銀貨三枚の矜持(1)
前知識:「新星の武器庫」の後日譚です。
・ ・ ・ ・ ・ ・
予定より少し遅れて店に入ると、待ち合わせていた相手はすでに来ていた。
ちょっと見には分からず、ラダックは相手を探して、繁盛している食堂の店内に視線を彷徨わせた。
ずいぶん混んでいるなと思ったが、それくらいの店のほうが、密談するのに向いているとファサルは言っていた。
夕刻を回り、仕事から上がって寛ぐ時間帯であり、店内には沢山の客用の席があったが、そのほとんどは、帰宅する前に腹を満たす市井の男たちで埋められており、宮殿の者がいるようには見えなかった。
仕事の愚痴やら、他愛もない与太話やらに、素朴にうち興じている者たちの中に、ぽつりと黙ってひとりで座っている男がおり、赤黒い煙管をふかし、左目には眼帯をしていた。
物憂げに退屈して座しているその男が、ファサルだと気づくのに、ラダックはしばらくかかった。何か気になる人物だったが、それに目が留まっても、すぐにはファサルだと気づけなかった。
何故だろうと思い、そして相手が笑っていないせいだと分かった。
宮殿で見かけるファサルはいつも、にこやかに微笑している。盗賊として捕縛されてきた時ですら、取り調べを受ける謁見の間で、優雅に微笑んでいた。
それが笑っていないこともあるのだと、すぐには呑み込めなかったのだ。
加えて、いつも特徴的な、左右で色の違う目が、青い片方だけしか出ていないと、ファサルはただ麗質なだけの、普通の中年の男に見えた。さしづめ昔の戦で片目を失って、故郷に戻った帰還兵といったところか。
そういう者は、この街には珍しくもない。容姿の端麗さを除けば、ファサルには目立つところはどこにもなかった。
それに安心して、ラダックは歩いていき、彼の向かいに立った。
煙管をくわえたまま、ファサルは片方だけの上目遣いで、こちらを見てきた。
「遅かったじゃないか。あんたらしくもない」
白い煙を吐いてから、ファサルは煙管の灰を、脇にあった真鍮の煙草盆に打ち落とした。こちらが煙を嫌うことを知っていて、吸わないつもりでいるらしい。
そんなことをしてもらったところで、どうせ店内は煙だらけだ。髪にも服にも、とっくに臭いがついただろう。
ラダックはその様々の臭いに顔をしかめつつ、ファサルの向かいに胡座した。
「宮殿を出る時に、うるさいのが目ざとく見つけてきて、どこへ行くんだとうるさく訊くもので、振り切るのに手間取ったんです」
ラダックは忌々しく答えた。
うるさい英雄とたまたま行き合ったのが、運の尽きだった。
自分が遅刻をするなど、とんだ不覚だったが、この際やむを得ない。エル・ギリスに万が一にもくっついてこられたら、なにかと鬱陶しいのだ。
「連れてきてやりゃあよかったろうに」
苦笑のようにも見える、面白がったふうな笑みを見せ、ファサルが言った。ラダックはそれに、思わずしかめっ面になった。
「嫌です。あなたと喧嘩になって、話が進まないのでは困ります。私はさっさと帰りたいので」
それでもラダックは、注文をとりにきた給仕に、晩飯の注文をした。宮殿に戻ってから食事をとるのが嫌だったからだ。時間帯から外れているだろうから、冷えた残り物を食うのも嫌だし、かといって、自分ひとりのために、厨房に改めて火を入れさせるのも、不経済で嫌だった。
ファサルもこちらに付き合ってか、食べ物を注文していた。彼には自邸に食事の用意があるだろうが、なにしろここは飯を食う店なので、酒食を注文せずには長居をしづらい。
「それで今日は、なんの用だい」
給仕が先に運んできた麦酒に、ファサルは乾杯もせず口をつけた。
それもそうかとラダックは思った。いきなり飲むのは妙な気がしたが、乾杯する理由もなかった。
いや。あるのかもしれないが、変装した牛の目のファサルと、暢気に乾杯するほうが、よっぽど奇妙に思える。
それで仕方なく、ラダックも黙然と、素焼きの白い酒杯から、細かな泡の立っている麦酒を飲んだ。そして一息ついてから、話を始めた。
