もえもえ図鑑

2008/08/02

新星の金庫番(5)

「暇そうですね、エル・ギリス」
 見るともなく広間の時計を眺めていると、官僚のお仕着せでない、普段着のラダックが通りかかった。その形(なり)からして、彼は今日は休日らしい。
「よかったら私といっしょに競馬を見に行きませんか」
 確かに暇だった。ギリスはラダックの誘いに、頷いた。
 グラナダ市街は、連休初日の浮かれ気分に湧いていた。今日から五日間続く祝日で、それが週末と重なり、六連休だった。王宮の者も交代で休みをとっている。
「今日は、エル・イェズラムの祝日ですよね」
「そうだっけ」
 ギリスがとぼけると、ラダックはなぜ知らんのかという顔をした。
 イェズラムは今や部族の大英雄で、その祝日は盛大に祝われた。ラダックはちゃっかりと、競馬場で英雄イェズラム杯をぶちあげているし、これから連日、違った英雄の名が冠されたレースで市民が盛り上がることになっているらしい。
 まさか、死後にそんなことになっているとは、イェズラムも思っていないだろう。
 まさか、自分が死を賭した新星がグラナダでふぬけているとは。
 まさか、手塩にかけた無痛のエル・ギリスが、こんなところで路頭に迷っているとは。
「どうしようか……」
 心底困って、ギリスは重いため息をついた。
「思いつかない時はカンに頼るのがいいです。ぱっと見で一番好きな馬の馬券を買ったらどうですか」
 ラダックは真剣に指南してくれていたが、そんな話しじゃないんだって。
 ギリスは金庫番おすすめのファイザラーダという馬を選んだ。これもまた、スィグルが買ったそばからラダックに奪い取られた名馬だった。取り上げられると分かっていて、なぜ買うのか。どう足掻いても、金庫番に隠れてヒミツの買い物なんかできっこないだろうに。
「高覧用の席がありますから、そこへ行きましょう」
 ラダックは貴人用の席をちゃっかり使っているらしかった。宮殿が接待用にキープしている上席だ。
 階層状になった観客席の高みにしつらえられた高覧席からは、ぎっしりと詰めかけた客たちが見渡せた。たいした賑わいだった。楕円形に作られた競走用のコースには、黒土が敷き詰められていた。
 黒々と湿ったその地を掻いて、馬たちは群衆の声におののき、興奮しているようだった。
 ああいう馬を見るのも久しぶりだと、ギリスは思った。不意に、ずいぶん昔のことになったヤンファールの戦いが思い出されてきた。
 あれから何年たったのだろう。確か初陣のとき自分は十四歳で、今はもうすぐ二十歳に手が届く。
 イェズラムが死んだとき、たしか三十代の半ばを過ぎた頃だったはずだ。
 それが竜の涙の限界なのだとしたら、自分はもう、一生の半分を過ぎている。
 その事実に突然気付いて、ギリスは驚いた。
「タンジールに帰るのですか、エル・ギリス」
 呼びかけられて気付くと、ラダックが隣の席で、黒い筒のようなものを覗いていた。
「これは遠メガネです。馬が見たくて、王宮の技師に作らせました」
 筒をじっと見ていたギリスに、ラダックが察し良く説明してくれた。ラダックは新しいものを考えるのが趣味らしく、金儲けのネタを考える合間に、妙な発明のネタまで仕込んでいる。
「私は競馬に目がないんです。殿下の金庫には金貨を蓄えますが、自分の財布からは擦(す)るばっかりです」
 笑いながら、ラダックはそれでも出走を待つ馬を、筒越しにじっと見つめている。
 へんなやつだが、グラナダ宮殿の大柱のひとりに間違いなかった。ラダック抜きに、小宮廷は語れないだろう。ラダックがいなくなれば、あの宮殿の屋台骨は折れてしまう。
「いろいろデータを調べて分析するのです。過去の勝敗やら、馬の血筋やら……あらゆることを調べ尽くして検討するのですが、不思議と勝ち馬を当てられません。その不可解なところが、私には魅力です」
 ギリスは頷きながらラダックの話を聞いた。その気持ちが分かるような気がした。説明のつかない、自分には理解のできないものに、なぜか憧れる。そういうところがギリスにもある。
「あなたもきっとハマると思います」
 そう請け合って、ラダックはギリスに遠メガネを手渡してきた。
「あの黒いのが、あなたが賭けたファイザラーダです」
 スィグルの垂涎というだけあって、美しい馬だった。遠眼鏡を使ってみると、その馬はとても近くに見えた。ファイザラーダはあまりに美しく、その鞍にまたがりたい衝動を見る者に与える。
「見たり賭けたりも楽しいですけど、なんなら騎手として出走することだってできますよ。あなたが駈けたら、きっと馬鹿ウケです」
「馬に目隠しをして?」
 付け加えると、ラダックはそうだと言うように笑った。最近すっかり、こいつの芸風が読めるようになってしまった。
「無理ですか、エル・ギリス。あくまであなたはタンジールの英雄ですか。長老会の利益のためにしか、働けないのですか」
 歓声にもかき消されない声で、ラダックが問いかけている。
「なんだかあなたは年々暗い顔になっていきますね。グラナダは退屈なのですか」
「そうだな。この街では俺は必要ないんだもん」
 拗ねているわけではないが、それが事実だった。
