新星の武器庫(48)
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そしてまた琴がかき鳴らされた。衝立の向こうから、新しい面の者が現れた。
それは王侯であることを示す、額冠(ティアラ)をした面をつけ、深紅の衣装を着ていた。いかにも王族らしく、面の者は誇らしげに舞った。それに跪き、藍色の衣装を着た官僚面が平伏してみせた。
「レイラス殿下」
恭しく、官僚面が呼ばわった。
スィグルは引っ繰り返りそうになった。三つ子のひとりが演じているのが自分らしいと知って。
「なんだラダック」
王侯面を着けたほうが、大仰に、そしてけだるげに応じた。
傍近くに席をとっていたラダックが、ぐっと呻くのが聞こえた。知らなかったらしい。仮面の領主と金庫番のやりとりに、宴席に侍る官僚たちは、皆すでに半笑いだった。
「畏れながら殿下、例の犬の件で、お願いがございます」
仮面のラダックは切々と、そう詠った。
すると、わん、と吠える三つ子の声がして、衝立の向こうから、犬の面をつけた白服の者が現れた。仮面劇には動物が登場することもある。そういう役柄の者でも、別に四つ足で駆け回るわけではなく、まるで人のように立位で、獣であることを象徴する所作の舞いを舞うのだ。
しかし真っ白な衣装を着ている犬役のひとりを見て、スィグルはいやな予感がした。そして右隣の席にいるギリスを横目に盗み見た。ギリスは踊りが面白いのか、にこにこしながら舞台を見ていた。
「この犬がどうした。なにか悪さをしたか」
仮面の領主は面倒くさげに、官僚面に訊ねた。犬の面の者は、放埒に舞って、官僚面の者の衣装の裾を引いた。それを筆で打って、官僚面が叱責の声で詠った。
「悪い犬でございます。どうぞお仕置きを」
わん、と犬の面が鳴いてみせた。
宴席の一同がすでに腹を抱えていた。ギリスは、どうしてみんな笑っているのだろうという顔で、微笑みながら皆を見回している。
「ラダック、許してやれ。この犬には悪気はないのだ」
優しげにたしなめて、王侯面が犬に手を差し伸べた。
おいでと呼ぶような仕草に答え、白い犬は嬉しげに舞い、王侯面にじゃれつき、そして、がぶっと手を噛んだ。
王侯面が、悲鳴をあげた。それは仮面劇の中の振る舞いのひとつだった。一同が笑って見るなか、手を噛まれた領主レイラスは、白い犬を蹴っ飛ばし、そして朗々とした美声で詠った。
「この、馬鹿が!」
スィグルはあぜんとしたが、宴席の者たちは笑いを堪えられないらしかった。
ラダックですら失笑していた。ギリスは不思議そうにそれを眺め、首をかしげて、にこにこしていた。
「殿下」
ふわりと舞いながら、仮面のラダックが舞台を踏み越え、座っているスィグルの目の前に躍り出てきた。官僚面の者が手に持っていた筆を、懐から出した本物の墨壺に浸しているのを、スィグルは仰け反って見つめた。
「この犬めには、まだ名前がございませんでした。どうぞ命名を」
墨を浸して書くばかりになった筆を、スィグルの手に押しつけて、官僚面は言った。
舞台から軽快な動作で、白い犬が目の前に舞い立ち、わんわん鳴きつつ、スィグルに自分の面の額を指し示した。
額に名前を書けということらしい。
スィグルは参って笑い、筆を持ったまま抵抗した。
どんな名前を書けというのか。
分かり切っているが、隣でにこにこしているギリスが何もわかっていないふうなのを脇目に見て、どうしようかと思った。
わんわん鳴いて迫ってくる犬に、勘弁してくれと何度も頼むと、犬は筆をとりあげ、今度はそれをラダックのところに持っていった。
ラダックは苦笑していたが、その筆を受け取り、ギリスの見ている前で、犬の面の額にくっきりと書いてやっていた。
エル・ギリスと。
道化た仕草でふりかえった犬は、舞台に残っていた王侯面に向かって、わんと鳴いてみせた。
すると仮面の領主レイラスは、大仰に頷いてみせた。
