もえもえ図鑑

2008/10/13

名君双六(5)-7

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 部屋から退出して、静まりかえった廊下に出ると、誰の耳にも聞こえるような深いため息を、ジェレフがもらした。心なしか足元も、よろめいているようだった。
「さしもの生意気君もふらふらか」
 気味良さそうに、シャロームがジェレフをからかって言った。
「ふらふらではありません! 貴方には、言いたいことが……エル・シャローム」
 噛みつくようにジェレフに言われ、シャロームは軽い驚きの顔をした。彼と徒党を組んでいる二人の英雄たちは、にやにやしながら、その有様を見ていた。
「俺は、人を癒すときに、分け隔てなどしません。たとえ貴方でも、戦場で傷つき倒れていたら、駆けつけて癒します。それが治癒者としての、俺の役目だからです」
 ジェレフは実はずっと堪えていたのか、堰を切ったような早口で、一気にそう言った。ここが族長の居室の前であり、控え室にいる侍従たちの耳には、この声が聞こえているかもしれないなどとは、思ってもいないらしかった。
「ほう、そりゃすげえ。だけど俺の配置は常に最前線の激戦区だぜ。お前みてえな、やわな坊主が、どうやってそこまで来るつもりだ」
 お前は口先だけだと、あからさまに言い渡す口調で、シャロームは諭すように言い、ジェレフはそれに、ますます激昂したように、シャロームと間近に向き合って、凄んでみせた。
「馬でです。貴方が行けるところなら、俺にだって行けるはずです。貴方より先を走ることだって、俺にはできますよ。そして英雄だろうが一兵卒だろうが、分け隔て無く癒してみせます」
 啖呵を切っているらしいジェレフを、シャロームはあんぐりとして見ていた。それから歴戦の勇者は傷のある顔に、可笑しくてたまらんという表情を浮かべた。
「そうか、分け隔てなくか。お前みたいな、とぼけた治癒者なら、間違って敵の守護生物(トゥラシェ)まで癒すだろうよ。俺より前を走れるだと。なあ、こいつ、本気で言ってんのか……」
 自分で言っていて、耐え難く可笑しくなったのか、シャロームは顔をしかめて笑い、ジェレフを指さしながら、背後にいる仲間ふたりを振り返ろうとした。
 ヤーナーンとビスカリスは苦笑のような笑いを浮かべ、シャロームに同感のようでいたが、次の瞬間には、ひどい驚きの顔をした。
 ジェレフが意を決した素早さで、指さすシャロームの手をとり、そして腕をとり、自分よりはるかに体格のいい相手を、鮮やかに背負って投げ飛ばしたからだった。
 床に背を叩きつけられるシャロームを、イェズラムはとっさに避けた。あまりに予想外だったのだろう、シャロームは全く受け身をとっておらず、自分の全体重を食らって倒れ、短く鋭い、呻くような悲鳴をあげた。
 わずかに身を乗り出して、あぜんとしている二人の先輩(デン)たちを背後にして、ジェレフは礼装のための束髪を乱れさせた姿で、そのシャロームの醜態に、にやりとしていた。
 その顔が案外勝ち気であるのに、イェズラムは真顔のまま驚き、そして呆れた。こいつはくそ真面目な優等生かと思ってきたが、案外悪たれなのではないか。拝謁ごときで震えがくるほど気は小さいくせに、面子をかけた勝負となったら、シャローム相手にここまでやるとは。
 まるで餓鬼のころの俺のようだ。
「くっそ……痛ぇな。なにしやがるんだ、この餓鬼が……」
 よっぽど背骨に効いたのか、シャロームはまだ仰向けに寝転がったまま、イェズラムの足元でぼやくような悪態をついた。
 そして、何が面白かったのか、歯を見せて、くすくすと笑った。
