新星の武器庫(31)
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早暁より、曇天だった。
グラナダ周辺は、年間を通じて、ほとんど降雨のない土地柄だが、とうとう雨季に突入するのだった。
時折渦巻く突風に、庭園の棕櫚が波打つように揉まれ、飛ばされそうになっている孔雀を捕まえようと、庭師たちが追い回している。
列柱の通路を通り抜け、それを見るともなく見ながら、側仕えの侍従たちを引き連れて歩き、スィグルは早足に宮殿の出口を目指していた。
次回があれば、王族の軍装はやめて、もっと実際的なものをと心に誓っていたものの、そういうわけにもいかなかった。
礼の挑戦状によれば、盗賊ファサルはこちらを王族として名指してきている。それだけならまだしも、市街の者たちが、それを読んだという。だとしたら、アンフィバロウ家のスィグル・レイラスが、挑戦状を受けたということは、すでに万人の知るところである。
それなのに、今さら逃げも隠れもできようか。グラナダ全市のご期待に答える錦の鎧で、領主自らご出陣というのでなければ、役者がそろった気がしない。
しかしその件で、早朝からエル・ギリスと一悶着だった。
王族用の防具を着ていると、牛の目のファサルに狙い撃ちされると、彼は心配しているのだった。
それも当然と言えた。挑戦状にはそのように書いてある。殿下の両眼を頂戴すると。
だから何だと、スィグルは答えた。だからって誰がスィグル・レイラスなのか、遠目には分からないような格好をして、兵に紛れろというのか。馬鹿にするな。僕にだって王族としての矜持はあるから。
するとギリスは感心したように、偉いと言って、あっさりと折れた。
そして、さっさとどこかに引き上げていった。戦闘の支度で、彼は忙しいらしかった。
みなぎる戦意を隠しもせずに、ギリスは軍靴を鳴らして、歌を歌いながら去った。そして、それっきりだった。
それでいいのか、と思いながら、スィグルは通路をずんずん進んだ。
暑くない日和になったのは、ある意味救いだが、やっぱりこの鎧は遠目にも目立つだろう。風があるから、そう簡単には当たらないかもしれないが、それでも矢が飛んできたら、やっぱり怖いんじゃないの。お前がもっと本気で反対していたら、僕だって、英雄の言を容れて、渋々諦めたかもしれないのに、ギリス。あっさり納得しすぎなんだよ。
だけど今さら、そんな話を蒸し返すわけにもいくまい。
怖じ気づいたところで、結局、王族らしい気位を示すのが最善だ。一度、念動で防げたのだから、またあれをやるしかない。
ギリスはどこへ行ったんだ。
そう思いつつ、探す目で歩き続けると、シャムシールと出会った。一礼する絵師に、スィグルはなにか違和感を覚えたが、防具のことが気になって、どこか上の空のままでいた。
「おはようございます、レイラス殿下」
合流して歩きながら、シャムシールは挨拶をした。スィグルは宮廷絵師に対するにふさわしい返事を返した。
侍従と絵師を引き連れ、集団で横切る謁見の広間は、いつもと違って、誰もいない、がらんとした空間だった。今日は朝儀をやったところで、誰より自分が集中できまいと思い、休むことにしたのだ。
定められた休日以外の日の朝に、玉座に座っていない日は、このグラナダを統治してから、スィグルにとっては初めてのことだった。
おそらく官僚たちは、いつにない、のんびりと暇のある午前中を満喫していることだろう。
「どうしたんだ、シャムシール。付き合って早起きか」
「今日はみんな早起きですよ。風の音で眠れませんし」
こちらの早足を滞りなく追い、シャムシールはどこか、のんびりと言った。
