もえもえ図鑑

2008/10/05

名君双六(2)-2

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「もう走ったのか」
 それを自分で口にした瞬間、頭痛とは別の激痛を、イェズラムは脳の奥深くに感じた。
「さあ。まだじゃないですか。相当に気合いがいるはずですから」
 思い出し笑いか、シャロームは薄く笑いをこらえる顔をしていた。
 族長の命令書は廷臣にとって絶対のものだが、それに妥当性がない場合、竜の涙には拒否権がある。だから拒否すればいいのだ。
 この命令に妥当性があるわけがない。
「リューズは今、なにをしているんだ」
 もう他人任せで放置できる範囲を超えたと、イェズラムは思った。
「俺達が戻るまで、『イェズラムに怒られる』です。つまり一回休み。十六回連続で、『イェズラムに怒られる』で、相当頭に来てました。それで族長の機嫌がなおるなら、ヤーナーンが裸で走るぐらい、屁でもないですよ、長(デン)」
 それが日常だというように、シャロームは淡々と話していた。こいつらは毎度毎度、何をやっているのだ。
 イェズラムは、自分が口うるさく言っても聞かないリューズの不品行を、気の合うような者の口からやんわりと止めさせるために、彼ら三名に監視役としての側仕えを許しているつもりだった。そういう立場の者が、不品行を煽ってどうする。
「お前は今すぐ行って、ヤーナーンを止めろ」
 苛立ちとともに煙を吐いて、イェズラムは命じた。それにシャロームは、困ったという顔をした。
「でも、長(デン)、リューズが玉座の間(ダロワージ)を裸で走るより、ヤーナーンのほうがましでしょう。誰かがやらなきゃ気が済まないんだから。あんまり『怒られる』続きだと、俺が魔法の風で賽子(さいころ)の出目をちょろまかしてるって、さすがにリューズも怒りますから、この辺で落ちをつけないと」
「他の無難な目に落としてやればいいだろう」
「ああ、そうですね。なかなか難しいんです。ものすごい枡目ばっかりで」
 それが具体的に何なのか、イェズラムは知りたくなかった。
 今すぐ行って、『イェズラムに怒られる』を実行に移させてやるべき時だ。
 立ち上がろうとしたイェズラムに、シャロームがあっと驚いて引き留めるそぶりをした。
「長(デン)、その前にこの命令書に、俺が実行したっていう一筆をいただきたいんです。手ぶらじゃ帰れねえから」
 巻物を解いて、シャロームがそれを差し出してきた。
 円座の上に立ち上がったまま、イェズラムはそれを受け取って読んだ。
 それはこの上もなく正式な命令書だった。きちんと定められたとおりの前口上で始まり、日頃は他人に代筆させて書かないくせに、リューズは流麗な直筆の文字で命令をしたため、ご丁寧に族長の印璽まで捺していた。
 くっきりした文字を速読の目で追い、イェズラムは内容を読んだ。シャロームが一筆書かせるつもりか、懐から矢立を出して、墨に浸した筆を用意して待っている。
 なぜかそれは、絵を描くような筆だった。
 なぜだろうかと思いながら、イェズラムが読み進むと、命令書の内容はこうだった。
 エル・イェズラムの尊大なる顔に、族長よりの墨を下賜せよ。
 なんのことかと一瞬考え、その次の瞬間に、イェズラムは悟った。
 そして、はっとして避けたが、シャロームのほうが早かった。仰け反って避けるイェズラムの頬に、シャロームが墨を含んだ筆で一閃した。
 ひやりとした墨の感触とともに、あたかもシャロームの横っ面にある傷痕と似た、縦一閃の墨跡がつくのが、イェズラムには感じられた。
 シャロームは抜刀術の達人でもあり、彼の驚異的に素早い居合い抜きの一刀を、ここまで油断していて避けられるはずもない。
 巻物を両手に提げたまま、イェズラムは項垂れ、思わず、畜生と呟いた。
 シャロームはそれに、いかにも済まなそうに頭を下げた。
「俺もこんな事はしたくなかったんですけど、長(デン)。族長命令ですから」
「運がよかったな……シャローム。玉座の間(ダロワージ)を裸で走らされるやつがいる一方で……こんな命令で済んで」
 言いながら、猛烈に腹が立ってきて、イェズラムは命令書を掴む自分の腕が、かすかに戦慄(わなな)いているのを見下ろした。
