もえもえ図鑑

2008/08/14

海猫の歌(1)

 夕凪に入った湾岸の街には、夜を待つ熱気が籠もっていた。
 あと一点鐘もすれば、風は戻り、街にたれ込めた熱気を海へと吹き払っていくだろう。
 そうすれば夜会が始まる刻限だ。
 そのときに遅れないよう、すっかり着飾ってから、レスリンは親友の屋敷を訪れた。
 このところ、しばらくの間、流行り風邪にひどくあたってしまったせいで、郊外の屋敷に引っ込んでの療養生活が続いていた。その間、ひと月ばかりもご無沙汰したろうか。
 親しかったはずのセレスタ・バドネイルは文も寄越さなくなり、レスリンは気を揉んでいた。
 セレスタは湾岸に君臨する大貴族、バドネイル家の一人娘で、すでに十七歳にもなった娘盛りの今、ほかに兄弟もいないとあっては、まず間違いもなく、彼女の父親の莫大な財産と権力を、相続する者だと見なされている。父親の溺愛を受けて、おっとりと鷹揚に育っている娘だが、いくらなんでもその事実に気付かないわけはない。
 友達を選んでいるはずだ。
 父親同士の付き合いがあったせいで、レスリンはセレスタとは幼馴染みだったが、それでも時々、戦々恐々とした。いつかセレスタが自分に飽きて、街への遊びや、芝居見物は、もっと他の、彼女の身分に匹敵するような、大貴族の娘とだけ行くわと、言い出すのではないかと。
 レスリンの家系は、格式張って古くはあったが、ここ数代の権勢は、どちらかといえば落ち目であった。セレスタと出かける時には、自分の身を飾る先祖伝来の古い宝石が、親友の胸に輝く大粒の青玉(サファイア)や真珠に比べ、とりかえしのつかないほど見劣りがするのではないかと、不安を覚えずにはいられない。
 だからもう、かつては数日とあけずに届いていた、他愛もない文が、さっぱり届けられなくなったことには、到底耐え難かった。
 バルハイに戻ってから、とんでもない噂も聞いた。
 バドネイル卿が愛娘セレスタのために選び抜いていた、彼女ご自慢の、姿も血筋も良い婚約者が死んだという。
 なんでも、夜会の席で手合わせ(デュエル)をした、その相手に惨殺されたというのだから、腰の抜けるような話だった。
 夜会に居合わせたという友人に、前もって噂話を聞き出そうとしたが、なぜだか、むっつりと口を噤んで、決して教えてくれなかった。
 仕方なく、レスリンはセレスタのところに直に乗り込む他はなかった。
 裾を長々と引いた、絹の夜会服をからげて、レスリンはセレスタの住む、壮大なバドネイル邸の最後の入り口を足早にくぐった。
 ご機嫌伺いのために、先触れの遣いをやったところ、セレスタは元気で、喜んでレスリンと会うという話だった。
 郊外の屋敷から、今朝方、早馬で送らせた土産の花を従僕に持たせ、レスリンはセレスタの部屋を訪れた。
 見慣れたその豪華な部屋の中で、セレスタはなぜか着飾りもせず、病人のように、ゆったりした白いモスリンの服を着て、椅子に腰掛けていた。
 レスリンはその姿に、一瞬、親友が婚約者を目の前で失った衝撃のあまり、日々伏せっているのだろうと思った。
 しかし、セレスタはレスリンが知る普段の彼女よりも、いくぶん血色のいい頬をしており、座っていた椅子からぴょんと跳ねるように立ち上がって、自分を出迎えてくれる様子は、妙なふうに浮かれていて、まるで小さな子供のころのようだった。
「レスリン、ようこそ、来てくださってありがとう。ご病気だったのですってね。知らなくてごめんなさい。お見舞いにも行かず、失礼だったわ」
 入ってきたレスリンの手をとって、セレスタは早口にそう挨拶をした。優しく微笑んでいるセレスタはどことなく幼い顔をした美人で、彼女の青い目は陽を浴びた海のようにきらめいて見えた。
 セレスタは知らなかったのか、とレスリンは意外だった。一ヶ月もの間、ずっと会う機会もなく、療養しているから会いに行けなくて寂しいと、こちらからは文を送ったのに、彼女はそれを読んでいなかったのか。
 やはり、それだけ婚約者の死が衝撃だったということかしら。
 レスリンは親友と向き合う顔に、同情する表情を浮かべた。
「私、具合が悪くて、バルハイのことは風の便りにも知らなかったのだけど、とてもつらい目に遭ったのですってね、セレスタ。先だって戻ってきてから知って、とにかく貴女が心配でたまらなくなって、お見舞いに駆けつけたのよ」
「ありがとう」
 礼を言いながら、セレスタは一抱えもある花束を従僕から受け取った。
 その中に顔を埋めて、みずみずしい香りを嗅いでいるセレスタは、とても不幸なようには見えない。
 ありがとうという礼の言葉も、レスリンが駆けつけたことにではなく、花をもらったから、礼儀として無意識に言った言葉のように聞こえた。