そのとき、突風が舞い込み、揺れるはずのシャムシールの束髪が、いつもと違って編んであるのに気付き、まるで軍装ではないかと、スィグルは思った。
そして、よく見れば絵師が武装していることに、今さら気付いて、驚いて立ち止まった。
「お前、どうして鎧なんか着てるんだ」
数歩先まで行ってしまってから、立ち止まったシャムシールは、スィグルが上から下まで眺めた自分の具足姿を、同じようにうつむいて眺めている。
「盗賊討伐に、ついて行ってみたくなりまして」
面白そうに、絵師はにっこりとしていた。
よもやシャムシールの、武装した姿を見ることがあるとは、スィグルは夢にも思わなかった。
軍記物の絵を描くため、従軍する宮廷絵師がいるが、シャムシールはそういう種類の絵師とは違う。宮廷の壁に装飾用の絵を描かせるためにつれてきた男だ。
「行ってどうするんだ、シャムシール。物見遊山じゃないんだぞ。相手は盗賊でも、飛んでくる矢は本物なんだ」
こんな、絵を描くぐらいしか能の無いような男が、もし流れ矢でも食らって、使いものにならなくなったら、一体どうするつもりだと、スィグルは思った。それを口には出さなかったつもりだったが、顔には出していたらしい。シャムシールは苦笑して、それに答えた。
「後で絵を描きたいので、見ておきたいのです。もちろん、戦闘の邪魔にならないように、引っ込んでいますから」
「お前が戦闘の絵を描くというのか」
びっくりして、スィグルは訊ねた。シャムシールは頷いた。
「はぁ、そうです。新境地ですね」
確信めいて、シャムシールはそう言った。
絵師を追い返すか、スィグルは悩んで、結局渋面になった。
「僕はお前の庭園の絵が気に入っただけだったんだがなあ……」
そうぼやいて、スィグルが歩き出すと、シャムシールは許されたと思ったらしく、また後をついてきた。
許したのかどうか、自分でもよく分からない。
しかしシャムシールに、三つ子にやる守護生物(トゥラシェ)の絵を描かせた。それがどんな活躍をするか、自分の目で見たいというのも人情だ。崖の上から眺めさせれば、危ないこともないだろう。ギリスの言ではないが、なるべく、死角になる奥のほうから。
「軍装が似合わないなあ、お前は。シャムシール。悪い冗談みたいだよ」
文句を言う口調でスィグルが言うと、絵師は自分でも分かっているらしく、苦笑を見せた。
シャムシールは守備隊の兵が着る、ありきたりの鎧を着ていた。たぶんどこかで借りてきたのだろうが、もしこの男にも美学があれば、そんなぱっとしない鎧ではなく、せめて宮殿の近衛兵が着る、白銀の防具を借りただろうにとスィグルは悔やんだ。
グラナダ宮殿の、青いモザイクを施した白壁に、居並ぶ衛兵がよく映えるように、元は赤銅だった近衛兵の鎧を、着任早々、全て入れ替えさせたのだ。それを見ていたラダックが、この領主は乱費すると確信し、戦闘態勢に入ったというのも、無理からぬ話ではあるが、スィグルはそれを無駄遣いとは思っていなかった。田舎臭い衛兵に、耐え続ける精神力のほうが無駄なのだ。
崖上で、領主の側近くに侍るつもりなら、お前もそれなりの格好をすべきだったよ、シャムシール。
普段、格好に構わないギリスですら、武装はまともだ。それはたぶん、彼の防具は英雄のための特別誂えで、自分の趣味で選んでないからだ。
ギリスは初陣の時からそうだったからという理由で、背丈が伸びて武具を新調するときも、真っ白い鎧を作らせた。たぶん彼の魔法が氷結術で、ギリスの作る氷が霜つくような白色なので、それを思わせる色にしてあるのだろう。
だいたいが暗い色合いの防具を着ている者ばかりの戦地では、ギリスの白鎧はずいぶん目立ったらしく、英雄譚(ダージ)を作った詩人にも、やたらと白い白いと詠われている。無痛でなければ、たぶんあいつは純白のエル・ギリスだった。それを思うとスィグルは吹き出しそうだった。
