう帰るんじゃないだろ。俺は腹が減ってるんだ。どこかで飯でも食おうよ」
「たった今、食ってきたところなんだろ」
 びっくりした口調で、イェズラムが訊ねてきた。
 でも本当に腹が減っている。思えば、ちょっとしか箸をつけてない。アイスも一口しか食えてない。このままだと腹が減って、夜も眠れなくなりそうだ。
「お前の養い子(ジョット)に呑まれて、びびって飯も食えなかった」
 正直にそう教えると、イェズラムは、まったくお前はしょうがないというような、嫌気のさした顔をした。こちらの妙な気の弱さには、もう慣れたものなのだろう。
「食事はいいが、その前に服を買う」
「どうして」
 真面目腐って言うイェズラムに、リューズは首を傾げた。
「この格好で街を歩きたくないんだ。俺の格好もずいぶんだが、お前のも最悪だ。とにかく半袖はまずい」
 嘆かわしいというふうに首を振って言い、イェズラムは有無を言わせぬ様子だった。やっぱりそうだよなあと、リューズは納得した。それにもう京都の街は、半袖でうろつくような気温でもない。すでにもう、クリスマスの電飾が始まっていた。
「確かに、めちゃくちゃ寒い」
 同意して、リューズは買い物に付き合う意向を示した。
 この界隈で、どんな衣装が名君向きか、さっぱり見当もつかないが、イェズラムが適当なのを選ぶだろう。こいつはそういうの、得意だから。
 それじゃあ行こうかと歩き出したイェズラムを追って、リューズは寒風の吹きぬける雑踏に踏み込んだ。道を知っているふうな兄に、どこへ行くのかと訊ねると、イェズラムは人目を恥じるような渋面で、一番近くてアルマーニと言った。この際、近ければ何でもいいと。この格好で人前を歩くなんて地獄そのものだ。
 そうだろうかなあと、リューズは答えた。寒くて腹は減っているが、まあとにかく気楽なことは確かだし、それに、店で買った服に着替えたあと、元着ていた服の背に書いてある『弟思い』という文字を見て、イェズラムがなんとコメントするか、想像するだに笑いが止まらない。
 アイスのおっさんにも、世話になったと、リューズは内心で英霊を拝んだ。
 世の中なにがどうなるか、分かったものではないが、とにかく人の愛に支えられて、ここまで来た。今後もそのようであるように、自分の死後も、そのような治世が続くようにと、リューズは祈った。可愛い息子のため、あるいは、愛する砂漠の民の、幸福な未来のために。
 見知らぬ街にいて、それを聞いてくれる神か天使がいたか、定かではないが。きっと何かはいるのだろう。この街の電飾はどうも、美しいようだから。
 微笑んでそう思いつつ、リューズは足早な兄を追って、夜の街に消えた。聖なる夜を讃える歌と、にぎやかな鈴の音が、楽しげに鳴り響く夜だった。

《おしまい》
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