もえもえ図鑑

2008/08/31

新星の武器庫(20)

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 ラダックはギリスを非難する調子でぶつぶつ言った。
「本当にもう、書類を作り直しまくりで、紙がもったいないです」
 労力のほうじゃないのかと、ギリスは感心した。そういえば紙も高価なものだ。
「いっそ宮殿の壁に、でっかい蝋板を作らせて、そこに予算案を書いておきましょうか。それで殿下が無駄使いして、修正が必要になったら、そこだけ溶かして書き直せば、無駄がありません」
「いい考えなんじゃないの、それ」
 さらに感心して、ギリスは頷いて同意してみせた。巨大な蝋板に梯子をかけて、予算案を刻んでいるラダックの姿を想像すると、まるでおとぎ話のようで、なんとなく楽しげだった。
「冗談です!!」
 どう見ても怒っている顔を、ラダックはとうとう見せた。
 冗談を言うとき、人はだいたい笑っているものだとギリスは信じていたが、ラダックは怒りながら冗談を言うのかと、ギリスは分からなくなった。誰かが冗談らしいことを言うとき、笑って聞けばいいものだと思っていたのに、もし今笑ったら、たぶんラダックに鉄筆で刺される。
「私があなたを排斥しようとしたので、復讐したんですか、エル・ギリス」
 書き付ける作業に戻って、ラダックは苦虫をかみつぶしたようだった。
「違うよ。俺は本当に連弩が欲しかったんだよ。弩兵部隊が」
 ギリスは訂正した。しかしラダックを出し抜いてやった気分の良さは否定できない。
 こいつはグラナダ宮殿を牛耳っている男で、それは自分にとっては時折害になるかもしれない。もしもこいつが、エル・ギリスより偉いつもりなのだったら。
 だからこれは別に、復讐ではない。厳密に言うなら、制裁だ。
 ギリスは自分の心の奥底にある、氷でできたような機関(からくり)が、そのように告げるのを聞いた。
 しかしギリスは、ラダックが好きだった。だから彼とは、争いたくなかった。
 説明して理解してくれるなら、そのほうがずっといい。
 しかしギリスは人にものを説明するのは、どうも苦手だった。
 不機嫌なラダックが、ちゃんと聞いていてくれるのか、心配をしながら、ギリスは話した。
「武器は兵よりもたくさん常備しておいてもらうよ。いざっていう時には、市民皆兵の覚悟で戦ってもらうつもりだから。連弩なら、女子供でも使えるだろう。だから早いうちから用意しておくんだよ」
「あなたはグラナダ市を全滅させる気なのですか」
 ギリスの話に、早口に否定的な答えかたをするラダックは、この都市の生まれだった。
 ラダックほどの能力があれば、タンジールでの宮仕えも勤まるはずだとギリスは思うが、彼は身分の低い地方官僚の地位で満足しているようだ。たぶんこの、グラナダ宮殿こそが彼の終着点で、ここを出てほかへ行く気が起きないのだろう。故郷を離れたくないのだ。
 その気持ちはギリスには共感できた。我が魂の故郷と信じていたタンジールから出るとき、自分もつらかった。根をおろしていた土壌から無理矢理引っこ抜かれていくようで。
 しかし新星が行くというのだから仕方ない。
「レイラス殿下を襲う軍隊なんてものが、本当にここにやってくるのですか」
 人をはばかる小声で、ラダックが囁いてきた。ギリスは何度か瞬きする間、それについて考えてみた。
「来ない方がいいよ。普通に指名されて継承できれば、そういうことにはならない」
 族長リューズが死の床で、スィグルを名指して、族長冠を譲り渡してくれれば、それが一番、苦労の少ない未来だ。そうなればいいと、ギリスも願ってはいた。
「だけどあいつはグラナダに傾倒しているし、ここで油を売ってタンジールを留守にしているうちに、うっかり族長が死ぬかもしれない。急いで戻って間に合えばいいけど、それはないだろ。それに、場合によっては族長がとち狂って、他のやつを指名するかも」
 話の後半に、ラダックがあからさまに顔をしかめ、ギリスを見つめた。
「族長の指名は絶対です。指名されなかった場合、レイラス殿下は即位できません」
 即位できないというのがどういうことか、ラダックは知っているらしい。眉間に皺が寄っていた。その場合、グラナダ領主は新族長から死を賜る。
「誰が新星かは、長老会が決めるんだよ。代々そうなんだ。いまの族長だって、即位させると決めたのは長老会で、族長自身もそれはよく知っているはずだよ」