鎧の中身がどんな男か、詳しく知らずに眺めれば、白鎧で武装したギリスはなかなかの男ぶりだ。だから見た目というのは、とても大事だ。実は我らが英雄があんな変人だと、民に知られずにすむ。やつの二十歳の肖像も、できれば軍装に変えさせたほうがいいのではないか。
シャムシールにそう提案してみようとした時、玄関で待っている英雄たちの姿が見えた。
無痛で純白の氷の蛇は、気合い十分の真顔で外を睨み、腕組みをして突っ立っている。
そしてその脇には、なぜかぐったりと項垂れた三つ子の幻視術士が、武装して立っていた。彼らは紛らわしいことに、三人ともそっくりの、暗い青緑がかった武装を与えられていた。これでは結局、誰が誰だか分からない。彼らはなぜか、手に長い布を持っていた。頭布(ターバン)にする飾り布のように見えた。その布までもがお揃いだった。
「やっと来たかスィグル……うえっ、シャムシール!? お前も行くの?」
こちらに気付いたギリスが、ものすごく驚いた顔をした。
まさかこの絵師が従軍するとは、ギリスにとっても、思いもよらなかったのだろう。
「はい。英雄(エル)たちのご活躍を、描いてみたくなりまして」
「そうかぁ」
少々照れたように答える絵師に、ギリスはにっこりと満足げな笑みを浮かべた。
「こいつらの初陣だから、詩人は手配したんだけど、絵っていうのもいいよね。英雄譚(ダージ)に挿絵がついてるのは見たことないけど、お前の絵で、そういうのをやってみたら」
「面白いですね。それなら字のわからない人でも楽しめますし」
答える絵師の口調は、乗り気なようだった。
「それじゃお前も、こいつらの活躍を、よく見てやってよ。英雄譚(ダージ)はひとりに一本ずつだから、三人まとめてじゃなくて別々にな。おい、お前らなに黙ってんだよ。挨拶くらいしろ」
弟分(ジョット)たちに礼儀を教えるギリスの声は厳しかったが、三つ子はゆらりと背を伸ばしただけで、こちらを振り返ろうとはしなかった。
スィグルは、彼らが根を詰めすぎて体調でも崩したのかと思った。それなら連れて行くわけにはいかない。もともと幻視術の投入には、こちらはあまり乗り気でなかったのだから。それを口実に、居残りを命じるかと、スィグルは考えた。
「おはようございます……殿下」
背中を見せたまま、三つ子は陰鬱に挨拶をした。まさに荒れる曇天を写し取ったような声だった。
「笑う準備はいいですか……」
「でも、できたら笑わないでください……」
「俺らにも、一応、心はありますから……」
そう言って、ふりかえった三つ子の竜の涙は、悲しい目をしていた。
彼らの額には、上のほうに、まだ指先ほどの小さい緑色の石が、ぽつりと突きだしている。よく見れば、その石の形は微妙に違っているようだった。その違いを見分けでもしなければ、誰が誰か区別はつかないだろう。
普段なら、そうだ。
しかし今朝は違っていた。
緑色の石がある下に、くっきりした黒い筆跡で、異なる文字が大書されていた。
ルサール、カラール、アミール、と。
「……うっ…………」
笑うなと頼まれたので、スィグルは咄嗟に笑いをこらえた。
間違いなくギリスの筆跡だった。
笑えば良かったとスィグルは思った。
堪えた手前、今さら笑えば、我慢できないくらい可笑しいという意味になる。
実際、見れば見るほど、我慢できないくらい可笑しかった。
しかし王族である自分が、竜の涙を見て嘲笑するというのは、いろいろまずい。立場上もまずいが、なにしろ三つ子は、本当に悲しそうな顔をしていた。
だから益々可笑しいわけだが。
堪えていると、スィグルはなんだか、汗をかいてきた。まさかこんな形で、臣への愛を試されることがあるとは、夢にも思わなかった。
