もえもえ図鑑

2008/08/13

秘密の効用

 レイラス、と学棟の廊下で呼びかけられて、スィグルは足を止めた。
 振り返ると、曲がり角の向こうに、シュレーの長身が見えた。
「今日は私は用事があって遅いから、料理は先にはじめろと、イルスに言っておいてくれ」
 夕食はいつもの食堂で、みんなで食べる習わしだ。
 しかし最近のシュレーは、なにか特別講義をとったらしく、講義が明けるのが遅かった。
 だからイルスに料理させておいて、自分は食うだけにしようという腹なのだろう。
「わかったよ」
 スィグルは頷いてみせた。
 シュレーは急いでいて、こちらに来る気配はなく、もう行くようだった。
「またさぼるのか、レイラス。たまには講義に出た方がいいぞ」
 もっともらしい説教をして、シュレーは背を見せた。
 レイラス、レイラス。うるさいなあ。
 友達なんだから、他人行儀に洗礼名で呼ぶのはやめて、名前にしましょうと、恥ずかしげもなくシェルが言うので、そういうことになっていた。
 しかしシュレーはいつも、レイラス、レイラスだった。
 なのにさっき、イルスはイルスだったろ。
 なんかむかつく。そう思いつつ、スィグルは講義をさぼることにした。


 食事に遅れてやってきたくせに、シュレーはイルスが作った料理をくどくど批判した。
 味のことは言わなかったが、切り方が大ざっぱとか、不揃いとか、君はがさつだとかいう話だった。つまり味は美味かったらしい。
 イルスは苦笑しながら、しかし面白そうに、その批判を聞いている。
 とかく食い物の話には、スィグルは興味がなかったので、つまらないから、イルスがキレりゃいいのにと思いつつ、ぼんやり自分の皿から食べていた。
「美味しいんだからいいじゃないですか。シュレーは、なんで人が作ったものに文句を言うんですか」
 キレたのはシェルのほうだった。それじゃ毎度のことなので、何の面白みもなかった。
 ふん、とシュレーは毎度のように、シェルを鼻で笑った。
「君にはなんでも美味いんだろう、シェル」
「いいじゃないですか別に。そのほうが幸せでしょう。何が出ても、いちいち文句のつけどころがある殿下よりは」
 踏ん張って言い返しているシェルを見ながら、スィグルはなにか違和感を覚えた。
 今、猊下がシェルのことをシェルと呼んでいた。そう呼ぶことに、とうとう慣れたのか。
「君の意見は、レイラス」
 シェルに噛みつかれるのが面倒になった様子で、シュレーが食べながらお鉢をこちらに回してきた。
 スィグルはしばらく、押し黙った。
 言うべきか考えて、やめろと思ったが、結局言っていた。
「なんで僕だけレイラスなんだよ」
 案外、不機嫌な声だったので、シュレーがなんだってという顔で、こちらに目を戻した。
「いや、だから、イルスはイルスで、シェルはシェルなのに、どうして僕だけレイラスなのかって話」
「君はレイラスだろう」
 だからそれは洗礼名だろ。敢えて言わなかったが、相手が知らないとは思えない。
 もしかして、猊下はわざと僕だけ仲間はずれにしてるんじゃないのか。僕が猊下を猊下って呼ぶから、その仕返しとか。
 それともあれか、お前は自分の支配民だろ的な、上から目線か。
 そう思って、スィグルは盛大に顔をしかめた。
「そういう話じゃねえだろ」
 水を飲みながら、イルスが口を挟んだ。どうやら気付いているのは自分だけではないらしく、ただの被害妄想でもないらしい。
「俺も知りたい。なんでお前がスィグルのことだけ、洗礼名で呼ぶのか」
「ああ、そうだな」
 大ざっぱな切り方の野菜を食べながら、シュレーは含みのある声で答え、意地悪く笑った。
「知りたいか、レイラス」
「是非知りたいね」
「では、イルスにだけ教えよう」
 そう言って、シュレーは耳を貸せという仕草をして、隣にいるイルスに密談をした。
 その秘密は短い話だった。ほんの一言しか、シュレーは喋らなかった。
 しかし聞いたイルスは、一瞬、えっという意外そうな顔をして、それから爆笑しはじめた。
「なんですか、それは。理由があるなら僕も知りたいです」
 シェルがそう叫ぶように言った。イルスはまだ笑っていた。
「いいよ、イルスに聞いてくれ。レイラスに話さないと約束するなら」
 にやにや薄笑いしながら、シュレーは食事に戻った。
 あぜんとしながら、スィグルはその姿を眺めた。
 約束しますと断言して、シェルはイルスに耳打ちするよう迫った。笑いながら、イルスはシェルの耳になにごとか教えた。それを聞き、シェルは笑いをこらえる半笑いの顔になって、こちらを見た。
「あ、なーんだ……」
「何がなーんだ、だよシェル。僕にも話せ」
 むかむかしながら、スィグルは隣にいるシェルを脅しつけた。
「いや、それはできません。秘密を守る約束で聞いたんですから」
「イルスは。イルスは約束してなかったろ」
 向かいに座るイルスの足を蹴ると、彼はまだ微かに笑っていた。
「教えていいが、引き延ばせ。面白いから」
 話そうとするイルスに、シュレーがそう忠告した。
 そう言われて、イルスは同感だったようだった。とにかく、言いかけていた言葉を彼が呑み込むのを、スィグルは苛立って見つめた。
「なにが面白いんだよ、むかつく」
「それだよ。君がむかつくのが面白いんだ」
 身も蓋もない返事だった。シュレーはそう言って、結局本当に教えてくれなかった。
 もういいよと、スィグルはぶちきれて叫んだ。どうせ大した話じゃないんだろ、ほんとにお前らむかつくんだよ。


