もえもえ図鑑

2008/10/05

名君双六(3)-3

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 追いつめられると、リューズはいつもこの話だ。
 緒戦のころに、敵の族長が送ってきた伝令が、リューズの即位を言祝ぐかのような言い回しで寄越した伝言の、宛名がそういうふうになっていた。
 精霊樹アシャンティカの契約者より、親愛なる穴掘り(ディガー)の統率者へと、森エルフ族の族長シャンタル・メイヨウは使者に語らせた。リューズはおそらく、そこから先を聞いていなかった。戦陣にやってきた使者が話すのを、わなわな震えながら途中まで聞いたが、突然抜刀して近づき、自分の手でその使者の首を刎ねた。
 穴掘り(ディガー)とは、太祖より以前の森での奴隷時代に、支配者だった森エルフたちが、まだ名のなかった祖先たちのことを呼んでいた呼び名だ。今では蔑称である。少なくとも、こちらにとっては、口にするのもおぞましいような。
 しかし、それだけで使者の首を刎ねずにおれないほどの怒りは、イェズラムには感じられなかった。リューズは部族の名誉に深いこだわりを持っていた。この部族を愛し、王都を愛することだけが、幼少の頃から、こいつの心の支えだった。
 その神聖なもののために、自分は死ぬのだから、それは名誉なことだと信じずには、到底耐え難い幼少期だったのだろう。名誉ある太祖の、誇りある血筋を保つために、リューズは玉座にあがる兄に族長冠を譲って、自分は死なねばならない運命だったのだから。それがもし高貴な血筋でなければ、一体何のために耐え、何のために死ぬのか、道を見失う。
「イェズラム、俺は穴掘り(ディガー)どもの長(デン)か……」
「いいや、お前はアンフィバロウの末裔だ。今ではその族長冠を受け継いだ、唯一無二の存在だ。至高の玉座に座した、生きている星だ」
「負ければ穴掘り(ディガー)に逆戻りなんだ」
 励ましても無駄だった。
 イェズラムは仕方なく、ただ黙って頷いた。
 リューズは現状をこれ以上なく理解している。諭すようなことは、何もなかった。
 今この一戦に勝てないからといって、それで即、王都が陥落するわけではない。むしろ緒戦のころより、ずいぶん勝ち進んでいた。それでもリューズには即位したての頃の、今にも敵がタンジールに押し寄せるのではという感覚が、拭い去れない恐怖として感じられるらしかった。
 それは本人には苦痛だろうが、部族の命運を預かる族長としては、ふさわしい恐怖だった。一退を恐れず、やむなくそれを繰り返してきたことで、リューズの父親だった先代は、とうとう王都まで敵をおびき寄せたのだ。
 退かねばまずい時もあるが、それを最初には考えない根性が、リューズの戦線を今の位置まで奇跡的に押し出してきた。今後もこいつには、その恐怖を忘れないまま、戦ってもらわねばならない。
 そう思うが、目の前で苦悶されると、哀れだった。なにか気が楽になるような言葉を、かけてやりたかったが、イェズラムはそれを何一つ、思いつかなかった。あまりにも、不甲斐ない話だ。支えてやろうなどと、思い上がってここへ来たが、結局自分も、この族長冠を無理矢理かぶせた弟に、寄り縋っているしかない者のひとりだ。
「畜生、穴掘り(ディガー)か……」
 代々の族長が踏んだ居室の床に、リューズは呻くように語りかけていた。
 そして苦悶の表情で目を閉じ、やがて、その薄青いような瞼を、リューズはゆっくりと開いた。
 ぽかんとしたような金色の目が、床に敷かれた絨毯の文様を間近に見下ろしているのを、イェズラムもどこか、呆然として眺めた。
「あ、それだ」
 ちょっと何か思いついたという口調で、リューズはぽつりと言った。
「掘ればいいんだ、イェズラム」
 ああ、なあんだという口調で、リューズは言った。
 そして身を起こして、虚脱したように床に座り込んだ。
「あのな、この崖を、この辺からな、敵の側面に向かって掘るんだ」
 双六の枡目を書くためにあったらしい筆を取りに行き、乾きかけている墨をつけて、リューズはそれで模型の、味方の軍を阻む崖の上に、ひとすじの線を描いた。
 要するに脇道を作ろうというのだった。
 まだ呆然としたまま、イェズラムはリューズを見つめた。