「ど……どうしたんだ、これは。なんでそんな……エル・カラール」
目が合ったひとりの名を、スィグルは思わず呼んだ。額に書いてある字がどうしても目に入った。その名が正しかったからだろう、エル・カラールは、くっ、と悲しげに呻いて伏し目になった。
「兄貴(デン)に書かれたんです、さっき」
「詩人が見分けられるようにって」
「冗談じゃなかったんです、やっぱり」
わなわなしながら、三つ子は耐えていた。なぜ耐えるのか、スィグルには見当もつかなかった。
「ギリス……」
英雄然とした白鎧で、ギリスは真顔で立っていた。
「どうしてこんなことするんだ、お前は」
なるべく三つ子の顔を見ないようにして、スィグルは訊ねた。ギリスは不思議そうな顔をした。
「今そいつが言ったろ、えーと、ルサールが。詩人が見分けられるようにだよ」
振り返って、三つ子の額の字を確認しながら、ギリスは答えた。
「便利だろ、これ。わかりやすいし。お前ら、毎日書いてやろうか」
ギリスが親切かのように訊ねると、三つ子はそろって力なく首を横に振っている。
「いいです、兄貴(デン)……今日だけで」
「俺ら別に三人ひとまとめでいいです」
「そういう気持ちになってきました」
項垂れて答える三つ子に、ギリスはふうんと言った。
「でも英雄譚(ダージ)は一人に一つだろ。いくらお前らでも、三人同時に死ぬわけじゃないだろうから、葬式の時に困るぜ」
「この顔で市街を通って出撃かと思うと、いっそ今死ぬかと本気で思いますけどね」
それは冗談だろうなと訊ねたくなる口調で、エル・ルサールが言った。
「殿下……異例なのは知ってますが」
エル・アミールがこちらを向いた。非礼とは分かっていたが、スィグルは思わず彼から視線をそらした。目が合うなり爆笑するほうが、視線をそらすより非礼だろうという咄嗟の判断だった。
「頭布(ターバン)の着用をお命じください」
「市街を出るまででいいので助けると思って!!」
「戦うときはちゃんと外しますから!」
三つ子たちは口々にそう叫び、懇願してきた。スィグルは目を逸らしたまま、黙って頷いた。
竜の涙のための装備に兜(かぶと)はない。彼らは自軍の士気高揚をはかる目的で、その存在を戦場で誇示する義務があり、原則として、顔と石をさらして戦うよう定められている。危険なことだが、彼らはそれを誇りとしているはずだった。
でもこの有様では誇りもくそもあったものではなかった。
「どうして抵抗しなかったんだ、お前たち」
スィグルは訊ねた。文字に乱れがないので、三つ子がおとなしく書かせたことは確かだ。
「派閥の年長者(デン)の指図には逆らっちゃいけないんです」
「逆らったら生きていけないんです」
「そういう世界なんです、竜の涙の社会は」
そうなのか、と訊ねる目で、スィグルはギリスを見つめた。
しかしギリスは全く話を聞いていなかった。
彼はそわそわと宮殿の外を眺め、さっさと出撃したそうに焦れていた。
「早く行こうよ、スィグル。天気悪いなあ。連弩(れんど)の射程がどうだか心配だよ俺は」
びゅうと音を鳴らし、突風が吹き込んできた。
ギリスは真剣そのものの顔つきで、宮殿から出て行った。
三つ子は風に吹かれながら、必死の様子で頭布(ターバン)を巻いていた。
シャムシールは呆然と、その様子を眺めていた。その目を見れば、彼が頭の中で絵を描いていることが見て取れた。
この出来事は描いてやるなと、スィグルは思った。
そして、なぜギリスの英雄譚(ダージ)が、事実と少々違う内容になっているのか、理解した。竜の涙たちは英雄的に戦うが、彼らを真の英雄にするのは、詩人の筆のほうだった。