「まさしく、ふさわしい名だ」
それが落ちのようだった。それ以上笑わせたら死ぬというぐらい、笑っている者も宴席にはいたので、そのへんで止めてもらうのが得策と言えた。
三つ子は仮面を脱いで、満足げな悪童の笑みを晒し、爆笑して喝采する官僚たちに優雅に腰を折ってみせた。犬はルサールだった。
わん、と言って、ルサールは名前の書かれた犬の面を、ぽかんとしているギリスに差しだした。
受け取ったギリスは、犬の額にある、自分の名を見ていた。
「なんで犬が俺と同じ名前なの。みんな、なんで笑ってるの」
ギリスは文学や比喩に鈍くて、しばらく考えないと、その意味がわからない性分だった。彼と幼少期から親しい三つ子は、それをよく知っていて、彼をからかうことにしたのだろう。
面の額に書かれたエル・ギリスの名を見て、スィグルも笑った。三つ子はあの、額に名を書かれた事件を、恨んでいたらしい。それで復讐劇かと、スィグルは可笑しかった。
「なんで俺の名前なの?」
ギリスは首をかしげて訊いてくる。スィグルは困って意味なく頷いてやった。
名前を書いた犬の面が贈り物とは、とんだ誕生祝いだった。
「かぶってよ、兄貴(デン)」
ルサールが笑い、ギリスに面をつけろと頼んだ。
ギリスは厭がりもせず、頷いて、犬の面を着けて見せた。
わん、と鳴いてみせるギリスに、スィグルは腹の皮がよじれそうだった。面の上とはいえ、額にラダックの筆でエル・ギリスと大書してあった。
皆がそれを見て再び爆笑したので、ギリスは驚いたのか、面を外し、また辺りを見回していた。
訳が分かっていないせいか、自分を笑う一同を見るギリスは、怒りもせずに微笑んでいた。それを自分も笑って見つめ、嬉しげな、無垢な笑みだとスィグルは思った。
こいつがいるお陰で、皆こうして笑っていられる。そんなような気がした。
「なんだか分かんない」
こちらに囁くギリスは、それでも幸せそうだった。たぶん、小宮廷が笑いさざめくのが、こいつは幸せなのだと、スィグルには思えた。
父の広間(ダロワージ)とは随分違って、いつも馬鹿なことばかりしているが、これが自分の広間(ダロワージ)だというなら、それはそれで仕方がなかった。なにしろ、こいつが射手で、自分が新星だというなら、まあ、こんなもんで満足しないといけないだろう。
笑いながらそう納得し、スィグルは自分もこの大広間で、幸せなような気がした。
「絵が仕上がりましたよ、エル・ギリス」
シャムシールが巻かれた絵を持って脇に現れた。
それは盗賊討伐の前に、絵師の工房で見せてもらった下絵を仕上げたもののようだった。
錦の布で裏張りされた絵を拡げて、シャムシールは肖像画をギリスとスィグルに見せた。
絵の中で、ギリスは下絵のときと変わらず、グラナダ宮殿の玉座に続く石段の半ばに、くつろいで腰掛けていた。ギリスがいつも、朝儀を見物しているときの、普段そのままの姿だった。
シャムシール独特の陽気な色味で、鮮やかに彩色されて仕上がった絵の中のギリスを、スィグルは微笑して見上げた。下絵のときに、ぼけっとしていた絵のギリスは、仕上がった絵の中では、にっこりと屈託のない、子供のような笑みで、穏やかに微笑していた。ちょうど、たった今見たような、無垢な笑みだった。
「下絵と違うな」
スィグルが訊ねると、絵師は微笑んで、頷いてきた。
「描いているうちに、気が変わりまして。このほうが、エル・ギリスらしいと思ったんです。僕はどうしても、創作意欲に逆らえない質なもので」
それに頷いて答え、スィグルは絵師に感想を述べた。
「シャムシール、お前は天才だ」
絵師はただ微笑むだけで、謙遜もせず、奢りもしなかった。
絵の中で微笑み、グラナダ宮殿の朝儀に集まる面々を見守るギリスの姿は、まさに英雄の二十歳のころを描ききっていた。
ここがギリスの生涯の、頂点でないといいと、スィグルは願った。
