新星の武器庫(34)
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かつて敗北を見下ろしていた崖を、ギリスは輸送馬車の幌の隙間から見上げた。
盗賊どもが指定してきた決戦の日だ。今さらそれらしく馬車を動かす必要もなかった。
まるで金塊を積んでいるように、三台の馬車は重々しく街道に停まり、その実、中には連弩を装備した弩兵を満載している。
馬車には御者も、周囲を守る守備兵もいなかった。先の戦いで殺されたその者たちを、スィグルが惜しんだからだった。
敵の狙いは馬車で、こちらが待ちかまえていることをファサルは承知している。罠があると知っていて来るのだから、そんなものはないという振りをしてみせる必要はない。馬車が金塊を積んでいるかどうかも、今回ばかりは、どうでもいいことだ。
向こうが馬車を取り領主の目を射抜くか、それともこちらがファサルを生け捕るか、そのどちらかを決するだけでいい。前回と同じ敗北はしない。
スィグルはそう言って、ギリスと別れ、崖上の後衛を率いていった。
果たして、あれが敗北だったのかどうか。ギリスは盗賊を待つ暇にまかせて回想した。
端で見ていた者に言わせれば、精々が、手痛い引き分けというところだったのかもしれない。
スィグルにとって、守備兵を皆殺しにされたことは、敗北だったのかもしれないが、あの時、盗賊たちは金塊を盗まずに逃げたのだし、結果的に輸送馬車は守られた。その守備のために出撃したのだから、目的は果たされ、むしろ勝ったと言ってもいいのかもしれない。
しかしギリスの記憶に残る戦闘の印象も、やはり、まぎれもない敗北だった。
本人の機転で、からくも難を逃れたものの、新星レイラスには矢を射かけられるし、それを防ごうとして自分は腕に負傷した。そして、その矢を放った者は、のうのうと逃げおおせた。守備隊は、もしも王都の兵が押し寄せれば、到底使い物にならないような腰抜けぞろいで、盗賊たちはそれを嘲弄している。その証拠があの、広場に描かれた領主の絵姿への二連射だ。
討ち取れるものなら討ち取ってみせろと、盗賊は挑戦している。
世が世なら、今も悪鬼のごとき森の侵略者と、対等に渡り合っていたであろう自分に対して、少しばかり弓が上手いというだけの盗賊ふぜいが、挑もうというだけでも生意気だ。増して虎の子の新星にまで仇なそうというのだから、田舎者の思い上がりを割り引いてやっても、ギリスにはどうにも我慢がならなかった。
当の新星が禁じたのでさえなければ、どこまででも追っていって、盗賊どもに必殺の氷結術をお見舞いしてやりたいところだった。
思い知らせてやる。
氷の蛇に挑戦するというのが、いかなることか。
生きたまま、氷結した己の半身が砕け散るのを、じっくり拝んで苦しむがいい。
それが本音のところだったが、とにかくスィグルと約束した。殺さずに生け捕ると。
スィグルの目論見は、ギリスの想像できる範囲を、はるかに凌駕した内容だった。自分を害そうとする敵を、しかも明らかな侮辱を度々加えてきた相手に対して、俸禄までやって臣下にしてやろうとは。
頭がおかしいとしか思えない。ラダックも、あいつも。
どう考えても自分のほうが正しいと、ギリスには感じられた。敵は粉砕しておくべきだ。他の者にも、こちらの持っている力を誇示して、挑もうという気さえ起こさせないように、強く押さえ込んでおくべきだ。
それが戦いの定法だ。敗北しないための、必勝の論理だ。
ギリスが長年教えこまれてきたその考え方は、今も揺るぎない真理として、体の奥底にあった。それが間違っているとは、ギリスは思いたくなかった。それが自分の全てだと思えたからだ。
しかし、そういう自分を眺めて、スィグルは言った。時々、僕はお前が厭になるよと。
ひどい話だ。あまりにも。お前を玉座に導くための血路を拓くべく、どんな苦難も戦い抜けるよう、躾けられてきた俺なのに。いかにも本音で厭そうな呆れ顔で、あんな愚痴を吐くなんて。