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早暁より、曇天だった。
グラナダ周辺は、年間を通じて、ほとんど降雨のない土地柄だが、とうとう雨季に突入するのだった。
時折渦巻く突風に、庭園の棕櫚が波打つように揉まれ、飛ばされそうになっている孔雀を捕まえようと、庭師たちが追い回している。
列柱の通路を通り抜け、それを見るともなく見ながら、側仕えの侍従たちを引き連れて歩き、スィグルは早足に宮殿の出口を目指していた。
次回があれば、王族の軍装はやめて、もっと実際的なものをと心に誓っていたものの、そういうわけにもいかなかった。
礼の挑戦状によれば、盗賊ファサルはこちらを王族として名指してきている。それだけならまだしも、市街の者たちが、それを読んだという。だとしたら、アンフィバロウ家のスィグル・レイラスが、挑戦状を受けたということは、すでに万人の知るところである。
それなのに、今さら逃げも隠れもできようか。グラナダ全市のご期待に答える錦の鎧で、領主自らご出陣というのでなければ、役者がそろった気がしない。
しかしその件で、早朝からエル・ギリスと一悶着だった。
王族用の防具を着ていると、牛の目のファサルに狙い撃ちされると、彼は心配しているのだった。
それも当然と言えた。挑戦状にはそのように書いてある。殿下の両眼を頂戴すると。
だから何だと、スィグルは答えた。だからって誰がスィグル・レイラスなのか、遠目には分からないような格好をして、兵に紛れろというのか。馬鹿にするな。僕にだって王族としての矜持はあるから。
するとギリスは感心したように、偉いと言って、あっさりと折れた。
そして、さっさとどこかに引き上げていった。戦闘の支度で、彼は忙しいらしかった。
みなぎる戦意を隠しもせずに、ギリスは軍靴を鳴らして、歌を歌いながら去った。そして、それっきりだった。
それでいいのか、と思いながら、スィグルは通路をずんずん進んだ。
暑くない日和になったのは、ある意味救いだが、やっぱりこの鎧は遠目にも目立つだろう。風があるから、そう簡単には当たらないかもしれないが、それでも矢が飛んできたら、やっぱり怖いんじゃないの。お前がもっと本気で反対していたら、僕だって、英雄の言を容れて、渋々諦めたかもしれないのに、ギリス。あっさり納得しすぎなんだよ。
だけど今さら、そんな話を蒸し返すわけにもいくまい。
怖じ気づいたところで、結局、王族らしい気位を示すのが最善だ。一度、念動で防げたのだから、またあれをやるしかない。
ギリスはどこへ行ったんだ。
そう思いつつ、探す目で歩き続けると、シャムシールと出会った。一礼する絵師に、スィグルはなにか違和感を覚えたが、防具のことが気になって、どこか上の空のままでいた。
「おはようございます、レイラス殿下」
合流して歩きながら、シャムシールは挨拶をした。スィグルは宮廷絵師に対するにふさわしい返事を返した。
侍従と絵師を引き連れ、集団で横切る謁見の広間は、いつもと違って、誰もいない、がらんとした空間だった。今日は朝儀をやったところで、誰より自分が集中できまいと思い、休むことにしたのだ。
定められた休日以外の日の朝に、玉座に座っていない日は、このグラナダを統治してから、スィグルにとっては初めてのことだった。
おそらく官僚たちは、いつにない、のんびりと暇のある午前中を満喫していることだろう。
「どうしたんだ、シャムシール。付き合って早起きか」
「今日はみんな早起きですよ。風の音で眠れませんし」
こちらの早足を滞りなく追い、シャムシールはどこか、のんびりと言った。
そのとき、突風が舞い込み、揺れるはずのシャムシールの束髪が、いつもと違って編んであるのに気付き、まるで軍装ではないかと、スィグルは思った。