「例の薬の件で、お礼を。無事に納品されて、武器庫に納まりました」
「そりゃあ良かったね。英雄君は喜んだかい」
ファサルは淡い微笑で訊ねていた。ラダックは、それに笑い返しはせず、ただ頷いて答えた。
ファサルに用立てを頼んだ、連弩(れんど)の弓矢に塗るための毒薬は、すみやかに集められ、すみやかに納められてきた。荷を運んできた者たちは、誰も彼も言葉少なで、悪党のようには見えず、夜陰に紛れてではなく、白昼堂々とグラナダ宮殿にやってきた。
ラダックは正直言って肝が冷えたが、剣呑な瓶の中身が整備用の油だという、偽(にせ)の納品書を彼らは用意しており、適当な品物に紛れさせて、さも当たり前のように武器庫に運び込んでいった。
悪党というのは、悪党のような顔はしていないものかと、ラダックは武器庫の扉を閉じさせながら思った。
荷運びを手伝わせた宮殿の部下たちは、それが油だと信じているようで、何の疑いも見せなかった。だから自分も、そしらぬ顔をして、罪のない彼らに、たった二刺しで人が死ぬという猛毒を、大量に運ばせることができたのだ。
その時の自分は、まさに悪党の顔だったのかもしれない。
真面目な働き者のような顔をして、その実、人殺しの算段をしているような。
それで平気と思うには、自分はまだまだ、官僚服が板に付いた、虫も殺せないような男だ。
ラダックは今、目の前にいる悪党の親玉のことを、不思議な違和感をもって眺めた。この人も、そうだと教えられなければ、到底人を殺すようには見えない。
さっき宮殿で捲いてきた、あの若造もそうだ。エル・ギリスは、まだたった二十歳だというのに、平気で人を殺すような目をしていて、そのくせ屈託がない。
彼は宮廷では悪党(ヴァン)ギリスと呼ばれていたらしいが、ファサルも彼も、まさに悪党どうしだ。同じ主君に仕えながら、いつも仲が悪い。似た者どうしで無駄に争うのはやめて、大人しくしてくれないかと、ラダックはいつも辟易していた。ファサルにではなく、主に、エル・ギリスについて。
「試そうと言い出さなかったかい、あの若造は」
問いただしてくるファサルは楽しげだった。それでもこれは、あの毒薬のことを言っているのだろう。
「あの薬をですか」
「そうさ。私が用立てたと聞いて、中身が本物かどうかと、疑わなかったのかい」
ファサルはなんとなく宙に手を浮かせて、時折無意識のように唇に触れ、煙管がないのを訝るような気配だった。吸いたいのなら、吸ったらいいがと、ラダックは思った。
「そういう話は出ませんでした。あなたというより、私を信用しているのでしょう。それに試そうったって、どうやって試すのですか」
眉をひそめた渋面で、ラダックは訊ねた。ファサルはどことなく、からかうように、にやりと笑った。
「そりゃあ、矢を浸して、誰か射てみるのさ」
「誰をです」
「たとえば私とか」
にやにやしたまま、ファサルは答えた。ラダックはその話に、唖然とした。
おそらくファサルは、先だっての宴会のとき、エル・ギリスが誕生祝いに武器職人から送られた連弩で、自分たちに射かけてきたことを揶揄しているのだろう。その時ファサルと話していたラダックも、危うく流れ矢を食らいかけたので、腹立たしく憶えている。
「そんなことはしません。いくらあの人が阿呆でも、あなたが仲間だということは理解しているし、万が一理解していなくても、それをやらかせば、レイラス殿下が怒ることぐらいは理解しているはずです」
「それはそれは、高貴なる殿下に感謝」
遠く宮殿の玉座か、それとも今ごろ当の英雄君と、だらけて飯でも食っているだろう王族の殿下を、ありがたく押し頂く敬礼をして、ファサルは伏し目に笑っていた。
「気をつけないとね。私はあの小僧からは、本気で殺意を感じるよ。ご主人様に叱られて、なんとか我慢をしているが、やれるもんならやりたいという、さかりの付いた犬みたいなもんだよ」
悪し様なのか、滑稽なのかわからないファサルの口調に、ラダックは思わずつられて苦笑になった。