 リューズには、なかなか突破できない敵の防衛戦を、打ち崩すための方策を、考えるように言ってあった。そこでの戦果が思わしくなく、こうしている間にも、兵や魔法戦士が無駄に死んでいる。
 それを考えもせず、あいつはなにをやっているのか。
 そう思うと、今すぐ行って首を絞めたい気がした。あいつの他に、玉座に座れる者が、今はもう居ないことを、忘れることさえできれば、今すぐ本当に走っていって、あの生っ白い首を締め上げてやりたいところだ。
「あの……できれば末尾に一筆、証明のための署名を……」
 怖ず怖ずと、シャロームが筆を渡してきた。こいつでも遠慮することはあるのかと、イェズラムは震えながら筆を受け取った。怒りのあまり、本当に手が震え、筆先がなかなか定まらなかったが、息を殺して、イェズラムは書いた。
 命令書の末尾に書き添えた、エル・イェズラムの名をつづる文字の筆跡は、命令書にあるものと酷似していた。かつて幼少のころのリューズに字を教えてやったのが、他ならぬ自分だったからだ。
 癇質の兄アズレルの意地悪な計らいで、リューズは王族らしい教育を受けさせてもらえず、イェズラムが気づくと、文盲になっていた。それにぎょっとして、隠れて文字を教えたのが、もう元服する十二の頃も間近な年齢で、書いて与えた手本を写せ、一日書きつづけて憶えなければ、飯も食わせないと脅しつけたのが、リューズにはよほど怖かったのか、まる一日明けてから成果を見にいくと、文字の留め撥ねの癖までくっきり同じの筆跡を書くようになっていた。
 それで、怒りすぎたとイェズラムは悟ったが、もう手遅れだった。リューズの筆跡からは、手本から写した癖が全く抜けず、即位した今でも、家臣であるイェズラムとそっくり同じ文字を書く。
 子供相手に、可哀想なことをしたと、字を見ると時々後悔が湧く。文盲だったのは、本人の責任ではなかった。誰もあいつに、字の読み書きを教えてくれなかっただけだ。
 だが今こうして、ふざけた命令書を見せられると、あのまま文盲でいればよかったのにと、別の後悔が湧いてくる。なんで文字なんぞ教えてしまったのか、自分は。書けなければ、こんな事にはならなかった。そうすればあいつも、馬鹿げた双六など作ってみせて、ヤーナーンを裸で走らせることもなかったのに。
 はっとそれに思い至り、イェズラムは回想から醒めた。
「早く行け、シャローム」
「え。どこへですか」
 シャロームはきょとんとした。
「馬鹿、玉座の間(ダロワージ)だ。ヤーナーンを止めろと言っただろ」
「でも、止めたらご機嫌斜めですよ。ヤーナーンの立場が……」
「ふざけるな。太祖の代から受け継いだ神聖なる玉座の間(ダロワージ)を裸体で汚そうというのか。俺の顔に墨を塗るのとは訳が違うんだぞ、これは冗談で済んでも、それは大逆なんだ。どこまで馬鹿なんだお前らは!」
 あまりに許し難く、イェズラムはほとんど叫ぶように言って、ほどけたままの巻物を持った右手で、シャロームの頭を力任せに叩いた。
 いてえ、とシャロームは泣いた。
 相当に痛いはずだった。当然のむくいだった。
 しかし、可哀想なことをしたと、すぐにイェズラムは思った。子供部屋のころからの、シャロームを怒る時の癖でつい叩いたが、石のある者は頭に衝撃を受けると、それが痛む。だから余程でなければ頭は殴ってはならないのだ。
 シャロームは猛烈に痛かったらしく、大の大人というのに、頭を抱え、叱られた餓鬼のように目頭に涙をにじませていた。
「痛いです、長(デン)。怒らないでください、怖いんだから。やっぱりこうなるんじゃないかと思ったよ……俺も『裸で走る』のほうが良かった」
 それを聞いて、イェズラムはもう一発殴りたくなり、シャロームを睨んだ。それは拳骨なみによく効いたらしく、シャロームは身をすくめて、痛そうな顔をした。
 利かん気で、怖いもの知らずのシャロームは、子供部屋時代から、口で言っても理解しないので、拳骨で話してやらねばならない手合いだった。こいつと付き合っていると、頭も痛いが、なにより手が痛い。一人前になれば、そんな必要はなくなると思っていたのに、死ぬまで殴り続けることになるのか。
「リューズには、俺が諭しておく。心配するなと、ヤーナーンに言っておけ」
「はい。ええと……諭すんですか、長(デン)。それは、怒るのとどう違うんですか」
「殴らない」