そして、よく見れば絵師が武装していることに、今さら気付いて、驚いて立ち止まった。
「お前、どうして鎧なんか着てるんだ」
数歩先まで行ってしまってから、立ち止まったシャムシールは、スィグルが上から下まで眺めた自分の具足姿を、同じようにうつむいて眺めている。
「盗賊討伐に、ついて行ってみたくなりまして」
面白そうに、絵師はにっこりとしていた。
よもやシャムシールの、武装した姿を見ることがあるとは、スィグルは夢にも思わなかった。
軍記物の絵を描くため、従軍する宮廷絵師がいるが、シャムシールはそういう種類の絵師とは違う。宮廷の壁に装飾用の絵を描かせるためにつれてきた男だ。
「行ってどうするんだ、シャムシール。物見遊山じゃないんだぞ。相手は盗賊でも、飛んでくる矢は本物なんだ」
こんな、絵を描くぐらいしか能の無いような男が、もし流れ矢でも食らって、使いものにならなくなったら、一体どうするつもりだと、スィグルは思った。それを口には出さなかったつもりだったが、顔には出していたらしい。シャムシールは苦笑して、それに答えた。
「後で絵を描きたいので、見ておきたいのです。もちろん、戦闘の邪魔にならないように、引っ込んでいますから」
「お前が戦闘の絵を描くというのか」
びっくりして、スィグルは訊ねた。シャムシールは頷いた。
「はぁ、そうです。新境地ですね」
確信めいて、シャムシールはそう言った。
絵師を追い返すか、スィグルは悩んで、結局渋面になった。
「僕はお前の庭園の絵が気に入っただけだったんだがなあ……」
そうぼやいて、スィグルが歩き出すと、シャムシールは許されたと思ったらしく、また後をついてきた。
許したのかどうか、自分でもよく分からない。
しかしシャムシールに、三つ子にやる守護生物(トゥラシェ)の絵を描かせた。それがどんな活躍をするか、自分の目で見たいというのも人情だ。崖の上から眺めさせれば、危ないこともないだろう。ギリスの言ではないが、なるべく、死角になる奥のほうから。
「軍装が似合わないなあ、お前は。シャムシール。悪い冗談みたいだよ」
文句を言う口調でスィグルが言うと、絵師は自分でも分かっているらしく、苦笑を見せた。
シャムシールは守備隊の兵が着る、ありきたりの鎧を着ていた。たぶんどこかで借りてきたのだろうが、もしこの男にも美学があれば、そんなぱっとしない鎧ではなく、せめて宮殿の近衛兵が着る、白銀の防具を借りただろうにとスィグルは悔やんだ。
グラナダ宮殿の、青いモザイクを施した白壁に、居並ぶ衛兵がよく映えるように、元は赤銅だった近衛兵の鎧を、着任早々、全て入れ替えさせたのだ。それを見ていたラダックが、この領主は乱費すると確信し、戦闘態勢に入ったというのも、無理からぬ話ではあるが、スィグルはそれを無駄遣いとは思っていなかった。田舎臭い衛兵に、耐え続ける精神力のほうが無駄なのだ。
崖上で、領主の側近くに侍るつもりなら、お前もそれなりの格好をすべきだったよ、シャムシール。
普段、格好に構わないギリスですら、武装はまともだ。それはたぶん、彼の防具は英雄のための特別誂えで、自分の趣味で選んでないからだ。
ギリスは初陣の時からそうだったからという理由で、背丈が伸びて武具を新調するときも、真っ白い鎧を作らせた。たぶん彼の魔法が氷結術で、ギリスの作る氷が霜つくような白色なので、それを思わせる色にしてあるのだろう。
だいたいが暗い色合いの防具を着ている者ばかりの戦地では、ギリスの白鎧はずいぶん目立ったらしく、英雄譚(ダージ)を作った詩人にも、やたらと白い白いと詠われている。無痛でなければ、たぶんあいつは純白のエル・ギリスだった。それを思うとスィグルは吹き出しそうだった。