しかし笑うような話ではない。エル・ギリスは本当に、ファサルに殺意があるかもしれない。元々そのつもりだったのだし、レイラス殿下がファサルの命を助け、あまつさえ家臣にすると決めたとき、本当に悔しそうだった。
あれは市民の英雄と、玉座をそそのかしたラダックのことも、内心恨みに思っているらしく、お前はファサル様と仲良しだからなと、折に触れてエル・ギリスは嫌みを言ってきた。可愛げのある子供のような当てこすりだが、本気でそう思われていることは、なんとなく分かった。裏切り者だと言いたいらしい。
別にファサルと親しいわけではないのになと、ラダックは思った。
実際、なんと呼んでいいやら分からない。皆がふざけて呼ぶように、ファサル様というのでは変だし、かといってファサルと呼び捨てにするのも違和感があった。なんせ相手はグラナダ市民の英雄だ。
いっそ英雄(エル)・ファサルとでも呼べれば気が楽なのだが、まさかそういう訳にはいかない。
あれは竜の涙にだけ許される称号で、準王族であると同時に民の下僕でもある、彼らの身分を象徴して、敬称ではないが、かといって呼び捨てでもないという、なんだか良く分からない呼び名だ。しかしそれには、民の犠牲となって死ぬ英雄たちへの、多大な敬意がこめられている。
だが、それを言うのなら、歴代のファサル達だってそうだ。
過去に幾たびか、ファサルの名で呼ばれる者たちは、グラナダ領主によって、処刑の名のもとに惨殺されてきた。義賊として振る舞い、民のために死ぬことにおいて、彼らは魔法を使う英雄以上の、真の英雄だった。
その最新のひとりは、もちろんまだ死んではおらず、目の前に座っているが、危ないところだったのだ。もしも自分が領主を止めていなければ、今ごろきっと、この人は死んでいた。そう思うと、あまりにも人の運命は不思議だった。
今では殿下もすっかりファサルがお気に入りで、エル・ギリスも不満顔とはいえ、宮殿の仲間であるとは認めているようだ。一時は殺し合っていた連中が、今では宮殿で暢気に顔を付き合わせて茶を飲み、煙管を吸って、世間話をしているとは。
殿下も一度は自分でも矢を射かけ、また自分に射かけても来た男を相手にして、でれでれ馬談義というのは、いかがなもんだろうか。あの人にはそういう緊張感がないのか。
自分を殺そうとした男を、平気で許せるというのは、つくづくお育ちのいい阿呆というか、それを通り越して、もはや才能みたいなものだ。殿下は恨みを水に流し、敵でも愛せる人なのだ。まさにそれこそが鷹揚な王族気質かと、ラダックは感心していた。
殿下は短気なくせに、懐だけは、途方もなく深い。盗賊でも、守護生物(トゥラシェ)でも、どんな悪党でも、近従を許して仲間にしてしまう。
エル・ギリスもそれには呆れるらしいが、だからといって、逆らう気はないらしい。あの人は結局、殿下の犬なのだ。激しいように見えて、結局は忠実だ。だから殿下がファサルを気に入っているかぎり、さすがの悪党(ヴァン)ギリスも、この盗賊には手出しができない。少なくとも自らの手では。
「大丈夫ですよ、エル・ギリスは。あれでも一応、考える頭はあるんです。あなたを害しても、なんの意味もないことは、ちゃんと知っていますよ」
ラダックが請け合うと、ファサルは気味よさげに笑い、酒杯から麦酒を飲んだ。
「欲と実との板挟みだねえ」
その嫌みな言い様は、ラダックには面白かったが、毎度こんなふうで、エル・ギリスが怒るのも分かる。
あの人もあの人なりに、ファサルと和解しようと努力はしているらしい面があるが、相手はいまだにちくちくと、矢を放ってくるのだから、堪え性のない彼のことで、それは苛立ちもするだろう。
いい加減に折れて、討伐戦の恨みは忘れ、仲良くしてくださいよと、思わずファサルに言いかけたが、ラダックはそれが内心恥ずかしくなり、渋面で口ごもった。
なんだかそれは、おかしくないか。