 言われてみれば単純なことだった。渓谷を通ってしか攻め寄せられず、それを出口で待ちかまえられて撃破されているのだから、他にもこっそり通れる道があって、そこから進入が可能なら、敵陣を奇襲できる。もちろん向こうが気づかなければの話だが。
「掘れるかな」
 書き終えた筆で耳の後ろを掻いて、リューズは尋ねてきた。訊けばこちらが何でも真理を答えると思っているような口調だった。
「さあ。工人に訊いてみないとな。でも掘れるだろう。この壮大な地下都市を建設している部族だからな、我々は」
「そうだなあ、先祖代々の穴掘り(ディガー)だから」
 それがたまらん冗談だというように、リューズは窶(やつ)れた顔に、にっこりと上機嫌の笑みを浮かべた。リューズのそういう顔を、イェズラムは久々に見た。
 かつてその笑みを、リューズが話した最初の必勝の策の解説のあとに眺め、イェズラムは、こいつも名君の血筋の末裔なのだったと気がついた。
 太祖より以前、この部族の者たちは長らく森の奴隷で、その事実に疑問を抱かなかった。もしかして、我々は自由になれるのではないかと、その単純な事実にアンフィバロウが思い至らなければ、今もきっと、自分たちは森の穴掘り(ディガー)だったのだ。
「奇襲したあと、どうしようか、イェズラム」
 奇襲は成功すると信じている口調で、リューズはその先のことを話していた。
「さあ、お前はどうしたいんだ」
 作戦に没入している様子のリューズの横顔を眺め、イェズラムはただ相づちのように答えた。
「実は前々から、試したいことがあってな」
 居室の隅にあった、蜜蝋を燃やした灯火をとりにいって、リューズはそこから溶けた液状の蝋を、とろとろと敵の司令塔らしき守護生物(トゥラシェ)の周りに垂らした。それから火をそれに燃え移らせようとしているようだったが、なかなか上手くいかなかった。
「ありゃ。燃えないな」
 いかにも失策というように、リューズが顔をしかめた。
「灯心がないと燃えない。そんなことも知らんのか、お前は」
 驚いて教えると、愕然という顔で、リューズが頷いた。
 たぶんリューズには、知っていることより、知らないことのほうが多いのだ。誰しもそうだが、水準と比べても、リューズは無知だった。
 それも仕方がなかった。アズレル様が亡くなり、こいつが新星として立つまでの十七年、リューズは一度もまともな教育を受けたことがない。だから自分で見聞きした実体験のほかには、リューズは世の中のことを、人から聞いた話か、詩人たちが詠唱する英雄譚(ダージ)や戯曲、あるいはアズレル様が好んで上演させた仮面劇でしか、知る手だてがなかった。
 そこには、蜜蝋が灯心無しには燃えないという話は、一度もなかったのだろう。誰も話さなかったのだろうし、イェズラム自身も教えた憶えはない。
 でもそれを知らないからといって、誰がこいつを馬鹿だとなじれるだろうか。
 リューズが何をしたいのか、見ればわかったので、イェズラムは魔法を使って、リューズが垂らした蜜蝋のあとを、燃え上がらせてやった。
 炎の蛇の異名をとる、当代随一の火炎術師の手にかかれば、こんなものは簡単だった。
 燃える火の輪の中にある、敵の司令塔を見下ろし、リューズは微かに嬉しそうな笑みを浮かべた。
「守護生物(トゥラシェ)は火を怖がるだろう。だからこうして囲めば、逃げられないし、こいつが本当に司令塔なんだったら、これで敵の全軍の指揮が混乱するかもしれないと思ってな」
「長く燃やすなら油がいるな」
 イェズラムはそれを手配する算段を、もう頭の中で始めていた。
 点火は簡単だった。炎の蛇の、英雄イェズラムがいれば。
「これなら、守護生物(トゥラシェ)そのものを燃え上がらせるより、ずっとらくだろ。派手だしさ」
 燃えている模型を見つめて、リューズが尋ねてきたので、イェズラムは頷いておいた。
「英雄譚(ダージ)もいいけど、長生きしろよ、イェズラム。お前がいないと、俺も困るし、みんなも困るから」
 イェズラムはなんと答えるべきか分からず、苦笑した。
 みんなとは誰かと思ったが、たぶん誰でもないのだった。リューズのほかに、自分が死んで困る者がいるとは、イェズラムには思えなかった。
 リューズはどうやら、炎の蛇に派手な英雄譚(ダージ)を与えつつ、その延命を図り、なおかつ敵を撃破する方法を、苦悩していたらしかった。
 なぜそんな複雑なことを考えようとしたのだろう。