ギリスは心底、へこたれていたが、それでも逆らう気はなかった。
たぶん、スィグルは正しくて、こちらが間違っているのだろう。なぜなら、あいつは選ばれた新星で、どんなときも正しく、唯一絶対の輝く星でなければならないからだ。
みんな、分かったような顔をしていた。
お前には、どうしてそれが分からないんだ。お前はときどき可哀想な奴だよ。人の心が分からないんだな。お前は本当に、血も涙もない氷の蛇か。そんなお前が、僕は厭になる。お前はまったく、お幸せな馬鹿だよ、ギリス。
脳裏に浮かんだスィグルの顔が、過去に漏らした罵詈雑言を、まとめて一気に吐いてきた。ギリスはそれにいつも呆然とした。
たぶん、おかしいのは自分のほうで、あいつの言うように、どうしようもない馬鹿だから、新星の掲げる理想も夢も、なにひとつ理解できないのだろう。みんなが当たり前に分かることが、俺には時々、本当に分かんないんだから。
どうしてイェズラムはそんな俺を、わざわざ射手に選んだんだろう。
いつも自分の不足に疲れて、ギリスがへこたれていると、養父(デン)は決して優しくはなく、自分の頭で考えろと叱責してきた。お前は馬鹿ではない、諦めずに考え続ければ、いつか必ず分かると。
誰より賢かった養父(デン)の言うことだから、きっと真理なのだろうと、ギリスはそれを鵜呑みにしていた。いつでもそれは輝く星で、母なる星(パスハ)が闇夜にあって隊商を導くように、ギリスを支え導いてきた。
その養父(デン)も死に、もうこの世のどこにもいないという。自分を導いてくれる星は、今やもう、いずれ玉座に座るという新星だけだ。
いつかきっと、俺にもスィグルの信じる理想が理解できる日も来るだろう。
今はまだ、さっぱりその尻尾も掴めないが、信じてついていくしかなかった。あいつが魔法を使うなというなら、堪えねばならないし、盗賊を生け捕れというなら、生け捕っても来よう。いくら納得がいかなくても、正しいのはあいつのほうだと信じて。
理解を超えた直感として、それがいつか玉座の間(ダロワージ)を支配する新時代として、結実するような希望が、どこかに感じられる。その時、タンジールに君臨するあいつの晴れがましい姿を、誇らしく満足して眺められれば、きっと自分にも理解できるだろう。この日の決断は正しかったのだろうと。
新星は自分の敵を殺さない。それが今、自分の従うべき新しい課題だ。
崖上に突っ立っている、錦の鎧を着た姿が、堂々と胸を張って王族らしい気品のあるのを見上げ、ギリスはため息をついた。
後ろに引っ込んでろって頼んだのに。
お前ちょっと前に出すぎじゃないのか、スィグル。ちらっと見えりゃいいんだよ。何もそんな、これが標的です、どうぞ射てくださいみたいに、偉そうに立ってなくてもいいんだよ。
せめてもっと頼りになる念動術士やら治癒者やらが、あいつの手駒にいて、崖上で護衛してくれればなと、ギリスは悔しかった。
族長リューズは数々の戦いで勇敢にも先陣を切ったが、その周りには英雄譚(ダージ)に聞こえる英雄たちが顔をそろえていた。それでこそ玉座は安泰と言えた。なのにあいつには今誰もいないよ。親父とは比べものにならないような臆病者のくせに、結局一人で突っ立っているよ。
だけど新星は戦わない訳にはいかない。その最初の光を、皆に見せつけるために。
街の餓鬼どもが言うように、あいつの血に王家の魔法があって、本当に矢が逸れていけばいいのに。
しかし生憎、そんな都合のいい魔法はない。あれは詩人どもが創作した嘘で、現実にそんなものがあるわけではない。王族もただの生身で、負傷もすれば死にもする。万が一を思うと、ギリスは早く戦いたかった。早く終わらせて、無事に宮殿に戻りたい。もちろん、領主の凱旋にふさわしい戦果を挙げて。
なのに盗賊は一向に現れなかった。