「真面目野郎に、またやられちまったよ、兄貴(デン)。くだはるような歳になっても、俺はぜんぜん成長しねえなあ」
 シャロームはにやつく苦笑で言ってきた。おそらく昔、イェズラムにやっつけられた頃のことを、懐かしく思い出したのだろう。
「油断するからだ、シャローム」
 手を引いて助け起こしてやると、シャロームは、うんうんと反省したふうに頷いて答えた。
「確かにその通りでしたよ」
 特にこれといって怪我はしていないようだった。族長の居室の前に敷かれた絨毯は、その金枝玉葉のおみ足を痛めぬように、たっぷり肉厚のふかふかしたのが選ばれている。それにやんわり受け止められ、大した打ち身はないものの、自尊心はしっかり痛んだというところだろう。
 この場が幸いして、見ている者はこの四人しかいないが、シャロームはそれで己の敗北を、無かったものと誤魔化すような、そんな小狡い男ではない。
「やりやがったな、ジェレフ。この腐れ治癒者が」
 痛む背をさすりながら、シャロームは苦笑を崩さず、ジェレフに形ばかり凄んで見せた。
「いい気味です、エル・シャローム。貴方は俺を馬鹿にするばかりか、族長にまで不敬だし、エル・イェズラムにも不遜です。貴方にはこれが、いい薬になりますよ」
 腕組みして張り合う調子のジェレフの言い分は、もっともだった。イェズラムは心持ち頷く気分でそれを聞いたが、しかしそういう問題ではない。
「こっちに来い、エル・ジェレフ」
 イェズラムは差し招いた。それに素直にはいと答え、意気揚々として歩み寄ってくるジェレフを、イェズラムはじっと見つめた。 
 まだ大人になりきらぬが、ジェレフは誇り高いというような、そんな面(つら)だった。正しいと信じたことを、自分はやっているのだという、そんな自信に満ちた顔だ。
 それが、むかつく。
 イェズラムは微笑して、自分がかつて若輩だったころ、なぜ散々に虐めぬかれたかを悟った。俺は人に、頭を下げるのが苦手だから。この年になってやっと、この世には自分のほかにも、優れた者がいることを、認められるようになってきた。それで多少はお辞儀にも、相手によっては身が入るようになってきたが、もっと若いうちから、それをやれていれば、避けられた争いも多々あったろう。
 俺には今さら遅すぎるが、エル・ジェレフ、お前はまだ若い。人生まだまだこれからだ。石もちんけな小僧っ子で、頭も柔らかい。人を助ける治癒術に、ふんぞりかえる男にはなるな。お前の悪い先人(デン)たちのようには。
 イェズラムは手を挙げて、まだ小さい石のある、ジェレフの額を、びしっと指で弾いてやった。
 ジェレフにはそれは予想外だったのか、驚きと苦痛とで、ぎゃっと鋭く悲鳴をあげた。額を押さえて蹲る生意気な弟(ジョット)を、皆どこか同情したような目で見下ろしていた。
「ああ、痛いわ、それは」
 にやにや笑ってシャロームが、いかにも訳を知っているように言った。それもそのはずで、これは誰しも何度かは、躾を行う兄(デン)から食らったことのある、伝統的なお仕置きだ。石のあたりを弾かれると、とにかく無茶苦茶に痛い。子供相手にやるときの、害の薄い急所攻撃だが、痛いことは折り紙つきだった。
 ジェレフは両手で額を覆い、腰を折って冷や汗をかいていた。ちょっと効き過ぎたかと、イェズラムは苦笑した。
「まったくお前は、口で言われても理解しないやつだな、エル・ジェレフ。シャロームを敬えと、族長にも言われただろう」
「そんことは言われていません、長(デン)」
 情けないような声で、それでもジェレフは反論してきた。
「言われたよ。俺の言うことを聞けと、あいつはお前に命じただろう。愚か者にはなるなと言って」
「ですが……」