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そしてまた琴がかき鳴らされた。衝立の向こうから、新しい面の者が現れた。
それは王侯であることを示す、額冠(ティアラ)をした面をつけ、深紅の衣装を着ていた。いかにも王族らしく、面の者は誇らしげに舞った。それに跪き、藍色の衣装を着た官僚面が平伏してみせた。
「レイラス殿下」
恭しく、官僚面が呼ばわった。
スィグルは引っ繰り返りそうになった。三つ子のひとりが演じているのが自分らしいと知って。
「なんだラダック」
王侯面を着けたほうが、大仰に、そしてけだるげに応じた。
傍近くに席をとっていたラダックが、ぐっと呻くのが聞こえた。知らなかったらしい。仮面の領主と金庫番のやりとりに、宴席に侍る官僚たちは、皆すでに半笑いだった。
「畏れながら殿下、例の犬の件で、お願いがございます」
仮面のラダックは切々と、そう詠った。
すると、わん、と吠える三つ子の声がして、衝立の向こうから、犬の面をつけた白服の者が現れた。仮面劇には動物が登場することもある。そういう役柄の者でも、別に四つ足で駆け回るわけではなく、まるで人のように立位で、獣であることを象徴する所作の舞いを舞うのだ。
しかし真っ白な衣装を着ている犬役のひとりを見て、スィグルはいやな予感がした。そして右隣の席にいるギリスを横目に盗み見た。ギリスは踊りが面白いのか、にこにこしながら舞台を見ていた。
「この犬がどうした。なにか悪さをしたか」
仮面の領主は面倒くさげに、官僚面に訊ねた。犬の面の者は、放埒に舞って、官僚面の者の衣装の裾を引いた。それを筆で打って、官僚面が叱責の声で詠った。
「悪い犬でございます。どうぞお仕置きを」
わん、と犬の面が鳴いてみせた。
宴席の一同がすでに腹を抱えていた。ギリスは、どうしてみんな笑っているのだろうという顔で、微笑みながら皆を見回している。
「ラダック、許してやれ。この犬には悪気はないのだ」
優しげにたしなめて、王侯面が犬に手を差し伸べた。
おいでと呼ぶような仕草に答え、白い犬は嬉しげに舞い、王侯面にじゃれつき、そして、がぶっと手を噛んだ。
王侯面が、悲鳴をあげた。それは仮面劇の中の振る舞いのひとつだった。一同が笑って見るなか、手を噛まれた領主レイラスは、白い犬を蹴っ飛ばし、そして朗々とした美声で詠った。
「この、馬鹿が!」
スィグルはあぜんとしたが、宴席の者たちは笑いを堪えられないらしかった。
ラダックですら失笑していた。ギリスは不思議そうにそれを眺め、首をかしげて、にこにこしていた。
「殿下」
ふわりと舞いながら、仮面のラダックが舞台を踏み越え、座っているスィグルの目の前に躍り出てきた。官僚面の者が手に持っていた筆を、懐から出した本物の墨壺に浸しているのを、スィグルは仰け反って見つめた。
「この犬めには、まだ名前がございませんでした。どうぞ命名を」
墨を浸して書くばかりになった筆を、スィグルの手に押しつけて、官僚面は言った。
舞台から軽快な動作で、白い犬が目の前に舞い立ち、わんわん鳴きつつ、スィグルに自分の面の額を指し示した。
額に名前を書けということらしい。
スィグルは参って笑い、筆を持ったまま抵抗した。
どんな名前を書けというのか。
分かり切っているが、隣でにこにこしているギリスが何もわかっていないふうなのを脇目に見て、どうしようかと思った。
わんわん鳴いて迫ってくる犬に、勘弁してくれと何度も頼むと、犬は筆をとりあげ、今度はそれをラダックのところに持っていった。
ラダックは苦笑していたが、その筆を受け取り、ギリスの見ている前で、犬の面の額にくっきりと書いてやっていた。
エル・ギリスと。
道化た仕草でふりかえった犬は、舞台に残っていた王侯面に向かって、わんと鳴いてみせた。
すると仮面の領主レイラスは、大仰に頷いてみせた。
「まさしく、ふさわしい名だ」