「あなたは頭がおかしいんじゃないかと、私は時々疑っていましたが、本当におかしいんですか?」
 早口な囁き声で叱責してくるラダックは、怒っているようではなかった。彼は心配げだった。ギリスはそういう相手に、思わず微笑みかけた。
「この連弩を使うのは、まさか、レイラス殿下が指名されなかった場合ですか?」
「いいや。わからない、どういう場合か。これを使うのは、これが必要な場合だよ。ひとつの策として、用意しておくだけだよ」
「他にも策があるらしいですね」
 付き合いきれないというふうに、ラダックは首を振って、仕事に戻ろうとした。彼は苛立ったような指で、運び込まれる箱の数を書き付けていた。
 しかし働いていた者たちが、これが最後の箱だと言った。ラダックは彼らを簡単にねぎらい、もう立ち去るように命じた。あとは扉を閉めて、ラダックもここを去る時だった。彼にはまだ、他の仕事があるだろうから。
「エル・ギリス」
 鉄筆で、結い上げた髪の隙間を掻いて、ラダックは難しい顔をしたまま、金庫の床を見つめている。
「どうしてレイラス殿下を族長にしたいのですか」
 ラダックは真剣に訊いているらしかった。
 いつも定時でとっとと帰る官僚のくせに、その理由を聞く権利があると、ラダックは思っているらしい。
「なんでお前にそんなこと話さなくちゃいけないの」
「私にも教えてください」
 ラダックがこちらを見ないまま、小さく頭を下げたので、ギリスはその意外さに驚いた。
 宮廷序列について言えば、ギリスはラダックよりはるかに身分が高く、ラダックはこちらに叩頭してもおかしくなかった。しかし英雄たちは特別な地位におかれていた。民のうちで、叩頭したい者はしてもよいが、英雄を慕って握手したいものは、してもよいことになっていた。
 宮廷の頂点にいながらにして、民の中の一人である立場を、いつも保つようにと、そんな矛盾したことを当たり前として教えられ、ギリスは育ってきた。
 だからラダックが不遜でも、自分を怒鳴りつけても、それを微笑んで見つめられた。彼が自分の仕える民のひとりだったからだ。
 急に恭しくされても、ギリスはどうしていいやらわからなかった。
「どうして族長にしたいか、か……」
 それは長老会が、何より、その長であったイェズラムが定め、自分に命じたからだった。はじめはそれだけの理由だったはずだ。そのために命を投げ打てるよう、ギリスは躾けられてきた。
 しかし、それだけでやっていけるほど、もう素直な子供でもないような気がする。
 なにか他の、自分の頭でも納得のいく答えが、どこかにあるのではないか。
「たぶん、あいつが優しいからじゃないのか」
 いちばん、自分の腑に落ちそうな答えを、ギリスは教えた。
「優しいですか、あの人が!?」
 ぎょっとしたように、ラダックがいつもの声で答えた。ギリスが玉座から足蹴にされる姿を見ていたら、そりゃあそう思うだろう。
「いや、そうなんだけど。あいつは俺に長生きしろって。他の竜の涙にも。そんなこと言うやつは、他にいないから。それにあいつは街の連中にも飯を食わせるだろう。まあ、俺には金曜にしか肉を食わせないけど」
 ラダックは、信じられないという顔のまま、小さく頷いて聞いていた。
「血を見たくらいでふらふらだけど、そういうやつも、いいんじゃない。せっかく、こんな時代になったんだから」
 四部族を長らく包んでいた戦乱の時代は、他ならぬスィグルが命がけで成し遂げた同盟による停戦条約で、一時的にとはいえ集結している。いまや、世の中平和なものだった。部族の英雄たちが、暇で暇でしょうがないくらいに。
「そうですね……」
 ラダックはまだ、眉間に皺を寄せたままでいた。
 やがて金庫番は、小さく咳払いをした。のどが渇いて仕方がないというふうに。
「いずれ王都に戻られるのですよね、おふたりは」
「さあなあ。スィグルが継承争いに本腰入れる気になったらね」
 そんな日が本当に来るのかと危ぶみながら、ギリスは苦笑して答えた。
「そのとき、グラナダ宮殿はどうなるのでしょうか」
「誰か、他の雇われ領主に、また丸投げじゃないか。もしかしたらお前がそれかも」
「私はいやです。レイラス殿下にそう申し上げておいてください」
 頑なな調子で、ラダックは拒んだ。
 ギリスはそれにも意外な気がした。ラダックはこの宮殿を、我がものにしたいのだと思っていた。
「私も、タンジールに栄転させていただけませんか、そのときは」
「えっ」
 ぎょっとして、ギリスは叫んだ。
