もえもえ図鑑

2008/10/13

名君双六(5)-2

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「派閥の新入りを、目通りに。エル・ジェレフ、挨拶を」
 イェズラムが促すと、ジェレフはぎょっとしたのか、血の気のひいた蒼白の顔になった。
 まさか族長と直に話すことになると、想像していなかったのか、ジェレフは舌を忘れてきたように、いっとき口ごもった。
「お目通りがかない、光栄です。ジェレフと申します、閣下」
 それでもジェレフはやがて、躾けの行き届いた口のきき方で挨拶をした。
「初めて見る顔か。俺は共に戦った英雄たちは、全て憶えているつもりなのだが。お前の初陣はまだか、エル・ジェレフ」
「はい」
 微笑して話してくるリューズに、ジェレフは平伏して答えた。たぶんそうやって、顔を合わせないでいるほうが、話しやすかったのだろう。
 その姿を見て、リューズがこっそりと苦笑をイェズラムに向けてきた。この餓鬼は誰だと、その金色の眼は訊ねていた。
「そいつは治癒者だ。なんでも相当に使うらしい。新入りの餓鬼のくせに、部屋(サロン)ではいつも、長(デン)のすぐ目の前に座っていて、俺に挨拶もしない、糞生意気な野郎だ」
 リューズを斜に振り返り見て、シャロームが教えてやっていた。リューズはそれに、面白そうに微笑を強めただけだったが、言われたジェレフはぎょっとしていた。
「治癒者か」
 納得したふうに、リューズは頷きながら言った。
 それは問いかけだったので、ジェレフはなんとか、素知らぬ顔のシャロームから目を戻し、族長に、はいと答えた。その声はどことなく上の空だった。
「エル・ジェレフ。俺は治癒者が嫌いだ。それがなぜか、お前は知っているか」
 聞き違えようもない、あからさまな拒否を、リューズに笑いながら言われて、ジェレフは衝撃の顔をした。それはそうだろう、有り難く拝んだ相手から、お前が嫌いだと通告されては、こいつも困るだろう。
「存じません……なにか失礼を、いたしましたでしょうか」
 ジェレフは立っていたら、よろめいていただろうと思えるような、落胆の声で答えていた。リューズは治癒者全般が嫌いだと言ったのだが、ジェレフにはそれが、自分自身への嫌悪と思えたのだろう。それはそれで、自意識の強いことだった。
「いいや、お前のことは今の今まで知らなかった。だからお前のことは嫌いではない。俺が治癒者を嫌うのは、先代の族長だった父に仕えた腹心の魔法戦士が、治癒者だったせいだ。不戦のシェラジムだ。お前も同じ治癒者なら、それくらいは、知っているだろう」
 リューズに説明されて、ジェレフは頷き、かすかな小声で、はいと答えた。
 治癒者であればシェラジムの名は、知らぬわけがない。治癒者でなくても、リューズが即位する以前の宮廷を見知っている者であれば、シェラジムのことは、その不戦という悪名とともに、印象深く記憶しているはずだ。
 イェズラムにとっては、シェラジムは赤の他人ではなかった。彼は先代の射手で、リューズの父デールを即位させ、戴冠させた人物だったが、その星の死を追って殉死した。そういう、今ではもう、この宮廷にいない男だ。
 彼の死を看取り、死後に頭の中にある竜の涙を、慣例に従って取り出してやったのは、イェズラムだった。
 それは、自決する前のシェラジム本人に介錯を頼まれたからだったが、断れば、他には誰もそれを引き受ける者がいなかったシェラジムのことで、石を取り出す役目は最終的に、族長に引き渡されることとなる。つまり即位したてのリューズがやる運びだった。
 しかしリューズは、父親を麻薬(アスラ)漬けにした張本人として、シェラジムのことを嫌っていた。
 介錯するのは普通、親しく付き合いのあった、縁のある者だ。そういう習わしである上に、リューズは族長になったとはいえ、まだ即位したての十七歳で、たとえそれが族長冠に伴う義務とはいっても、憎む相手の介錯をするというのは、心の乱れるものだろうと、イェズラムは哀れに思った。あるいは本来、敬意を以て行うべき介錯を、リューズが復讐のために行うのではという想像が、不快だったからかもしれない。
 それでシェラジムに頼まれるまま、自分が引き受けたのだ。
 先代は治世において、シェラジムの傀儡であると噂されていた。実際、朝儀の席では、シェラジムは玉座の隣に椅子を置かせ、いつもそこに座っていた。
 そして一事が万事、先代は、シェラジムはどう思うか、どう思うかと、人目も憚らず、腹心の者の意見をその場で求めた。それにシェラジムはただ、御意のままにとしか答えなかったように思うが、その言い方や仕草などに、許諾か拒絶を示す、何らかの暗号符牒があるのだと、まことしやかな噂が流れていた。
 リューズはそんな父親を、屈辱だと感じていたようだ。
 主体性に欠ける暗君としての父も情けなければ、その横に陣取る治癒者も憎かった。そしてそれを長(デン)として掲げ、玉座の間(ダロワージ)でいつも、尊大な我が物顔でいる治癒者たちの群れも、リューズには忌まわしかったのだろう。