それが落ちのようだった。それ以上笑わせたら死ぬというぐらい、笑っている者も宴席にはいたので、そのへんで止めてもらうのが得策と言えた。
三つ子は仮面を脱いで、満足げな悪童の笑みを晒し、爆笑して喝采する官僚たちに優雅に腰を折ってみせた。犬はルサールだった。
わん、と言って、ルサールは名前の書かれた犬の面を、ぽかんとしているギリスに差しだした。
受け取ったギリスは、犬の額にある、自分の名を見ていた。
「なんで犬が俺と同じ名前なの。みんな、なんで笑ってるの」
ギリスは文学や比喩に鈍くて、しばらく考えないと、その意味がわからない性分だった。彼と幼少期から親しい三つ子は、それをよく知っていて、彼をからかうことにしたのだろう。
面の額に書かれたエル・ギリスの名を見て、スィグルも笑った。三つ子はあの、額に名を書かれた事件を、恨んでいたらしい。それで復讐劇かと、スィグルは可笑しかった。
「なんで俺の名前なの?」
ギリスは首をかしげて訊いてくる。スィグルは困って意味なく頷いてやった。
名前を書いた犬の面が贈り物とは、とんだ誕生祝いだった。
「かぶってよ、兄貴(デン)」
ルサールが笑い、ギリスに面をつけろと頼んだ。
ギリスは厭がりもせず、頷いて、犬の面を着けて見せた。
わん、と鳴いてみせるギリスに、スィグルは腹の皮がよじれそうだった。面の上とはいえ、額にラダックの筆でエル・ギリスと大書してあった。
皆がそれを見て再び爆笑したので、ギリスは驚いたのか、面を外し、また辺りを見回していた。
訳が分かっていないせいか、自分を笑う一同を見るギリスは、怒りもせずに微笑んでいた。それを自分も笑って見つめ、嬉しげな、無垢な笑みだとスィグルは思った。
こいつがいるお陰で、皆こうして笑っていられる。そんなような気がした。
「なんだか分かんない」
こちらに囁くギリスは、それでも幸せそうだった。たぶん、小宮廷が笑いさざめくのが、こいつは幸せなのだと、スィグルには思えた。
父の広間(ダロワージ)とは随分違って、いつも馬鹿なことばかりしているが、これが自分の広間(ダロワージ)だというなら、それはそれで仕方がなかった。なにしろ、こいつが射手で、自分が新星だというなら、まあ、こんなもんで満足しないといけないだろう。
笑いながらそう納得し、スィグルは自分もこの大広間で、幸せなような気がした。
「絵が仕上がりましたよ、エル・ギリス」
シャムシールが巻かれた絵を持って脇に現れた。
それは盗賊討伐の前に、絵師の工房で見せてもらった下絵を仕上げたもののようだった。
錦の布で裏張りされた絵を拡げて、シャムシールは肖像画をギリスとスィグルに見せた。
絵の中で、ギリスは下絵のときと変わらず、グラナダ宮殿の玉座に続く石段の半ばに、くつろいで腰掛けていた。ギリスがいつも、朝儀を見物しているときの、普段そのままの姿だった。
シャムシール独特の陽気な色味で、鮮やかに彩色されて仕上がった絵の中のギリスを、スィグルは微笑して見上げた。下絵のときに、ぼけっとしていた絵のギリスは、仕上がった絵の中では、にっこりと屈託のない、子供のような笑みで、穏やかに微笑していた。ちょうど、たった今見たような、無垢な笑みだった。
「下絵と違うな」
スィグルが訊ねると、絵師は微笑んで、頷いてきた。
「描いているうちに、気が変わりまして。このほうが、エル・ギリスらしいと思ったんです。僕はどうしても、創作意欲に逆らえない質なもので」
それに頷いて答え、スィグルは絵師に感想を述べた。
「シャムシール、お前は天才だ」
絵師はただ微笑むだけで、謙遜もせず、奢りもしなかった。
絵の中で微笑み、グラナダ宮殿の朝儀に集まる面々を見守るギリスの姿は、まさに英雄の二十歳のころを描ききっていた。
ここがギリスの生涯の、頂点でないといいと、スィグルは願った。
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