確かに宮殿では、自分のほうが古株で、序列も上ではあるが、なんせ年下だし、虫も殺せぬ官僚服だ。そんな立場から、百戦錬磨の盗賊、牛の目のファサルに、何か指図をしようとは、ずいぶん生意気に思える。
そう我に返ると、ラダックは何も言えなかった。これが宮殿で、鬼の金庫番として藍色の官服に身を包んで働く時ならば、その職責を背負って立つ気概で、たとえ玉座に対してでも怒鳴り散らせる自信はあるが、いったん我に返るとラダックは弱かった。
実際、今日も、私服で宮殿を出るところをエル・ギリスに見つかって、付いてくるなと思いはしたが、どこへ行くんだとしつこい相手に対して、ほっといてください、急いでますからと言いはしたものの、いまいち覇気に欠けたのか、散々に付きまとわれて、最後には、やめてください、やめてくださいと頼むような始末だった。
本当にそれでは悔しいし、仕事にも差し支えるので、なんとか宮殿から元の街中の下宿に戻る方法はないのかと、ラダックは悩んだ。ファサルなどは、殿下から市街に私邸を与えられているのだし、自分も遠慮などせずに、褒美には家が欲しいと言えばよかった。別に欲しくはなかったが、そう言っていれば、宮殿に拉致されることはなかったのだ。
しかし、それはもういい。愚痴っても始まらない。
貧民出の下級官僚だった自分が、王族である殿下から、グラナダ宮殿の中の、それもご大層な部類の部屋に住まいを与えられたのだから、それを光栄に思って耐えねば、罰が当たる。もう当たっているような気もするが、これ以上の酷い目に遭わないように、気をつけないと。
そう結論して、情けなくなり、ラダックはもう本題を切りだそうと決心した。無駄口は慎まねば。相手も暇ではないのだ。たとえ暇でも、ファサルをだらだら付き合わせる訳にはいかない。彼には自邸に家族もあり、他に用事もあるだろうから。
「今日、お呼び立てした本題は、謝礼の件です」
ラダックは自分の膳の上の酒杯を見下ろしながら話した。
「金かい」
ファサルは不思議そうに答えた。
→次へ
・ ・ ・ ・ ・ ・
予定より少し遅れて店に入ると、待ち合わせていた相手はすでに来ていた。
ちょっと見には分からず、ラダックは相手を探して、繁盛している食堂の店内に視線を彷徨わせた。
ずいぶん混んでいるなと思ったが、それくらいの店のほうが、密談するのに向いているとファサルは言っていた。
夕刻を回り、仕事から上がって寛ぐ時間帯であり、店内には沢山の客用の席があったが、そのほとんどは、帰宅する前に腹を満たす市井の男たちで埋められており、宮殿の者がいるようには見えなかった。
仕事の愚痴やら、他愛もない与太話やらに、素朴にうち興じている者たちの中に、ぽつりと黙ってひとりで座っている男がおり、赤黒い煙管をふかし、左目には眼帯をしていた。
物憂げに退屈して座しているその男が、ファサルだと気づくのに、ラダックはしばらくかかった。何か気になる人物だったが、それに目が留まっても、すぐにはファサルだと気づけなかった。
何故だろうと思い、そして相手が笑っていないせいだと分かった。
宮殿で見かけるファサルはいつも、にこやかに微笑している。盗賊として捕縛されてきた時ですら、取り調べを受ける謁見の間で、優雅に微笑んでいた。
それが笑っていないこともあるのだと、すぐには呑み込めなかったのだ。
加えて、いつも特徴的な、左右で色の違う目が、青い片方だけしか出ていないと、ファサルはただ麗質なだけの、普通の中年の男に見えた。さしづめ昔の戦で片目を失って、故郷に戻った帰還兵といったところか。
そういう者は、この街には珍しくもない。容姿の端麗さを除けば、ファサルには目立つところはどこにもなかった。
それに安心して、ラダックは歩いていき、彼の向かいに立った。
煙管をくわえたまま、ファサルは片方だけの上目遣いで、こちらを見てきた。
「遅かったじゃないか。あんたらしくもない」
白い煙を吐いてから、ファサルは煙管の灰を、脇にあった真鍮の煙草盆に打ち落とした。こちらが煙を嫌うことを知っていて、吸わないつもりでいるらしい。