「先々、たまには盗賊が出ますよ。殿下もたいそうお困りで。あなたなら、そんなの一捻りでしょう。まるで、グラナダの財宝を守る氷の竜みたいなもんですよ」
「竜じゃなく、俺は蛇だから」
「似たようなもんですよ、そんなの。要はイメージです。強大な魔法によって守護されているのだという」
「俺は別に、街を守りにきたわけじゃないんだけど」
 少し困って、ギリスは訂正した。新星を守っているだけで、街はどうでもよかった。
「いまやグラナダはレイラス殿下のもうひとつの肉体です」
 ラッパが鳴り響き、馬たちが並んだ。出走を告げる鐘の音が、音高く打たれ、それより高い蹄の音を蹴立てて、馬たちが走り出した。
「あなたは私の代わりに、この街を守らなければいけません」
 真剣な無表情で、レースを見下ろすラダックの横顔を、ギリスは顔をしかめて眺めた。
「どこかへ行くのか、ラダック」
 レースに食い入ったまま、遠眼鏡を返せというふうにラダックが手を指しだしたので、ギリスはそれを彼に握らせた。ラダックは夢中の様子で、その筒をのぞき込んだ。
「私はもともと、ここにはいないのです。最初からいませんでした」
 なんのことか、ギリスには分からなかった。
「私は、あなたになったのです。だから、この私は、亡霊なのです」
 ファイザラーダは優勢だった。ラダックはその黒い騎影を目で追っている。
「俺とお前は、ぜんぜんちがう。ここではお前が英雄で、俺は役立たず」
「そんなことはありません。私ができることで、あなたにできないことはありません」
「俺が金庫番?」
 まさかと思って、ギリスは苦笑した。ラダックが冗談を言っているのかと思った。
「あなたがそれを、やらないといけません。私はいないのですから」
「無理だろ」
「数字は得意でしょう、エル・ギリス」
 やっぱり冗談なのだろうか。
「昔、タンジールの者たちは、あなたは馬鹿だと思っていたけれど、あなたは数学が得意だったのです。理屈だけで理解ができるものについては、あなたは疑問を感じないからです。エル・イェズラムがあなたに暗殺を教えたのもそうです。必要に迫られて人を殺すことに、あなたは何ら疑問を感じないのです。あなたは私と違って、本当に痛みを感じない。人の心も、分からないのです」
「ラダック」
 妙な夢でも見ているのかなと思って、ギリスは相手の存在を確かめようと、名前を呼んだ。
「私はギリスです」
 ラダックは鋭く答えた。
「あなたと私は元々、物語の中で同じ位置を占めるように設計されています。並び立つことはできません。ですから、あなたが死ぬか、私が死ぬかです」
 馬たちが一周回り終えたことを知らせる銅鑼が打ち鳴らされた。
「死にたくないですか、エル・ギリス」
 やっとこちらを見つめて、金庫番は訊いた。
 ラダックはギリスと同じ色の目をしていた。ひどく薄い青のような灰色のような。珍しい色の目だった。
 そんな彼の目を見つめて、ギリスは頷いた。死にたくないよ。
「では私が消えるしかありません」
 そう言い置いて、ラダックはもう座っていられないというふうに、高覧席から身を乗り出し、馬たちの激戦に見入る。
「思うのですが、エル・ギリス。忠節というのは、自分の力を最大限出し切ればいいというような、簡単なものではありません。その限界を超えたところへ、踏み込んでいくことです。できることをやったところで普通です。できもしないことを、必死でやってのけるうちに、英雄の物語は作られるのです」
「それは俺に体を張ってネコミミ債を売れということ?」
「まあ、ぶっちゃけそういうことです」
 ラダックは笑った。
「書類にまみれて生きるあなたも、なかなか素敵になれるんじゃないですか」
 こちらを振り向き、ラダックはレースの興奮に強ばっていた肩の力を落とした。
「お前の名前はなんだったの」
「私はおそらく椎堂かおるです」
 なるほど、とギリスは頷いてみせた。作者だ。
「レースの結果を見守ってください。私のファイザラーダが勝つかどうか。そして、できたらいつか、 あなたがあの馬で出走してください。馬上のエル・ギリスが、私には超萌え萌えくさいんで」
 それにも頷いてみせると、金庫番は頷き返した。
 そして、不意に消えた。あたかもはじめから誰も、いなかったように。
 馬たちは最後の直線にさしかかっていた。観衆の怒号は耳を聾するまでに昂ぶった。
 ギリスは高覧席から、その様子を見つめた。あたりの興奮が肌から染みこむようにギリスを包んだ。
 ああ、これは確かにハマりそう。
 こんどはスィグルも連れてこなければ。あいつも自分の馬が泡を噴いて全速力をあげるところを見れば、きっと納得するだろう。
 そして最後の一瞬を、ともにここで味わう。
 今やこの街は、彗星レイラスの第二の肉体で、グラナダの興奮は、彼の興奮だ。
 これからまさにタンジールに迫る隆盛を見せようとしているこの都市を、日々あの手この手で悦ばす仕事に、退屈なんぞあるだろうか。
 ファイザラーダは、どの馬よりも速く走った。
 予想通りだった。
 たったそれだけの単純なことに、ギリスは心底から微笑んだ。

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