鎧の中身がどんな男か、詳しく知らずに眺めれば、白鎧で武装したギリスはなかなかの男ぶりだ。だから見た目というのは、とても大事だ。実は我らが英雄があんな変人だと、民に知られずにすむ。やつの二十歳の肖像も、できれば軍装に変えさせたほうがいいのではないか。
シャムシールにそう提案してみようとした時、玄関で待っている英雄たちの姿が見えた。
無痛で純白の氷の蛇は、気合い十分の真顔で外を睨み、腕組みをして突っ立っている。
そしてその脇には、なぜかぐったりと項垂れた三つ子の幻視術士が、武装して立っていた。彼らは紛らわしいことに、三人ともそっくりの、暗い青緑がかった武装を与えられていた。これでは結局、誰が誰だか分からない。彼らはなぜか、手に長い布を持っていた。頭布(ターバン)にする飾り布のように見えた。その布までもがお揃いだった。
「やっと来たかスィグル……うえっ、シャムシール!? お前も行くの?」
こちらに気付いたギリスが、ものすごく驚いた顔をした。
まさかこの絵師が従軍するとは、ギリスにとっても、思いもよらなかったのだろう。
「はい。英雄(エル)たちのご活躍を、描いてみたくなりまして」
「そうかぁ」
少々照れたように答える絵師に、ギリスはにっこりと満足げな笑みを浮かべた。
「こいつらの初陣だから、詩人は手配したんだけど、絵っていうのもいいよね。英雄譚(ダージ)に挿絵がついてるのは見たことないけど、お前の絵で、そういうのをやってみたら」
「面白いですね。それなら字のわからない人でも楽しめますし」
答える絵師の口調は、乗り気なようだった。
「それじゃお前も、こいつらの活躍を、よく見てやってよ。英雄譚(ダージ)はひとりに一本ずつだから、三人まとめてじゃなくて別々にな。おい、お前らなに黙ってんだよ。挨拶くらいしろ」
弟分(ジョット)たちに礼儀を教えるギリスの声は厳しかったが、三つ子はゆらりと背を伸ばしただけで、こちらを振り返ろうとはしなかった。
スィグルは、彼らが根を詰めすぎて体調でも崩したのかと思った。それなら連れて行くわけにはいかない。もともと幻視術の投入には、こちらはあまり乗り気でなかったのだから。それを口実に、居残りを命じるかと、スィグルは考えた。
「おはようございます……殿下」
背中を見せたまま、三つ子は陰鬱に挨拶をした。まさに荒れる曇天を写し取ったような声だった。
「笑う準備はいいですか……」
「でも、できたら笑わないでください……」
「俺らにも、一応、心はありますから……」
そう言って、ふりかえった三つ子の竜の涙は、悲しい目をしていた。
彼らの額には、上のほうに、まだ指先ほどの小さい緑色の石が、ぽつりと突きだしている。よく見れば、その石の形は微妙に違っているようだった。その違いを見分けでもしなければ、誰が誰か区別はつかないだろう。
普段なら、そうだ。
しかし今朝は違っていた。
緑色の石がある下に、くっきりした黒い筆跡で、異なる文字が大書されていた。
ルサール、カラール、アミール、と。
「……うっ…………」
笑うなと頼まれたので、スィグルは咄嗟に笑いをこらえた。
間違いなくギリスの筆跡だった。
笑えば良かったとスィグルは思った。
堪えた手前、今さら笑えば、我慢できないくらい可笑しいという意味になる。
実際、見れば見るほど、我慢できないくらい可笑しかった。
しかし王族である自分が、竜の涙を見て嘲笑するというのは、いろいろまずい。立場上もまずいが、なにしろ三つ子は、本当に悲しそうな顔をしていた。
だから益々可笑しいわけだが。
堪えていると、スィグルはなんだか、汗をかいてきた。まさかこんな形で、臣への愛を試されることがあるとは、夢にも思わなかった。