そんなことをしてもらったところで、どうせ店内は煙だらけだ。髪にも服にも、とっくに臭いがついただろう。
ラダックはその様々の臭いに顔をしかめつつ、ファサルの向かいに胡座した。
「宮殿を出る時に、うるさいのが目ざとく見つけてきて、どこへ行くんだとうるさく訊くもので、振り切るのに手間取ったんです」
ラダックは忌々しく答えた。
うるさい英雄とたまたま行き合ったのが、運の尽きだった。
自分が遅刻をするなど、とんだ不覚だったが、この際やむを得ない。エル・ギリスに万が一にもくっついてこられたら、なにかと鬱陶しいのだ。
「連れてきてやりゃあよかったろうに」
苦笑のようにも見える、面白がったふうな笑みを見せ、ファサルが言った。ラダックはそれに、思わずしかめっ面になった。
「嫌です。あなたと喧嘩になって、話が進まないのでは困ります。私はさっさと帰りたいので」
それでもラダックは、注文をとりにきた給仕に、晩飯の注文をした。宮殿に戻ってから食事をとるのが嫌だったからだ。時間帯から外れているだろうから、冷えた残り物を食うのも嫌だし、かといって、自分ひとりのために、厨房に改めて火を入れさせるのも、不経済で嫌だった。
ファサルもこちらに付き合ってか、食べ物を注文していた。彼には自邸に食事の用意があるだろうが、なにしろここは飯を食う店なので、酒食を注文せずには長居をしづらい。
「それで今日は、なんの用だい」
給仕が先に運んできた麦酒に、ファサルは乾杯もせず口をつけた。
それもそうかとラダックは思った。いきなり飲むのは妙な気がしたが、乾杯する理由もなかった。
いや。あるのかもしれないが、変装した牛の目のファサルと、暢気に乾杯するほうが、よっぽど奇妙に思える。
それで仕方なく、ラダックも黙然と、素焼きの白い酒杯から、細かな泡の立っている麦酒を飲んだ。そして一息ついてから、話を始めた。
「例の薬の件で、お礼を。無事に納品されて、武器庫に納まりました」
「そりゃあ良かったね。英雄君は喜んだかい」
ファサルは淡い微笑で訊ねていた。ラダックは、それに笑い返しはせず、ただ頷いて答えた。
ファサルに用立てを頼んだ、連弩(れんど)の弓矢に塗るための毒薬は、すみやかに集められ、すみやかに納められてきた。荷を運んできた者たちは、誰も彼も言葉少なで、悪党のようには見えず、夜陰に紛れてではなく、白昼堂々とグラナダ宮殿にやってきた。
ラダックは正直言って肝が冷えたが、剣呑な瓶の中身が整備用の油だという、偽(にせ)の納品書を彼らは用意しており、適当な品物に紛れさせて、さも当たり前のように武器庫に運び込んでいった。
悪党というのは、悪党のような顔はしていないものかと、ラダックは武器庫の扉を閉じさせながら思った。
荷運びを手伝わせた宮殿の部下たちは、それが油だと信じているようで、何の疑いも見せなかった。だから自分も、そしらぬ顔をして、罪のない彼らに、たった二刺しで人が死ぬという猛毒を、大量に運ばせることができたのだ。
その時の自分は、まさに悪党の顔だったのかもしれない。
真面目な働き者のような顔をして、その実、人殺しの算段をしているような。
それで平気と思うには、自分はまだまだ、官僚服が板に付いた、虫も殺せないような男だ。
ラダックは今、目の前にいる悪党の親玉のことを、不思議な違和感をもって眺めた。この人も、そうだと教えられなければ、到底人を殺すようには見えない。
さっき宮殿で捲いてきた、あの若造もそうだ。エル・ギリスは、まだたった二十歳だというのに、平気で人を殺すような目をしていて、そのくせ屈託がない。
彼は宮廷では悪党(ヴァン)ギリスと呼ばれていたらしいが、ファサルも彼も、まさに悪党どうしだ。同じ主君に仕えながら、いつも仲が悪い。似た者どうしで無駄に争うのはやめて、大人しくしてくれないかと、ラダックはいつも辟易していた。ファサルにではなく、主に、エル・ギリスについて。
「試そうと言い出さなかったかい、あの若造は」