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かつて敗北を見下ろしていた崖を、ギリスは輸送馬車の幌の隙間から見上げた。
盗賊どもが指定してきた決戦の日だ。今さらそれらしく馬車を動かす必要もなかった。
まるで金塊を積んでいるように、三台の馬車は重々しく街道に停まり、その実、中には連弩を装備した弩兵を満載している。
馬車には御者も、周囲を守る守備兵もいなかった。先の戦いで殺されたその者たちを、スィグルが惜しんだからだった。
敵の狙いは馬車で、こちらが待ちかまえていることをファサルは承知している。罠があると知っていて来るのだから、そんなものはないという振りをしてみせる必要はない。馬車が金塊を積んでいるかどうかも、今回ばかりは、どうでもいいことだ。
向こうが馬車を取り領主の目を射抜くか、それともこちらがファサルを生け捕るか、そのどちらかを決するだけでいい。前回と同じ敗北はしない。
スィグルはそう言って、ギリスと別れ、崖上の後衛を率いていった。
果たして、あれが敗北だったのかどうか。ギリスは盗賊を待つ暇にまかせて回想した。
端で見ていた者に言わせれば、精々が、手痛い引き分けというところだったのかもしれない。
スィグルにとって、守備兵を皆殺しにされたことは、敗北だったのかもしれないが、あの時、盗賊たちは金塊を盗まずに逃げたのだし、結果的に輸送馬車は守られた。その守備のために出撃したのだから、目的は果たされ、むしろ勝ったと言ってもいいのかもしれない。
しかしギリスの記憶に残る戦闘の印象も、やはり、まぎれもない敗北だった。
本人の機転で、からくも難を逃れたものの、新星レイラスには矢を射かけられるし、それを防ごうとして自分は腕に負傷した。そして、その矢を放った者は、のうのうと逃げおおせた。守備隊は、もしも王都の兵が押し寄せれば、到底使い物にならないような腰抜けぞろいで、盗賊たちはそれを嘲弄している。その証拠があの、広場に描かれた領主の絵姿への二連射だ。
討ち取れるものなら討ち取ってみせろと、盗賊は挑戦している。
世が世なら、今も悪鬼のごとき森の侵略者と、対等に渡り合っていたであろう自分に対して、少しばかり弓が上手いというだけの盗賊ふぜいが、挑もうというだけでも生意気だ。増して虎の子の新星にまで仇なそうというのだから、田舎者の思い上がりを割り引いてやっても、ギリスにはどうにも我慢がならなかった。
当の新星が禁じたのでさえなければ、どこまででも追っていって、盗賊どもに必殺の氷結術をお見舞いしてやりたいところだった。
思い知らせてやる。
氷の蛇に挑戦するというのが、いかなることか。
生きたまま、氷結した己の半身が砕け散るのを、じっくり拝んで苦しむがいい。
それが本音のところだったが、とにかくスィグルと約束した。殺さずに生け捕ると。
スィグルの目論見は、ギリスの想像できる範囲を、はるかに凌駕した内容だった。自分を害そうとする敵を、しかも明らかな侮辱を度々加えてきた相手に対して、俸禄までやって臣下にしてやろうとは。
頭がおかしいとしか思えない。ラダックも、あいつも。
どう考えても自分のほうが正しいと、ギリスには感じられた。敵は粉砕しておくべきだ。他の者にも、こちらの持っている力を誇示して、挑もうという気さえ起こさせないように、強く押さえ込んでおくべきだ。
それが戦いの定法だ。敗北しないための、必勝の論理だ。
ギリスが長年教えこまれてきたその考え方は、今も揺るぎない真理として、体の奥底にあった。それが間違っているとは、ギリスは思いたくなかった。それが自分の全てだと思えたからだ。
しかし、そういう自分を眺めて、スィグルは言った。時々、僕はお前が厭になるよと。
ひどい話だ。あまりにも。お前を玉座に導くための血路を拓くべく、どんな苦難も戦い抜けるよう、躾けられてきた俺なのに。いかにも本音で厭そうな呆れ顔で、あんな愚痴を吐くなんて。