 ラダックはますます難しい、真剣味のある顔で、その話をしていた。
「お前がタンジールに行くって!?」
「おかしいですか。ダロワージを拝めと言ったのは、あなたですよ」
 いかにもお前のせいだという口調で言われ、ギリスはぽかんとした。まるで、誘ったのはこちらで、ラダックはそれに応じただけだというような雰囲気だ。
 そうだっただろうか。確かに、この金庫番みたいなお堅いのが、あの浪費家のスィグルの脇に控えていてくれたら、さぞかし安心だろうとは思ってきたけど。
「だって……だって、お前はグラナダから出たら死ぬのかと思った」
「そんなわけないでしょう。私は故郷のこの街が、心配だっただけです」
 なぜこんな話をしなければならんのかと、叱りつけるふうに、ラダックは渋々言った。
 思わず首をすくめたくなるような言われようで、スィグルはラダックのこれが嫌いらしかったが、ギリスはそうでもなかった。お前は鬱陶しいといって、追い払われるよりは、くどくど叱ってくれる相手のほうが、まだましだ。
 ギリスがおとなしく話の続きを待っている顔をしていると、ラダックはますます、渋々とため息をついた。
「あなたや、レイラス殿下のような金満家にとっては、ほんのちょっとの浪費みたいなつもりの事でも、庶民にとっては一大事なのです。支配者というのは、民が甘やかしてほうっておくと、大抵の場合、ろくなことをしません。私はこの街だけでも守ろうと思って、官僚になったんです。族長のお計らいで、貧しい生まれでも、字が書けて、試験に受かれば、誰でも下級官吏として登用されましたので」
 ギリスはこくこくと頷いて相づちを打った。でもそれは普通のことだよと、顔に書いてあったのかもしれない。ラダックはどこか、むっとしたような顔をした。
「昔は官僚になるには賄賂が必要だったのですよ、エル・ギリス。族長が即位後に粛正されるまでは、アホな支配者ばかりだったので」
 そうかとギリスは答えた。
 それはたぶん、族長じゃなく、イェズラムがやったんだろう。下っ端の官僚のことなんて、そんな細かいこと、あの戦争屋の族長が、嘘でも気にかけるわけないから。もしかしたら、そういうのがこの世にいるって事さえ、知らないかもしれないよ。
 しかしギリスは、それは黙っておいた。ラダックが名君を信じているようだったからだ。
「今までずっと、グラナダさえ問題なくやっていけていたら、私はそれで満足でしたが、最近なんだか、また心配になってきました。あなたや、レイラス殿下を見ていると、こんな人たちが玉座について、部族領は本当に大丈夫なのかと」
 深いため息をついて、ラダックはどうやら、本気らしい口調でいる。
「大丈夫か、って。大丈夫に決まってるよ、ラダック。あいつは本物の新星なんだから」
「あなたの、そういう無駄に確信に満ちたところが心配なのです。レイラス殿下はわがままですし、金遣いも荒いし、すぐキレるし、あれが族長の器とは、私には確信がないのです。もしも先代のような暗愚な族長で、部族領がまた荒廃するようだったら、一体どうすればいいんでしょうか。殿下が将来、民の血税を集めた王都の金庫から、ばんばん銀貨を浪費して、馬とか、兵器とか、そういうしょうもないものを、ばかすか買うような族長だったら。それが簡単に想像がつくもので、ときどき怖くて、夜中に飛び起きたりするんですよ、本当に」
 そこまで駄目だと信じられているというのも、ある意味ものすごい信頼だと、ギリスは思った。こいつはよっぽど、スィグルの浪費に悩んでいるらしい。この、人を人とも思っていないような、鉄の心臓の男が、夜中にうなされているというんだから。
「それで、お前がそれを止めたいということなの?」
 ラダックは、思い詰めたような渋い顔で、かすかに頷いた。
「王都の金庫に、そういう人が他にいれば、私の出る幕ではないですが」
 そんな人材がいるかと、ラダックが訊ねる目をしたので、ギリスはあわてて、玉座の間(ダロワージ)にいた面々を、一通り思い出してみた。
 族長リューズの会計係。それがどんな官僚だったか、ぱっとは思い出されてこなかった。
 官僚はみんな制服を着ていて、個性がないようで、彼らが朝儀で喋っていることも、ギリスは聞いていて右の耳から左の耳へ抜けるようだった。
 将来必要になるから、ちゃんと理解しておけと教えられれば、その内容の上っ面は理解できたが、たとえば銀貨を数えるやつらの、数字を羅列した話に、面白みがあるのだと気がついたのは、たぶんグラナダにきて、この渋面の官僚と、スィグルが怒鳴り合うようになってからだ。