問いただしてくるファサルは楽しげだった。それでもこれは、あの毒薬のことを言っているのだろう。
「あの薬をですか」
「そうさ。私が用立てたと聞いて、中身が本物かどうかと、疑わなかったのかい」
ファサルはなんとなく宙に手を浮かせて、時折無意識のように唇に触れ、煙管がないのを訝るような気配だった。吸いたいのなら、吸ったらいいがと、ラダックは思った。
「そういう話は出ませんでした。あなたというより、私を信用しているのでしょう。それに試そうったって、どうやって試すのですか」
眉をひそめた渋面で、ラダックは訊ねた。ファサルはどことなく、からかうように、にやりと笑った。
「そりゃあ、矢を浸して、誰か射てみるのさ」
「誰をです」
「たとえば私とか」
にやにやしたまま、ファサルは答えた。ラダックはその話に、唖然とした。
おそらくファサルは、先だっての宴会のとき、エル・ギリスが誕生祝いに武器職人から送られた連弩で、自分たちに射かけてきたことを揶揄しているのだろう。その時ファサルと話していたラダックも、危うく流れ矢を食らいかけたので、腹立たしく憶えている。
「そんなことはしません。いくらあの人が阿呆でも、あなたが仲間だということは理解しているし、万が一理解していなくても、それをやらかせば、レイラス殿下が怒ることぐらいは理解しているはずです」
「それはそれは、高貴なる殿下に感謝」
遠く宮殿の玉座か、それとも今ごろ当の英雄君と、だらけて飯でも食っているだろう王族の殿下を、ありがたく押し頂く敬礼をして、ファサルは伏し目に笑っていた。
「気をつけないとね。私はあの小僧からは、本気で殺意を感じるよ。ご主人様に叱られて、なんとか我慢をしているが、やれるもんならやりたいという、さかりの付いた犬みたいなもんだよ」
悪し様なのか、滑稽なのかわからないファサルの口調に、ラダックは思わずつられて苦笑になった。
しかし笑うような話ではない。エル・ギリスは本当に、ファサルに殺意があるかもしれない。元々そのつもりだったのだし、レイラス殿下がファサルの命を助け、あまつさえ家臣にすると決めたとき、本当に悔しそうだった。
あれは市民の英雄と、玉座をそそのかしたラダックのことも、内心恨みに思っているらしく、お前はファサル様と仲良しだからなと、折に触れてエル・ギリスは嫌みを言ってきた。可愛げのある子供のような当てこすりだが、本気でそう思われていることは、なんとなく分かった。裏切り者だと言いたいらしい。
別にファサルと親しいわけではないのになと、ラダックは思った。
実際、なんと呼んでいいやら分からない。皆がふざけて呼ぶように、ファサル様というのでは変だし、かといってファサルと呼び捨てにするのも違和感があった。なんせ相手はグラナダ市民の英雄だ。
いっそ英雄(エル)・ファサルとでも呼べれば気が楽なのだが、まさかそういう訳にはいかない。
あれは竜の涙にだけ許される称号で、準王族であると同時に民の下僕でもある、彼らの身分を象徴して、敬称ではないが、かといって呼び捨てでもないという、なんだか良く分からない呼び名だ。しかしそれには、民の犠牲となって死ぬ英雄たちへの、多大な敬意がこめられている。
だが、それを言うのなら、歴代のファサル達だってそうだ。
過去に幾たびか、ファサルの名で呼ばれる者たちは、グラナダ領主によって、処刑の名のもとに惨殺されてきた。義賊として振る舞い、民のために死ぬことにおいて、彼らは魔法を使う英雄以上の、真の英雄だった。
その最新のひとりは、もちろんまだ死んではおらず、目の前に座っているが、危ないところだったのだ。もしも自分が領主を止めていなければ、今ごろきっと、この人は死んでいた。そう思うと、あまりにも人の運命は不思議だった。
今では殿下もすっかりファサルがお気に入りで、エル・ギリスも不満顔とはいえ、宮殿の仲間であるとは認めているようだ。一時は殺し合っていた連中が、今では宮殿で暢気に顔を付き合わせて茶を飲み、煙管を吸って、世間話をしているとは。