「何が、ですがだ。目上(デン)を敬え。それが派閥暮らしの基本だ。大先輩を投げ飛ばすとは、なにごとか。体術が得意なのは分かったが、それで俺やこいつらが、畏れ入るとでも思ったか」
 伏し目に見下ろして教えてやると、さっきまでの威勢はどこへ行ったか、ジェレフはまた、青い顔になった。
「ですが、長(デン)……」
 またもや、ですが、か。何遍言ったら分かるのか、こいつは。
 かばってくれと訴えるような目に、イェズラムは首を横に振って答えた。ここで甘ったれさせるわけにはいかない。
 しかし思わず苦笑が口元に湧いた。
 かばうわけないだろう、この野郎。俺の可愛い舎弟を投げ飛ばして恥かかせやがって。お前は若い新入りだけあって、俺という男を全然分かってないな、エル・ジェレフ。生意気には制裁、挑戦には制裁、攻撃には制裁をもってやり返すのが、絶対に敗北しない俺の、基本のやりかただ。
「シャローム、こいつを締めといてやれ。お前に喜んで頭を下げられるようになるまで、俺の派閥の約束ごとを、いろいろ直伝してやれ」
 それがお前にはいい薬だ、ジェレフ。そう思って見つめたが、ジェレフはあぜんとして青ざめた。
 シャロームはもちろん、二つ返事だった。
「長(デン)」
 掠れたような声で、ジェレフが言った。
「頑張れよ、エル・ジェレフ。誰もが通る道だ。鼻っ柱が折れるのは、早ければ早いほうがいい」
 そう言ってやって激励したイェズラムの顔を、ジェレフは呆然と見上げてきた。
 シャロームが親しげに、その肩をがっしりと抱いた。拉致の構えだった。
「さあ行こうかジェレフ。ここじゃ場所が不適切だからな。何から行くかな、ヤーナーン。お前の火炎術で根性焼きか」
 うっとり嬉しげに、シャロームは長年の弟分(ジョット)に提案したが、ヤーナーンは首を傾げていた。
「いやあ、それはどうかな兄貴(デン)。俺ももうトシだし、こいつのために命を張りたくないな。その代わりにどうだろ、玉座の間(ダロワージ)を裸で走らせてやったら」
「いいねえ、リューズが泣いて喜ぶぜ」
「侍従長も泣いて喜ぶでしょうよ」
 うっとり決心したふうなシャロームに、ビスカリスがにこやかに同意した。
「お前も泣いて喜ぶだろうなあ、ジェレフ」
 歯を見せて笑い、シャロームはすぐ近くにあるジェレフの顔を覗き込んだ。ジェレフはあんぐりしたまま、何度か呻くような微かな声をたてた。
「冗談、です、よね?」
「ううん、俺様は本気よ。いつも本気だよ」
 汚れないふうに目を瞬いて見せ、シャロームは嬉しそうに答えた。ジェレフはその目と顔面蒼白で見つめ合っていた。
「これからも俺たちと一緒に遊ぼうな、ジェレフ。お前が賢くなる日まで。きっと、いろいろ楽しいぞ」
 ヤーナーンがにこにこ請け合った。
「いざ行かん、栄光の玉座の間(ダロワージ)へ」
 朗々とした名調子で出発を促し、ビスカリスが広間へと戻る通路をジェレフに指し示した。
「冗談ですよね、やめてください!」
 己の窮状を察して、声を裏返らせるジェレフを、ビスカリスはものの哀れを理解した目で、哀愁を込めて見返し、共感するように小さく頷いてやっていた。
「かつて幾人そう叫んだか。そして聞き入れられた者はついぞない。哀れなるかな、エル・ジェレフ」
 一見して教養深く、まともに見えるビスカリスから、そう哀れまれて、ジェレフは混乱した顔をした。もちろんビスカリスは止めているのではなかった。
 どちらかというと、彼は完全にシャロームの一党だった。連中の悪事を、端で笑って見ているのが、ビスカリスの常で、今はリューズの悪事を、端で笑って見ている男だ。ジェレフがどんな目にあうか、多分、楽しみでたまらんのだろう。