 結局その後も、イルスに教えてくれとは言いにくかった。
 イルスは忘れているのか、それとも本当に引き延ばしているのか、自分から暴露しようという気配が僅かもなかったので、こちらから、実は気になるのだがというのには敗北感がありすぎて、とても無理だった。
 仕方なく、スィグルはしばらく悶々として日々を過ごした。
 その間も、気にすればするほど絶え間なく、シュレーはレイラス、レイラスだ。
 何かもう、連中の顔を見るだけで、わなわなしてきた。
 そんなある日、図書館で講義をさぼっていると、調べ物をしにきたらしいシュレーとばったり出くわした。
 やあレイラス、と、シュレーは嫌みなく言った。ただの挨拶だ。
 ただの挨拶。ただの、挨拶。た、だ、の、あ、い、さ、つ。
 スィグルは内心で、自分にそう言い聞かせたが、すでに苛立ちと好奇心による憤懣が爆発寸前だった。
「教えてよ」
 机についているシュレーのところまで、わざわざ行って、スィグルは彼がのぞき込んでいた本を叩いて訴えた。
「なにを」
 本当にわからないらしく、こちらを見上げるシュレーの顔は、あぜんとしていた。
「洗礼名の話だよ。どうして僕だけレイラスかだよ」
 早口に問うと、シュレーはあぜんとした顔に、ああそうかという納得の表情を加えた。
 そして、にやりとした。
「そんなことに、まだこだわっていたのか、君は」
「しょうもないことでも、秘密にされると僕は気になるんだよ!」
 そういう性格なんだ。知ってるんだろ。知っててやってんだろ。このやろう。
 癇癪を起こしてそう言うと、シュレーは気味がよさそうに声をあげて笑った。
「じゃあ気の毒な君を哀れんで、教えてやろう。その代わり、講義をさぼるのは二回に一回にすると約束してくれ。君の素行が悪いので、学院内には、それを不愉快に思っている者たちもいる。だから取引だ」
「わかったよ」
 吐き捨てるように、スィグルは応じた。この際、そんなことでいいなら従う。
 シュレーは頷いて、秘密を教えるのだからという雰囲気たっぷりに、耳を貸せと指で差し招いた。
 どんな答えが返るのかと、猛烈な期待をしながら、スィグルは身をかがめて、シュレーの耳打ちを聞いた。
 ゆっくりと勿体ぶって、シュレーの声がした。
 私には。
 君の。
 名前は。
 発音できない。
 だから。
 レイラスと。
 呼ぶんだ。
 ひっそりと区切った囁き声で、シュレーはそう教えてきた。
「えっ」
 それだけ?
 何日も、何日も悩んで、秘密って、それだけ?
 愕然としながら、スィグルはシュレーの顔を見た。聖刻のある顔が、にやりと勝ち誇った笑みを浮かべた。
「そ……それだけ?」
 思わず、スィグルは言葉に出して訊ねた。
 シュレーは小さく何度か頷いてみせた。
「それだけだよ。レイラス。他の理由がよかったんなら、君がこの何日かの間に悶々と考えたほうの理由を、私に教えてくれ」
「……そんなもん」
 心なしかよろめき、スィグルは後ずさった。
「そんなもんないよ!!」
 思わず叫ぶと、図書館にいた他の学生たちが、じろりとうるさげにこちらを見た。
 見下ろすと、シュレーはいかにも物静かに席についていた。
 そこからシュレーは、ぽつりと皆に聞こえるように、いかめしい声で言った。
「うるさいぞ、レイラス。大人しくできないなら、よそへ行け」
 ああそうするよ。
 秘密を知る前より、さらにむかむかしながら、スィグルは歩み去った。
 振り返ったら負けだと思ったが、スィグルは結局振り返って見た。
 本を読んでいるシュレーは、素知らぬふうだったが、その口元は、どう見てもにやにやしていた。
 どこか、ぶち切れてぎゃあぎゃあ叫んでも嫌みを言われない場所を探して、スィグルは図書館を出た。

《おしまい》
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