殿下も一度は自分でも矢を射かけ、また自分に射かけても来た男を相手にして、でれでれ馬談義というのは、いかがなもんだろうか。あの人にはそういう緊張感がないのか。
自分を殺そうとした男を、平気で許せるというのは、つくづくお育ちのいい阿呆というか、それを通り越して、もはや才能みたいなものだ。殿下は恨みを水に流し、敵でも愛せる人なのだ。まさにそれこそが鷹揚な王族気質かと、ラダックは感心していた。
殿下は短気なくせに、懐だけは、途方もなく深い。盗賊でも、守護生物(トゥラシェ)でも、どんな悪党でも、近従を許して仲間にしてしまう。
エル・ギリスもそれには呆れるらしいが、だからといって、逆らう気はないらしい。あの人は結局、殿下の犬なのだ。激しいように見えて、結局は忠実だ。だから殿下がファサルを気に入っているかぎり、さすがの悪党(ヴァン)ギリスも、この盗賊には手出しができない。少なくとも自らの手では。
「大丈夫ですよ、エル・ギリスは。あれでも一応、考える頭はあるんです。あなたを害しても、なんの意味もないことは、ちゃんと知っていますよ」
ラダックが請け合うと、ファサルは気味よさげに笑い、酒杯から麦酒を飲んだ。
「欲と実との板挟みだねえ」
その嫌みな言い様は、ラダックには面白かったが、毎度こんなふうで、エル・ギリスが怒るのも分かる。
あの人もあの人なりに、ファサルと和解しようと努力はしているらしい面があるが、相手はいまだにちくちくと、矢を放ってくるのだから、堪え性のない彼のことで、それは苛立ちもするだろう。
いい加減に折れて、討伐戦の恨みは忘れ、仲良くしてくださいよと、思わずファサルに言いかけたが、ラダックはそれが内心恥ずかしくなり、渋面で口ごもった。
なんだかそれは、おかしくないか。
確かに宮殿では、自分のほうが古株で、序列も上ではあるが、なんせ年下だし、虫も殺せぬ官僚服だ。そんな立場から、百戦錬磨の盗賊、牛の目のファサルに、何か指図をしようとは、ずいぶん生意気に思える。
そう我に返ると、ラダックは何も言えなかった。これが宮殿で、鬼の金庫番として藍色の官服に身を包んで働く時ならば、その職責を背負って立つ気概で、たとえ玉座に対してでも怒鳴り散らせる自信はあるが、いったん我に返るとラダックは弱かった。
実際、今日も、私服で宮殿を出るところをエル・ギリスに見つかって、付いてくるなと思いはしたが、どこへ行くんだとしつこい相手に対して、ほっといてください、急いでますからと言いはしたものの、いまいち覇気に欠けたのか、散々に付きまとわれて、最後には、やめてください、やめてくださいと頼むような始末だった。
本当にそれでは悔しいし、仕事にも差し支えるので、なんとか宮殿から元の街中の下宿に戻る方法はないのかと、ラダックは悩んだ。ファサルなどは、殿下から市街に私邸を与えられているのだし、自分も遠慮などせずに、褒美には家が欲しいと言えばよかった。別に欲しくはなかったが、そう言っていれば、宮殿に拉致されることはなかったのだ。
しかし、それはもういい。愚痴っても始まらない。
貧民出の下級官僚だった自分が、王族である殿下から、グラナダ宮殿の中の、それもご大層な部類の部屋に住まいを与えられたのだから、それを光栄に思って耐えねば、罰が当たる。もう当たっているような気もするが、これ以上の酷い目に遭わないように、気をつけないと。
そう結論して、情けなくなり、ラダックはもう本題を切りだそうと決心した。無駄口は慎まねば。相手も暇ではないのだ。たとえ暇でも、ファサルをだらだら付き合わせる訳にはいかない。彼には自邸に家族もあり、他に用事もあるだろうから。
「今日、お呼び立てした本題は、謝礼の件です」
ラダックは自分の膳の上の酒杯を見下ろしながら話した。
「金かい」
ファサルは不思議そうに答えた。
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