 自分の手を見下ろして、イェズラムは教えた。
 族長冠をかぶった頭を殴るわけにはいかない。たとえもう、言っても分からないとしてもだ。諭すしかない。
 即位前なら、こちらが兄(デン)だったが、あちらが玉座に座った今では、こちらが家臣だ。主君を殴れば大逆だ。
 だから、十六回連続で諭すことはできても、怒ることは、もうできない。
 いくらあちらが、こちらを怒らせようという魂胆でもだ。
 おのれ、リューズ。なめやがって。
「あのですね、長(デン)……あんまりきつく、諭さないほうがいいですよ。リューズはあれで、遊びながらでも、考えてはいるみたいだから……もうちょっとだけ、待ってやってくださいよ。ほら、その、長い目で……」
 たどたどしく弁護する口ぶりのシャロームを、イェズラムは睨み付けた。シャロームはそれで、困ったふうに押し黙った。
 部族の命運がかかった戦のことを、遊びながら考えるとは、ずいぶん余裕だ。
 お前はいつのまに、そんなに偉くなったのだ、リューズ。
 リューズは確かに、濃厚な敗色の中で即位して以来、誰も思いつかないような奇抜な戦法を編み出して、部族を窮地から救い続けている。それですっかりいい気になって、族長なのだから、宮廷では何をやっても許されると、勘違いしているのではないか。
 族長冠の重さを感じながら、昼も夜も寝食を忘れて考えるべきだ。どうすれば勝てるか。
 誰がお前の尻ぬぐいをしてやってると思ってる。お前のわがままには、いいかげんうんざりだ。
 内心にそう呪いながら、イェズラムは会談室を足音高く横切り、派閥の広間(サロン)に出る扉を、ばんと勢いよく押し開いた。
 そこにいた者たちが、怯えたような目で、いっせいにこちらを見た。彼らがさらに怯えた青い顔で驚愕するのを見て、イェズラムは戸口にもたれ、目眩をこらえた。
 塗られた墨を、拭いていなかった。
 シャローム。
 お前は、本当に、度し難い馬鹿だが、リューズはそれに、輪をかけた馬鹿だ。
 そんなどうしようもないお前が、稀代の名君に見えるように、必死になっている俺を、からかって楽しいか。
 楽しいのだろうな。楽しくなければ、やるわけないな。
「長(デン)……」
 いつのまにか、戻ってきていたジェレフが、戸口の脇で待っていたようで、呆然と声をかけてきた。
 悄然としており、顔色の悪い新入りを、イェズラムは戸口にすがったまま見下ろした。
「なんだ、エル・ジェレフ。俺になにか用か」
 どう見ても、顔の墨跡に目を奪われているジェレフに、イェズラムは低い声で訪ねた。
「あのう……先ほどは、生意気なことを言いまして……失礼を……」
 しどろもどろに、ジェレフは詫びてきた。
 イェズラムは、それに小さく頷いてやった。
「お前のな、生意気など、可愛いものだよ、エル・ジェレフ。そんなものは、朝飯前で、俺は実は腹も立たなかったよ。世の中には、上には上が……いや、下には下がいてな、俺は今そっちのやつに、頭にきてるところだ」
 伏し目に睨み付けて教えてやると、ジェレフはどことなく怯えた顔のまま、こくこくと頷いて聞いた。訳は分かっていないだろうが、とにかく長(デン)が激怒していることくらいは、この若造にも理解ができるらしいかった。
 しばし、どことなく乱れた呼吸でこちらを見ていたジェレフは、やがてはっとしたように、会談室にいるシャロームを見た。その顔がだんだん、咎める目つきをするのを、イェズラムは見つめた。
 違うよ、ジェレフ。お前はどこかずれてるな。俺がシャロームに怒っていると思ってるんだな。そりゃあそう思うだろうがな、でも本当のことを教えてやるわけにもいかないし。かといってシャロームの面子も守ってやらねばならんしな。
「エル・シャローム……」
 背後にいる弟分(ジョット)に、イェズラムは掠れた声をかけた。
「ご苦労だったな。引き続き頼む」
「はい、長(デン)。それじゃ俺は、これで失礼します」
 その場で深々と一礼する気配がして、それからシャロームは、すれ違い様にも目礼をし、イェズラムを追い抜いていった。
 本来なら、イェズラムが出るのを待つべきところだが、そんなことはこの際些事だ。早く行かねば、ヤーナーンが裸で走る。
 しかし行きすぎるシャロームを、ジェレフはむっとした目で見送った。
 シャロームはそれを、じろりと一瞥していった。自分に挨拶をしなかったジェレフが、許し難いという目だった。