 ただ勝てばいいのだ。魔法戦士は消耗品で、派手に死ねればそれでいい。誰もお前を恨まない。シャロームも、ビスカリスも、ヤーナーンも、この俺も。
 死んでも代わりは、いくらでもいる。
 いないと思っているのは、お前だけだ。
「ああ、よかったな、名君がまた思いついて。お前のおかげだ、イェズラム。俺はどうも、ひとりではものを考えられないみたいなんだよ。困ったらまたお前が、相談に乗ってくれ」
 にこにこしながら、リューズは言った。
 何もかも一人で考えていたことに、リューズは気づいていないらしかった。こちらは相づちを打っていただけで、実際何もかもリューズが考えたのだ。
 どうしてリューズはいつも、それに気がつかないのだろう。聡いのか鈍いのか、判然としない。たぶん、鈍いし、同時に聡いのだろうとしか、思いようがない。
 目の前で名案を語られて、お前のおかげだと言われても、皮肉かと言いたくなる。イェズラムは苦笑して、すでにこの上なく上機嫌なリューズを眺めた。
 こいつを見てると、いつも向かっ腹が立つ。
「俺は腹が減ったよ、なにか食わしてくれ、イェズ」
「夜光虫をとってきてやろうか」
 思わず苦笑して言うと、リューズは心底ぎょっとした顔になった。
「あれは不味いぞ。なぜ祖先たちがあれを食わなかったのか、自分で食ってみて、深く理解できた」
「そうか、またひとつ賢くなって良かったな」
 そう褒めると、リューズは床に膝を抱えて座り、そうだろうかというふうに顔をしかめて首を傾げていたが、それでも小さく頷いてみせた。
「それじゃあ俺は行くよ」
 イェズラムが立ち上がると、リューズは意外そうな顔をした。
「どこへ行くんだよ」
「鶴嘴(つるはし)と油を買いに」
 教えてやると、リューズは煙管を銜え、くつくつ笑った。
「いつもながら仕事が早いな、お前は。愛想がないというかな。行くんなら、その前に、葉っぱが切れたから、お前のを置いていけよ」
 イェズラムは顔をしかめた。けちって断っているわけではない。常人が使うには強すぎるからだ。
「用意が調ったら、また出陣するんだぞ、リューズ。体から煙を抜いておけ。そんなふらふらで、馬に乗れるのか。酔いが醒めるまで、蒸し風呂(ハンマーム)にこもって、汗をかいてこい」
 イェズラムは自分が思わず命じる口調で言ったのに気がついて、さらに顔をしかめた。
 昔の習い性だった。またやったと思って、振り返ると、リューズは燃えている模型を見つめて、にやにやしていた。
「怖いなあ、イェズラムは。逆臣みたいだぞ、お前。ちゃんと叩頭して帰れよ。誰が見てんだか分からないんだからな。実は俺よりお前のほうが偉いってばれたら、大変なんだぞ」
 リューズは冗談で言っているらしかった。
 イェズラムは首を垂れて、うんざりした顔になった。たちの悪い冗談だと思った。
「眺めて遊んだら、ちゃんと火を消せよ。水をかけるんだぞ、分かってるだろうな」
「分かってるよ、それくらい。俺はどこまで馬鹿なんだ」
 信用ならないから言っているのだった。水でいいなら酒でもいいと思って、火にぶっかけるような奴だった。自分が点火した火で、かつては太祖も休んだこの部屋が、あえなく焼失するようなことになったら、イェズラムは悔やんでも悔やみきれなかった。
「酒はだめなんだぞ、リューズ。燃えるからな」
 念のための駄目押しと思って、イェズラムは一応言ってみた。
「えっ、そうなのか。酒って燃えるんだ」
 目を輝かせて言うリューズを、ふりかえった背後に眺め、イェズラムは怖くなった。そして部屋には今、酒杯がないようなのを確かめた。
 部屋を辞すとき、侍従たちに、族長が求めても酒を持ってこないよう、強く言っておかねばならないと考えながら、イェズラムは辞去の儀礼としての叩頭礼を行った。リューズは燃えている模型のそばに座り、自分の膝に頬杖をつきながら、にやにやと見物するように、戸口で平伏するこちらを見ていた。
 同じ跪拝叩頭だと思うが、リューズは時によって、それに不機嫌になり、時に上機嫌になった。その区別は直感できたが、イェズラムはその理由について、考えないようにしていた。なぜ今こいつが上機嫌なのか、その理由を理解したら、たぶん耐え難いだろうと思うからだ。
 叩頭で床に額をつけながら、イェズラムは何となく耐え難かった。