「ど……どうしたんだ、これは。なんでそんな……エル・カラール」
目が合ったひとりの名を、スィグルは思わず呼んだ。額に書いてある字がどうしても目に入った。その名が正しかったからだろう、エル・カラールは、くっ、と悲しげに呻いて伏し目になった。
「兄貴(デン)に書かれたんです、さっき」
「詩人が見分けられるようにって」
「冗談じゃなかったんです、やっぱり」
わなわなしながら、三つ子は耐えていた。なぜ耐えるのか、スィグルには見当もつかなかった。
「ギリス……」
英雄然とした白鎧で、ギリスは真顔で立っていた。
「どうしてこんなことするんだ、お前は」
なるべく三つ子の顔を見ないようにして、スィグルは訊ねた。ギリスは不思議そうな顔をした。
「今そいつが言ったろ、えーと、ルサールが。詩人が見分けられるようにだよ」
振り返って、三つ子の額の字を確認しながら、ギリスは答えた。
「便利だろ、これ。わかりやすいし。お前ら、毎日書いてやろうか」
ギリスが親切かのように訊ねると、三つ子はそろって力なく首を横に振っている。
「いいです、兄貴(デン)……今日だけで」
「俺ら別に三人ひとまとめでいいです」
「そういう気持ちになってきました」
項垂れて答える三つ子に、ギリスはふうんと言った。
「でも英雄譚(ダージ)は一人に一つだろ。いくらお前らでも、三人同時に死ぬわけじゃないだろうから、葬式の時に困るぜ」
「この顔で市街を通って出撃かと思うと、いっそ今死ぬかと本気で思いますけどね」
それは冗談だろうなと訊ねたくなる口調で、エル・ルサールが言った。
「殿下……異例なのは知ってますが」
エル・アミールがこちらを向いた。非礼とは分かっていたが、スィグルは思わず彼から視線をそらした。目が合うなり爆笑するほうが、視線をそらすより非礼だろうという咄嗟の判断だった。
「頭布(ターバン)の着用をお命じください」
「市街を出るまででいいので助けると思って!!」
「戦うときはちゃんと外しますから!」
三つ子たちは口々にそう叫び、懇願してきた。スィグルは目を逸らしたまま、黙って頷いた。
竜の涙のための装備に兜(かぶと)はない。彼らは自軍の士気高揚をはかる目的で、その存在を戦場で誇示する義務があり、原則として、顔と石をさらして戦うよう定められている。危険なことだが、彼らはそれを誇りとしているはずだった。
でもこの有様では誇りもくそもあったものではなかった。
「どうして抵抗しなかったんだ、お前たち」
スィグルは訊ねた。文字に乱れがないので、三つ子がおとなしく書かせたことは確かだ。
「派閥の年長者(デン)の指図には逆らっちゃいけないんです」
「逆らったら生きていけないんです」
「そういう世界なんです、竜の涙の社会は」
そうなのか、と訊ねる目で、スィグルはギリスを見つめた。
しかしギリスは全く話を聞いていなかった。
彼はそわそわと宮殿の外を眺め、さっさと出撃したそうに焦れていた。
「早く行こうよ、スィグル。天気悪いなあ。連弩(れんど)の射程がどうだか心配だよ俺は」
びゅうと音を鳴らし、突風が吹き込んできた。
ギリスは真剣そのものの顔つきで、宮殿から出て行った。
三つ子は風に吹かれながら、必死の様子で頭布(ターバン)を巻いていた。
シャムシールは呆然と、その様子を眺めていた。その目を見れば、彼が頭の中で絵を描いていることが見て取れた。
この出来事は描いてやるなと、スィグルは思った。
そして、なぜギリスの英雄譚(ダージ)が、事実と少々違う内容になっているのか、理解した。竜の涙たちは英雄的に戦うが、彼らを真の英雄にするのは、詩人の筆のほうだった。
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