ギリスは心底、へこたれていたが、それでも逆らう気はなかった。
たぶん、スィグルは正しくて、こちらが間違っているのだろう。なぜなら、あいつは選ばれた新星で、どんなときも正しく、唯一絶対の輝く星でなければならないからだ。
みんな、分かったような顔をしていた。
お前には、どうしてそれが分からないんだ。お前はときどき可哀想な奴だよ。人の心が分からないんだな。お前は本当に、血も涙もない氷の蛇か。そんなお前が、僕は厭になる。お前はまったく、お幸せな馬鹿だよ、ギリス。
脳裏に浮かんだスィグルの顔が、過去に漏らした罵詈雑言を、まとめて一気に吐いてきた。ギリスはそれにいつも呆然とした。
たぶん、おかしいのは自分のほうで、あいつの言うように、どうしようもない馬鹿だから、新星の掲げる理想も夢も、なにひとつ理解できないのだろう。みんなが当たり前に分かることが、俺には時々、本当に分かんないんだから。
どうしてイェズラムはそんな俺を、わざわざ射手に選んだんだろう。
いつも自分の不足に疲れて、ギリスがへこたれていると、養父(デン)は決して優しくはなく、自分の頭で考えろと叱責してきた。お前は馬鹿ではない、諦めずに考え続ければ、いつか必ず分かると。
誰より賢かった養父(デン)の言うことだから、きっと真理なのだろうと、ギリスはそれを鵜呑みにしていた。いつでもそれは輝く星で、母なる星(パスハ)が闇夜にあって隊商を導くように、ギリスを支え導いてきた。
その養父(デン)も死に、もうこの世のどこにもいないという。自分を導いてくれる星は、今やもう、いずれ玉座に座るという新星だけだ。
いつかきっと、俺にもスィグルの信じる理想が理解できる日も来るだろう。
今はまだ、さっぱりその尻尾も掴めないが、信じてついていくしかなかった。あいつが魔法を使うなというなら、堪えねばならないし、盗賊を生け捕れというなら、生け捕っても来よう。いくら納得がいかなくても、正しいのはあいつのほうだと信じて。
理解を超えた直感として、それがいつか玉座の間(ダロワージ)を支配する新時代として、結実するような希望が、どこかに感じられる。その時、タンジールに君臨するあいつの晴れがましい姿を、誇らしく満足して眺められれば、きっと自分にも理解できるだろう。この日の決断は正しかったのだろうと。
新星は自分の敵を殺さない。それが今、自分の従うべき新しい課題だ。
崖上に突っ立っている、錦の鎧を着た姿が、堂々と胸を張って王族らしい気品のあるのを見上げ、ギリスはため息をついた。
後ろに引っ込んでろって頼んだのに。
お前ちょっと前に出すぎじゃないのか、スィグル。ちらっと見えりゃいいんだよ。何もそんな、これが標的です、どうぞ射てくださいみたいに、偉そうに立ってなくてもいいんだよ。
せめてもっと頼りになる念動術士やら治癒者やらが、あいつの手駒にいて、崖上で護衛してくれればなと、ギリスは悔しかった。
族長リューズは数々の戦いで勇敢にも先陣を切ったが、その周りには英雄譚(ダージ)に聞こえる英雄たちが顔をそろえていた。それでこそ玉座は安泰と言えた。なのにあいつには今誰もいないよ。親父とは比べものにならないような臆病者のくせに、結局一人で突っ立っているよ。
だけど新星は戦わない訳にはいかない。その最初の光を、皆に見せつけるために。
街の餓鬼どもが言うように、あいつの血に王家の魔法があって、本当に矢が逸れていけばいいのに。
しかし生憎、そんな都合のいい魔法はない。あれは詩人どもが創作した嘘で、現実にそんなものがあるわけではない。王族もただの生身で、負傷もすれば死にもする。万が一を思うと、ギリスは早く戦いたかった。早く終わらせて、無事に宮殿に戻りたい。もちろん、領主の凱旋にふさわしい戦果を挙げて。
なのに盗賊は一向に現れなかった。
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