 さあ行こうかと言って、シャロームがジェレフを引っ立てて行った。また投げれば良さそうなものだが、ジェレフは気圧されているのか、それともすでに油断の欠片もないシャロームのほうが上手なのか、気の毒な新入りは、これから屠られる仔牛のように、ずるずると引っ張られていっていた。
「助けてください、エル・イェズラム」
 これまで権威者に守られてきたやつらしく、ジェレフはこちらに助けを求めてきた。イェズラムは苦笑して頷いてやったが、それは助けてやるという意味ではなかった。もともと誰がこれを指示したか、ジェレフは一瞬で忘れたらしい。
「やめとけジェレフ。長(デン)からはデコピンで済んで、お前はついてたんだぞ。昔な、もっと強面だった頃には、長(デン)は自分が気にくわねえ、生意気なやつのタマを、火炎術で焼くって有名だったんだぞ。そしたらな、どんな奴でも急に大人しくなってな、長(デン)に逆らわねえようになるんだってよ」
 シャロームはまことしやかに教えてやっていたが、それは派閥間に流れた古い流言だった。イェズラムは、そんなことをしたことはない。しようと思ったこともない。ただ魔法制御の精密なのを背景にして、そんな噂がでっちあげられ、本当であるかのように流布しただけだ。
 あえて否定はしなかったが、肯定したこともない。それでも皆が、真実だと信じたいことが、宮廷では真実と思われる。
「そんな痛くて熱いめにあうより、裸で走った方がましだろ? 傷も残んないし、笑いもとれるぞ」
「笑いって何がですか。誰が笑えるんですか!」
 シャロームに訊ねるジェレフの声はもう、紛れもない悲鳴だった。
「族長だよ。麗しくも高貴なる族長閣下が、大笑いなさるんだよ。お目にとまって名誉なことだよなあ、若造よ。それも忠義と心得よ」
「嘘です、そんなの嘘です! エル・イェズラム!!」
 ジェレフの絶叫に名を呼ばれながら、イェズラムはふと、まずいのではないかと思った。シャロームはもしや、脅しではなく、本当にやるつもりではないかと。
 まさかこの足で玉座の間(ダロワージ)に行き、やつらはジェレフの礼服をひん剥いて、そのまま置き去りにするつもりでは。
 イェズラムは悪党どもの性格について考えてみた。
 やりかねなかった。狂人どもだから。
 こちらが許可したのだと解釈して、この際、リューズの受けを狙おうと。
「ちょっと待て、シャローム」
 イェズラムは思わず、通路を去っていく英雄たちを呼び止めようとした。しかし彼らは聞こえていないのか、立ち止まりはしなかった。
「待てシャローム、玉座の間(ダロワージ)は止せ」
 そこは聖域だ。甘くなったと言われても、止めないとと、イェズラムは軽い焦りを覚えつつ、舎弟(ジョット)たちを追った。
 とにかくやめてくれ、シャローム。そこは俺が、必死で守っている場所なんだ。治世の安泰が続き、玉座に座るリューズの被る名君の仮面が、うっかり脱げないように。それが俺の生涯を賭けた全てで、玉座の間(ダロワージ)の安寧は、その象徴なんだ。
 リューズはそれと知っていて、敢えて広間を穢そうというんだぞ。そうすりゃ俺がぶち切れるだろうと、聡いあいつは直感しているんだ。
 しかし、そうはさせるか。俺は玉座の間(ダロワージ)を守り抜いてみせる。生涯を賭けて、この俺の面子を賭けて、全身全霊を賭けて。
 そのように決心しながら、イェズラムはシャロームに追いつき、その首根っこを掴んだ。
 そうして名君双六の賽(さい)の目は、『玉座の間(ダロワージ)を裸で走る』をからくも逃れ、ひとつ手前の『イェズラムに怒られる』で落ちをつけ、今日もまた、王朝の安寧が守られたのだった。

《まだつづく》
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