 族長の金庫番は、実は大して苦労していないのではないか。改めて考えてみれば、族長はあまり贅沢をしない。身分に見合った豪勢な暮らしをしてはいるが、金遣いの点で、度を超すということのない人だ。
 それと同じ感覚で、スィグル・レイラスに仕えたら、確かにやばいかも。
 もちろん俺はやつの無駄遣いを止めることは止めるけど。でも言うことを聞いてもらえるかどうか。お前は黙れと蹴倒されて、それでお終いではないのか。
 ギリスは微笑して、ラダックを見つめた。
「ラダック、お前のほうが上手だよ。スィグルを怒鳴るのは」
「私はべつに怒鳴っておりません。殿下がすぐにぎゃあぎゃあ怒鳴るので、時として、それより大きな声を出す必要があるだけです」
 どう違うの、それは。
「でも俺は大声で言っても無視されるよ。お前がいないとまずいんじゃないの、あいつの宮廷には」
 にっこり笑ってギリスがそう誘うと、ラダックは難しい顔で、そうでしょうかと小声で応えた。それは自信のないときのラダックの声だった。
 宮殿で聞くのは珍しいことだが、土曜日の競馬場ではよく聞けた。なぜ予想が外れるのでしょうかと愚痴るときのラダックの声と同じだ。
「それでいいんでしょうか、本当に。私はグラナダ宮殿では勤まりましたが、王都ではどうでしょうか。それ以前に、レイラス殿下は私をお嫌いなのではないでしょうか。うるさいやつだからグラナダに置いていこう、それで清々すると思っておられるんでは」
「お前、その話を俺じゃなくてスィグル本人にしてやれよ」
 ラダックが弱音を吐くのに、ギリスは毛が逆立つほどびっくりした。そんなこと言うようなやつだったか。スィグルが聞いたら、泣いて喜ぶだろう。とうとう金庫番に勝利したと思って。
「アホですか、あなたは。殿下にそんなこと話したら、なめられるだけです。今後の業務に差し支えます! だから、わざわざあなたに話してんでしょうが」
 今、どちらが強い立場なのか謎めいてくるほど、ラダックはまたいつもの強気で喋っていた。その話を聞いていると、ギリスは自分が猛烈な馬鹿のように思えてきた。
「俺にでしゃばるなって言ったばっかりのくせに……」
 ひどいことを言うやつだと思って、ギリスはじっとラダックを見つめた。しかし同情されている気配もなかった。
「臨機応変にやりゃあいいでしょう」
 むすっとして、ラダックは言った。
 それが難しいんだって。
 いつも勝てばいいなら、そのほうが簡単だ。
 だけど新星の描く新しい小宮廷の絵図面は、どうもそんなふうに、誰かの一人勝ちを許すような、単純に白黒つくようなもんでもないらしい。
 教えてもらった世渡りの図面を、自分の頭で考えて、修正する必要がありそうだ。
 みんなで仲良く、わいわいやっていけるほうが、にぎやかでいいし、何より寂しがりやなあいつの広間(ダロワージ)にふさわしい。
 ひとたび即位したら、族長職は孤独で、あいつにはつらいだろうが、それでも自分の周りに、グラナダで仕えていた阿呆どもが侍っていれば、玉座の冷たさもさほど身に染みないのではないか。
 ラダックが大穴の新星に一命を賭する覚悟を決めたらしくて、本当に良かったな。そう思って、ギリスはラダックに微笑みかけた。
「土曜日にはまた、市街に競馬を見にいこうよ、ラダック。お前の予想した大穴の勝ち馬を教えてくれ」
「いいですね。教えてあげます。ただし、それにあなたの全財産を賭けるのはなしですよ」
 蝋板の上に刻まれた、連弩の数を数えなおしながら、ラダックは真面目なのか冗談なのか、よく分からない調子で言った。たぶん冗談なのだろうと、ギリスは見当をつけた。
「賭けないよ。だってお前の予想はいつも外れるじゃん。俺の銀貨は、そんなところで擦っていいようなもんじゃない。もっと大事な目的のために使うものなんだよ」
「たとえば、あなたの言う、新星の即位のためにですか」
 ラダックはゆっくりと、確かめるように尋ねてきた。
 ギリスは頷いた。
「それを聞いて、安心しました。では今後も、あなたの銀貨を、私が管理してあげます」
「よろしくたのむよ」
 良かったと思って、ギリスはラダックに握手を求めた。優れた金庫番の男は、英雄の右手に、彼の蝋のついた仕事一徹な手をもって応えた。

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