「大丈夫なの、セレスタ……?」
 本当の彼女なら、大丈夫なはずはなかった。今頃、寝床で泣き暮らしている。
 幼馴染みが、嘆きのあまり、そういう時点を通り越してしまったのではないかと、レスリンは背筋が寒くなった。
「平気なの。レスリン、私ね、好きな人ができたの」
 うっとりと顔を赤らめて、セレスタが囁くような声で告白した。
 レスリンは唖然として、それを聞いた。
 セレスタは、婚約者のことを、愛していると言っていた。ちょっと前まで。郊外にある屋敷に行く前に、しばしの暇の挨拶をしにきた時には、心から彼を愛していると言っていた。
 セレスタが婚約していたのは、彼女よりも少々序列は落ちるものの、名家の生まれの、背が高く、貴族らしい穏やかな顔立ちをした、優しげな男で、頭が良く、歯切れもよく、乗馬と剣が得意だった。セレスタが夜会で彼と踊るのを、レスリンはいつも羨望の眼差しで見てきた。
 セレスタほどの大貴族の娘ともなると、自分より位の高い結婚相手を見つけるのは難しい。競合する家名の者は政敵であることがほとんどだからだ。バドネイル卿は愛するひとり娘のために、自分が支配できる家々の中から、もっとも優れた相手を選び出していた。
 そんな恵まれた境遇の中で、セレスタは掛け値無しに幸せそうだった。レスリンから見たら、彼女はお伽話の中のお姫様そのものだったのに。
「良かったわね……」
 レスリンは、出遅れた祝いの言葉に、声を掠れさせた。すかさず祝うべきだった。どんな恋かは知らないけれど、とにかくセレスタが喜んでいるのだから。
「どんな人なの。素敵な人なんでしょうね」
 きっとバドネイル卿が、ひとり身になった娘のために、さっそく新しい男を見繕ったのだろうと、レスリンは見当をつけた。
 今度はどんな家の男なのだろう。バドネイル家の跡継ぎであるセレスタを狙う者は、湾岸にはいくらでもいたので、彼女の婚約者の死は、そういった者たちにとって、祝い事だったに違いない。きっと、次が決まるまでの間、夜会の席ではさぞかし、セレスタは入れ替わり立ち替わりする男たちにもてたことだろう。
「会わせるわ」
 花を部屋付きの侍女に引き取らせて、セレスタははずむような声で言った。
 レスリンはぎょっとした。自分は間の悪い時に来たのではないかと。
 新しい婚約者との蜜月を邪魔したら、セレスタはご機嫌が悪いだろう。
「いらしてるの?」
「ここに住んでるの」
 それが途方もない自慢だというように、セレスタは答えた。
 もう結婚したの、と、レスリンは訊こうとして、それを口に出せなかった。
 セレスタが自分の知らない間に結婚しているわけがない。なんの連絡もなく。
 もし彼女が招待状を送るのを忘れたとしても、湾岸の大貴族バドネイル家の婚礼の噂は、たとえ田舎であっても、自分が療養していた荘園まで聞こえたはずだ。第一、婚礼のための支度には、たぶん何ヶ月もかかるはず。
 それを待たずに、あっさりと神殿で宣誓だけしてしまったというの。そんなのありえない。平民の娘か、お伽話の気の毒なお姫様じゃあるまいし。
 セレスタは侍女を呼びつけ、せっつくように命じた。
「どこにいるのか探してきて。部屋に来るよう言って。いいえ、やっぱり私が行くから待っているよう伝えて」
 セレスタは彼女にしては珍しい早口でせっかちに話し、落ち着かないのか、うろうろとそこらを歩いた。
「ああ、やっぱりいいわ、お前は残って。私が自分で探しに行くわ」
 決心したように言い、セレスタはレスリンの手を握った。
「行きましょう、レスリン。私、彼がどこにいるか、ちゃんとわかるの」
 セレスタは誇らしげにそう教え、こちらの都合も訊ねることなく、レスリンが今来たばかりの扉から連れだそうとした。
 私、まだ椅子も勧められてないわ。
 そう戸惑いながら、レスリンは走るように廊下を行くセレスタに遅れないよう、必死で夜会服の裾を捌いてついていった。
 握って手を引くセレスタの指は、燃えるようだった。
 いつも流行の髪型に結い上げている、細かな縮れのある明るい色合いの褐色の髪を、セレスタはただゆるく束ねただけで、そこに一輪の花すら飾っていない。本当にまるで病人のよう。
 幼いころから良く知っているはずの友が、まるで別人のようで、レスリンはきゅうに怖くなった。

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イメージワーク。ヘンリックとセレスタ。
ぜんぜん萌え萌えじゃない暗い話だけど、思いついたからとりあえず書いてみる。
タイトルまで思いつくとは。やる気まんまんだな脊椎さん。
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