 ああ、ここにもまた一悶着かと、イェズラムは思った。
 どいつもこいつも。手間をとらせやがって。
「ジェレフ……」
 項垂れて、イェズラムは相手の顔を見る気力もなく、声をかけた。
「シャロームを敬え。あいつはお前の兄(デン)だ」
「あの人はこの派閥の一員なのですか、エル・イェズラム」
 罪のない口調で、若い治癒者は尋ねてきた。派閥の一員もなにも、シャロームは子供部屋のころからのイェズラムの弟分(ジョット)だった。性格が合うとは言い難いが、いわば苦楽をともにしてきた部下だ。そうでなければ、リューズを任せられない。
「そうだ、あいつもお前も、俺から見れば可愛い弟分(ジョット)だよ。序列を守って、仲良くやってくれ。お前は自分も優秀なつもりだろうが、シャロームは歴戦の英雄だ。お前にはまだ英雄譚(ダージ)はないが、詩人はシャロームを玉座の間(ダロワージ)で何度も讃えた。そんな相手に敬礼できないというなら、お前はここでは生きていけない」
 それにエル・ジェレフ、お前は族長に命令されても、いくらなんでも玉座の間(ダロワージ)を裸で走れないだろう。
 当代の治世を支えるには、人知れぬ様々な苦労があるんだ。馬鹿なあいつらが、お前の代わりに、裸で玉座の間(ダロワージ)を走ってくれるから、お前はいい子でいられるんだ。だからあいつらに、お前は頭を下げてやれ。
 そういうつもりでイェズラムはジェレフを見たが、少年は思い詰めた目をするだけで、ちっとも理解したふうではなかった。
「俺のほうが、あの人より優秀です、長(デン)」
「それはまだ証明されていない」
「証明します。仕事をくだされば」
 なんでもする、という目を新入りはしていた。たぶん誰かに、シャロームに逆らうな、あいつのほうが強いと諭され、これまで鼻を挫かれたことがなかったジェレフは、悔しかったのだろう。皆の面前で侮辱されて、それに報いることができないどころか、皆から頭を下げろと言われて、シャロームが憎いのだ。
 それでやつを、見返したいのだろう。自らの優秀さを示して。
 しかし、その坊や面(づら)を見れば、できることはたかが知れているのは、試すまでもないと、イェズラムには思えた。
 シャロームとこいつとでは、場数が違う。あいつは命じれば何でもするが、ジェレフは自分の頭ひとつ、下げられないというのだから。なんの力もない餓鬼のくせに、いい気になりやがって。つくづく馬鹿で、危なっかしいやつだ。
 俺がお前くらいの頃には、もう戦地で濫用されて、文字通り死ぬ目にあってたけどな。
 それと引き比べてみると、ジェレフは賢しいかもしれないが、ぼけっとした奴だった。それは今この時代が、以前よりましになっているという証明だった。
 確かにましになっている。リューズは魔法戦士を重用していた。それもこれも、乳兄弟である俺への義理立てだ。
 いやなことに思い至って、イェズラムはさらに顔をしかめた。そんなことを考えたら、怒りが萎えるじゃないか。
「仕事か。それじゃあ、俺は顔を洗いたいので、湯をもらってこい、英雄ジェレフ」
 イェズラムがそう命じると、ジェレフは複雑な顔をした。
 たぶん、そんな簡単な仕事ではなく、もっと困難なのが好みだったのだろう。
 だけど今のお前には、それくらいしか、頼んでやれる仕事がない。それで満足して、とっとと働け。
 イェズラムは苦笑を堪える顔で、ジェレフの情けない面(つら)と向き合った。子供は屈辱を堪え、とってつけたようなお辞儀をして、部屋から走り出ていこうとしたが、どこかから飛んできた年長者たちの、長(デン)に返事をしろという叱責を受け、ますます早く走りながら、ほとんど叫ぶような声で、はいと答えた。
 その尻を叩かれた子馬のような有様が可笑しく、イェズラムは笑った。
 確かにシャロームが言うように、あいつはこの派閥の癒し系らしい。さっきまで激怒していたのが醒めてしまって、今ならリューズを絞め殺さないだろう。
 忠義なやつよ、エル・ジェレフ。族長の命を守ったな。
 そう思い、イェズラムは笑って戸口にもたれ、煙管の残り火をふかした。頭痛が鎮まりはじめ、軽い酔いが始まっていた。

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