 リューズは自分の命令に、こちらが大人しく従ったので、気分がいいだけだ。昔からそうだった。要望を押し通すためになら、こいつはどんな汚い手でも使った。
 それが今は、族長冠を戴いて、ただ命じればいいだけなのだから、ずっと手軽だし、さぞかし気分がいいだろう。
「なあ、イェズよ」
 案の定、いかにも気分がいいという声色で、リューズが訊ねてきた。
「三跪九拝は長くてだるいから、命令を発布して簡略化させようかと思うんだが、お前はどう思う。俺はさっきまで、それで正しいと思っていたんだが、今、三跪九拝してるお前を見ていたら、これを廃すのは惜しいような気がしてきたんだよ」
 そうか、それがどうしたと、イェズラムは内心でだけ答えた。族長に対し、そんな言い様は不敬なので、口に出すべきではないと思ったからだった。
 でも言いたかった。それがどうした、俺が知るか、お前の好きにしろと。
 それでもイェズラムが堪えて黙っていると、リューズはなおも言ってきた。
「なあ、どうだろうなあ。やっぱり王宮の伝統っていうのは大事に守っていくものだろうかな、エル・イェズラム。お前はいつもそう言っていたもんなあ。悩むところだよ」
 九回拝み終えて、イェズラムはもう、することがなかった。
 それで仕方なく、リューズのにこにこ顔と向き合った。こちらは眉根を寄せた、いつものしかめっ面で。
 答えを待っている顔で、リューズは、さあ何か言えという目配せをした。嬉しそうだった。
「御意のままに……」
 そう答えるほかなかった。どう答えても負けのような気がして、曖昧にぼかすしかない。
 それにどうも、背後の控えの間には、侍従たちがいるような気配がした。もしや初めから、人払いなどされていなかったのではないか。一部始終を皆が、ここで盗み聞いていたのでは。
 イェズラムの答えを聞いて、リューズはますます、にやっと笑った。
「さすがは忠臣である、我が英雄よ。三跪九拝の廃止礼は、もうちょっと後にしておこう。ぺこぺこするお前をもっと見たいので、今後はさらに足繁く、俺に頭を下げにくるがよい。これは族長命令である、我が兄上よ」
 仮面劇の台詞よろしく、リューズは詠うような声で、芝居かがった言い回しをした。その嫌みったらしさがどうにも度し難く、イェズラムは脱兎のごとき足早で、族長の居室を辞去した。
 控えの間に踏み込むと、そこにはやはり、取り澄ました顔で侍従たちが何人もいた。
 騙されたと、イェズラムは驚いた。
 なぜ信じたのだろう。誰もいないなどと。
 なんであいつが、こちらの神経に障るような乱行を繰り返していたのか、今さら突然分かった。そうすれば俺が、怒鳴り込んでくると読んでいたのだ。
 どうも引っかかったらしい。おびき寄せられた。まさかここまでするとは。迂闊だった。リューズは我が儘を通すためなら、どんな汚い手でも使うと、よく知っているはずだったのに。
 もう二度とここには来ないと、イェズラムは心に誓った。
 最初からそういう決まりにしてあったではないか。長老会の者が足繁く現れたりすると、族長位の面子が保てないし、それに俺があいつにみだりにぺこぺこするのでは、魔法戦士たちの面子を守れない。
 あいつはそれが理解できないのか。俺の気遣いや努力を。
 それとも、理解したうえで、どうでもいいと思っているのか、リューズ。
 どうでもいいと、思っているのだろうな、お前は。人がどう見るか、どう思うかなど、お前には関係ないのだろう。そうでなければ、ここまでするわけがないな。
 今後はたとえヤーナーンが裸で玉座の間(ダロワージ)を走り回っていても、見て見ぬふりをする。そう考えてみたが、どう考えてみても、イェズラムにはそれは無理だった。
 あまりに腹立たしくなり、イェズラムは礼装した長衣(ジュラバ)の裾を激しく翻して、大股に玉座の間(ダロワージ)を横断した。皆がそれを見ていた。なぜか激怒しつつ族長の居室を去る長老会の子飼いの者を。
 それは幾分まずかったが、もはや見られたものは、どうしようもなかった。人が見て、どう思うか、それが政治というものだ。
 しかしそれをまだ、リューズには教えていなかった。だが果たして、教える方法があるのか。あいつは本当にそれを、知らないのか。イェズラムには皆目、見当がつかなかった。

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