 あの当事を生きた魔法戦士の中には、治癒術をあえて棄てる者もいた。シェラジムを筆頭とする治癒者の派閥と、一線を画す目的でのことだ。愛とか道義とか、そういった生ぬるい話ではない。敗北に甘んじ続ける暗君と、その寵臣におもねるか、名君となるべき新星を待望し、別の理想に身を投じるかという、信条のあらわれだったのだ。
 イェズラムは自らの治癒術を棄てはしなかったが、それを宮廷で教える治癒者の先輩株(デン)から習うのではなく、戦場で治癒者が無視した仲間を癒すことで、実地に鍛えることになった。
 別に見捨ててもよかった。火炎術士として働くことで、英雄譚(ダージ)が得られるのだから、治癒術は無駄な脇道だった。
 しかし放っておけば死ぬものを、見捨てていくにしては、自分はまだまだ、やわだったのだ。
 炎の蛇は隠れ治癒者と、古くから派閥いる者たちは、皆知っている。それを恩義に思って、いまだに裏切らぬ者たちも、少なくはない。
 だがもう、そんな、治癒者がどこでも幅をきかせ、隠れて癒す者が英雄性を帯びるような、そんな時代ではなかろう。先代は没し、不戦のシェラジムも死んだ。その後の闇夜には新しい星が昇り、暗い時代は、終わりを告げた。
「シェラジムはな、今にして思えば、そう悪いやつではなかったのだ。悪かったのは恐らく、俺の父のほうだろう」
 困り切って聞いているジェレフを、リューズは面白そうに笑って見ていた。
「父上は決断するのが苦手なお方だったらしくてな、些細な命令ひとつご自分では下せず、いちいちシェラジムを頼ったのだ。シェラジムはそれに、御意のままにとしか答えていなかったらしい。つまりな、エル・ジェレフ、あいつは父上に、そんなことは自分で決めてくれと、いつも答えていたんだよ」
 リューズが教えている話は、伝聞だった。シェラジムが御意のままにと答えることは、イェズラムが教えた。リューズは兄アズレルに締め出され、玉座の間(ダロワージ)に席を与えられていなかったせいで、そこでの出来事はすべて、イェズラムが話してやっていた。
 しかし最後にジェレフに話した解釈については、リューズ独自のものだった。そんな話は、イェズラムはしていない。
「シェラジムはおそらく、父上があまりに気弱なので、心配でたまらず、隣に座していたのだろう。励ますためにだな。そうでないと、父上は、玉座に座っていることもできなかったのだろう。そういう気分は、俺にも分かる。玉座から見下ろす広間(ダロワージ)は、案外恐ろしいところでな、俺も右隣に、イェズラムがいると、それだけで心強いのだ」
 そう言って、リューズはイェズラムにまた、苦笑を見せた。こちらがその話に、咎めるような渋い顔をしてみせたせいだろう。ほかの三名はともかく、ジェレフに軽々しくそんな話をすべきでないと思ったのだ。
 だがリューズは全くこちらの無言の制止に頓着しなかった。
「だがな、お前たちの長(デン)は、シェラジムのように優しい男ではない。俺が頼ろうとして目をやると、知らん顔をするのだ。目も合わせようとしないぞ。薄情なこと、この上ない」
 リューズが目を覆って大仰に嘆いてみせるのに、近侍の三名が笑った。ジェレフはその有様を、青い顔で眺めていた。
「そのお陰で俺は今のところ、少なくとも暗君ではあるまい、エル・ジェレフ。お前もその男の言うことをよく聞いて、愚か者にはなるな」
 にこやかに頷いて、リューズがジェレフに説教をしていた。
 ジェレフは恐縮して、蚊の鳴くような声で返事をした。そして項垂れ、どうしていいやらという様子だった。
 リューズ、お前は、他人に説教をできるような立場かと、イェズラムは内心思った。それが顔に出ていたらしく、こちらに目を向けたリューズが、ふざけているのか、怯えたような顔で目を閉じ、顔をそむけていた。
「怖いなあ、シャローム。イェズラムが俺を睨んでいるぞ」
「俺に話を振らないでくれ。とばっちりで睨まれたら、俺までちびりそうだから」
 降りかかる火の粉を払うように、シャロームは顔の前で手をぶんぶん振ってみせていた。リューズはそれに、楽しげな笑い声をあげた。
「双六の途中だったのだ。エル・ジェレフ。せっかく来たのだから、お前もこっちに混ざって遊んでゆけ」
 まだやっていたのかお前らは。イェズラムはあきれ果てて、車座に座っている四人の弟(ジョット)たちを見た。確かに彼らの座る中央には、いつぞや目にした、手書きの名君双六が敷かれていた。
 呼ばれたジェレフが、行くべきなのかどうかという戸惑う顔で、こちらを見た。
 もちろん行くべきだろう。族長が呼び寄せているのを、わざわざ戸口で拒む理由もない。
「イェズラム、お前も忙しいのだろうが、たまには付き合ってゆけよ。一緒に双六をしたぐらいで、シェラジムの二の舞にはなるまい。それとも戸口が好きなのか」
 ねだる口調のリューズに、イェズラムは苦笑して、首を横に振った。戸口が好きなわけではない。
 諦めて立ち上がり、ジェレフを促して、イェズラムは居間にいる者たちのほうへ行った。
 シャロームはリューズの右隣をイェズラムに譲り、足りない円座を侍従に持ってくるよう言いつけた。そして、お前は末席だとわざわざ言い渡して、ジェレフを自分たちの間に座らせたが、結局のところ車座だったので、戸口に一番近いとはいっても、そこは族長の向かいの席だった。

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